満たされない
迂闊だった。ダイレクトメールのやりとりを見返しながら、茉莉絵は舌打ちをした。
溜息を吐いてスマホの画面から顔を上げても、正面の座席で居眠りする人々の疲れきった表情が見えるだけだった。苛立ちのまま右足を組むと、隣のサラリーマンに一睨みされる。茉莉絵は意にも介さず再びスマホに目を落とした。時間帯の関係か、日曜ながら電車内は空いていた。
これまでオーレリーと交換したメールは百通を超える。最も古いものから最新のものまでを読み直し、何故その正体に気づけなかったのだろうと頭を掻き毟りたくなった。文章の節々は、その送り主が誰であるかを語っていた。読めば読むほど、オーレリーが香穂だと確信できる。ヒントは沢山あったのに。
三軒茶屋の自宅に到着すると、玄関でメイドの紗希の出迎えを受けた。駅前の喧騒から離れた茉莉絵の家は、都会に位置しながらゆとりある庭を持つ、四階建の所謂豪邸だ。白く輝くその建物は、住宅街の中にあって一際存在感を発揮していた。茉莉絵は紗希にショルダーバッグを渡すと、レモンティーを淹れて三階へ来るよう指示した。この家は外壁も内壁も嫌味なほどの白妙で、時々無茶苦茶に汚してやりたくなる。
茉莉絵は玄関脇の飴色の階段を踏みしめ、三階で左に折れた。突き当たりが茉莉絵の部屋だった。茉莉絵は通常一階の食卓と浴場、三階の自室しか利用しない。茉莉絵と紗希、それから住み込みの家政婦二人だけではこの広さを持て余す。驕奢な外見とは裏腹に、この家には何もない。高価な絵画も陶器も、かえって寒々しいのだった。
茉莉絵は十畳の部屋をホワイトとピンクのインテリアで纏めている。体の力みが取れた茉莉絵は、薄桃色の天蓋付きベッドに飛び乗った。うつ伏せから仰向けに転がり、大の字になる。
オーレリーとジャスミン、二人が交流を持ったのはジャスミンがきっかけだった。全ユーザー対象の掲示板で、茉莉絵はオーレリーを見つけた。そこでオーレリーの打ち明けていたいじめが、自分が香穂に行っているものと重なって、どうしてか見過ごすことができなかった。オーレリーが茉莉絵の同性愛を自然に受け入れてくれたことで、オーレリーとジャスミンの関係は途切れることなく続いたのだ。
それは、誘惑を伴う衝撃だった。レズビアン以外の人間と悩みを共有し合うなど、茉莉絵にとって初めての経験だった。茉莉絵はオーレリーとの会話に夢中になり、ついには複数登録していたレズビアン専用のサイトさえ全て退会してしまうほどだった。だが何もかもが、失敗だった。
「茉莉絵様」
ノックとともに紗希の声が聞こえ、茉莉絵は入室を促した。紗希はウールのカーペットをストラップパンプスで歩き、テーブルにティーポットとレモンティーを置いた。淡い薔薇が印刷されたティーカップからは微かな湯気が立っていた。
「来なさい」
茉莉絵は紗希をベッドの端に座らせ、彼女のメイドキャップを剥ぎ取った。それが、合図だった。紗希は茉莉絵の唇を奪い、体を押し倒す。エプロンを床に放って、モノトーンのロングワンピースを煩わしそうに捲った。茉莉絵は紗希の首に腕を絡める。
紗希は茉莉絵専属のメイドであり、従順な使用人だ。茉莉絵が同性愛者だと知った父親、陽一郎は、茉莉絵の矯正を試みた。彼は随分粘ったが、茉莉絵は決して男を愛さなかった。諦めた陽一郎が茉莉絵に宛てがったのが紗希である。陽一郎の秘書である島岡 敏樹が探し出してきた紗希は、二十四でありながら妖艶な魅力を持ち、女でありながら女を愛する人間だった。
「茉莉絵様、レモンティーが冷めてしまいます」
「構わないわよ」
紗希は少しく茉莉絵を見下ろし、それから茉莉絵の首筋に舌を這わせた。紗希の掌が茉莉絵の服を弄る感覚に震えながら、茉莉絵は瞳を閉じた。
ジャスミンがオーレリーに相談し続けた《先生》が桐生雅を指すことに、香穂は気がついたろうか。もし気がついたのだとしたら、どう思ったろうか。
