第二話
どうしてこうなったのか。そんなことを考え出してから、しばらく経った後。
私はようやく立ち上がることができた。
そして、改めて男の死体を見下ろすと、次第に泣きたくなって来る。
「どうして、こんな……やっと主役になれたのに……」
声に出して言うが、むろん誰かが答えてくれるわけではない。
最低だ。初主演の童話で殺人だなんて、これ以上ないくらい最悪なことだ。
この後自分はどうなるんだろうと、思考が嫌な計算を開始する。
きっと童話は中断され、私は即逮捕されるだろう。そうなったら、お父さんやお母さんはもちろん、叔父さんも悲しむだろうな……。いや、母親に関しては激怒されるかも知れない。それどころか、むしろこっちが殺されてしまうかも。
考え出したら改めて泣きたくなって来た、というかもう視界が霞んでいた。
(やっぱり、だめだった……私なんかが主役を張れるわけ、なかったんだ……)
情けなくて、ほろほろと雫が零れる。涙と鼻水に濡れた顔を両手で覆い、現実から逃げるように私は瞼を閉じた。当然、視界は真っ暗になる。
すると、脳裏に蘇っあのは、先ほどのオオカミのセリフだった。
──ぶっちゃけ言うと、俺童話とかどーでもいいんだよね。
──俺はねぇ、もう面白おかしく生きてければなんだっていいんだよ。他人がどうなろうと知ったこっちゃないし。
本当にクズみたいな発言である。よく臆面もなく言えたものだ。
そう思ったら、なんだか悲しさよりもだんだんと腹が立って来た。
(……そうよ、なんで私があんな奴の為に捕まらなければならないの?)
殺してしまったのだから罪に問われることは当然だが、そうとわかっていても納得がいかない。
こっちはやっと夢が叶うかも知れなかったのに、あの人が勝手なことをしたせいでそれが台無しになったのだ。
いつの間にか涙は出なくなっており、私は目元を拭う。
開いた視界の中に、オオカミの死体が映り込んだ。
「……そうだ、私は悪くない。悪いのは、この人の方なんだから」
自分に言い聞かせるように呟くと、私はあることを決意した。
(こんなところで捕まるわけにはいかない。必ず、私はこの役を演じきってみせる!)
右手を胸の前でぎゅっと握り締め、私は自らの方針を決める。まっさきにやるべきことは何か、もうわかっていた。
「まずは……」
横目で後ろを見てから、私は急いでドアを閉めに向かう。隠蔽工作をしようにも誰かに見られたんじゃ意味がない。
すぐにドアを閉めて背中をつけると、またリビング内を見つめる。パッと見ただけでも、いろいろと痕跡が残ってしまっていた。
(とにかく、死体を隠さないと)
というわけで、まずはオオカミの死体をここから移動させることにする。
ごろりと仰向けにしてから、両脇を掴んで引きずり、廊下へと引っ張り出した。ある意味悲しいことだけど、さほど重く感じない。やはり、私にか弱い少女の役など向いていないのだろう。
再び頭に浮かんだネガティヴな思考を、私はどうにか振り払った。今は事件を隠蔽することだけに集中しなくては。
廊下へ出た私は一度死体をその場に残し、どこかちょうどいい部屋はないかと左右の壁にあるドアを順に開けで行った。一応誰も見ていないことを確かめてから、ずきんを脱いでそれを手に巻き、指紋がつかないようにノブを握る。
一つ目はトイレで、二つ目は鍵がかかっているのか開かない。
そして、三つ目にしてようやく、おあつらえ向きの空間と出会う。
そこは、バスルームだった。カーテンのかけられた窓の下に、白い浴槽が置いてある。
(ちょうどいいわね。ここならあれも誤魔化せるかも)
私はドアを開けたまま、さっそく死体を運び込んだ。
ずるずると引きずって来たオオカミの体を少々強引に浴槽の中にしまい、お湯を出す用の蛇口を捻る。手足を曲げるように白い容れ物の中に収まった彼の体に、お湯が注がれた。
