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天運の少女たち  作者: 麻柚
第4章 茉莉絵
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林間学校―茉莉絵

 どこをどのようにしてここまで辿り着いたのだろう。最早来た道を戻ることさえ、茉莉絵には困難であった。

 神社の辺りを周回する間に圏外になったスマホは、全く役に立たない。林間学校のしおりにはオリエンテーリング区間の地図が付録されていたが、それを片手に歩いた結果、自分の現在位置さえ見失った。無用の長物となった地図をリュックサックに押し込み、顔を上げる。前後左右、どこまでいっても木々が生い茂る暗黒の森だった。今ほど太陽を欲した時はない。茉莉絵はとにかく来た道を戻ることにした。神社の境内に出られれば、人に出会えるだろう。

 一歩、二歩と進み、茉莉絵は蹲った。何時間も歩き通しだった両足は限界を迎えていた。ふくらはぎをさすり休息を与えるほど、痛みは実感となって湧き上がった。鈍痛が激痛となるのに比例して、自分を置いていった班員への怒りも強まっていく。茉莉絵は這うように一本の大木に寄り、その下に座り込んだ。ここはどこだろう。このまま戻れば、帰れるのだろうか。

 ぽつ、と音がして、次の瞬間には森に大雨が降り出した。木々の葉が屋根となって濡れそぼつことはないが、雨漏りはする。見上げても空など見えないが、きっと灰色の雲に覆われているのだろう。茉莉絵は頭にタオルを被り、体育座りをした。服が土に汚れてしまうことも構わない。ハーフパンツからむき出しの白く細々しい足は、頼りなかった。

 雨音が自分にじわじわと迫りくる気がして、茉莉絵は膝に顔をうずめた。この雨は、やむのだろうか。目を閉じたら桐生の顔が浮かんだため、茉莉絵は目を開けた。

 桐生だけは茉莉絵を恐れなかった。それが茉莉絵には新鮮で、無垢な笑顔は茉莉絵に恋心を抱かせるのに充分だった。チョークを握る指先、髪の流れ、柑橘の香り。桐生の細部にまで心奪われた。膨張する恋心は、やがて狂気となり、香穂を突き刺した。

 香穂。茉莉絵はもう、香穂に関わりたくない。復讐する意思が香穂にないのなら、このまま彼女を遠ざけていたい。現在の茉莉絵の頭を支配する存在は香穂だった。彼女に対する恐怖、動揺、僅かな罪悪感から、茉莉絵は逃げ出したかった。このまま自分が誰にも見つけてもらえなかったら、ずっと、一生、香穂の姿を見ることもなくなるのだろう。帰りたくないとは思わないが、香穂の顔を見るのは辛い。

「水谷さんっ」

 自分の名を呼ぶ声が聞こえた。それは希望の光というより、むしろ驚きとして消化された。誰かが近づいてくる。茉莉絵は立ち上がろうとしたが、足の痛みがそれを邪魔した。膝を倒して、自分のもとへやってくる人物の登場を待った。

 暗闇の中で、しかしくっきりと浮かぶ人影は、木々の間を縫って走り寄ってくる。いつしか息遣いと靴の音が雨音より強くなり、その人物の正体がはっきりと分かった。

「水谷さん」

 香穂は胸に手を当てながら息を整え、その場に頽れた。彼女の右膝部分のジャージは破れていて、ぐちゃぐちゃの傷口が露わになっていた。香穂は右足を庇うように立って、茉莉絵の前にしゃがみ込んだ。