香穂をいじめた表向きの理由は成績だった。香穂の家庭は、あの学園、あの高校の中にあって決して裕福ではない。そんな人間が自分よりも優秀な成績を修めていることが許せないと、香穂からしてみれば勝手極まりない論理でいじめという暴力を働いた。だが本当は、成績などどうでもよかったのだ。茉莉絵が香穂を憎んだのは、ひとえに香穂が桐生の寵愛を受けているからだった。学年最優秀の成績を保持する香穂は、一年次から何かと桐生に愛されていた。茉莉絵は香穂に嫉妬して、集団で香穂を攻撃した。いじめの被害者となった香穂は益々桐生に庇護された。
そしていよいよ先日、茉莉絵は桐生に呼び出され、香穂へのいじめについて追及されたのだ。その瞬間、恋しい相手は憎悪の対象となった。他の教師に追従せず、茉莉絵を叱責する桐生を心底愚かだと思った。初めは、茉莉絵を特別視しない桐生の姿勢に惹かれたはずなのに。
「茉莉絵様、」
紗希が蕩けた声色で呟いた。紗希との行為にも、当初感じられた甘美な陶酔感は失われていた。紗希の儚い息遣いだけで疼いた体も、今はただ本能的な熱を芯から溢れさせるだけなのだった。
恋した相手を愛しきれない。誰かと体を重ねていても満たされない。きっと自分が真の安寧と幸福を得る時など訪れないのだと、茉莉絵は思う。
紗希が出ていってから口を付けたレモンティーは、やはり冷めきっていた。
眠りの浅い夜を過ごして翌日、茉莉絵は登校した。昇降口から階段を上がって二年三組へ向かう。教室のドアを開けるとすぐ、中央で英子たちに囲まれる香穂の姿が目に入った。刹那的に香穂と交差した視線は、茉莉絵から逸らした。
「おはよう、茉莉絵さん」
英子の手招きに誘われ教壇に上る。教卓に鞄を置いて、両肘をついた。教室全体を見回せば、クラスメイトは茉莉絵に畏怖の瞳を差し向けていた。茉莉絵自身には支配欲も権力欲もない。ここからの眺めは嫌いだが、今更この立場から逃避することもできなかった。
「聞いて、茉莉絵さん。遠藤のやつ、私たちが頼んだ課題をやってこなかったんですって」
「ご、ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないわよ。提出は今日よ。どうするつもり?」
「今からやりなさい。ほら早く」
「鈍臭いったらありゃしないのよ、あんたは」
英子に追随して綾葉と悠も香穂を責め立てた。三人に取り囲まれ身動きの取れない香穂は、縮こまってペンを手にした。彼女は茉莉絵を一瞥もせず、怯えた様子で作業を始めた。平時通りのその態度が、茉莉絵の癪に障った。
何故、何も仕掛けてこないのだ。
「やめなさいよ」
思わず声を荒げると、教室が凍りついた。全ての人間が息を止め、茉莉絵を注視していた。茉莉絵には空間のみならず時間をも操作する力があった。とりわけ英子は驚愕したように目を見開き、教壇のそばに駆け寄ってきた。
「ど、どういうこと茉莉絵さん」
「もう飽きたの、こんな下らないこと。だからやめにするのよ」
英子の動揺は彼女の全身に表れた。唇を噛みしめる英子を置き去りにして、茉莉絵は香穂の席へ歩み寄る。呆然と硬直する香穂から自分の課題を取り上げ、席に着いた。教室は恐ろしいほどに静まり返り、たった今目の前で起こった出来事の意外性を強調していた。
クラスメイトたちは、茉莉絵がいじめを始めたのも終わらせたのも、茉莉絵の気紛れだと考えるだろう。だが、そうではない。飽きたというのは嘘だった。茉莉絵は香穂に抱くはずのなかった感情を憶えており、それは恐れであった。
この神楽条学園は完全な女子校でありながらも、同性愛者は忌むべき異端である。学園の多数派である大企業や医者、弁護士の娘には婚約者がいたり、社交を通して男性慣れした者がほとんどであった。稀に現れる同性愛者は世間と同じく共同体から疎外され、白眼視される。現在はこの学園を統馭する茉莉絵でも、仮に同性愛者であることが広まればどうなるか分からないのだ。故に香穂は、茉莉絵の最大の瑕疵を握ったことになる。
今朝、茉莉絵は自らの秘密が既に氾濫しているのではという疑念とともに校門を跨いだ。これまで香穂に行った仕打ちを思えば当然の懸念だった。しかしいざ校舎をくぐれば、英子はいつも通り香穂を攻撃していて、香穂はそれに抵抗せずにいた。先週までと何も変化はなく、茉莉絵はやはり権力者だった。それが不気味で仕方なかった。香穂が何を企んでいるのか図りかね、茉莉絵は衝動のまま叫び出したかった。今すぐ香穂に詰め寄り聞き出してやりたかった。お前はいつ私を貶めるつもりなのだと。だが理性はそれは阻む。