(一応、死体はこれでいい。問題はリビングの方だ)
私は急いで現場へと戻る。シナリオどおりに進むなら、もうそろそろ狩人が現れてもおかしくはない。
その前に、証拠を処理しなければ。
幸い、部屋の隅、出入り口に近い方には箒と塵取りが立てかけてあった。すぐさまこれを使い、床に散らばっていた凶器の破片を掻き集める。
それから今度は台所を漁り、ゴミ袋を一枚失敬すると、破片を全てその中に入れた。
口を結んだゴミ袋を手に、私は再度バスルームへ。オオカミの死体を確認し、もう充分だろうとお湯を止めると、彼の体の上に持っていた物を置く。
とりあえず浴槽の蓋を閉め、私はまたリビングへ向かった。
こちらのドアも閉め、再びずきんを被った私は、必死で次にすべきことを考える。
(あれはこっちにも残ってるし、何より血が見つかるとまずい。こうなったらいっそのこと……)
私は床に転がったままだったバスケットを拾い上げ、テーブルの上に乗せる。被せていたハンカチを捲り、中からぶどう酒の瓶を取り出した。
そして、オオカミが倒れた辺り目がけ、私は半ば叩きつけるように、それを落とす。
当然瓶は割れ、中身が床にぶちまけられた。
これはこれで血溜まりみたいで不気味だな、などと暢気な感想を抱いたところで、私は流しへ行き、置いてあった布巾を手に取る。
私は瓶の破片で指を切らぬように気をつけながら、ぶどう酒で汚れた床を拭き始めた。
(大丈夫。これなら、きっと──)
自分自身を励ましながら手を動かしいると、不意に背後のドア──むろん入り口の方だ──がノックされる。
口から心臓が飛び出しそうになるほど驚いていると、扉越しに声をかけられた。
「『こんにちは、ウサギです! ど、どなたかいらっしゃいませんか?』」
床に膝をついたまま、私は凍りつく。
(ウサギ⁉︎ なんでもう? 確か、シナリオでは狩人が先のはずじゃ……)
驚いた私は、思わず壁にかかっていた時計を確認する。長針と短針は、十五時半の少し手前を示していた。
何はともあれ、居留守を使うわけにもいかない。
私は立ち上がり、怪しまれる前に彼に応じることにした。
が、そこでやっと気づく。テーブルの足元に落ちているある物の存在に。
(しまった、まだこれがあったんだ! ていうか、なんで見落としてたんだろ)
とにかく、さっさと処分してしまおうと、それを拾い上げる。
「……あれ?
おかしいな、本当にいないのかなぁ」
という呟き声が聞こえ、私はさらに焦った。ある物を手に持ったまま、きょろきょろと室内を見回す。
(これ以上無視してたら怪しまれる。仕方ない、これは取り敢えずこうしておこう)
咄嗟の機転で証拠品を隠し、私はやっとウサギに返事をすることができた。
「ごめんなさい、今開けまーす」
布巾をテーブルに置き、私は来客を迎える為戸口へ向かう。
控えめにドアを開けると、そこには背の低い、眼鏡をかけた青年が立っていた。気の弱そうな白い顔をしており、演技なのか元からそうなのか、落ち着きなく目と耳が動いている。もちろん、長いウサギの耳が、だ。
私を見た彼は少々意外そうな顔をした為、こたらから先に話しかけることした。
「えっと、まだ狩人さん来てないんですけど、もうそんな時間ですか?」
「え、あ、はい。そのはずですけど……」
「あら、それは変ですね。実は、狩人さんどころかオオカミさんも姿が見えないんですよ」
「え、ハティさんも?」
不思議そうに呟いて、ウサギは腕を組む。本名で呼ぶ辺り、彼らは元々知り合いだったのだろう。
「おかしいですよね。本来なら、彼がおばあさんの格好をしてベッドで寝ていて、私が襲われそうになる、ところに狩人さんが現れるのに」
そこが、この「新約赤ずきんちゃん」と本来の「赤ずきんちゃん」との大きな違いだった。オオカミは序盤で秒殺され、さらにまだ話が続くのである。
