第五話
アトキンスの発した問いに、誰もが言葉を失っていた。まさか、童話を知らない人間が、この世に存在しただなんて。
しかも、彼は自分がおかしなことを言っているという自覚がないのか、眉ひとつ動かさずに答えを待っている。
やがて、沈黙を破ったのはスケイルだった。
「こ、この子、本気で言ってるの?」
「……すみません。彼にはちょっと、こういうところがありまして」
決まりの悪そうな顔で、ポマードまみれの頭を掻くワイルドボア。
「本当に知らないのか?」
「……知識として、聞き及んだ程度にしか」
アトキンスは無機的な声で答えた。頭痛がするとばかりに、警部は額を抑える。
みんな彼に同情するような視線を送っていたが、フェザーズだけは少し違った。
「君はなかなか面白いことを言うな。どれ、私でよければ童話についてレクチャーしてあげようか?」
「はい、お願いします」
「うむ。
ではまず……異伝子については、さすがに知っているだろう? 我々の遺伝子と結びついた、別の生き物の遺伝子だ」
「はい」
「なら話が早い。童話とは、我々の中にある異伝子に刻み込まれた飽くなき欲求のことだ。私たちは生きている限り童話の役を演じること、そして童話を読むことを欲し続ける」
そうだ、私たちは生まれた時から童話という存在を求めている。遺伝子に紛れ込んだ異伝子の意思のままに。
だからこそ、童話はこの世界最大の娯楽となり得たのだ。
「それと、今しがた別の生き物だと言ったが、中には人間の異伝子を持つ者もいる。要するに、この『本来は持っているはずのない遺伝子』とは、元々は童話の中のキャラクターの一部だ。だから、私たちは童話人と呼ばれる、というか名乗っているんだな」
彼は言いながら、横目で私を一瞥する。初めはその意味がよくわからなかったが、今回の自分の役柄を思い出し理解することができた。
フェザーズは赤ずきん役である私のことを、「人間の異伝子」を持つ種族だと思っているのだろう。……悲しいことに、それは正確ではないのだが。
「なるほど。
それで、その童話を行うにはどうすればいいのでしょうか?」
「簡単なことだ。『シャルル』の作り出すシナリオに参加して、舞台となる場所で役を演じればいい。言うなれば、『筋書きのあるごっこ遊び』だな」
「……『シャルル』ですか」
これも、さすがに知っていたらしい。
「シャルル」というのは、今の世界を創り上げたとされる人工知能の名前だ。彼は過去の文明によって生み出された存在であり、唯一童話人が誕生した──遺伝子に異伝子が結びついた──理由を知っていると言われている。
「ああ。『シャルル』は今の文明が築き上げられてから、いや、もしかしたらもっとずっと以前から、休むことなくシナリオを生み出し続けている。三百六十五日、二十四時間ずっと、だ。
そして、こうしてできたシナリオがインターネット上に公開され、参加者が募集される。むろん、これに応募して合格さえすれば、誰でも童話への参加が可能となる」
彼の説明したとおり、この世界の童話を生み出しているのは人工知能だ。
もっと言えば、「シャルル」はシナリオだけでなく、過去の文明の技術や情報を人類に提供してくれた。今の世界の基盤となったのは、彼のもたらした先人たちの英智なのである。
「さて、役を得ることができたら、各自セリフを覚えたり演技を磨いたりして、いよいよ本番だ。といっても、先ほども言ったように、我々がするのは舞台となる場所で役を演じること。それだけで、私たちの行動は童話となるんだ」
「……と、言いますと」
「“アカシックレコード”だよ。この世界の全てを記録する、無限の容量を持つとされる媒体。それを利用するんだ」
フェザーズは当然のようにそう答えた。
が、しかし、アカシックレコードが実在するかどうかに関しては未だに証明されておらず、どういった物なのかについても諸説ある。今彼が言ったのが最もポピュラーな概説で、アカシックレコードにはこの世のありとあらゆる出来事が記録されると言われている。
だからこそ、童話のセリフは声に出して言う物だけではなく、心の中の言葉も含まれるのだ。
「当然、このアカシックレコードには私たちが童話として行った行動、その結果起こった出来事も全て記録される。そして、こういった物のみを取り出して絵本に仕立てる集団がいるんだ」
「……もしや、それが“影の出版社”と呼ばれる組織なのでしょうか?」
「そうだ」
フェザーズは頷く。不思議な物で、彼の講義が行われている間、アトキンス以外の者もみな無言で話を聞いていた。
童話のシナリオを生み出す人工知能に、世界の全てを記録する媒体。そして、今度はアカシックレコードの情報から絵本を作る謎の集団、影の出版社。改めて考えてみると、どれも胡散臭い存在ばかりだ。
「影の出版社も実際に存在が確認されているわけではない。しかしながら、何者かが我々の行った童話を絵本として世に生み出していることは確かだ」