「よかった、見つかって」

 そう言って、香穂は緩やかに笑んだ。香穂のショートボブから大粒の雫が、おかしなリズムで滴り落ちる。頬にはかすり傷があり、泥が付着していた。

 どうして、なんで、あんたが。よりによって、どうして。茉莉絵の喉が詰まった。

「暗くなったら危ないよ。さあ、帰ろう」

 差し出された香穂の手は、暗がりの中でぼんやりと白いヴェールを纏っていた。月光を避ける吸血鬼のように、茉莉絵はそれを恐れ、払いのけていた。

「……どうして、いるの」

 茉莉絵はただ、現実に目の前で呼吸する香穂という人物が何故ここに現れたのか、それがどうしても理解できなかった。香穂の目を見られなかった。

「水谷さんがいなくなったって聞いて、それで」

「だからどうしてよ!」

 茉莉絵が姿を消したこと。それと、香穂が茉莉絵を迎えに来たこと。両者は単純に接続されない。香穂には、茉莉絵を助ける理由がない。

「誰も、あんたに頼んでなんかない」

 茉莉絵は痛みを押し殺して立ち、香穂に背を向けた。一歩を踏み出したところで、香穂が言った。

「そっちはホテルの方じゃないよ」

 赤面した茉莉絵の頬に雨が落ちた。茉莉絵はそれを、引っ掻くように拭い取った。再び香穂が、水谷さん、と呟いた。ひどく落ち着いた声色だった。香穂の優しさと同情的な態度は、茉莉絵の自尊心を傷つけた。ぼろぼろになっていく自分の身を守るには、香穂を突き放す必要があった。

「あんた、何が目的なの」

 今この状況だけではない。茉莉絵はジャスミンだと、茉莉絵は同性愛者だと、そう知ってからも香穂は変わらなかった。いや、それどころか、こうして茉莉絵を助けに来た。やはり、どうしても分からない。雨は益々激しくなって、湿りきった葉はもう屋根にならなかった。

「あんたはそんなにして良い子になりたいの」

「…………」

「分かった。金ね、金が欲しいんでしょう。いいわよ、好きなだけくれてやるわ」

「どうしてそういう考え方しか出来ないの!」

 香穂が怒鳴るなど思いもよらず、茉莉絵は一瞬間怯んだ。香穂は茉莉絵の肩を掴み、力ずくで振り向かせた。香穂の目は茉莉絵より下にありながらも、視線は深く貫き合った。茉莉絵は目を逸らした。

「私はただ、水谷さんが心配だった。水谷さんが一人でいるのは嫌だと思ったから、ここまで来たの」

「……なによ、それ」

「分からない?」

「分からないわよ!」

 茉莉絵は、香穂を痛めつけることしかしてこなかった。自分ばかりが醜い人間に思えた。

「私、あんたを散々な目に合わせたじゃない」

「うん」

「き、桐生雅を追い出したのだって、私よ」

「……うん。でもそれは、きっと水谷さんの方が苦しかった」

 香穂は、完全ではない不器用な笑顔を、茉莉絵に投げた。

「好きだったんでしょう? 先生のこと」

 茉莉絵はとうとう言葉をなくした。全身の力が抜け、意識していないと倒れてしまいそうだった。茉莉絵の唇は小刻みに震え、頭に掛けていたタオルがはらりと地面に落ちた。香穂はそれを拾って、土を払うと茉莉絵の首に掛けた。それから、大木の下の茉莉絵のリュックサックを回収した。

 香穂はジャージの上着を脱いで茉莉絵の頭から上半身を包み、茉莉絵に寄り添うようにして自分もその中に入った。香穂が歩き出すのに合わせて、茉莉絵も歩を進めるしかなかった。香穂の上着にはまだ人肌が籠っていて、それは紗希の腕の中よりずっと温かく、くらくらとした。

 雨の合唱の中を二人無言で歩き続けていると、いつしか森を突破し、神社へ、街中へ、下っていった。

「どうして、近づいてくるの」

 茉莉絵は俯きながら言った。香穂のスニーカーは泥だらけで、それに比べて茉莉絵のものは長時間森をうろついたにも関わらず、元の色のままだった。

「気持ち悪いと思わないの。女を好きになるのよ」

 左隣にいる香穂が自分を見ていると、茉莉絵には分かっていた。それでも決して香穂の方を向かなかった。

 街を通り過ぎると、ホテルまでは長い上り坂が続く。茉莉絵と香穂以外通行人はいなかった。香穂は前方に目を戻した。

「でも、私のことは好きにならない」

 茉莉絵ははっとして香穂を見た。香穂は微笑みを茉莉絵に注いでいた。今度こそ、その表情は完全なものだった。

「いつか、ジャスミンさんが言ってた。女なら誰でもいいだなんて、誤解しないでほしいって」

「…………」

「水谷さんは、私が嫌いだから。だから好きにはならない」

 答えになっていない。そう叫びそうになるのを、歯を噛んでこらえた。香穂の理屈だと、茉莉絵が香穂を愛したら香穂は茉莉絵を拒絶する、とも取れる。結局香穂は、茉莉絵を気持ち悪いと考えているのか否か。切れかけた街灯が空しく点滅するこの森閑とした山道の先に、終着点はまだ見えてこない。

