第九話
人が、落ちて行った。
それだけが、唯一確かにわかることだった。
私は相変わらず床に座り込んでいる。その瞬間を目にしてから、どれくらいが経過したのか……。
とにかく長い間そうしていると、階段を駆け上がる足音が聞こえて来た。
数分もしないうちに、誰かが部屋の中に入って来る。
しかし、すぐに振り返ることはできなかった。
「大丈夫ですか⁉︎」
「……あ」
肩を揺さぶられ、ようやく我に返った私は、首を回す。すると、そこにいたのはエクゥスだった。片膝をついて、心配そうに私の顔を覗き込んで来る。
「もしかして、今何か目撃しました?」
「……は、はい。たぶん、その、誰かが」
それだけで察してくれたのか、彼は憐れむように目を伏せた。
「わかりました。大部屋でみなさんが待っていますので、一緒に戻りましょう」
「あ、はい……」
エクゥスに手を借りて、やっと立ち上がることができた。
私は部屋から出る前に振り返り、さっきの窓に目を向ける。当然ながら、もう誰かが落ちて来るようなことはなかった。
*
塔の外に墜落した男の死体を見下ろして、ワイルドボアは唸っていた。男は鹿打帽と毛皮のベストを着ており、左手首にはしっかりとタグを嵌めている。
「うーむ、この男はまさか……」
腕を組む彼の脇ではアトキンスがしゃがんでおり、徐に死体の腕を持ち上げた。何をするつもりなのかと警部が問い質すより先に、彼はタグのスイッチを押す。
タグの画面の上に浮かび上がった立体画像と役名を見て、彼らは男の正体を確信した。
「やはり、狩人さんのようですね」
「うむ……しかしそうなると、誰が彼を突き落としたんだ? 今回の童話の中で、狩人は最も強いはずなのに」
「それはわかりませんが……とにかく、狩人さんの死因は墜落による物ではなさそうですね」
「なに?」
「あまり血が出ていません。おそらく彼は死んでから落ちて来た、というか落とされたのでしょう」
「ああ、なるほどぉ」
感心したように、エクゥスが頷いた。対照的に、ワイルドボアは鼻を鳴らす。
「何にせよ、後は鑑識に任せればいい。
それより今考えるべきは、この死体がどこから落ちて来たかだ」
言ってから、彼はそびえ立つ塔を見上げた。
塔の上階にはベランダを持つ部屋もあり、そのうちのどれかである可能性が高い。
そう考えた時、ワイルドボアはお椀をひっくり返したような形の屋根の縁に、何か石像が迫り出していることに気づく。
「あれは……」
彼は手庇を作り、眼を細めた。傾きかけた陽光に染め上げられて、塔は朱色に燃えている。
「悪魔の像?」
そう、それは教会なんかにあるような、羽を持つ悪魔の石像だった。屋根のヘリのところにしつらえられており、まるで森を監視するかのように鎮座している。
また、よく見るとその真下の壁にはらところどころ窪みができていた。そこに手をかければ、すぐ下にあるベランダからならば、どうにかよじ登れそうな具合だ。
「……ガーゴイルですね」
ワイルドボアの呟きに、アトキンスは静かな声で応える。
彼もまた同じように屋根の上を見上げながら、眩しそうな顔をしていた。
「……ガーゴイルは、元々雨樋としての機能を持った装飾物を指す言葉です。ですので、おそらくあれも雨水を流す為の物でしょう。
……しかし、悪魔ですか」
「どうした? 何かあるのか?」
「いえ。ただ、こういう時、普通なら『不吉だ』と思うのでしょうか?」
「なんだ、それは? よくわからんが、今はあんな石像のことなど気にしている場合ではない。ひとまず中へ戻って、関係者たちの話を聞くぞ」
「……そうですね」
彼は同意してから、思い出したように声を出す。
「そういえば、エクゥス刑事。この森の地図をお持ちでしたね? もう一度見せていただけますでしょうか」
「はい、いいですよ」
スーツのポケットから折り畳まれた紙を取り出し、エクゥスは広げてから相手に渡した。
「ありがとうございます」
「ふん、なんで今さらそんな物を。さっき森を調査する時にも見ただろ」
