手を取る
自分よりも頼りない体に抱き締められた時のあの甘美なバニラ香が、まだブラウスに染みついていた。呼吸して体内に取り込むと、酔って足許が覚束なくなる。
三軒茶屋に帰った茉莉絵は玄関で紗希を捕まえ、自室に連行した。荒々しく口づけ、舌を挿入する。紗希のことなど全く思いやらない行為だが、紗希に狼狽えた様子はない。少しばかりつま先を上げて紗希に届こうとする茉莉絵は、なりふり構っていなかった。香穂に擦りつけられたバニラの香りを掻き消して、平静を取り戻したかった。
二人はベッドに倒れ込む。形勢が変化して、紗希が茉莉絵の上に乗った。紗希の長髪が茉莉絵に降り注ぎ、蛇のように絡み合う。紗希は茉莉絵を抱き締めた。瞬間、紗希の匂いが茉莉絵の鼻腔に否応なく流入した。紗希の薔薇の香水と、こびりついたバニラが混濁する。猛烈な吐き気を催して、茉莉絵は紗希を突き飛ばした。ベッドの端に押しやられた紗希を、息を乱しながら見つめる。
「どうかなされましたか、茉莉絵様」
紗希は相変わらず表情を変えず、茉莉絵に言った。茉莉絵は枕で頭を隠し、紗希に退室を命令した。紗希は理由を問い質すことなく、静々と部屋を後にしていった。扉が閉じる音の後、茉莉絵は枕をシーツに打ちつけた。これまでは、紗希と体を重ねれば何もかも忘れることができたのに、どうして香穂の残痕は、消滅してくれないのか。
攻撃されることより守られることが、茉莉絵の尊厳を傷つけた。死ねと怨念をかけられた方がずっと、自分を保っていられただろう。恨みには恨みで応じることができる。だが不意打ちの情けに対応できるほど、茉莉絵の頭は回らない。同情などいらなかったのだ。とりわけ、香穂からの同情は。
――可哀想なのは貴女じゃない!
香穂には、そう叫ばれたことがある。香穂を虐げていた頃から今も変わらずそう思われているのだとしたら、自分はどれだけ惨めなのだろう。香穂は茉莉絵の暴力を受けながら、茉莉絵を哀憐していたということなのだから。茉莉絵は頭を振って香穂を吹き飛ばそうとした。
そこにいる香穂を放逐するため、茉莉絵は制服のまま眠った。二時間ほどで目覚めて部屋を出る。入浴を済ませ、桜色のネグリジェとカーディガンを着て、ダイニングへ向かった。足組みをしてローズヒップティーを飲んでいた紗希を動かし、食卓につく。紗希は温めたコンビニ弁当を運んできた。
陽一郎の不祥事が露見してから、二人の家政婦は辞めていった。この家にはもう、茉莉絵と紗希しかいない。
作業的にコンビニ弁当を食す。紗希は目の前でティーカップを啜っている。
「そういえば、茉莉絵様。貴女様宛にお手紙が届いています」
「手紙?」
「康隆様から」
その名を聞いて、茉莉絵は割り箸を止めた。
「すぐに見せて」
紗希は、キッチンカウンターの上の封筒を茉莉絵に手渡した。茉莉絵はそれを受け取り、逸る気持ちを抑えて封を破る。薄緑色の封筒の中に、一枚の紙が縦に折られて入っていた。文面には陽一郎の件を知ったこと、茉莉絵を気遣う言葉、何かあれば此方に来いといった内容があった。几帳面な文字や心配性な文章は康隆らしい。茉莉絵は丁寧に折り畳み、封筒を傍らに置いた。
「どのようなご用件で?」
茉莉絵のための緑茶を淹れながら、紗希が尋ねた。
「あの男の騒動を心配してるって。本当最低よ、あの男。叔父様にまで迷惑かけて」
水谷康隆は陽一郎の弟だ。地方でこじんまりとした喫茶店を営んでいる、穏和な性格の男である。エリート主義の水谷家では、そんな彼の生き方は恥とされ、何十年も前に勘当されたようであった。だが、茉莉絵はそんな康隆に好感を持っていた。幼い頃一度だけ会った康隆に懐いた茉莉絵は、それからも陽一郎に秘密で連絡を取っているのだった。
「……そうでございますね」
紗希は液晶テレビを点けた。ニュース番組が映り、そこでは陽一郎のスキャンダルを取り上げていた。怪しげなジャーナリストが裏切られたようだとコメントし、アナウンサーもそれに頷いている。
裏切られたということは、彼らはかつて陽一郎を信用していたということだ。彼らの目はどれだけ節穴なのか。そんな人間でもニュース番組が務まってしまうのだと思うと、番組の存在意義さえ疑いたくなる。
「……無様な男」