香穂は、混乱と当惑に侵された茉莉絵を嘲笑っているのではないか。香穂の幻影は、茉莉絵の頸部を鋭利な爪で抉り、ぐちゃぐちゃにした。
世俗の人間は、水谷陽一郎とその家庭は朗らかで順風満帆だと思い込んでいるのだろう。報道番組の街頭インタビューでは、陽一郎を盲目的に慕う声が度々取り上げられる。そのような人々が真実を知ったなら、一体どうなるだろうか。陽一郎とその妻の冴が愛し合っていないこと。陽一郎には愛人がいて、冴は別の男を作り家を出ていったこと。そして娘が、同性愛者であること。大衆はそれらを知る機会を持たない。テレビや新聞の中の雄弁な陽一郎に幻想を抱き、自分の都合に合わせて彼を捉えるのだ。
その夜、赤坂のマンションで生活している陽一郎が、二ヶ月ぶりに三軒茶屋の自宅に帰ってきた。紗希に陽一郎の来訪を告げられた茉莉絵は、渋々自室を出て一階の客間へ下りた。普段利用のないその部屋も、家政婦の掃除が行き届いていて塵一つない。ペルシャ絨毯の上に設置された革張りのソファに深く腰掛けていた陽一郎は、茉莉絵を認めると軽く手を挙げた。彼の傍らには秘書の敏樹と安永拓斗が立っていて、思わぬ存在に茉莉絵は顔をしかめる。後手に扉を閉め、陽一郎の向かいに座った。
「久しぶりだな、茉莉絵」
陽一郎が低く、しかし明瞭な、独特の声音で言った。茉莉絵は答えない。拓斗は不敵な笑みを浮かべながら、陽一郎の隣に腰掛けた。
「さあ、僕らは出ていましょうか。紗希さん」
敏樹はそう言って、茉莉絵の背後に控えていた紗希の肩を抱いた。下卑た表情で紗希に触れる敏樹は、下心を全く隠さない。背広の中年と若々しいメイドはひどく不釣り合いだ。紗希が反抗できる立場にないことを悪用した敏樹のやり方に、茉莉絵は日頃辟易していた。敏樹のような男が陽一郎の秘書である事実は大変不快であり、陽一郎に対する不信感も増す。さらに、敏樹が英子の父親であることが嫌悪感に拍車をかけていた。敏樹は妻が故人であり、紗希に手を出そうと倫理上問題はないのだが、茉莉絵は許容できなかった。紗希も、敏樹を不愉快に感じているに違いない。
敏樹と紗希が客間を後にすると、陽一郎は茉莉絵と拓斗に本題を切り出した。近く新宿のホテルで議員交流会が開催されるため、茉莉絵と拓斗も粗相のないように参加しろとのことだった。三年前、弁護士から衆議院議員に初当選した陽一郎は、そういったパーティーを重視している。四十二でありながら整った容貌、聞き映えのする演説、世渡り術が功を奏して、陽一郎はすぐに国民の人気を集め、野党第一党の政調会長に就任した。メディアから透かして見る陽一郎の自信過剰な表情が、茉莉絵は大嫌いだった。
用件だけの短い話が終わると、陽一郎は早々に客間を出ていった。茉莉絵もそれに続こうとして立ち上がる。
「またやけに不機嫌だな」
茉莉絵の背中に、拓斗が言った。茉莉絵は振り返らず、扉口へ進む。ドアノブを掴んだ瞬間、茉莉絵の体を灰色の影が覆い尽くした。拓斗が茉莉絵を挟み込むようにして両手を扉に付き、茉莉絵の耳許に顔を寄せた気配があった。
「無視するなよ。兄妹だろ、俺たち」
囁きと漏れる吐息が茉莉絵の耳を掠める。強烈な拒否反応から、茉莉絵の全身は粟立った。
「あんたなんか、知らないわよ」
「そう言うなって。まあ、お前がどう言おうと俺はお前の兄貴だけどな」
「……気持ち悪いのよ、あんた」
「本当に素直じゃないな、お前」
拓斗は陽一郎が愛人に産ませた子供だった。所謂隠し子であるが、陽一郎の周辺の議員たちには実子として認知されているらしい。陽一郎と冴が本人たちの意思に反して結婚させられる前に産まれた拓斗は、現在大学生だ。日常生活では母親の姓を名乗っている拓斗だが、陽一郎の要請があると水谷を名乗りパーティーに出席している。冴が男児を出産しなかったために、陽一郎は拓斗を後継者として育てようとしているのだ。拓斗は秀出した容姿を備えた上、社交的な性格であるが、女をたぶらかす性質を持っている。茉莉絵が拓斗に忌避感を抱くのは、それが原因だった。