彼の言う「絵本」とは単なる紙の本というわけではなく、特殊なシステムの電子書籍だ。これはどこでも気軽にダウンロードすることができ、文章を読むと直接脳内にその情景が浮かぶ。つまり、実際に自分が体験したことのように、鮮明なイメージを再生させることができるのだった。
「どうやら、この技術も『シャルル』によってもたらされた物らしく、彼と影の出版社は繋がっているのではないか、とも言われている。真偽のほどは定かではないがな」
また、この世で唯一アカシックレコードにアクセス──記録された情報を見たり抜き取ったり──できる組織が、影の出版社なのだとも。
童話自体はかなり身近な存在なのに、それを取り巻く状況はわからないことだらけである。
「と、まあ、こうして世界最大の娯楽である童話ができ上がるわけだ。
参考になったかな?」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして。
……と、そうだ。お礼に、というわけではないが、一つ教えてもらってもいいかい?」
「何でしょう」
「君は、誰の異伝子を持っているんだ? 見たところ、普通の人間のようだが」
確かに、無表情なところを抜かせばパッと見ただの人だ。もちろん、元になるキャラクターによってはそういう人もいるが、「人間の異伝子」を持つ者はあまり多くない。
自然と、部屋中の視線が少年に集まる。
「ああ、彼はブリキの木こりですよ。『オズの魔法使い』の」
と、何故か答えたのはワイルドボアだった。
「え、いや、僕はブリキではなくスズで」
「いいから。似たようなもんだろ、どうせ。
それより、他に聞きたいことは?」
「……はい」
言葉を遮られたことが不満、というより不思議そうにしてから、アトキンスは再び関係者たちに尋ねる。
「気になっていたのですが、みなさんが手首にしているそれは、何なのでしょうか?」
「手首? ああ、タグのことね」
自身の左手首を見て、納得したようにスケイルが言った。
つられて私も自分のつけている物に目を落とす。
「これは、まあ、本人証明みたいな物よ。自分がこの役柄を演じる人間だってわかるようにしているの」
「本人証明……IDのようにですか?」
「うむ、そんなところだ。
もっと言えば、通行証の役割も持っている。タグを起動させていなければ、基本的に結界の中に入ることはできないからな」
「それは重要な物ですね」
「ああ。加えて言うと、結界は童話が開始される一時間前には作動している。よって童話に参加する者は、予めタグを腕に嵌めておいてから、舞台となる場所に向かうわけだ」
ものすごく早入りする人は違うのかも知れないけど、大抵の人はそうするだろう。一時間以上前に舞台に着いたところで、暇を持て余すだけだし。
「ちょうどいい機会だし、全員のタグが本物かどうか確認してみないか?」
フェザーズはキャストたちに向けて提案した。
「へえ、つまり、私たちの中にニセ者がいるんじゃないかってこと?」
「まあ、端的に言ってしまえばそうだな。考え辛いことではあるが、確かめてみた方がいいだろう」
それもそうかも知れない。タグ自体に細工をすることは不可能だろうけど、一応確認はしておくべきだ。
そう思っていると、隣りに立っていたウサギがぼそりと「ニセ者……」とだけ呟いた。この塔に着いてからずっと無言だった為、久しぶりに彼の声を聞いた気がする。
「私は別にいいわよ。やましいことなんてないし」
「他の者はどうかね?」
「私も、大丈夫です」
「いいよー」
「あ、僕も……」
最後に残ったパッサーも、「構わない」とわざわざ右手でメモ帳を掲げた。
「満場一致だな。
では……」
それぞれ手首を上に返し、誰からともなく画面の側面にあるボタンを押す。
直後、ほぼ一斉にタグの上に立体画像と文字が浮かび上がった。
表示されているのはその人間の演じる役名とデフォルメされたキャラクターであり、それぞれ、「赤ずきんちゃん」「ウサギ」「鳥人」「魚人」「赤ずきんちゃん(過去回想)」「悪い魔法使い」となっている。当然と言えば当然だけど、自分の役と違うタグをつけている人などいなかった。それどころか、全員ぴったりと手首にフィットしている。やっぱり簡単には取り外せそうにない。
「どうやら、杞憂だったようだな」
「こんなことだろうと思ったわよ」
呆れたような声で言い、彼女は立体映像を停止させた。
他の面々も同じようにボタンを押し、「新約赤ずきんちゃん」のキャラクターたちは消えてしまう。
「……念の為に確認しますが、タグのコピーを作ることは?」
「不可能だ。これもまた、一般には開示されていない技術で作られているからな。
それどころか、一度腕に嵌めたタグは童話が終わるまで外すこともできない」
フェザーズは右手でタグをしている部分を握り、輪っかを通すようなジェスチャーをした。
「取りつける時はブレスレットや腕輪のようにこう、手首を通して紐の両端にある金具を嵌めるんだ。だが、これを一度つけてしまうと」
今度は手を離し、左手首がよく見えるように差し出す。
「ひとりでに紐が縮みこのとおり、隙間なく腕を覆う。だから、手がつかえて外せなくなるんだ」
