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天運の少女たち  作者: 麻柚
第5章 香穂
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手を伸ばす

 茉莉絵の没落から一週間が経った。英子によるいじめはやむことがなく、クラスメイトからは会心の反撃として持て囃された。あれだけ茉莉絵に、もとい陽一郎におもねっていた教師たちも今では掌を返し、いじめを黙認した。茉莉絵に同情を寄せるものは誰一人としていなかった。

 報道では連日、陽一郎の不祥事が糾弾されていたが、本人は未だ公に姿を現していない。そんなニュースを春治と見聞きしながら、香穂は晴れない日々を送った。春治との間で、桐生の名はもう話題に上がらなかった。

 放課後、香穂は一階の図書室で返却期限の迫った『第三若草物語』を返した。最後まで読み通しはしたものの、内容は頭に残っていない。趣味の読書にさえ身が入らないのだから、自分は思った以上にダメージを受けているのかもしれない。『第四若草物語』はとりあえず保留にして、香穂は人影がまばらの図書室を後にした。下校や部活への移動が盛んになる時刻を少し過ぎたため、白い廊下は静まっていた。

 二年三組ももぬけの殻だろうと油断していた香穂は、思いがけず教室に人の気配を感じると、ドアを開けるのを躊躇った。恐る恐る中を覗いて、目を見開く。そこには茉莉絵と、英子たちがいた。茉莉絵は一人で掃き掃除に取り組んでおり、英子たちは教卓に寄りかかりながらその様子を嘲笑うように眺めていた。箒を握る茉莉絵は儚げで、彼女の周囲だけ異世界に通じているような、独特の雰囲気があった。

 香穂は、茉莉絵に近づけない。桐生の想い人が春治であることを知ってからは、茉莉絵を見ることすら辛かった。英子たちに何をされても茉莉絵は弱さを感じさせず、むしろ香穂をいじめる立場にあった頃の方が余程弱く見えていた。頑なな茉莉絵は香穂を責めているように思えた。

 香穂が教室に突入すべきか否か逡巡していると、ふと英子が黒板横のゴミ箱を持って教壇を下りた。そのまま茉莉絵の前に立ち、そのゴミ箱を茉莉絵の足許でひっくり返した。溜まりきった塵芥は床に零れ、散らかった。

「これもお願いね」

 英子が言うと、綾葉と悠が吹き出す。香穂は恐怖に震えた。茉莉絵は僅かにも動揺を見せず、それらを掃き取った。ゴミ箱に収めた茉莉絵が別の箇所の清掃へ移ろうとした瞬間、英子の足蹴によって再びゴミ箱は倒された。茉莉絵はゆっくりと振り返り、床を見つめた。

「早く片付けてよ。臭いじゃない」

 ねえ、と英子たちは笑った。香穂の足はがくがくとして、使い物にならなかった。茉莉絵ではなく香穂が、英子に打ちのめされていた。

 駄目だ。茉莉絵を助けるなんて、英子を打倒するなんて、とても無理だ。香穂が英子たちにされてきたことと、現在茉莉絵が英子たちにされていることが香穂の中でシンクロして、頭痛が引き起こった。自分は、ジャスミンのように茉莉絵を支えられはしない。

「邪魔よ、あんたたち」

 突然、凛とした声が響いた。間違いなく茉莉絵のものだった。つくばっていた香穂は必死に自分の体を持ち上げて、教室を見た。

「随分楽しそうだけど、耳障りなの」

 茉莉絵は片手で箒を持ったまま、英子に対峙していた。

「出ていってくれない?」

 不快感と軽蔑を含んだ声色だった。かつてこの学園に君臨し、今では一人の味方もいなくなってしまった茉莉絵であるのに、彼女はあまりにも凛々しかった。香穂は遠目から、茉莉絵をただ美しく思った。

「黙れっ」

 そんな茉莉絵に逆上した英子は、両手で茉莉絵を突き飛ばした。茉莉絵はゴミの中で尻餅をついた。英子は茉莉絵の額を蹴り飛ばし、箒を茉莉絵の体に振り下ろした。箒の柄が、何度も何度も肉を殴る音がした。香穂の瞳に涙が溢れた。

「お前なんか――!」

 どれだけ痛めつけようが足りない、といった様子の英子は箒を投げ捨て、踵を返した。校舎全体が鳴動するような足取りで、黒板のチョークボックスを抜き取る。流石に狼狽した様子の綾葉と悠を蹴散らし、英子は茉莉絵の腹に踵を落とした。茉莉絵が小さく呻いた。

「散々、偉そうにしやがって」

 英子はもう一度茉莉絵の腹を踏みつけ、チョークボックスを振り上げた。香穂の涙はとめどなかった。どうかあの人を、茉莉絵を救ってくれと、いるのかどうかも分からぬ神に手を合わせた。

