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天運の少女たち  作者: 麻柚
第3章 香穂
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林間学校―香穂

 林間学校当日は、夏日であった。屋外にいるだけで汗が滲む。香穂は額の汗を手で拭いながら、バスに乗り込んだ。

 東京駅のバスターミナルを出発した神楽条高校二年三組のバスは、二時間ほどかけて東京郊外の高原を目指した。この校外学習は香穂にとって特別なものであった。隣に、自分を気遣ってくれる友人がいるのだ。正美と千夏は、通路を挟んだ向こうの座席で香穂に笑いかけていた。正美は赤縁の眼鏡、千夏はポニーテールが特徴的な少女である。

 林間学校のグループ作成の時間、思いがけず二人に声をかけられた香穂は驚き、狼狽した。だが最後には二人の笑顔に縋る結果となった。それまでいじめを見て見ぬふりし、教材係としての仕事を全うしなかったことを謝罪されたのには恐縮してしまったが、今後は一緒にいようという優しさは、眩しかった。

 香穂は千夏に差し出された手作りクッキーに手を伸ばし、お礼を言った。バスで食べるお菓子が普段よりずっと美味しく感じられるのは、何故だろう。

 バスは青々とした山道を登り続けた。山中は必然的にカーブが多くなり、木漏れ日は現れたり隠れたりする。東京とは全く異なる風景に、バスの中は歓声に包まれた。青空はどんどん近くなっていった。香穂も窓に張りつきながら、流れゆく景色を目で追った。

 しばらくするとホテルに到着した。それは街から少しばかり離れた場所に、厳かに存在していた。クリーム色をしたホテルは空に向かって高く聳え立っていた。香穂はボストンバッグを両手に持ちながら、痛いくらいに首を上向けた。林間学校の間、ここが神楽条高校二年の貸切となるのだ。正美と千夏もはしゃいでいた。

 エントランスから宿泊する部屋に辿り着くまで、香穂の目は忙しなく動き回った。シャンデリアやふかふかの床、所々に飾られる生花。毎度のことだが、神楽条学園がセッティングするホテルには腰を抜かしそうになる。

「綺麗!」

 部屋に着いての開口一番がそれだった。香穂は荷物をソファに放り投げて、窓辺に駆け寄った。広がる景観はどこまで行っても自然で、人工的なものは見当たらない。木々を遥か下に見て、香穂は恍惚と溜息を吐いた。空の水色と森の新緑との境界線はぼんやりとして曖昧だった。絵の具のように混ぜて調和することさえできそうだった。

「凄いね」

 正美が香穂の隣に立って、言った。千夏も、この絵画的なパノラマに見入っていた。

「でも遠藤さん、意外と破天荒なんだね」

「正美もそう思った? バッグをぽおんと放るなんてびっくりしちゃったよねえ」

「あっ。ご、ごめんなさい」

 顔を見合わせて吹き出した正美と千夏は、気にしないでと言ってころころと笑った。香穂はぽかんとしながら、それでも胸は温かかった。

 部屋は和洋折衷型で、趣のある座敷と明るい洋室が反発し合うことなくあった。ソファとツインベッドは先程踏みしめてきた床より柔らかく、ちゃぶ台の和菓子は餡が濃厚で美味だった。

 そんな素敵な部屋で一息吐く間もなく、ロビー集合の時間となった。一日目は、ホテルよりも更に高所にある湖でのボート体験が予定されていた。クラスごとに連れ立って湖へ行くのは、遠足のように楽しかった。それなりに勾配は急だったが、誰も根を上げることなく、十五分ほどの道のりをあっという間に征服した。

 六人一組となってボートに乗った。水面は日光を反射して輝き、キラキラと星のように瞬いた。オールは思いのほか重く、動かすのにも一苦労であったが、慣れてくるとボートは滑らかに水を掻き分け進み、香穂たちに大きな感動をもたらした。オールとボートの軋む音は香穂たちを恐怖させもし、興奮させもした。穏やかな風は磯とはまた違った匂いを香穂たちに届ける。香穂の前に座る千夏のポニーテールが、振り子のように揺れていた。時節飛び来る水飛沫に無邪気な悲鳴を上げながら、ボートは湖を一周した。

