王の没落
静止したままただ此方を見つめる彼女は、気高く存在感に満ち溢れ、例えようもなく婉美だ。香穂は感嘆の息を漏らし、寝返りを打った。
林間学校から二週間が経過した。香穂は自室のベッドで、林間学校の最終日、クラスごとにホテル前で撮った集合写真を眺めていた。前日の大雨が嘘のように晴れ渡っていたこの日、香穂はホテルの庭に大輪の牡丹を見た。真紅の牡丹は豪奢で、太陽に照らされ艶麗に咲き匂っていた。八重咲きの花びらを濡らす露は滴り、地面に染みた。あの時、牡丹に見とれていた香穂の背後を、英子たちを連れた無表情の茉莉絵が通り過ぎた。香穂を一目もしなかった茉莉絵の背中で、黒髪が翻った。牡丹に透かした先の茉莉絵は、美しかった。
百花の王。どんなに絢爛な花々も、牡丹を前にしては心を奪われ跪く。香穂は、最前列左から三番目に写る自分と、最後列中央の茉莉絵を指でなぞり、不可視の糸を繋げた。林間学校の二日目、茉莉絵の救出に赴いたあの日から、彼女とは一切の会話がない。それは、ある意味当然のことなのかもしれない。だが香穂はあの日、確かに茉莉絵の手を捕らえたのだ。あの感触を思い出に閉じ込めてしまうのは、あまりにも勿体なく感じた。
平民にすらなりきれない下界の人間にとって、国の全ての上に聳える王は神にも近い存在だ。下界の人間が王に少しでも接近するには、どうすればいいと言うのだろう。
茉莉絵は、牡丹のような人だと思う。
写真を抱いたままで眠りに落ちた香穂は、翌日寝坊し、朝食を摂る間もなく家を飛び出した。自宅から駅まで、高校の最寄り駅から高校までを全力疾走して、どうにかホームルームの五分前に昇降口に辿り着いた。胸を押さえて呼吸を整えながら階段を上がる。廊下に人はほとんどおらず、代わりに各教室から漏れ出る賑やかな声が鳴っていた。朝日は既に夏色で、校舎内に熱気を発生させていた。
香穂は走る途中で乱れたと思われるネクタイを直してから、教室のドアを開けた。それと同時に鈍く大きな音がガンと響き、香穂の視界の下方を黒い物体が横切った。香穂がそれに焦点を合わせると、そこには此方に背を向けた一人の生徒がいた。彼女は教卓の下で座り込み、それを英子と綾葉、悠が見下ろしていた。香穂は体を固めながら、思考は冷静に活動させた。香穂がターゲットでなくなったせいで、別の人間が犠牲になったのだ。香穂は混迷と罪悪感から過呼吸を起こしかけ、ドアに凭れたが、次の瞬間には息を止めていた。英子たちに足蹴にされた生徒が、香穂の方に振り返ったのだ。
彼女は、茉莉絵だった。茉莉絵はすぐに香穂から目を背け、俯いてしまった。
どうして王が、臣下たちに見下されているのだろう。香穂は状況を把握できなかった。立ち尽くしていた香穂に、正美と千夏が寄ってきた。
「おはよう、遠藤さん」
「ねえ、何が起きてるのっ」
挨拶もそこそこに、香穂は正美に縋りついた。正美と千夏は目を合わせて、憐憫の瞳を香穂に向けた。正美はそっと香穂を放し、言った。
「今朝のニュース、見なかった?」
「ニュース……?」
千夏が代わる。
「水谷さんの父親、とんでもない人だったの」
出所不明の献金。政治資金規正法違反。愛人と隠し子の存在。軽侮の念を込めて発せられる言葉の数々が、理解できなかった。
「水谷さんはあんな人だけど、お父様は真面目な人だって信じてたのに」
「正美がズレてるのよお。私はずっと胡散臭いって思ってたもん」
何を言うのだ。おかしいではないか。つい昨日まで、公明正大で立派な人だと、世間もメディアも、みんなそう褒めそやしていたではないか。香穂には、正美と千夏のやりとりがどんどん遠ざかって聞こえた。肩のスクールバッグが、不自然に重量を増した。
「……水谷さんは、どうなるの」
絞り出した香穂の問いかけに、正美と千夏は言い淀むことなく答えた。
「世間的には分からないけど、少なくともこの学校じゃ前のようには振る舞えないでしょうね」
「それで済むかなあ。水谷さんを良く思ってなかった人なんていっぱいいるもん。島岡さんたちだってそうだよ」
英子たちも茉莉絵を嫌悪していた。それではこの反逆は、起こるべくして起こったというのか。
香穂は教室を見渡した。茉莉絵に同情的な態度を見せる者は誰一人としていなかった。それどころか、まるで醜穢な生物を卑しむかのような視線を茉莉絵にぶつけていた。昨日まで自分を囲っていた人間たちからの鋭利な悪意に刺された茉莉絵は、反抗する様子もなく項垂れていた。後ろ盾を失った彼女の失墜は呆気ないほどに早かった。王たる威風を見せなくなった茉莉絵は、とても小さかった。香穂ははたと気づく。
もう、牡丹の花が散ってしまう季節に入っていたのだ。
「あら、とっても美味しそうなパンね」
