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天運の少女たち  作者: 麻柚
第6章 茉莉絵
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絶望の先に縋りついたもの

 茉莉絵が香穂に捉えられてから数日間、絶えず微笑みかけてくる香穂に、茉莉絵は戸惑い続けた。付き纏う、という例えが適切であるほど、香穂は茉莉絵にべったりであったのだ。クラスメイトは香穂を冷めた目で見ていたが、香穂はそんなことなど歯牙にもかけていない様子だった。茉莉絵は、香穂に翻弄されるしかなかった。

 六月も半ばに迫ってきたが、梅雨前線はまだやってこない。今日この日も雲一つない青空だった。また、英子たちに貶しまれ、香穂に手を引かれる一日が始まる。茉莉絵は複雑な心境を抱えつつ登校した。

 管理と清掃の行き届いた廊下を通行していると、すれ違う生徒の視線は茉莉絵に注がれる。それ自体は日常茶飯事のことであったが、今は違和感があった。昨日まで生徒たちが醸し出していた僅かな憐憫が一切消え、軽侮ばかりが茉莉絵に向けられていたのだ。茉莉絵は若干不審に思いながらも、とうとう完全に見放されたのだと諦念した。

 溜息すら出ず、教室のドアを開ける。瞬間、茉莉絵の体は床に引き倒された。教壇に投げられた茉莉絵を蹴り飛ばしたのは、英子だった。

「あんた、どこまでも汚いのね」

 英子が言って、綾葉がある冊子を放った。茉莉絵の上に降ってきたそれは週刊誌で、白黒の見開きの見出しには水谷陽一郎の名が踊っていた。だがそれは、陽一郎についての記事ではなかった。

「水谷陽一郎の娘はメイドと肉体関係を持つレズビアン。……ねえ、それ本当なの?」

 英子の声色は蔑みに満ち満ちていた。クラス中の視線が茉莉絵に向いていることが、ひしと分かった。頁の端が、愕然とする茉莉絵によって歪められた。

 水谷陽一郎の娘は同性愛者であり、旺盛な性欲を持て余している。メイドには肉体関係を強要し、周囲の女を手駒にして貪る、恐怖の女。茉莉絵の名前や顔写真は露出していないが、水谷陽一郎の娘はただ一人だけだ。この記事は明らかに茉莉絵のことを書き立てていた。全ての女が獲物である、という一文に、茉莉絵は鋭く爪を立てた。

「ていうかあたしらもそういう対象だったってこと?」

「ええっ、キモいんですけど」

 綾葉と悠も侮蔑の言を茉莉絵にぶつけた。教室に嫌悪と嘲笑が渦巻く。茉莉絵は視界がぐちゃぐちゃに溶けていくのを感じながら、週刊誌から顔を上げられずにいた。これが、絶望なのか。これが屈辱なのか。

「茉莉絵ちゃんっ」

 不意に、香穂の鈴のような声がした。登校してきたばかりの香穂は茉莉絵と英子たちの間に割り入り、茉莉絵を庇うように抱き寄せた。香穂は茉莉絵よりも心許ない体格をしているのに、どうしてこんなにも強くいられるのだろう。

「あら遠藤。ちょうどよかった」

 英子は強引に茉莉絵と香穂を離し、茉莉絵から週刊誌を引っ手繰った。それを香穂に突きつけた英子は、茉莉絵に勝ち誇ったような笑みを向けた。茉莉絵がやめてと叫ぶ前に、香穂は記事に目を落としていた。口内は渇ききり、茉莉絵は頭をもたげた。

 香穂は茉莉絵の性的指向をとっくに知っている。それでも、茉莉絵の性癖を笑い者にしたこの悪意の塊を、香穂にだけは目にしてほしくなかった。

「遠藤は知ってたのかしら。この女が汚いレズだってこと」

 そう言った英子は、上靴の先で茉莉絵の顎を持ち上げた。香穂は週刊誌を持つ手を震わせ、顔をしかめた。見たことのないほどの怒りを表面しながら、香穂は記事の部分を思いきり破いて細切れにした。英子の足を茉莉絵から弾いた香穂は、再び茉莉絵を抱き締めた。