「誰にも好かれない、憐れな人間のくせにっ」

 ――私、貴女が好きよ。

 英子の金切り声が香穂の耳をつんざくと同時に、懇篤な宝物が香穂の脳裏に蘇った。ジャスミンが香穂だけに、香穂のために捧げてくれた言葉。それはどんなに、香穂にとって特別だったか。ジャスミンは香穂の希望そのものだった。

 香穂は、ジャスミンが大好きだったのだ。それは今も変わらない。一生、変わることはない。

「嫌われ者が調子に乗るな!」

 違う。茉莉絵は決して、嫌われ者などではない。誰にも好かれないなんて、あるはずがないのだ。

 だって私も、貴女が好きだから。

「勝手なこと言わないで!」

 香穂は無意識にそう叫んで、ドアを開け放っていた。思わぬ闖入者に教室内の人間は皆、固まっていた。彼女たちの視線を浴びて、香穂の滾りが徐々に落ち着き、冷静になる。考えられないほど大胆な行動に、香穂自身が一番驚いていた。刹那恥ずかしさが湧き上がるも、許せない、という感情がそれを打ち消した。

 どうしても許すことはできない。茉莉絵が誰にも好かれないだなんて、決めつけられたくなかった。少なくとも香穂は、英子たちのことよりずっと、茉莉絵のことが好きだと思った。

 その時、体を起こしかけた茉莉絵と目が合った。悲しみばかりを垣間見せるその瞳に、今は驚きが映っていた。汚物の真ん中にあっても、茉莉絵は清らかだった。

「……なによ遠藤。勝手なことって」

 英子の冷めきった声で、香穂は我に返った。勢いのまま英子を否定したは良いものの、その先のことを全く考えていなかった。香穂は戸惑い、黙るしかなかった。

「ま、いいわ。あんたが馬鹿なのは今に始まったことじゃないし」

 そう言った英子は、考え込む素振りを見せた後、口許を妖しく歪めた。香穂は寒心した。根拠はないが、恐ろしい予感がした。

「そうだわ。遠藤、あんたがやりなさい」

 英子は強引に香穂を教室に引き込み、茉莉絵の前に立たせた。そして、チョークボックスを香穂に押しつけた。チョークボックスは長い間掃除されていなかったらしく、中には粉がいっぱいに積もっていた。

「ずっとこの女にいじめられて、辛かったんじゃない? 復讐してやりなさいよ」

 何を指示されているのか、すぐに分かった。再び涙が込み上げて、逃げ出したいのに足がすくんだ。茉莉絵は何も言わず、真っ直ぐに香穂を見上げていた。その実直な視線に怯み後退すると、香穂の背後にいた英子に肩を掴まれた。英子は香穂を押し出す。

「ほら、早く」

 こんなことになるくらいなら、下界の自分が一人で苦しんでいる方がずっと良かった。所詮自分は平民以下なのだ。王が攻撃され地に這いつくばる様を見るくらいなら、自分が奴隷として生きる方がきっと楽だった。どうしたって自分は、ジャスミンのように強くなんてなれないのだ。

「やれって言ってんでしょ」

 英子が苛立って香穂を急かした。立ち尽くしたまま動けない香穂に痺れを切らしたのか、彼女は舌打ちをした。

「もういいわよ。使えないわね」

 解放されたと香穂が安心したのも束の間、英子は香穂からチョークボックスを取り上げた。香穂を脇に押しやると、英子はツインテールを振り乱し、茉莉絵に向けてそれを振りかざした。次に襲いくるであろう衝撃に備えて、茉莉絵が頭と顔を覆う。香穂にはそれら一連の流れが、スローモーションのように見えた。

 茉莉絵が、汚されてしまう。

「やめて!」

 咄嗟に、香穂は茉莉絵を庇うように抱き締めた。直後、香穂の背中に硬いものが当たる。ひっくり返ったチョークボックスは香穂の髪と制服を粉にまみれさせ、床に落ちた。

「遠藤……!?」

 英子の愕然とした声をどこかに聞きながら、香穂は頬を緩めた。ほとんど条件反射的だったが、自分にも茉莉絵を守れたのだ。やめてと、そう言えたではないか。

「邪魔よ。どきなさい遠藤」

「いやっ」

 英子に迫られても香穂は反抗し、かえって茉莉絵を強烈に抱き締めた。茉莉絵の漆黒の髪が絹糸のように香穂の指先に絡まる。茉莉絵の頭を自分の胸に抱いて、香穂は茉莉絵の体温を感じた。英子に命じられた綾葉と悠が香穂を引き剥がそうとしたが、香穂は抵抗した。怒り狂った英子は香穂の背中を蹴り、後頭部にチョークボックスをぶつけたが、やはり香穂は、茉莉絵を離さなかった。

