第十六話
ベランダに出ていた彼女は、手すりの隙間から黒い湖面をを見下ろす。
(あとは、あの娘次第ね……)
胸の内で呟いたケープは踵を返し、室内へと戻って行った。
「さて、と私もやるべきことをやってしまわないと」
自らを鼓舞するように彼女が言った、その時だった。
その人物が、空き部屋に入って来たのは。
「あ、あなたは⁉︎」
ケープは驚愕の声を上げる。その人物がここにいることにも驚いていたが、何より彼女に恐怖を与えたのは、自分に突きつけられた仄暗い銃口だろう。
その人物は、なんと猟銃を構えているではないか。
「……な、なるほどねー。それじゃあやっぱりあなたが」
ケープが言い切るよりも先に、乾いた発砲音が室内に響き渡る。
放たれた弾丸はコンマ数秒で少女の頭を貫通し、窓ガラスを割って外へ飛び出した。最終的に手すりにぶつかり、鉛の塊は潰れる。
額の真ん中に穴を穿たれた少女は、膝からその場に崩れ落ちた。床に伏した彼女の頭を中心に、瞬く間に血が広がって行く。
少女を手にかけた殺人鬼は荒い息を整えながら、じっとその様子を見下ろしていた。
そして、未だ煙を上げている猟銃の口を、彼女の左手首に向ける。どうやらタグに照準を合わせているらしく、直後、彼は再び引き金を引いた。
二発目の銃声が轟き、少女のタグはか細い手首ごと砕け散ってしまった。
*
私は水の中にいた。
体を動かすこともできず、ただただ沈んで行く。まるで、クラゲにでもなったような気分だ。
水面から差し込む青白い月明かりが、どんどん遠ざかって行った。
なす術もなく水底へ引き寄せられながら、頭の中では様々な記憶が蘇る。今日あった出来事が、まるで遠い夢の中の話のように再生された。
私が殴り倒した、チャラいオオカミのこと。
気弱そうな、おどおどしたウサギのこと。
高飛車な、スタイルだけはいい魚のこと。
常に達観した様子の、鳥人役のワシのこと。
どこか頼りない、童話警察の警部と刑事のこと。
不思議な水色の瞳で私を観察する、探偵のこと。
無邪気な笑顔の裏に、謎の威圧感を隠し持つミニずきんちゃんのこと。
そして、私に優しい言葉をかけてくれたり、護ったりしてくれた、ガタイのいい老婆のこと。
(……そうだ、二人が味方してくれたんだ……。だから、私は)
私はそこで、ようやく我に返る。
(まだ、こんな所で沈むわけには)
あの二人が身を挺して逃がしてくれたのだ。その気持ちを無下にするわけにはいかない。
幸い、水底へ落ちていると思った私の体は、実際には浮力によって水面へ近づいていた。水のベールを掻き分けるようにして、私は一気に水面へと顔を出す。
「っぷはっ!」
湖面に浮かびながら、私は必死で深呼吸を繰り返した。取り敢えず体が酸素を欲している。
荒い息を繰り返しながら、私は落ちて来た場所を見上げた。
ケープはもう中に引っ込んだらしく、そこには誰の姿もない。そのことを確かめてから、私は改めて彼女とグランマさんのことを思い浮かべる。
(二人とも、ありがとう)
胸の内で礼を述べ、私は独自の平泳ぎで闇の中を進み始めた。
やがて桟橋に辿り着くと、必死にその上に這い上がる。苔の生えた木の板に座り込み、私は息を整えた。冷たい夜の風が、ずぶ濡れの体に容赦なく吹きつける。
それにしても、今さらながらよく生きているものだ。ゲッシュの効力は本当に絶大な物らしい。
などと感心している場合ではない。私はふらつきながらもすぐに立ち上がる。
桟橋には昼間見たボートが停まっており、やはりビニールシートに覆われていた。しかし、その時は別段気にすることなく、私はさっさと岸へ向かうことにする。
橋から地面の上に降り立った私は、森へ続く道の方へ体を向けてから、ふと足を止めた。
振り返ると、背後には無言で佇む塔と、その周囲を飛び回る妖精たちのシルエットが目に映る。
それから、私はその奥の方に、見覚えのある人物の姿を見つけた。
(あれは……フェザーズさん? どうしてあんなところに)
そうだ。塔の足元、妖精たちに紛れて佇んでいるのは、間違いなくフェザーズである。
遠目ではその表情まではわからかったけど、彼はどこか様子がおかしかった。中途半端な位置に立ったまま、何故か右手を庇っている。
それはまるで、怪我を負った場所を気にしているかのようで──
そんなことを考えながら眺めていると、不意にフェザーズの顔がこちらを向いた。私の姿まではわからなかったみたいだが、気づかれてしまっては大変だ。
私は慌てて前を向き、森の中へ続く道を走り出した。
*
彼らが銃声のした場所に駆けつけた時、そこには異様な光景が広がっていた。床の上に、二人の人間が倒れているのである。
一人は、「新約赤ずきんちゃん」における最年少のキャスト──ケープ・ロットだった。