「ねえ。もしかしてあんたたち、デキてたんじゃないの」

 悠が言った。茉莉絵は香穂の腕の中で、はっとした。

「へえ。ある意味お似合いじゃない? 汚い者同士の馴れ合いなんて、あたしは悲惨すぎて無理だけど」

「ふふ、そうね綾葉。だったら、せっかくだしキスでもしてもらいましょうか」

 英子は茉莉絵と香穂の髪を掴み引っ張り上げ、二人の顔を向き合わせた。四つん這いになった茉莉絵の鼻先に香穂の顔が現れた。追いつめられた茉莉絵は固く瞳を閉じた。せめてそうすることで、女でなく少女である香穂を穢す罪から、逃れようとした。

「ほら、早くやりなさいよ」

 英子が茉莉絵の頬を打つ。その隙をついた香穂は英子の拘束を振りほどき、立ち上がった。茉莉絵に背を向けた香穂は、英子と対立した。膝ほどまである香穂のスカートが翻った。

「茉莉絵ちゃんは私なんか好きじゃない」

 茉莉絵が見上げた香穂はぼやけて、曖昧だった。

「これ以上このことで茉莉絵ちゃんを攻撃するなら、私は絶対に貴女を許さない。一生」

「……はっ。なに言ってんの? 馬鹿みたい」

「本当に汚いのは茉莉絵ちゃんじゃない。貴女よ」

 教室は香穂に支配された。人間も、空気も、全てが香穂に注目していた。

 茉莉絵はジャスミンとして香穂を支えることができたのかもしれない。だが、水谷茉莉絵として香穂に優しさを向けたことは、一度もなかった。香穂は、オーレリーとしても遠藤香穂としても、茉莉絵の近くにいてくれたのに。茉莉絵に本物の笑顔をくれるのは、香穂だけだったのだ。甘い香りとともに、香穂は茉莉絵を包んでくれた。

「このっ――!」

 英子は激昂し、右手を振り上げた。茉莉絵は咄嗟に香穂の左腕を引き寄せた。

「遠藤っ」

 尻餅をついた香穂と入れ替わりに、茉莉絵は英子に殴られた。乾いた音が高らかに木霊した。

「茉莉絵ちゃん!」

 香穂はすぐに体勢を立て直し、茉莉絵を覗き込んだ。英子は僅かに動揺を見せていた。茉莉絵と香穂がいつの間にか育んできたものを、英子はきっと永遠に理解できないだろう。茉莉絵は香穂の手を取り、スクールバッグを握り直して教室を走り出た。

 昇降口を目指した二人は、一つの下駄箱の陰に入ると、簀の上に頽れた。乱れる呼吸は二人とも同じリズムで絡み合う。首許を押さえていた茉莉絵に、香穂は手を伸ばした。茉莉絵の腫れた頬を滑る香穂の手つきは柔らかい。香穂は目を伏せて、口を開きかけた。

「謝らないで」

 茉莉絵は先手を取って釘を刺した。香穂の喉が動いて、唾液を飲み込んだのが分かった。

「水谷」

 この学園に似つかわしくない低音で呼びかけられ、茉莉絵は振り返った。そこには、担任が大窓を背景にして立っていた。担任は香穂に教室へ戻るよう命じて、香穂を追い払った。俯いていた茉莉絵を近くのコンピューター室に連れ込んだ担任は、険しい顔をして後ろ手に施錠した。電気を点けないコンピューター室は暗幕のせいで薄暗く、ドア窓から漏れ入る光だけがはっきりとしていた。

「あの週刊誌の記事は本当か」

 ドアに背いた担任の表情は読み取れなかった。生徒のみならず、ついに教師までもが茉莉絵を直接的に責め立てるのだと覚悟して、茉莉絵は頷いた。

「本当なんだな」

 茉莉絵は再度、頷く。あの記事を信用している人間に、真偽の境を線引きしてみせても無駄だろう。

「……そうか」

 茉莉絵が顔を上げようとした瞬間、男の強烈な臭いが鼻を犯した。自分の顔が担任の胸に密着していると気づいた時には、茉莉絵の首筋に男のざらざらとした舌が這っていた。骨張った手が茉莉絵の内腿を撫で回し、あまりのおぞましさに茉莉絵は吐き気を押し殺しながら抵抗した。