「確かに、妙ですね。……もしかして、またサボってるのかなぁ」
「また?」
「あ、えっと、あの人凄く童話に対して不真面目なんですよ。参加するにはするんですけど、その度に問題を起こしてばかりで。また誰かに迷惑かけてないといいけど」
彼の言葉を聞いて、私は密かに納得する。どうやら、さっき本人から聞いたとおりのようだ。
「参ったな。こうなったら、一応他の人たちに報告した方がいいかも……」
「そ、そうですね」
言いながら、内心また焦る。
まだ完全に死体を処理できていない。もしみんなでオオカミを探す流れになったら、かなりまずい。
「それじゃあ、一度塔の方に……って、あれ? 服の袖に何かついてますよ?」
「へ? あ、ああ、これはちょっとぶどう酒の瓶を割ってしまって。今床を拭いてたところなんですよ」
彼の指摘したとおり、私の服の袖にはぶどう酒がついてシミになっていた。
なるべく自然な感じを装って答えたが、どうだろうか。
「それは大変ですね。手伝いましょうか?」
「あ、いえ、私一人でも大丈夫ですから。
そうだ。もしよかったら、私が片づけている間に他の人たちに報らせに行ってもらってもいいですか?」
「はあ、わかりました。そうします」
ウサギは眼鏡をかけ直し、さっそくドアの前を離れようとする。
が、その時だった。
──パンッという、何かが破裂するような乾いた音が、家の奥から聞こえて来たのは。
「い、今のは……銃声?」
ウサギが、青ざめた顔で言う。
確かにそうだ。銃の発砲音のような物が私の背後、部屋の奥にあるドアの向こうで鳴り響いた。
「な、なんで?」
「わ、わからないですけど、とにかく行ってみましょう」
言うが早いか私の返事を待たずに、彼は家の中に上がる。
どうにか隠蔽工作は終えたものの、肝心の死体の処理がまだだ。だから正直家に入れさせたくなかったが、強引に拒否したのでは疑われてしまうかも。
結局ウサギを止めることはできず、私たちは連れ立って廊下へと向かった。
あの銃声以降、物音は聞こえない。
薄暗い廊下を歩いていると、私はすぐに異変に気づく。
(バスルームのドアが、開いてる……!)
そう、さっき私が閉めておいたはずの三つ目の扉が、今は大きく口を開けているのだ。
いったい何故? あの部屋にいるのは死体だけなのに。
「こ、ここ、みたいですね」
緊張気味の表情で、ウサギが言う。またも私は答えられず、彼も返事を待たずにバスルームへと入った。
小さなその背中に続き、私もひんやりとしたタイルの上に一歩足を踏み入れる。
すると、その途端、
「ひぃぃ⁉︎」
という男にしては甲高い悲鳴を上げて、ウサギはその場に座り込んでしまった。
彼は、何を見たのだろうか。
その答えはすぐにわかった。
バスルームはあまり広くなく、むしろ狭い。
だから、入り口のそばに立っている私からでも、それはよく見える。
開け放たれた窓の下、蓋をどけられた白い浴槽の中に彼はいた。さっき私がしまったのだから、当然だ。
しかし、明らかに先ほどと違うのは、彼の体が仰向けにされていることと、スーツの左胸に赤黒い穴が穿たれていることか。首を直角に折り曲げるようにしてそこに収まっている彼は、穴から流れ出す血液で浴槽を汚していた。
死んでいる、ということが一目でわかる。
(何、これ……この人は、さっき私が殺して……なのに、どうして)
理解不能な状況を目の前にして、私は眩暈すら覚える。
自力で立っているのが困難になり、壁に手をついて寄りかかった。脳裏に浮かんだのは、またしても漠然とした疑問。
──どうしてこうなったのか。
目の前で死んでいる彼の姿を見て、私はまたも考える。
いや、本当はもうとっくにわかっていた。他ならぬ、自分のせいなのだと。
そう、この陰惨な事件の引き金を引いたのは、他ならぬ私自身。
私のせいで、オオカミは二度死んだのだ。