赤黒い血溜まりの中に伏す彼女は、後頭部に丸い穴が空いていることがわかる。後ろ側の窓ガラスが割れていることから、おそらく弾丸が頭を貫通したのだろう。
また、どういうわけか銃弾はケープの左手首にも放たれたらしく、タグが潰れ、威力に耐えかねた手首がほとんど千切れてしまっていた。
そして、もう一人はマントのような服に身を包み、白いゴムマスクで顔を隠した男──モーブ・パッサーである。彼は仰向けに倒れており、こちらも間違いなく絶命していた。マスク越しにも苦痛に歪んだ壮絶な表情が窺える。パッサーの口許には少量の出血が見られ、両手で喉元を覆った状態のままこと切れていた。
まるで、時計の長針と短針を象ったかのような二つの亡骸を見下ろしながら、ワイルドボアは無念そうに呟く。
「くそっ、事件は終わったんじゃなかったのか」
彼の視線は自然とある物に向かう。それは、パッサーの死体の傍らに転がる猟銃だった。この事件の幕開けを告げた忌まわしき凶器を目にし、ワイルドボアは牙を擦り合わせるように歯ぎしりをする。
それから、彼はふと背後を振り返った。後ろにはエクゥスが、そしてさらにその向こう、戸口にはグランマが立っている。
「そ、そんな……。どうして、ケープしゃんが」
彼女は壁に寄りかかるようにして、焦点の定まらない瞳で室内の様子を眺めていた。その青ざめた顔からは、先ほど勇ましく捜査陣の前に立ち塞がった姿など、見る影もない。
いたたまれなくなったワイルドボアは、部下に指示を出す。
エクゥスは彼女の元に近づいた。
「グランマさん、一緒に大部屋に戻りましょう」
「え、ええ……」
刑事に寄り添われながら、老婆は廊下に消える。その姿を見送ってから、ワイルドボアは改めて室内を見渡した。
被害者たちは延長線上で垂直に交わるような形で倒れており、彼の方から見ると、それこそ時計の針が六時十五分を指しているようである。
また、長針であるパッサーの側にはアトキンスが屈んでおり、すでに調査を開始しているらしかった。彼の冷静さに半ば感心、もう半分は呆れつつ、ワイルドボアは声をかける。
「どうだ、何か見つかったか?」
「はい。こんな物が……」
顔を上げたアトキンスが掲げたのは、小さな試験管のような物だった。中には何か透明な液体が入っているらしく、底の方にわずかに残っている。
「まさか……毒薬か⁉︎」
「その可能性は高いでしょう。パッサーさんの遺体の状況から見て、死因は毒のようですから」
「確かに、そうだな。
しかし、犯人はどこへ消えてしまったんだ? ……もしかして、これも彼女の仕業なのか?」
独白気味に彼が言った時、タイミングよく妖精たちが室内に入って来る。彼らは忙しく翅を動かしながら、現場検証を開始した。
すると、その中の一人がワイルドボアに近づいて来る。何やら報告があるらしい。
「警部、報告させていただきたいことがあります」
「なんだ、何かわかったのか?」
「はい。ついさっき連絡があったのですが、アトキンスさんの仰っていたとおり、フローズヴィトニルソンさんの右手の爪に赤い布の繊維が引っかかっていたそうです」
「と、いうことは、どうやらお前の考えたとおりのようだな」
「……そのようですね」
やはり、彼女がオオカミを殴り倒したという動かぬ証拠は、実在したのだ。
「それと、次は狩人と見られる男についてですが、だいたいの死亡推定時刻が割り出せました。検死結果によると、おそらく十四時二十分から十五時の間と思われます」
「ふむ、さっきの推理とも合っているな。
狩人についてはそれだけか?」
「いえ、もう一つわかったことがありまして……。どうやら、殺された狩人は、三年前の『赤ずきんちゃん』の童話に参加していた狩人と同一人物らしいんです」
「ん? どうして鑑識がそんなことを」
「あ、調べたのは本部の人なんですけど、伝言を頼まれたものですから」
わざわざ妖精を使うなよ、とワイルドボアは内心呆れる。しかし、これは場合によっては重要な情報となるだろう。
「狩人の名前はマタギ・カリト。三年前、例の『おとぎの森』でのテロ事件を唯一生き延びた彼は、その後人目を避けるようにひっそりと暮らしてたみたいです。なので、まだあまり詳しい情報は出て来ていません。
ただ、今回のシナリオに応募していたことは間違いなく、登録されていた情報も彼の物だと」
「ふん、ということは、やはり今回の事件には三年前のテロが関係しているのか……。
にしても、よく本部が動く気になったな」
「ああ、それなんですがね」
妖精は若干言いづらそうにしてから、声を潜めて続けた。
「どうも、三年前の事件には奴らが関与していたそうなんですよ」
「奴ら?」
「ええ……『ワンダーランド』です」
「何⁉︎」
それを聞いた瞬間、警部の顔が青ざめる。よほど重大なことらしいのだが、アトキンスは「ワンダーランド」という単語を聞いてもピンと来なかったようだ。
「いったい、何なのですか?」