拓斗の指先が茉莉絵の顎を捕らえた。逃れようとしたが手遅れで、茉莉絵は強引に拓斗の方へ顔を向けられた。
「まあ、生意気な女を調教してやるのも、嫌いじゃねえけど」
その発言に、吐き気すら催した。茉莉絵は拓斗を思いきり突き飛ばすと、扉を大きく開け放って部屋を走り出た。玄関まで戻り階段を一段飛ばしで駆け上がる。手の甲で幾度も顎を拭い、込み上げてくる汚物を飲み込んだ。
二階と三階の間の踊り場を通りかかった紗希の腕を引き、自室に押し込んで荒々しく口づけた。茉莉絵は紗希をベッドに組み敷いて、男の臭いを浄化した。
五月末、神楽条高校二年は二泊三日の林間学校のため郊外へ行く。今日、昼食後の五限はそれについてのグループ作成と計画作りだった。茉莉絵は英子ほか普段のメンバーで固まり、教室後方、窓際を陣取った。四人で机を向かい合わせ、グループになる。林間学校の期間はグループを基本として行動する決まりだ。
「林間学校のホテルなんてボロ小屋と大差ないんでしょうね」
茉莉絵の正面に座る英子が毒づいた。背中が暑いと言って勢い良くカーテンを引いた英子を、茉莉絵は頬杖をついて見ていた。座り直そうと背凭れを掴んだ英子が、何か醜悪なものを見つけたように眉根を寄せた。
「どうしたの」
「見て、茉莉絵さん」
英子が顎先で茉莉絵の後方を指し示した。茉莉絵が見ると、香穂の周りに二人の人物が立っていた。クラスの中でも目立たない集団に所属する、葛城正美と横山千夏だった。二人は香穂に笑いかけて何かを話し合っていた。此方から香穂の顔は窺い知れない。
やがて二人は香穂の前に座り、グループの形を取った。つまり、香穂はグループ作成において一人きりにならなかったのである。茉莉絵のいじめが続いていたら、絶対にありえない現象が起きていた。
「ねえ茉莉絵さん。あいつ、また調子に乗るんじゃない」
英子が棘のある口調で言った。茉莉絵は香穂の背を睨んでいたことを自覚して、体の向きを戻した。英子は身を乗り出して茉莉絵に語りかけていた。
「本当にいいの? やっぱり、もっとあいつに思い知らせてやった方が」
「……いいのよ」
あの悪夢のような出来事から数日、香穂から茉莉絵へはやはり何のアプローチもなかった。このまま香穂は何事もなかったように振る舞うつもりなのか。どこにあるのか不明な香穂の真意に、茉莉絵はこの先も警戒せねばならないのか。
「茉莉絵さん、お父様にお話しして遠藤を辞めさせればいいんじゃない。桐生雅みたいに。ねえ、英子」
「そんな簡単なことじゃないのよ。茉莉絵さんのお父様は議員さんでしょ? あたしの父さんが言うに、いつどこでこの学校の生徒や親に関わるか分からないわけ。手を出せないらしいの」
「そうねえ。何の影響力もない桐生雅だからこそできたのかもね」
敏樹からの受け売りである英子の解説を、綾葉と悠は感心したように頷いて聞いていた。英子は得意気になってツインテールの片側を撫でていた。茉莉絵の憂いなど知る由もない三人の暢気な会話が鼻につき、茉莉絵は右のつま先を忙しく上下させた。
「もういいって言ってるでしょう。しつこいわよ、あんたたち」
茉莉絵は形容し難い怒りに襲われていた。どうしても理解できなかったのだ。茉莉絵は香穂を散々に痛めつけてきて、香穂はその茉莉絵の弱味を握った。普通なら仕返しをして然るべきではないか。いじめの首謀者を陥れたいと考えるのが当然ではないか。もしや、もっと最悪のタイミングでばらまいてやろうと機会を待っているのだろうか。茉莉絵は、そうやって考えを巡らせるほど迷宮に沈み込んでいった。
担任が教室に入ってきて、グループごとに計画表を配布した。男の武骨な手が、プリントを一枚一枚机に置いていく。そんな担任の姿をぼんやり観察していると、不意に香穂が茉莉絵を見返った。視線が交錯する。香穂のブラウンの瞳は純朴に輝き、茉莉絵を見透かしているようだった。茉莉絵は歯軋りした。
何もかも、思い通りにならない。