 交代のためボートを降りると、なんだかまだ足許がぐらぐらした。船着場から離れ、木陰へ移動する。

「楽しかったねえ」

 千夏が言った。

「うん。とっても」

「遠藤さん漕ぐの上手いね。最初は手がぷるぷるしてて、大丈夫かなこの人って思ったけど!」

「えー、ずるい正美。私も見たかったあ」

「か、葛城さんっ。横山さん」

 不意にからかいの言葉をぶつけられ、香穂の頬は熱くなった。正美と千夏がその場に座ったため、二人の間にいる香穂もそれに倣う。直接太陽が当たらない芝生はひんやりと快適だった。視線の先では数隻のボートが湖を滑り、生徒たちの嬌声が彼方此方から聞こえてきた。三人は皮がささくれた大木に身を預け、深呼吸した。

「あら、水谷さんたち」

 正美がふとそう漏らした。彼女の目を追うと、ここから数メートル東の木の下で、茉莉絵たち四人が休憩していた。正美は首を傾げる。

「ボート乗りたくないのかしら」

「そんなはずないよ。島岡さん辺り、ボート乗るの凄く楽しみにしてたもん」

「でも乗ってないわよね」

「どうせ水谷さんでしょ」

 眉をひそめた千夏を見て、正美も納得したように肩を下げた。いつにない二人の様子に、香穂は戸惑った。それに気づいた正美はばつが悪そうにした。

「ごめんなさい。遠藤さんの前で、水谷さんの話なんかして」

「う、ううん。それはいいよ。でも、どうせってどういう意味なのかなって」

「水谷さん、いつもああやって楽しくなさそうにするでしょ。島岡さんたちも巻き込んで。馬鹿にされてる感じがして、見てると嫌な気分になるの」

 千夏の解説に、香穂はそれ以上何も言えなくなった。正美も千夏も、茉莉絵を好いていないであろうことだけは理解できた。香穂の心にしこりが落ちる。

 茉莉絵が常に無表情でいることは事実だ。だが香穂は、馬鹿にされているといった印象は受けない。それは香穂が、茉莉絵の哀の瞳を知っているからだろうか。ただ、いじめの被害者であったはずの香穂が必ずしも茉莉絵を嫌っていないことだけは、確かだった。


 二日目は終日オリエンテーリングだった。コースはまずホテルを出発して、坂を下って街に出る。その街の高台にある神社が最終目的地だが、そこに行くまで、街中に数ヶ所あるチェックポイントを必ず通過しなければならない。

 午前十時に香穂、正美、千夏のグループは出立した。山の気候は冷涼だが、日差しはそれなりの熱を孕んでいる。コンクリートの坂を下る間、香穂は黒のジャージを自前したことを僅かに後悔した。半袖のTシャツの首許で風を作りながら、発汗を防いだ。

「わあ!」

 突然、正美が大声を出して、道路を横切った。車線がなく、交通自体少ない道であるが、危険な行為に変わりない。千夏が「危ないよお」と注意しながら正美の後を追ったので、香穂も道路の反対側へ移った。正美はカーディガンの裾で眼鏡を拭き、それに伴って彼女のナップザックが上下した。

「見て、ほらっ」

 正美はガードレールから身を乗り出しながら、林の間を指差した。眼下には木造建築の日本的街並みが横たわっていた。その素晴らしさには千夏も香穂も飛び跳ね、一気に街へと走った。

 街は思い描いた以上の美しさだった。地面には一面レンガが敷かれ、通りの両端には花壇や木が均等な間隔で立ち並んでいた。民家も、コンビニでさえ景観を守った建築である。三人は街中を行進し、役所や公園といったポイントを制覇して神社へ到達した。一日は光の速さで過ぎ去り、ホテルのロビーに帰着する頃には足が棒になっていた。それでも、笑顔は途絶えなかった。

「千夏、遠藤さん、お守り出して」

 腰がどこまでも沈みゆくような横長の椅子に、三人で座った。正美の合図で、先程神社で買ったお揃いのお守りを出す。金襴の生地に、それぞれの願いが刺繍されている。正美は学業成就、千夏は恋愛成就、香穂は厄除けのお守りだ。香穂の選択は二人の笑いのツボに嵌ったらしかった。