 茉莉絵がどれだけ身を捩っても、担任は解き放さなかった。担任の指が茉莉絵の尻を動き回る。茉莉絵は悲鳴すら失って、死に物狂いで嘔吐感に抗った。全身に毛虫が這っているかのように虫酸が走る。穢らわしい。気持ち悪い。茉莉絵はどうにか膝を使って、担任のつま先に思いきり足を叩き下ろした。怯んで弱まった担任に体当たりをして、ドアに駆け寄る。

 おののく指先で開錠した茉莉絵を、担任は引き倒して馬乗りになった。茉莉絵の首を絞め上げる担任の顔に刹那外光が射した。その表情は恍惚として、欲望を剥き出しにしていた。茉莉絵は必死に担任の腕を叩いた。

「やっと、やっとお前を見つけたんだ」

 担任は込み上げる歓喜を押し込んでいるような、不気味な笑みを浮かべていた。

「男に尻尾を振る阿婆擦ればかりだった。ったく、一体何のために俺が女子校に来たと思ってんだ」

「…………」

「でもお前は違うっ」

 ようやく担任の手首を弾き飛ばして、茉莉絵は大きく咳込んだ。担任はそんな茉莉絵の両頬を挟み、顔を寄せた。

「なあ。男は良いぞ」

 これが、この男の正体なのだ。教師の仮面の下に、歪な性癖を自制することなく曝け出してしまう変態性を隠していたのだ。茉莉絵は強い拒絶感とともに担任に手向かった。担任は茉莉絵のネクタイをほどいた。

「やめっ――……!」

 悲鳴は、担任の掌によって殺された。

「もう誰もお前なんか助けない」

 もう、誰も。

 茉莉絵は脱力した。それを受け入れの合図だと誤解した担任の左手が、茉莉絵のブラウスに触れる。直後、茉莉絵は口許にあった担任の右手に噛みつき、鳩尾に膝を入れた。呻き声を漏らした担任を再度蹴り飛ばし、スクールバッグを回収してコンピューター室を飛び出した。

 担任の発言を、今の茉莉絵は否定できない。だが否定できたとして、誰に助けを求めればいいと言うのだろう。香穂? 何を、今更。これまで散々香穂を苦しめ抜いてきて、自分は簡単に彼女に救いを求めるなど、できるはずがない。香穂から送られる気遣いは受け取ることができたとして、それを自分から求めることは許されないのだ。

 自分は昔からずっと、一人だったのだ。その事実に鈍感でいただけなのだ。

 学園という地獄から脱出しても、茉莉絵に楽園など待っていない。


 帰宅した茉莉絵はローファーを脱ぎ捨てた。すぐにでも男の臭いを拭い落としたい。着替えを取りに行く前に水を飲もうとして、茉莉絵はリビングに向かった。そこには思いがけず紗希がいて、彼女は優雅にダージリンティーを飲んでいた。ティーポットの横には、例の週刊誌があった。

「あら、茉莉絵様。いかがなされましたか?」

「……早退よ」

 週刊誌を一睨みして、茉莉絵はキッチンでミネラルウォーターを呷った。コップをシンクに置いて、紗希のそばに立つ。紗希は茉莉絵を見上げて、眉をひそめた。

「それ」

 茉莉絵は、顎で週刊誌を指し示した。

「貴女、何か知ってるの?」

 沈黙が流れる。紗希はゆっくりと週刊誌を手にして茉莉絵の記事を開き、しばらくして、笑った。茉莉絵は訝しむ。

「紗希」

「ええ。勿論、知っています」

 紗希は週刊誌をテーブルに放り、厳かに立ち上がって茉莉絵と向き合った。その表情は高揚していた。何か重大な秘密を自分だけが握っているという優越のような色が、そこにはあった。

「だって、私がやったんですもの」

 思考が停止した茉莉絵を取り残して、紗希の唇は淀みなく回り続ける。

「私が情報を流したんですよ。その筋の人間に」

「…………」

「でも悪く思わないで下さいね。他ならぬ敏樹さんの指示なんですもの。私はそれに従うだけなのですから」

 茉莉絵は全てを知った。今回の陽一郎の失墜は、秘書の敏樹と某与党議員との策謀であったこと。敏樹はそれにより今以上の権力を手にすること。茉莉絵の前に現れる前から、紗希は敏樹の恋人であったこと。週刊誌の件は、茉莉絵を更に陥れたい英子の要請によるものであったこと。