昼休み。それは香穂にとって、もう教室を出るための時間ではなくなっていた。林間学校のグループ作成で正美と千夏に手を差し伸べてもらった翌日から、香穂は二人とともに昼食を楽しむようになったのだ。日頃は午前のうちから心待ちにするほど、この時間が好きだった。だが、今日は違った。
「ねえ、一人で食べるパンは美味しい?」
香穂たち三人はいつも、教室後方のドア口付近にある正美の席周辺で昼食の態勢を取る。三人で弁当をつついていると、英子の声がよく聞こえてきた。いつもは騒がしい昼休みの教室に横たわる静寂は、異質だった。
香穂は海老フライを摘む箸を置いて、窓際に目を向けた。自席で一人メロンパンを食べる茉莉絵を包囲するように、英子たちが立っていた。茉莉絵は英子たちを気にかけることなく、俯き加減で黙々と口を動かしていた。
「やっぱり貴女みたいな貴族にしてみれば、あたしたち庶民と食べるパンよりずっと美味しかったりするの?」
「…………」
「なんとか言いなさいよ」
英子によって、茉莉絵のメロンパンが床に叩き落とされた。茉莉絵は無言でそれを拾い、パッケージに戻すと口を縛った。クラス中の視線が茉莉絵に注がれていた。
「気にすることないよ、遠藤さん」
向かいの正美が、声を潜めて言った。誕生日席の千夏も頷く。
「そうだよお。ずっと遠藤さんをいじめた人なんだから。因果応報だよ」
香穂はもう一度、茉莉絵を見た。茉莉絵は間違いなく香穂をいじめ、苦しめた人だ。だが一方で、茉莉絵はジャスミンとして香穂のそばにいて、支えてくれた唯一の人だった。両極端な性質でも、茉莉絵本人に共存するものなのだ。香穂は現状を割り切れなかった。
「いつもそうやってぶすっとして、見ててイライラするのよ」
英子の口撃に、茉莉絵は黙っていた。頬杖をついて、窓の向こうを見ていた。
「どうせあたしたちのことも馬鹿にしてたんでしょう。あんた性格悪いものね」
下を向いていても、英子たちから顔を逸らしていても、茉莉絵は悲壮だった。今の茉莉絵のような強さを、香穂は持てなかった。
「――聞いてんの!」
何を言っても微動だにしない茉莉絵に、英子は激昂したようだった。彼女は綾葉からペットボトルの紅茶を引っ手繰ると、それを茉莉絵の頭上で逆さにした。ペットボトルから零れる液体は茉莉絵の髪を、顔を流れ、制服に吸収され、机の上に水溜りを作った。英子はペットボトルを放る。雫は茉莉絵の黒髪をさらに艶やかせた。ゆっくりと英子たちを見上げた茉莉絵の顔に、陽が射していた。香穂は思わず目線を弁当に戻して、歯噛みした。教室は相変わらず沈んでいる。
「あんたの父親っ。愛人に子供まで産ませるなんて、本当に最低ね。人間のクズだわ」
茉莉絵は粛々とハンカチを取り出して、制服を拭き始めた。レースのアイボリーのハンカチが赤茶に染まっていく様が、はっきりと見えた。
「そんな男から産まれたあんたが、綺麗なはずない」
「…………」
「ねえ。あんたはどんな風に汚いの?」
香穂は耳を塞ぎ、きつく瞼を閉じて英子の言葉を遮断した。まるでその言葉の全て、香穂に打ちつけられたかのような痛みがあった。
やめて。たったそれだけを叫べばいいのに、何故できないのだろう。香穂の時もそうだった。香穂がいじめにあった時、たった一人でもその三文字を口にしてくれたら、自分はどんなに救われていたか。仮に事態は変わらなかったとしても、香穂はきっとその三文字に縋って、もっと強く渡ることができた。そういった辛苦を知る香穂こそ、今立ち上がらなければならないのではないのか。唇を開こうとして、太ももの痣が疼いた。英子によって付けられたその青痣は、もう消えかけていたはずなのに。
ここで声を挙げれば、あの地獄の日々が再来するかもしれない。いや、そんなことはどうでもよくて、心の奥底では自分も茉莉絵に対してざまあみろと思っているのかもしれない。
違う。違う。林間学校の時、茉莉絵の力になりたい、茉莉絵のそばにいたいと思ったのは、紛れもなく本心だった。それは今だって、同じはずなのだ。だから今の自分は、ただ逃げているだけなのだ。
茉莉絵が不意に立ち上がった。彼女は真っ直ぐに香穂の方へやってきた。香穂の心拍数は急激に上がったが、茉莉絵は香穂の横を通り、教室を出ていった。堂々としたその姿からは、悲しみも恐れも伝わってはこなかった。苺に混じって、紅茶の香りがした。
「島岡さん、凄い」
教室の沈黙を破ったのは正美だった。
「自分が遠藤さんにやってきたことはああいうことなんだって、これで水谷さんにも分かるでしょう」
「そうだねえ。私、ちょっとすっきりしちゃった」
正美と千夏に続いて、クラスメイトたちは次々と二人に賛同する意見を述べ始めた。香穂はあまりのことに愕然とするばかりで、何も言えなかった。英子たちはクラスの英雄となっていた。クラスメイトは遥か遠方へ行ってしまって、香穂だけが取り残されていた。