しばらく逃げ回っていた陽一郎も、今は表に引きずり出され、必死に言い訳を述べていた。あれだけ偉そうに振る舞い、威勢良く与党を批難していた彼が、頭を垂れているのである。その様を冷やかに見ながら茉莉絵は、自分の父親のことながら滑稽に思った。
「ふふ」
茉莉絵の傍らの紗希が声を漏らした。拳を口許にあてがい、笑いを噛み殺すように体を震わせている。
「どうしたの」
「申し訳ございません。どうしても可笑しくて」
口先では謝罪しながら、紗希はまだ笑っていた。彼女は茉莉絵の正面に移動し、自分の椅子に腰を下ろし直した。
「陽一郎様、この間まで国民を馬鹿にしてふんぞり返っていらしたのに。今はその国民にへこへこ頭を下げてらっしゃるなんて」
そう言った紗希は、もう笑いを殺すことなく腹を抱えていた。その姿は普段の紗希とあまりに変わっていて、茉莉絵は薄気味悪ささえ感じた。紗希は、こんなことを言う人間だったろうか。
「ご馳走様」
茉莉絵は弁当を食べきらないままで席を立った。後始末は紗希に任せ、部屋へ戻った。
紗希の言葉は、茉莉絵が考えていたことと全く同質のものだった。だが紗希という、水谷家の外の人間にはっきり口にされると、少なからず不愉快に思った。茉莉絵は不愉快に思ってしまったこと自体が不快で、苛立ちを押し込めて眠りについた。
翌日、茉莉絵は変わらず登校した。英子やクラスメイトたちにどんなことをされようが、欠席することはプライドが許さなかった。昇降口で下駄箱を開けると、あるはずの上靴がなくなっていた。茉莉絵は自嘲して、昇降口脇に常備されているスリッパを履いた。
かつては味方だったはずのクラスや学園の悪意が、自分に向いている。結局、自分が築き上げてきたものは吹けば飛ぶような薄っぺらい関係だったのだ。自分の後ろ盾は、あの憎たらしい陽一郎に他ならず、茉莉絵は仮初めの権力で祭り上げられていただけだったのだ。こうなった結果に後悔はしていないが、ただ、自分が可笑しかった。
教室に着くと、英子たちにトイレまで無理に連れ出され、バケツの水を頭からかけられた挙句、個室に閉じ込められた。水が髪から、服から、滴るのを受け止めながら、茉莉絵は一人笑っていた。
――嫌われ者が調子に乗るな!
英子が言ったように、自分は嫌われ者だ。その点では、あの唾棄すべき陽一郎と変わらない。嫌われ者は何をしても嫌われ者だ。もう、何もかもどうでもいいと思った。
昼休みは教室を出る。嫌がらせを受け入れるのにも体力はいるのだ。食事だけは確保したいと、中庭を目指して廊下を歩いていた茉莉絵の前に、一人の人物が立ちはだかった。それは香穂で、香穂は茉莉絵の手許のバンダナをちらと見て、言った。
「お昼、一緒に食べよう」
香穂の手には弁当袋らしき巾着が握られていた。香穂は力強い表情をしていた。
「なんでよ。言ったでしょう、同情はいらないって」
「同情じゃない」
「……じゃあなに」
今の茉莉絵に手を差し伸べても、少しのメリットもない。茉莉絵はバンダナを固く握りしめた。分からないことは嫌いだ。
「私がそうしたいの」
呆気にとられた茉莉絵をよそに、香穂は茉莉絵の右腕を取って歩き始めた。香穂の先導によって辿り着いたのは、四階の社会科準備室だった。香穂は躊躇なく教室のドアを開け、茉莉絵を中に押しやった。そこは埃っぽく、薄暗くて蒸し暑かった。ガラクタと化した授業用具を乗り越えていくと、奥に一セットの机と椅子があった。香穂は茉莉絵をその椅子に座らせ、自分は端からもう一脚椅子を取り出し、汚れを払って座っていた。
目の前の香穂が無言で弁当を広げたため、茉莉絵もバンダナをほどいてミートパイを食した。パイの欠片がはらはらとバンダナに落ちた。
社会科準備室では、ここが学校であることを失念させるほどの静寂が続いていた。漠然と学園生活を送っていては決して見つけられない、隠匿された場所だ。
「最近までよくここに来てたの」
茉莉絵の疑問に答えるように、香穂は言った。香穂はオムライスをスプーンで突き崩していた。
「貴女にいじめられてる時に」
あてつけか、と茉莉絵は思った。これが香穂なりの仕返しなのだろうと思うと、何も言い返せなかった。
「しばらく来てなかったけど、また通うことになりそうだな」