「これからは三人で、ずっと一緒にいようね」

「うん。もう水谷さんのことなんか気にしない。びくびくしてても、自分が傷つくだけだもん」

 正美と千夏の言葉は慈愛に溢れていた。だというのに香穂は、そこに茉莉絵が絡むだけで下を向いてしまいたくなった。香穂の見る茉莉絵と、正美や千夏が見る茉莉絵との間にある隔たりを、感じずにはいられなかったのだ。

「……うん」

 香穂は煮えきらない返事をして、二人のお守りに自分のお守りを触れ合わせた。


「水谷さん、まだ帰ってこないらしいよお」

 夕食の時間まで部屋で待機、という時分、一階の売店から戻ってきた千夏が言った。さして気にかけた様子を見せない千夏とは裏腹に、香穂の胸は騒ついた。

 詳細を問うと、オリエンテーリング中に班員とはぐれた茉莉絵が未だ帰ってこないらしい。オリエンテーリングの最終終了時刻は午後五時で、現在は午後六時過ぎである。異常事態と言っていいだろう。引率の教師たちは英子たちの証言をもとに、茉莉絵の捜索に出かけたそうだった。

「大丈夫かしら、水谷さん」

 千夏に買ってこさせたラズベリーソーダをラッパ飲みして、正美が窓の外を眺めた。鮮やかな夕陽は地平線に沈みかけ、山には夜の帳が下り始めている。千夏は化粧台に座りポニーテールを解いて、毛先を弄っていた。

「なんかみんなが言うには、わざといなくなったんじゃないかって」

「わざと?」

「自分の我儘で勝手な行動した挙句、迷子になったんじゃないのってこと」

 二人のやりとりを聞きながら、香穂は居ても立っても居られなくなった。今この瞬間、茉莉絵がたった一人で見知らぬ土地を彷徨っているのだ。それは、大変危ういことに思えた。

 だが、自分に何ができる? 夜闇の中へあてもなく突撃しては、香穂も茉莉絵の二の舞になりかねない。そもそも、香穂が捜しに出たところで足手まといになるだけではないか。それどころか、後々教師に独善的な行動を叱られる可能性もある。何より、香穂には茉莉絵を助ける道義がない。茉莉絵は香穂を苦しめた張本人ではないか。

 でも、と香穂は心中で自身を否定する。茉莉絵があの壊れそうな悲しい瞳で、暗がりに取り残されているとしたら。だとしたら香穂にはとても、事態の趨勢を静観していることなどできなかった。何かしたいと、そう思うことを止められない。

「まあ、水谷さんならあり得るかも」

「だよねえ。責任感じてる島岡さんたちが可哀想ってみんな言ってるよ」

 島岡。その名前を思い出して、香穂に光明が差した。英子たちに尋ねれば何がしかの情報が得られるだろう。香穂は急いで立ち上がり上着を羽織って、部屋を出ようとした。

「遠藤さん、どこ行くの?」

 ドアノブに手をかけた香穂の背中に、正美が問うた。香穂は友人に誤魔化しの言葉を吐くことに躊躇いを覚えながら、取り繕うような笑みで振り返った。

「の、飲み物が欲しくなっちゃって」

「えー。さっき千夏に頼めばよかったのに」

「遠藤さんは正美と違って図々しくないのよお。ね、遠藤さん」

「ちょっと、それどういう意味よっ」

 二人の言い合いに苦笑しつつ、さりげなく部屋を抜けた。同階の英子たちの部屋のチャイムを鳴らしたが反応はなく、香穂はエレベーターで各階をしらみ潰しに周り、ようやく一階の自販機前で英子たちを発見した。そこには彼女たちの他に人影はなかった。カーペットの床は足音を吸収して、英子たちは香穂の接近に気がついていなかった。