傍観者は加害者と同類だ、とよく言われる。だがそれは、傍観者が被害者に同情していることを前提とした上で、傍観者を責め立てる言葉だ。何故そんな前提を語ることができるのだろう。頭でどれだけ被害者を思いやっていても決して届かないことは確かだが、反対に、どれだけ加害者に同調していても、被害者には分からないではないか。
茉莉絵にとってみれば、英子たちやクラスメイトたちと、香穂の間にはなんの違いもないのだ。
例えば自分にペリーヌ・パンダヴォアーヌのような賢さとセーラ・クルーのような強さ、アン・シャーリーのような想像力とがあれば、茉莉絵をこの胸に抱きとめることができるのだろうか。物語の主人公のように、ヒーローのようになれば、茉莉絵はまた香穂を見てくれるのだろうか。
入浴後、香穂はリビングでテーブルに着き、琴乃の写真を眺めていた。手許の写真立ての中で、琴乃は女神のような微笑みを見せている。ガラスが豆電球の橙色を照り返して、香穂の肌の上を滑った。
「お母さん……」
結局香穂には、物語の主人公になる力なんてない。大好きな人に思いを馳せて、大好きな人ならどうするか、考えてみることしかできない。もう、大好きな人は答えをくれないから。
突然、豆電球が蛍光灯に切り替わった。香穂が顔を上げると、春治が帰っていた。
「どうした香穂。こんな暗いところで」
「お父さん」
春治は香穂の手を覗き込み、息を呑んだ。
「母さんの写真、見てたのか」
「……うん。ちょっと心配事があって。お母さんならどうするかなって、思ったから」
眉を曇らす春治のことが、香穂は気になった。香穂は度々琴乃の写真を抱き締めるが、普段の春治はこのような表情は浮かべない。何かあったのだろうかと問うてみようとしたところで、春治のスマホが震えた。春治は画面を見て、益々顔に影を落とした。スマホを置いて腰掛けた春治に、香穂は冷蔵庫の麦茶を差し入れた。
「今日は早かったんだね」
春治は香穂に礼を言ってから、グラスを呷った。
「ああ。用事があって早めに抜けてきてんだけど、その用事もすぐに終わったから」
「用事って?」
香穂が投げ返すと、春治は口を噤んでしまった。香穂は慌てた。
「ごめんなさい。聞いちゃいけないことだった?」
「いや、そうじゃないんだ」
春治がグラスを置くと、結露がつうと流れた。テーブルに落ちた水滴は、波紋を作って静かなリビングの全体に広がっていくようだった。春治は険しい顔のまま、何かを決意したように香穂を見据えた。
「香穂。……お母さんが、欲しいと思うか」
「え、」
琴乃は二度と戻らない。春治の発言の意味が、理解できなかった。
「新しいお母さんだ。香穂は、どう思う」
香穂から写真立てが滑り落ちて、フローリングに叩きつけられた。ガラスの割れる音がした。香穂ははっと床に下りて、琴乃の写真だけをそっと取り、胸に押しつけた。香穂を心配した春治に声をかけられたが、大丈夫だと首を振った。
「好きな人が、いるの?」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。琴乃以外の母親などいらない。そう喚くことは簡単だ。だが駄々をこねるだけでは、春治はこの話をやめてしまう。
「僕には琴乃だけだ」
「だったらどうしてっ」
写真を抱いたまま立ち上がる。頬に何か熱いものが伝った。香穂はパイルパジャマの袖口で目許を押さえ、扉へ走った。
「桐生先生だっ」
ドアノブを捻りかけ、止まる。香穂が振り返ると、キッチンのカウンター越しに春治が見えていた。眼鏡の奥で、春治の瞳は切なく歪んでいた。香穂は動けなくなった。
「今日、桐生先生に会った。色々相談されたんだ。もう、神楽条にはいないんだってな」
「…………」
「それから、言ってくれたんだ。僕を、好きだと」
重いものが脳天に直撃して、香穂は膝からへたり込んだ。それは、桐生が春治に下心を持って接していたことへの忌避感からではなかった。茉莉絵の想い人に意中の人間がいたこと。それが、自分の父親だったこと。茉莉絵に知られたら、茉莉絵は決して香穂を許すまい。茉莉絵のルビーの指輪が、香穂の胸中で転がった。
「桐生先生は良い人だ。だからもし、香穂が望むなら、」
「……やめて、お父さん」
香穂は自分を抱き締めた。写真がはらりと床に舞った。体は震え、膝の上を打った涙は服に浸透して肉にまで到達した。とても、冷たかった。それなのに頭が火照ってぼんやりとした。
こんな風に苦しい時、香穂の手を取ってくれたジャスミンは、もういない。
「やめて!」
春治が駆け寄ってきて、香穂を堅く抱きすくめた。春治の腕の中で、香穂はただ、泣いた。