「ええ。ですが、少し確認したいことがあったものですから」
そう返した彼は、じっと地図を凝視する。そこには、森の全体図が簡易的な絵で記されていた。
また、森だけではなく、その左右の入り口と塔の周辺や湖、そして岩場までが載っている。
「先ほど僕たちが通ろうとしたのは、この近道ですね……。こうして見ると、この道を使わずに森の中を突っ切ってお婆さんの家に向かったとしても、あまり時間はかわらなそうです。それどころか、かえって距離が長くなってしまうかも知れません」
彼が呟いたとおり、塔側からお婆さんに家への近道こそが、まさしく最短ルートになっているらしい。反面遠回りの道はかなりの迂回路で、図で見比べてみると親子の蛇のように長さが違う。
「まあ、そうだな。それに、木々が生い茂ってる分、そっちの方が移動し辛いだろう」
「ええ。
そう考えると、やはり犯人は正規の道を使うしかなさそうですね」
顎に手を添えて呟くアトキンスに、ワイルドボアは呆れたような視線を送った。「何をこいつはわかりきったことを言っているんだ?」と思っているらしい。
その後も少年はしばらく地図に目を落としていたが、結局何も見つけられぬまま、それを刑事に返したのだった。
*
約二十分後、ワイルドボアたちが帰って来た。
彼らが大部屋に入ると共に、すぐさま第二の事件についての話が開始される。
「え〜、みなさんすでにご存知かと思いますが、先ほど男性が一人塔の上階から落ちて来ました。この件が事故か事件なのかについては、ただいま調査中です」
警部の野太い声が室内に響く。私はまた、部屋の隅っこでそれを聞いていた。
「また、被害者の男性についてですが……服装や左手首に巻いていたタグから、どうやら狩人役の方であるらしいことがわかりました」
衝撃の事実を告げられる。いや、他のキャストは全員揃っているのだから、どこかで予感はあったのだけど。
「しかし、被害者が狩人となると、誰にも犯行は不可能なんじゃないのか?」
フェザーズがクチバシを撫でながら指摘した。確かに、そのとおりだ。
「『新約赤ずきんちゃん』の中で一番強いことになっているのは狩人だ。ゲッシュの力が働いていてタグを取り外せない限り、我々は彼を殺せない」
「仰るとおりです。
さらにら言えば、アリバイの面から考えてもこの中に犯人がいるとは考え辛い。狩人さんが落下して来た時、全員にアリバイがありましたから」
「ちょっと待ってよ! まだ殺人だって決まったわけじゃないんでしょ? 事故や自殺かも知れないじゃない」
「ええ、まだ現段階では断定できません」
「だったら、こうは考えられない? 狩人がハティ殺しの犯人で、逃げきれないと悟って飛び降りたとか」
彼女の言うことも、一理あるだろう。ただ、それにしても現実的ではないように思えた。なんとなく、違和感を覚えたのだ。
「考えられなくはない、とは思いますが。……しかし、一つだけ言えることは、落下して来た時、被害者はすでに死んでいたらしいということです」
そうだ。あれは確かに死体だった。
一瞬しか見ていないけど、確信できる。とても生きている人間が落下したようには思えなかった。
「死後どれくらいが経過していたかはわかりませんが、直接の死因は転落による物ではなさそうです。つまり、自殺の線は薄いかと……。
まあ、いずれにせよ今は鑑識からの報告を待つしかないですな」
「何よそれ、はっきりしないわねぇ。
というか、そっちは森で何か見つけられたわけ?」
「いやぁ、なにぶん調査している途中で死人が出たという報告を受けたものですから。正直なところ、あまり調べられておりません」
「そんなことだろうと思ったわよ」
「面目ないです……。
ただ、この森に何者かが潜んでいたらしい形跡は発見することができました」
ワイルドボアの言葉に驚いたのは、私だけではないはずだ。
森の中に私たちの知らない第三者が潜んでいた。もしその人物が犯人ならば、何か重要な手がかりが見つかったのでは?