「茉莉絵さん、大丈夫かしら」

 そう言った綾葉が香穂のいる方を向いたので、香穂は反射的に壁の陰に隠れた。臆病な自分が憎らしい。香穂は頭だけを出して三人を見た。手に汗が滲む。

「大丈夫じゃないわよ。茉莉絵さんって地図読めないし。神社の辺りはスマホも圏外だし」

「でも英子、先生たちには街中の方でいなくなったって言ったんでしょ?」

 悠が言うと、英子は鼻を鳴らしてゴミ箱に寄りかかった。その顔にはせせら笑いが浮かんでいた。

「そうよ。だって、その方が面白いじゃない」

 香穂には、英子の言葉を咀嚼する余裕がなかった。思考は停止した。そんな香穂とは対照的に、綾葉と悠は声を出して笑った。

「英子って本当悪どい」

「なによ。あんたたちだって乗り気だったじゃないの」

「だってあの人に仕返ししてやれるチャンスなんて中々ないしねえ」

「ふふ。綾葉も悠も、あたしの共犯者よ」

 脳が理解することを拒否していた。だがどんなに抗おうと香穂は、何もかも感得してしまった。それは恐るべき真実だった。

 茉莉絵は、英子たちによって置き去りにされたのだ。

「先生たち、見つけられるかしら」

「さあね。でも英子、こんなことして本当に大丈夫なんでしょうね」

 何故、茉莉絵を裏切った。茉莉絵は英子たちの友人ではないのか。どんな時も茉莉絵に付いて回るほど、彼女を思慕していたのではないのか。

 可哀想なのは決して、英子たちではない。

「平気よ。だって父さんが、」

「どうしてそんなことしたのっ」

 香穂はその場を飛び出し、その勢いのまま英子のシャツを掴んだ。突然、思いもよらぬ存在が現れたことに英子たちは唖然としていたが、すぐに軽蔑の表情に変わった。英子は香穂を見下ろし、香穂の腕を振り払った。香穂はバランスを崩して床に倒れた。

「なんなの、遠藤」

「み、水谷さんは貴女たちの友達でしょう。それなのにこんなことっ。冗談じゃ済まされない!」

「はあ? 偉そうに。あんたが何を知ってるって言うのよ」

 英子の嘲りの視線は、先日まで毎日注がれていたものと同じだった。香穂は怖気を必死に殺して、起立した。

「でもっ」

「そんなに心配なら、あんたも捜しに行けばいいじゃないの。ねえ、綾葉、悠」

 三人は目配せをして高笑った。恐怖と怒りと混乱で香穂は後退し、そのまま走り逃げた。

 廊下、ロビー、そしてホテル外へと、香穂の足は回転を止めなかった。駐車場を抜けて減速もせず下り坂を駆けると、とうとう足が縺れて転倒した。ジャージが擦り切れて肉が抉れ、膝が出血した。肘の皮も剥がれて、涙が込み上げた。香穂は右腕で目許を強くこすった。昼間、あれほど陽気で喜びに満ち溢れていたこの坂道が、今はただ寒く悲しい。それでも香穂は立った。茉莉絵がいるであろう神社を、追い求めて。

 どうして自分は、茉莉絵のためにこんなにも夢中になっているのだろう。あの人は自分を滅茶苦茶にした人じゃないか。あの人のせいで自分は追いつめられて、もがいて、生きていることすら嫌になるほどだった。それなのに。

 それでも。

 香穂の受けたものが単なるいじめだったなら、香穂も茉莉絵を心置きなく憎悪しただろう。しかし香穂は、茉莉絵を恨み嫌うことができなかった。茉莉絵は香穂よりも重い苦渋に押し潰されそうになっていることが、分かってしまっていたから。

 香穂の知る茉莉絵は……ジャスミンは、悲しく優しく、とても脆い人だった。他の人間の見ているような、親の権力を笠に好き放題振る舞う独裁者としての茉莉絵は、香穂の中にはもういなかった。だから香穂は、茉莉絵を知りたいと思うのだ。

 ――貴女を知りたいの。

 いつの日かそう言った、ジャスミンのように。香穂は、茉莉絵に近づきたい。

 静寂の山で香穂のスニーカーが暴れ狂う。香穂の口一杯に吸い込んだ空気は冷たくて、塩辛かった。

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