彼が首を傾げると、鑑識官は驚きながらもしっかりと教えてくれる。
「レジスタンスの過激派グループの一つですよ。中でも、好んで残忍な手口を用いることで有名です」
「なるほど。
では、三年前の『おとぎの森』での事件も彼らの仕業だと……?」
「みたいです。少なくとも、『ワンダーランド』の主要メンバーが関わっていた可能性は高いでしょう」
妖精の言葉を聞いて、アトキンスは黙り込む。今度は彼が考察を始めたらしく、それに入れ替わる形でワイルドボアが口を開いた。
「そうか、だから本部が腰を上げる気になったというわけか……。
報告は以上かね?」
「はい」
「では、引き続き現場検証を頼む。それと、彼が発見した物について至急調べてくれ」
「了解しました」
律儀にも敬礼しながら答え、鑑識は探偵の手から試験管を受け取る。両手でどうにか遺留品を抱え、彼はふらふらと飛んで行った。
その姿を見送っていたワイルドボアは、突然何かを思い出したように声を上げる。
「……ん? ちょっと待てよ。そう言えば、あの娘はどうしたんだ。鬼の異伝子を持つ、彼女は」
そう、最有力犯人候補の姿が、どこにも見当たらないのだ。
再三話に上がっているように、この塔は一方通行。銃声を聞きつけて駆けつけた彼らが鉢合わせしてないということは、彼女はまだこの階のどこかにいることになるはずだが……。
するとこの疑問に対し、やはり無表情のままアトキンスが答えた。
「おそらく、ベランダから下へ飛び降りたのでしょう」
「ベランダ? そうか、だから窓が半分開いていたのか」
納得しかけた彼だったが、すぐにまたほとんどない首を捻る。
「いやしかし、ここは四階だぞ? いくらすぐ真下が湖とは言え、この高さから落ちたら」
「ゲッシュの力を利用すれば、充分可能なはずです。つまり、誰か自分より弱い異伝子の持ち主に、ベランダから突き落としてもらったのではないでしょうか。そうすればゲッシュの効力により、無事に湖へ辿り着くことができる」
「なんて無茶なことを……。
だが、もしお前の言うとおりなら、いったい誰が彼女を助けたんだ? やはりケープなのか、それとも……」
彼は顎の肉を摘んで弄ぶようにしながら、思案する。が、ろくに答えは浮かばなかったらしく、「ともかく」と自ら仕切り直した。
「今重要なのは、パッサーの死が他殺かどうかだ。それ次第で、状況が大きく変わって来る」
「……そうですね。もし彼が殺されたとしたら、いったい犯人はどこへ消えてしまったのか。そして、その人物は赤ずきんさんと繋がりがあるのか。あるいはこれも彼女による犯行なのか。この辺りについて考える必要が出て来ます。
しかし、これが自殺だった場合」
「パッサーがケープを殺し、その後自分も毒を呷って死んだ、とも考えられるか」
相手の言葉を継いで、ワイルドボアが言う。
「ええ……。
ですが、いずれにせよ釈然としません。ロットさんを殺害したのがパッサーさんで彼の死は自殺だったとしても、犯行現場で遺書も残さずにただ毒を飲む、というのはいささか不自然です」
「まあ、そうだな。
しかし、例えば良心の呵責に耐えきれなくなって、突発的に自殺したんじゃないのか? もしくは、逃げられないと悟って、誰かが駆けつける前に死ぬことにしたとか」
「……考えられなくもない、とは思いますが」
納得がいかないのか、アトキンスは顎に手を当てて首を傾げた。室内を彷徨っていた彼の視線は、床に伏したままの少女に止まった。
「そういえば、どうして犯人はロットさんのタグを撃ち抜いたのでしょうか。そんなことに、いったい何の意味が……」
「さあな。大した理由があるとは思えんが」
「……ですが、我々に見つかってしまうリスクを負ってまで、犯人はタグを撃っているんです。一発目の銃声の時点で誰かが駆けつけて来ることは予想できたでしょうに、どうしてわざわざこんなことを」
呟きながら、アトキンスは無残にも千切れかけている被害者の手首を見つめる。
しばらくそうしていてから、彼は水色の瞳を動かし、今度はマントの男の死体を見下ろした。顎に手を添えたまま、相変わらず表情のない顔をしていたが、やがてわずかに目を見開く。
「……妙ですね」
「どうした? また何か気になることでも?」
「はい。明確に、何がとは言えないというか、わからないのですが……おかしいような気がします」
警部の問いに応じながらも、彼はパッサーの亡骸に釘づけとなっていた。正確にはその両手である。被害者の右手は爪を立てるような形で自らの喉元を引っ掻いており、対して左手の方はごく自然な状態で指を開いていた。
また、どちらの手にも革手袋が嵌められている。役柄上の問題なのだろうが、素性を隠すにはおあつらえ向きの格好だ。
アトキンスはじっと「悪い魔法使い」の死体を観察していたが、結局違和感の正体は掴めなかったようだ。