 もし私があんたを好きになったら、あんたは気持ち悪がるの。そう問いかけてみたかった。だが、できなかった。茉莉絵が香穂に恋愛感情を抱く可能性があるだなんて香穂に悟られたくなかったし、何より茉莉絵自身が思いたくなかった。自分が香穂を愛してしまうかもしれない、なんて。

 二人の肩が接してこすれ合い、熱を発生させた。香穂からは、微かにバニラの芳香がした。その香りと雨の匂いが混じり合って、茉莉絵は眩暈を起こした。雨がやむ気配は、一向になかった。


 ホテルに着いて教師の説教を受けたのは、茉莉絵ではなく香穂だった。茉莉絵は何の咎めもなく部屋に帰され、香穂は着替えを終えるとすぐに担任ほか数名の教師たちとともに、彼らの宿泊室へと連行されていった。どうやら、教師に断わりもなくホテル外に出たことを問題視されたらしい。今回の最大の罪人である茉莉絵が叱られないのは、陽一郎の娘だからだ。そういった処置は想定の範囲内であったが、茉莉絵は釈然としなかった。

 部屋では英子たちの涙ながらの謝罪を聞いたが、その熱心さがかえって白々しく感じ、適当に受け流してルームウェアに着替えた。その上にパステルカラーのボアパーカーを着用すると、茉莉絵は香穂の消えた宿泊室を目指した。何をするわけでもないが、このまま知らぬふりをすることは道理に反すると思った。

 茉莉絵は、教師らの宿泊室の扉に対面する、廊下のベンチに腰掛けた。生徒たちの部屋より下の階であるためか奇妙なほど静かで、スリッパでぱたぱたと床を叩いてみる。手指を絡めたりしていると、小さな音とともに目の前の扉が奥に引かれた。そこから香穂が顔を覗かせた。

「水谷さん。どうしたの?」

 香穂はたゆたった様子を見せた後、苦笑して言った。謝るべきだと茉莉絵の理性は訴えていたが、自尊心が障害となってできなかった。

「夕食、食べるわよ」

 代わりに、茉莉絵の口からはそんな誘いが漏れた。茉莉絵は香穂を従えて一階の食堂へ向かった。食堂では接続された横長のテーブルが奥まで続き、白いテーブルクロスが上品に敷かれていた。他の生徒は既に夕食を済ませている時刻のため、茉莉絵たちは食堂から見えるキッチンにいたコックに知らせ、食事を手配してもらった。

「美味しそう」

 向かいに座った香穂は目を輝かせて箸を取った。山菜の盛り合わせに川魚の刺身、メインはすき焼きだった。白飯と味噌汁はよそりたてのはずだが、冷たく感じた。料理は地元産を売りにしているらしいが、東京で食べるものと大差ない。肥えきった茉莉絵の舌に堪える代物ではなかった。それでも、空腹が勝り箸が進む。すき焼きの湯気の奥で、香穂は幸せそうに頬を落としていた。彼女の表情を観察しながら食べ物を噛み砕き、飲み込み、を繰り返していると、全ての器には残滓すらなくなっていた。

 食後には、涼しげな容器の中で艶めく桃ゼリーが待っていた。白桃の果実が二切れほど中に埋め込まれている。香穂のスプーンが台形のゼリーを容赦なく崩した。つるりと頬張って、香穂は破顔する。すぐそばに茉莉絵がいることを忘れているかのように、緊張感のない様子だった。茉莉絵はそれが悔しくて、悔しいという感情の根源がどこにあるのかも分からなくて、やるせなささえあった。