「じゃあ、そいつが犯人なんじゃ」
「それも、今はまだ何とも。
ただ、その人物は童話が開始される何日か前から森に棲みついていたみたいですね」
「うむ、我々はまずここからおばあさんの家へ向かう近道の中を調査したのだが、例の岩が積み上げられている付近で人が生活していた痕跡を見つけたんだ」
横から説明を加えたのはフェザーズだった。彼は腕を組みながら、わずかに険しい顔つきになる。
「しかし、詳しく調べる前に第二の事件が起こり、いったん引き上げることにしたわけだ。そもそも、まだ事件と関係があるかどうかもわからなかったからな」
「それに、もしその第三者が狩人さんを殺害したのだとすると、大きな矛盾があります」
一階に繋がる階段の前に立ったアトキンスが、静かに口を開く。ただ事実を述べているだけといった無機的な声を聞いて、思わず私は顔を伏せた。
「もし仮にその人物が塔に侵入し、狩人さんを四階から突き落としたとして、この建物の構造上大部屋にいた誰かがそれを目撃しているはずです。この塔は言うなれば一本道で、大部屋の中には常に人がいましたから」
「でしたらもっと前、たとえば私たちが到着する以前から塔の中に隠れていた、とは考えられましぇんかのう」
「考え辛いでしょう。もし犯人が塔に潜んでいたとしても、今度は出て行くことかできなくなります。先ほども言ったとおり、ここには常に複数の人間がいましたので」
「うーむ、それもそうでしゅなぁ」
皺だらけの大きな手を頬に当てながら、彼女は唸った。
アトキンス言ったことは最もだ。ならば、やっぱり今回の事件は狩人の自殺なのだろうか。
すると、緊迫した空気に似つかわしくない明るい声が、大部屋に響き渡る。
「じゃあ、まだ犯人さんは塔の中に隠れてるのかもねー」
それは、ケープの物だった、
そして、彼女の言葉を聞いた大人たちは、みな──もちろん私も含めて──はっとした表情になる。
「いや、しかし、まさかそんな……」
「ですが、確かめてみた方がいいでしょう」
「私も賛成だ。それでなくても、塔の調査は行うべきだろう」
「……そうですね。いい機会ですし、全部屋くまなくチェックしてみます」
捜査の方針が決まったらしい。さっそくワイルドボアが指示を出そうとしたところで、彼を遮るようにアトキンスが口を開く。
「ところで、ロットさん。あなたは、塔についてから探索に出かけたと仰っていましたね?」
「うん、そーだよー」
彼は幼い子供相手にも丁寧な口調のまま、目だけで相手を見てこう尋ねた。
「その時、何か気になることはありませんでしたでしょうか? どんなことでも構いませんので、教えてください」
「うーん……そういえば、四階を見に行ってた時にね、一つだけ鍵がかかっている部屋があったの」
「鍵が?」
「うん。なんか、ドアノブを捻りながら押しても、全然開かなかったよー。だから、そこだけは中に入れてないんだー」
と、ケープは普通のことのように言ったが、場合によってはかなり恐ろしい状況である。部屋にはまだ犯人が潜んでいた可能性もあるのだから。
「そうですか……ちなみに、それはどの部屋だったか覚えていますか?」
「えっとね、確か階段を上がって来た方から見て、左手の奥の部屋かな」
「……わかりました」
呟いた彼は今度はワイルドボアへ声をかける。
「警部、まずはその部屋を」
「言われなくとも、そうするつもりだ」
顎の肉を揺らして、彼は答えた。
その後捜査陣は鑑識の妖精たちを引き連れて塔の四階へと向かって行く。私たち大部屋にいるキャストたちに見張りはつけられなかったが、外では他にもまだ鑑識が動き回っている為、塔から出ようものならすぐバレるだろう。
そもそも、この部屋から移動しようとすれば必ず人目に触れるわけだし。
それから、私は所在なく冷たい壁にもたれていた。二人目の死者が出たことにより、いっそう気分が重くなる。
俯いて自分の膝に視線を落とす。すると、半ズボンのポケットの膨らみに目が行った。
もちろん、中身はスマホだ。
スマホの存在を──忘れていたわけではないけど──思い出した私は、ある人物のことを頭に浮かべる。
(叔父さんなら、どうするだろうか。もしあの人がこの場にいたら、事件も簡単に解決したかも……)
自然と、右手がポケットへと向かう。が、中に入れる前に私は手を止めた。
(けど、叔父さん忙しそうだったし……それに、事件のことを話したら、お母さんにまで伝わっちゃう可能性もあるからなぁ)
もしそうなったから、余計ややこしい事態になりかねない。私に対してか、警察に対しか、犯人に対しか、矛先がどこに向かうかはわからないけど、とにかく母は怒り狂うはずだ。
しかも、困ったことに彼女は鬼であり、その中でも特に武闘派として名が知れている。
ともすれば、母が第三の被害者を出してしまう危険性だって充分あるはずだ。
我が親ながら、なんて恐ろしい存在なんだろう。
「どうしたの? ずいぶん顔色悪いけど」
「あ、いえ、なんでもないです……」
怪訝な顔で尋ねるスケイルに、私は力なく笑って答えた。実際にうまく笑えていたかどうかは、わからないけど。