「……いいわ。遠藤も、その女と同類ってことね」

 ひとしきり暴れた英子が、息を切らしながら言った。香穂は、そんなわけがない、と思った。茉莉絵は香穂の、遥か高みに存在している。

「良い子ちゃんぶって。馬鹿じゃないのっ」

 最後に英子は香穂を詰り、綾葉と悠とを従えて教室を出ていった。茉莉絵と二人きりになったその空間は、静謐だった。香穂の体からは力が抜けて、茉莉絵をそっと放した。香穂にはまだ微笑みが浮かんでいて、その心はとても穏やかだった。茉莉絵は俯いて、拳を握りしめていた。

「水谷さ、」

「馬鹿じゃないの?」

 香穂が声をかけ終わらぬうちに、茉莉絵は絞り出すように吐き棄てるように、言った。

「今更私を庇って、あんたに何の得があるわけ」

「そんな、」

「馬鹿じゃないの!」

 茉莉絵は弾けるように立ち上がった。追いかけるように、香穂は茉莉絵を仰いだ。茉莉絵は香穂を睨み下ろしていた。彼女の瞳にははっきりと感情が宿っていて、英子たちを相手にしている時のあの無ではなかった。だがその感情が悲しみか怒りか、あるいはその両方か、香穂には分からなかった。茉莉絵の短いスカートが、誘うように揺れる。

「……なに。私に同情してるの」

 英子には立ち向かう勇気があった香穂も、茉莉絵には無理だった。憤慨した様子の茉莉絵を見て、香穂は口を閉ざした。

「ふざけないで!」

 茉莉絵の黒影は夕日の教室を飛び出していった。香穂は最早何をする気力もなく、床に手をついた。塵芥に囲まれる自分はひどく滑稽で、そして似合っているのだろうと思った。やはり茉莉絵にはこんな位置、まるで相応しくない。

 茉莉絵。香穂は茉莉絵を救ったつもりだった。だが茉莉絵は香穂を拒み、香穂の腕をすり抜けていった。茉莉絵にとって、香穂は不要なのだろうか? 本当に誰にも好かれないのは、香穂なのではないか。

 香穂の腕の中に残ったのは、苺の香りだけだった。練乳をたっぷりかけたような、甘く熟れた苺の香りは、香穂の胸を熱く焦がした。


 帰宅した香穂は、まず琴乃の写真に挨拶をした。リビングの写真立ては以前の木枠から真鍮製のものとなっている。それから香穂は二階の部屋へ行き、机の引き出しを開けた。林間学校の集合写真と向かい合う。そこにいる茉莉絵は濡れ羽色の髪に白磁の肌を光らせて、王たる威厳を湛えていた。香穂は目を閉じて、額に柔くその写真を当てた。

 強くなりたい。彼女を完全に守れるような、強さが欲しい。

 美しくなりたい。彼女の隣が許されるような、美しさが欲しい。

 堕とされた王に必要なのは、臣下などという生温い存在ではない。宰相だ。絶対的な忠誠を誓い、深く激しく主を愛する。そんな宰相が今、王のそばにいない。

 瞼の裏に焼きついているのは、あの日の牡丹だ。香穂は回転椅子に腰を下ろした。手許の写真とライトスタンド脇の家族写真が、一直線上に並ぶ。茉莉絵の髪の毛はちょうど、琴乃の髪と同じ長さだった。

 琴乃の笑顔はもう過去にしかない。だが茉莉絵の笑顔は、隠れているだけだ。茉莉絵の笑顔は、決してないものではない。

「……お母さん。私、変わりたい」

 香穂は、七歳の自分の肩を抱き締める琴乃に宣言した。琴乃に誓ったならば、もう後戻りはできない。

「変われるよね」

 茉莉絵のための、強さを。香穂はそれだけを必要としていた。

 芍薬の花は牡丹に似ている。それでも絶対に、牡丹には敵わない。芍薬は牡丹に憧憬を抱き、その身を牡丹に捧げて、牡丹を育てる。命の全てと引き換えに、牡丹に百花の王たる鮮麗な姿をもたらす。芍薬は、自らの運命を理解しているのではないか。あるいは、芍薬が高く高く背を伸ばすのは、青雲の向こうの牡丹に近づこうとするがためではないか。それでも牡丹になることは許されぬ芍薬を最も憎むのは、芍薬自身なのだろう。己を憎悪する芍薬はいくら自分の美しさを諭されようが、何の感慨も持たない。だから芍薬は牡丹と一体化する。

 王と同化し交じり合い、一つになった宰相は、そこで初めて歓喜する。

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