「そうでしたか。
では、紐を伸ばしたり切ったりするのはどうでしょう?」
「無理ね。特殊な素材でできてるみたいで、一度形状を記憶したら力では伸びないわ。しっかりと固定されて、びくともしなくなるのよ」
「もちろん、切ることもできない。
もっとも、簡単に偽装できるような物では、拘束力もなくなってしまうが」
彼の言葉を聞いて、私はようやくそのことに思い至る。
あのルールがあるのだから、自然とオオカミを殺せる人間は限られて来るのではないだろうか。
(そうなると、オオカミを殺せる人間は三人……いや、実質二人にまで絞れるような)
そんな風に考える私を他所に、探偵はまた抑揚のない声で話し出した。
「そうなると、後は……別の童話の際に手に入れたタグを使うことはできるのでしょうか? 例えば、以前参加した童話のタグを隠し持っていて、それを使って結界の中に入るというのは」
「無理だろうな。タグは童話ごとに配られ、終了時には必ず回収されている。それに、そもそもタグは結界と連動しているから、別の童話の時に使った物では舞台に入ることすらできないよ」
「なるほど、そうでしたか。
でしたら最後にもう一つだけ、みなさんに確認したいことがあります」
顔を上げたアトキンスは、人差し指で窓の向こうを指し示す。ちょうどおばあさんの家のある方角だ。
「塔にいたみなさんはご存知ないかと思いますが、実はここからおばあさんの家に続く道が、片方が塞がれていたのです。それも、巨大な岩を積み上げて。
このことについて、何か心当たりのある方はいらっしゃいますでしょうか?」
そう言えばすっかり忘れていたけど、近道が通れなくなっていたんだった。それにしても、いったい誰が何の目的であんなことをしたんだろう?
「何それ、全然知らないけど」
「うーむ、確かに心当たりはないな。
しかし、岩か……」
スケイルの言葉を継いで言ったフェザーズだったが、顎に手を当ててそのまま考え込む。
「岩と言えば、森の出入り口付近にごろごろとたくさん転がっていたな。それも、かなり大きな物ばかり」
「森の出入り口、ですか? しかし、我々が通った時には岩なんてどこにもありませんでしたが」
ワイルドボアは、訝しむような声でない首を傾げた。彼の言わんとしていることがわかったのか、ワシはクチバシを撫でながら答える。
「確かにそうだな。君たちの入って来た方には何もなかったのだろう。
実は、この森への出入り口は二つあるんだ。私たちのように塔のシーンから登場する者は、基本的にこちら側の出入り口から入って来ているはずだよ。五分ほどでここに着くからね」
「そうでしたか。ならば、仰るとおりあの岩はそこから運び込まれたのかも知れませんな。
しかし、だとするとどうしてわざわざそんなことを……。そこまでして道を塞ぎたかったのか?」
彼が唸っていると、今度はアトキンスが口を開いた。
「一つ、考えていたことがあります。今回この童話に参加していたみなさんの他に、第三者がこの森に潜んでいる可能性です」
「私たちの知らない誰かが、森の中に侵入したってこと? 無理だと思うけど。結界が張ってある以上、タグをつけていないと入って来れないんだし」
「……それは、童話が始まってからのことですよね」
「それって、つまり……」
わかるようでわからない、といった風に顔をしかめた彼女に対し、少年は静かに頷く。
「『新約赤ずきんちゃん』が開始されるよりも前に、何者かがこの森にいたという意味です」
それは盲点だった。彼の言ったことが正しければ、結界とかタグとかは関係なくなる。
「ご覧になればわかるかと思いますが、あれだけの量の岩を積み上げるとなると、並大抵のことではありません。何か道具を使ったとしても、何日もかかる作業でしょう。
逆に言えば、それだけ前から森の中で活動していた人物がいてもおかしくない。その人物=犯人、なのかはわかりませんが」
アトキンスは淡々とした口調で言うと、言葉を切って瞳だけを動かした。関係者たちの反応を観察しでいるみたいだが、果たして彼の目にはどう映ったのか。
「ふむ、お前の言うことも一理ある。こりゃあ、本格的に山狩りした方がいいかもな」
よほど面倒臭いのか警部がぼやくように言ったところで、階段を上がって来る足音が聞こえて来る。
やがて大部屋に現れたのは、ウマの異伝子を持つエクゥス刑事だった。
「おお、どうだった?」
後ろを振り返ったワイルドボアが尋ねると、彼の部下は表情を曇らせる。
「それが……概ね予想どおりの返事でした」
「だと思ったよ。……ん? 概ね、ということは他に何かあるのか?」
「はい。
簡潔に言いますと、犯人が逮捕されるまで結界は解除しないでおくことになったそうです」
結界がなくならない。
と、いうことはつまり……。
「私たち、犯人が捕まるまで森から出れないってこと⁉︎」
叫ぶように問いかけたのはスケイルだった。彼女は椅子を揺らして立ち上がり、驚きと怒りがない混ぜになったような顔をしている。
童話警察の二人は肯定する代わりに、気まずそうな顔をした。