「英子様、それは驚かれていましたわ。同性愛なんてと、心底貴女を軽蔑しておりました」

 紗希は腹を抱えて笑っていた。その様を見ても茉莉絵は最早、怒りも湧いてこなかった。味方ではないにしても此方側だと思っていた人間が、実は皆彼方側にいた。陽一郎は茉莉絵を顧みず、冴は家に帰ってくることすらしない。家政婦は辞め、残った紗希も裏で茉莉絵を嘲笑っていた。自分は、なんなのだろう。自分はこの家のように、空虚だ。

「ふふっ、本当に可笑しい。ねえ気分はどう? 性欲の捌け口だったメイドに、慰み者にされた気分は」

 ひとしきり大笑った紗希は、鬼の形相となってティーカップを摘み茉莉絵に投げた。淹れたてのダージリンティーが茉莉絵のブラウスに撥ねる。紗希はメイドキャップを外し、テーブルに叩きつけた。

「貴女は誰からも愛されない、汚い女なのよ」

 紗希はリビングを出ていった。彼女が茉莉絵を追い抜いた時、やはり薔薇の香水が匂った。けたたましい音とともにリビングの扉は閉じられた。茉莉絵はただ、立ち尽くしていた。想定される最悪の出来事が全て、一度に降りかかっている気がした。

「おい」

 はっとして、振り向く。扉口には拓斗がいた。

「あんた、どうして」

「客間にいた。あの男は帰ってねえのか」

 連日謝罪会見に追われていた陽一郎は、現在また行方をくらませたようだった。陽一郎の後継者として政界入りを果たすはずだった拓斗だが、その計画はすっかり潰えてしまったのだった。

「チッ。しくじってんじゃねえよ、あのクソジジイが」

 拓斗は悪態を吐いて、テーブルの脚を蹴った。彼は相当苛立っている様子だが、拓斗の母親は大企業の令嬢であり方々にコネがある。陽一郎ルートからの政治家になる道が閉ざされたところで、さして支障はないはずだった。その通りに、拓斗はすぐに落ち着きを取り戻し、茉莉絵を見て口の端を釣り上げた。

「つうかお前、レズってマジかよ」

 拓斗の手が茉莉絵の頬を撫でる。拓斗の髪の奥でピアスが揺れていた。

「男とはヤれねえの?」

「……触らないで」

 茉莉絵は拓斗の手を払い落とした。拓斗は眉根を寄せた。

「お高くとまってんなよ。クズ議員のガキのくせに」

「それはあんたもでしょう、隠し子さん」

「俺はもうお前らとは縁切りだ。じゃあな、レズビアン」

 拓斗は妖異な笑みを見せて、去っていった。茉莉絵は歯軋りをして、週刊誌の記事を香穂のように切り裂いた。それだけでは満たされず、冊子ごと縦に裂いた茉莉絵はそれを踏みつけ、自室に駆け上がった。ベッドのシーツ、本棚、化粧品やアクセサリーなど、目につく限りの物を荒らし尽くした。化粧台の三面鏡を椅子で叩き割った茉莉絵は、肩で息をした。散らばった破片が、茉莉絵の足許で破壊欲を煽るほどに煌めいた。

 誰もいない。自分の周りには、誰も。この世界の全てが一体となって、自分を殺そうとしているのだ。

 ダージリンティーの染みついた夏服のブラウスを脱ごうとした時、スカートの中のスマホが震えた。フェアリームーンからの通知だった。久しく放置していたアプリが動きを見せたことを怪訝に思い、開く。マイページには、オーレリーからのダイレクトメールを受信したことが表示されていた。途端強張る体を、鞭撻して画面を見た。

 茉莉絵ちゃん、今どこにいるの? 大丈夫?

 続いて、届く。

 不安だよ。ねえ、本当にどこ?

 鏡の残骸に、茉莉絵の顔が映った。茉莉絵は一際大きな破片を拾い上げて、腫れた頬をさすった。じくじくと刺す熱は、痛みのせいだけではない。ここに、香穂の掌が触れたのだ。

 離れないでほしいよ。ねえ、茉莉絵ちゃん。

 茉莉絵は破片をスマホに持ち替えて、文字を打った。

 助けて。

 縋ることを拒み続けた自尊心は、三面鏡とともに砕け散っていた。

 ねえ、助けて。

 茉莉絵の頬を熱いものが伝って、液晶に滴った。それは助けてという言葉を滲ませて、融解させた。

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