「なんでよ」
香穂のスプーンが止まる。香穂は茉莉絵を真剣に、どこまでも貫いていた。その瞳は、バニラのようには甘くない。
「私は一人だから」
「は、」
「葛城さんと横山さんに、水谷さんをグループに入れたいって言ったの」
予想だにしない言葉に、茉莉絵の喉は震えた。
「勝手にしてって言われちゃって、また、一人」
「……なにそれ」
茉莉絵が香穂に近づきたくないのは、自分自身を守るためだと思っていた。香穂からの同情ほど茉莉絵を冒瀆するものはなかったのだ。だが、それだけではない。茉莉絵の中で確かに燃える感情は、罪悪感だった。これまでも、今も、香穂は茉莉絵によって傷を負っている。
「あんた本当に馬鹿じゃないの。なんで、そんなことっ」
言いたいことはたくさんあるはずなのに、名状し難い感情は茉莉絵の心の堰に溜まるばかりで、言葉にならなかった。誰かに対して、自分を見ないでほしいと思ったのは初めてのことだった。茉莉絵の憤慨と当惑など露ほども知らない香穂は、微笑した。微笑して、
「でも私は、それでも水谷さんと一緒にいたいの」
と言った。
「馬鹿なのかな、私」
茉莉絵は唇を噛んだ。手の中のパイは潰れ、中身が飛び出て零れ落ちた。香穂が分からない。
「私、あんたに何もしてない」
「そんなことないよ。ジャスミンさんだけが、私の支えだったの」
「それはあんただと思ってなかったからっ」
茉莉絵は食い下がった。パイはもう原型を留めておらず、生地と肉が茉莉絵の紅色の爪を汚していた。茉莉絵はバンダナで乱暴にそれを拭い取った。そんな茉莉絵を見守りながら、香穂は寸刻考え込んだ様子を見せた。その後で、破顔した。
「じゃあ、一つお願いしてもいい?」
「……なに」
「茉莉絵ちゃんて、呼んでもいいかな」
あまりにも突拍子のない申し出だった。茉莉絵は慌てふためく間隙すらなく、香穂から目を背けた。頬は熱く、だがそれは直射日光が茉莉絵の体に当たっているためではなかった。
「か、勝手にすれば」
「あ、茉莉絵ちゃんにも言われちゃった」
香穂がふわふわと笑うと、またあのバニラが香った。彼女のショートボブは日光に触れ、微かに茶色がかっていた。茉莉絵はスカートの中で腿を擦り合わせた。
突き放したいのに手に入れてしまったこの少女は、まるで赤ん坊のように純真だ。穢れに囲まれ、自分自身も穢れを取り入れ染まってしまった茉莉絵とは、かけ離れている気がした。香穂のそばにいれば己の醜さを思い知らされることだろう。それでも香穂の笑顔は、そんな苦痛を上回る安らぎへの期待を、少しく茉莉絵に与えた。それは本当なら、縋ってはいけない期待だけれど。
「あ、茉莉絵ちゃん。首のところ、血が出てる」
香穂に指摘され、茉莉絵は咄嗟に後ろ首を隠してしまった。そこじゃない、と香穂に笑われる。ふと立ち上がった香穂は、茉莉絵の左側に立って、首に顔を寄せた。
「島岡さんに、やられたの?」
茉莉絵の首筋に香穂の吐息がかかる。彼女は激しい人だよね、と言った香穂は、茉莉絵の首に唇を押し当てた。茉莉絵の全身は硬直する。柔らかい感覚とともに、舌のぬるりとした触感が茉莉絵の肌を粟立たせた。茉莉絵は知らぬ間に双眸を閉じ、甘美の息を漏らしていた。紗希のものよりもぎこちなく、それでいて熱い香穂の舌は、茉莉絵を蹂躙するように這い回った。
「舐めておけば、治るよね」
香穂はそう言うと、あっさりと茉莉絵から離れて椅子に戻った。呆気ない終わりが物足りず、茉莉絵の芯は疼いたが、ここで何ができるわけでもない。香穂はあっけらかんとして、純情な笑顔を垣間見せた。
「茉莉絵ちゃん。これからは、ずっと一緒にいてね」
火照る体を持て余しながら香穂の温もりを払いのけるなんて、茉莉絵にはもう、できなかった。
その日の放課後、茉莉絵と香穂は連れ立って下校した。田園調布駅までの閑静な道程を、二人はローファーを並べて歩んだ。香穂は茉莉絵を気遣って道路側を取り、茉莉絵に熱心に会話を投げかけていた。茉莉絵はそれに応えきれず、そんな自分がもどかしかった。前にも後ろにも歩行者のない、たった二人だけの道は、心地良くもあり悪くもあった。
「ばいばい、茉莉絵ちゃん」
香穂の姿も言葉も、茉莉絵には全てが眩しかった。