解答編第八話「私にしか演じられない役」
二階、三階と、あっと言う間に駆け抜ける。幾つものドアを素通りし、階段を一足飛びに駆け上がりながら、私は目的の場所を目指した。
どうして、私は走っているのだろうか。それも、よりによって爆弾の待つ場所へ。
確かなことはわからなかったが、これだけは言える。
今日のこの事件は、私のせいで起きた物なのだ。
(私が鬼の異伝子を持っているから、彼らはこの犯行を計画した。私にも、責任があるんだ)
ならば、どうすべきか……。
そう考えた時、答えは自ずと浮かんで来た。
(イナバさんが言っていたことは正しい。やっぱり私には、か弱い少女の役なんて向いてない……。けど、だからこそ、これは私にしかできないこと。事件の動機となった私だからこそ、罪を逃れようとして彼を殺させてしまったからこそ、今この役を演じられるのは私だけ)
自らの「役目」を、果たす。
その一心で、私は床板を蹴り続けた。
途中鑑識の妖精たちとすれ違い、数分もしないうちに空き部屋に到着する。
勢いのまま室内に入り、突進するように窓を開けた。
ベランダに出ると、私は屋根を見上げる。なるほど、はっきりとは見えないけど、確かに石像らしき物があった。
(きっと、あの裏側に爆弾が……)
私は意を決して、ベランダの手すりによじ登る。
「当然怖かったけどそうも言っていられないし、何よりさっきも似たようなことをしたんだからへっちゃらだ」と、自分自身に言い聞かせた。
私は手すりの辺のうち、短い方の上に立つと、バランスを取りながら慎重に膝を伸ばす。
まるで平均台に乗っているような形になった時、目線よりも少し上の辺りの壁に、掴むにはちょうどよさそうな窪みがあるのを見つけた。叔父さんが言っていたのは、おそらくこれのことだろう。
私は一回だけ深呼吸してから、軽く膝を曲げ、壁に向かってジャンプした。
うまく窪みを掴むことができ、壁にぶら下がるような状態になる。それから私は懸垂の要領で、両腕の力だけを使って体を押し上げた。
「くっ、そっ!」
歯を食いしばり、鬼の膂力を最大限に発揮する。ある程度したら今度は右肘を引っかけ、もう一方の手を離す。
と、同時に素早く上の窪みを掴み、さらに体を持ち上げた。
そんな風にして壁を這って行くと、やがて左手がガーゴイルの足を掴む。
「あと……もう一息!」
気合を入れ、足も使って一思いに屋根の上に這い上がった。
お椀型の屋根の傾斜に座り込んだ時には、ほとんど両手の感覚がなかった。かつてないほど腕力を使い果たし、その場で休みたくなる。
が、私は息を整えることもせずに、すぐにまた立ち上がった。
休んでいる暇などない。大急ぎで悪魔の石像の背中に回り込む。
すると、二枚の翼の間に、それらしき機械を発見した。
それは鉄製の黒い箱のようであり、存外小さい。子供でも小脇に抱えられそうである。
また、四角い覗き窓の向こうには液晶パネルのような物が見えるようになっていて、「00,00,30」という時間が表示されていた。
と思ったら、赤く光る数字は瞬く間に「29」へと変わる。
(三十秒を切った!)
私は、とにかく爆弾を像から引き剥がすことにする。黒い箱はガムテープで固定されているだけであり、幸い簡単に取り上げることができた。
(けど、時間がなさすぎる。放り投げるにしても、遠くまで飛ばせない!)
正直なところ、何か策があったわけではなかった。ただ、自分が行くしかないという直感に突き動かされ、私はここまでやって来たのだ。
(……いや、だ。ここまで来て、諦めたくない!
『無理だ』とか『できっこない』とか、私はいつだって簡単に諦めて来た。けど、今は違う……。そんな声──そんな声、もう聞こえない!)
気づけば、私は爆弾を抱き締めていた。
首を折り曲げ、なるべく箱の全体を覆い隠すようにする。私はそのまま屋根のキワへと、転がるみたいに走って行った。
そして屋根を蹴りつけ、勢いよく夜空に飛び出す。両足を折り畳み、私はいっそう体と爆弾を密着させた。
(このまま、爆発を受け止めれば!)
イナバの言うことが本当ならば、爆弾を起動させた人物はゲッシュの上では私に劣るということになる。つまり、うまくゲッシュの加護が働いてくれれば、私は死なないはずだし、爆風を封じ込めることもできるかも知れない。
(今度こそ、演じきってみせる。私にしか、演じられない役を──)
改めて心に誓った次の瞬間、私の胸の中で黒い箱が爆ぜた。
それだけは、理解できる。
だが、強烈な閃光を目の当たりにした直後、私の視界は黒く塗り潰されており、何も見えず、何も聞こえず、そして何も感じなくなっていた。
……どうやら、いくら鬼の血が流れてるとは言え、爆弾の爆発を一人で受け止めるなど不可能であったらしい。まあ、当たり前だけど。
私はひとまずそんなことを考えていた、ような気がする。
もはやそれすらもあやふやで、そもそもまだ自分という存在が続いているかどうかさえ判然としなかった。
いや、命という点においては、もう消し飛んでしまったに違いない。
私は、死んだのだ。
もうずっと永いことこうしているような気もするし、一秒も経っていないような気もする。落下し続けているようにも思えるし、ふわふわと浮いているようでもある。
曖昧で漠然とした感覚。
私という存在は、もう、何もない。
この世界にあるのは、ただの意識の残滓であり、それも風前の灯火だろう。
まるで絵本のページを閉じるように。
あるいは毒薬を飲んだウサギのように。
私の童話は、あっけなく幕を下すのだ……。
「──あらら、ずいぶんと無茶したみたいだねー、お姉ちゃんっ。全身ぐちゃぐちゃになってるよぉ?」
聞いたことのある声だった。
と、同時に、もう聞こえないはずの声だ。
(ああ、ケープちゃんがいるってことは、ここは天国か、それとも……)
瞬時にそう思ったことだけは、辛うじて覚えていた。