「これ、食べる?」

 茉莉絵は、ゼリーを香穂に押しつけた。

「え。水谷さん、いらないの?」

「どうせ市販の安物でしょう」

 茉莉絵がそう言うと、香穂は遠慮なく容器を受け取った。香穂の口はゼリーを吸い込み、果肉を潰す。透明で淡紅色のゼリーと香穂の桜色の唇が重なり交わって、諧調する。その様は、ひどく魅力的だった。茉莉絵は香穂に女を見出している自分に、どうしようもなく嫌悪を募らせた。


 ダイニングを出てすぐのロビーではクラシックが流れていた。暇を持て余したような受付嬢が澄ましている以外、人の気配はない。茉莉絵と香穂は各々の部屋へ戻るためエレベーターを目指した。ゲームセンターや喫煙所といったスペースが並ぶ廊下の突き当たりに、売店がある。そこにだけ、まばらながら土産物を求めた生徒たちの姿があった。売店の前を左折してエレベーターに乗ろうとすると、後ろの香穂に袖を引かれた。

「売店、寄らない?」

 茉莉絵は思わず、口をへの字に曲げてしまった。香穂は慌てたように顔の前で手を振った。

「い、嫌なら私一人で行くよ」

 どうかな、と顔を覗かれ、茉莉絵は溜息を吐いた。茉莉絵には香穂の誘いに同調する義理などない。それでも渋々首を縦に動かしてしまうのは、茉莉絵の中に少なからずある贖罪意識のせいだろうか。香穂はほっとしたように売店へと駆けていった。茉莉絵はそれに続いた。

 売店には衣服、雑貨の類から菓子や酒など、幅広い土産品が販売されていた。店の端のスペースでは、二人の生徒がテーブルを囲みソフトクリームを舐めていた。小鳥のさえずりのような囁きが、その空間を満たしていた。

 香穂がどこかへ行ってしまったため、茉莉絵はぼんやりと店内を歩いた。元来物欲がそれほどなく、心惹かれる物もない。売店の外で香穂を待とうと決めたタイミングで、香穂が舞い戻ってきた。

「水谷さんっ」

 興奮した様子の香穂に気圧され、茉莉絵は導かれるまま店に引き込まれた。香穂が立ち止まった場所には、木箱に収められた指輪が幾つか並んでいた。香穂はそこから一つを取り、茉莉絵の右手の薬指にはめた。

「やっぱり。凄く綺麗」

 ルビーをハート型にくり抜いた指輪だった。濃密な紅が茉莉絵の雪のように白い肌に映え、煌めいた。

「絶対、水谷さんに似合うと思ったんだ」

 香穂は指輪をはめ終えても茉莉絵の手を離さなかった。一体、どういうつもりなのか。そう不審に思いながらも茉莉絵は香穂から逃れることはしなかったし、指輪を手放すこともしなかった。こんな田舎のホテルで、ショーケースに入れられもせずにあった指輪など玩具に等しいのに。香穂の嘆息だって言葉だって、お世辞だろうに。

「あ、でも買ってほしいってわけじゃないの。ごめんね、図々しくて」

 照明に反射して光線を放つ指輪が、目に眩しい。繊細で華美で、温かい。香穂の指先が指輪を取り上げようとしたため、茉莉絵はその上に掌を重ねて止めた。

「買うわ、これ」

「え、」

「あんたのためじゃない。私が欲しいの」

 茉莉絵は言った。香穂は頬を上気させて、甘く微笑んだ。

 茉莉絵は指輪を購入した。理由はもう考えなかった。ただ、欲しいと思った自分に従っただけだった。香穂は文庫サイズのブックカバーを買っていた。黒いビロードの布に、金糸でおさげの少女の横顔が刺繍されているものだった。香穂は自分の購入品の包みを両手で抱きながら、茉莉絵の薬指を嬉しそうに見つめていた。

「不思議だな。水谷さんが着けてると、なんだかもっと可愛く見えるの」

 茉莉絵がレジ横の窓を見遣ると、雨はいつの間にか上がっていた。森の果てでは、深い闇が山全体を覆い隠していた。

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