消える
連日の雨を受け、ニュース番組はいよいよ梅雨の時期が到来したと伝えた。天気図に、日本列島にどっしりと横たわる梅雨前線が表示される。なんだかそれは、今の自分のように図々しいと茉莉絵は思った。
香穂との喧嘩からもう二週間ほどが経っていた。茉莉絵は自らの決断を先延ばしにして、欲望のままに香穂のそばにい続けた。己の弱さを自覚した茉莉絵は、もう強いて抗おうとはしなかった。自然に別れられる日が、いや別れるしか方法がなくなる日が、遠からずやってくる。茉莉絵は、それを待つことにした。
「えへへ」
ベッドに寝転がった香穂が、右手を掲げて奇妙な笑いを漏らした。窓辺に立っていた茉莉絵は、移動して香穂のベッドに腰掛けた。
「よく飽きないわね、あんた」
「飽きるわけないよ。だって、とっても素敵なんだもん」
香穂は起き上がり、茉莉絵の右手を引き寄せた。茉莉絵の薬指にはルビーの指輪があり、香穂にも同じ場所にダイヤモンドの指輪が光っていた。茉莉絵の指輪は林間学校の時分のものであり、香穂のものも先日購入した格安品である。それでも、お揃いのハートを象った石は、本物に届こうとして輝いていた。
「あんたの誕生日、四月だったのね」
「そうなの。結構早いでしょう? 新学期が始まってあたふたしてると、あっという間に過ぎちゃうの」
香穂が茉莉絵の手を持ったまま再び倒れ込んだため、茉莉絵もその隣に寝そべった。
「四月の私に今の私たちのこと話しても、きっと信じてもらえないだろうな」
「…………」
「でも嬉しかったなあ。茉莉絵ちゃんがこの指輪、ポシェットに入れて持ち歩いてくれてたなんて」
香穂の言葉は常に直球だ。それは茉莉絵の感情を浮かせもし沈ませもする。茉莉絵は香穂とは反対側に顔を背けた。ベッドには香穂の香りが染みついていた。ここは最初のホテルからはだいぶ格落ちしたビジネスホテルだが、少し硬いベッドも味気ない朝食も、不思議と不快ではなかった。
ふと髪に触れられた気がして、茉莉絵は振り返った。香穂は微笑して、茉莉絵の毛先を摘んで撫でていた。
「一番嬉しいのは、こうして茉莉絵ちゃんといられることだけど」
茉莉絵は髪を慈しむ香穂の手を見つめた。ダイヤモンドは、少女の手には少しちくはぐだった。だが、香穂にはダイヤモンドが釣り合うような、《女》になってほしくはなかった。
「ねえ、ルビーの石言葉って知ってる? 威厳とか熱情、純愛だって。本当に茉莉絵ちゃんにぴったり」
「……あんたのは?」
「ダイヤモンドは純潔とか無垢とか。あはは、なんだか大袈裟だよね」
それならば、香穂の石言葉の方が遥かに香穂に似合っている。香穂は正に純潔で無垢だが、茉莉絵には純愛なんて程遠い概念だ。
外は昨日や一昨日にも増して酷い雨だった。外出を諦めた二人は、フロントで借用したパソコンで物件情報を漁った。香穂が良物件を探し出して提案すると、茉莉絵は首を振る。絶対に決まることはない物件探しだとは露知らず、香穂は楽しそうに、だが真剣に吟味していた。茉莉絵は後ろめたさを感じながら、本当に住むことができたらいいのにとさえ思ってしまっていた。長く続けることを禁じられた二人の関係では、叶わない。
やがて夜が来て、茉莉絵はベッドから下りてカーテンを閉めた。夕食は香穂がパソコンの返却とともに調達してくると申し出たため、任せた。
一人きりで手持ち無沙汰となった茉莉絵は、ホテルの名前が印刷された備品のメモ用紙を千切って、ペンを取った。机の脇のスタンドを灯して、頬杖をつく。題材となり得るものを複数思い浮かべて、一つに絞ると、ペンを走らせた。描かれていくのは、自らの指輪だった。茉莉絵はペンを香穂のものに持ち替えると、茉莉絵の指輪の隣に香穂の指輪を描いた。惹き合うように向かい合ったそれらを見て、茉莉絵は勢い良く完成品を丸めて捨てた。胸に残る虚しさは消えなかった。今は、玩具に縋ることでしか二人の結びつきを表すことができないなんて。
茉莉絵は、ポシェットから四つ折りの紙を出して広げた。茉莉絵の似顔絵だとして香穂から捧げられたもの。茉莉絵はそこにいる人物を茉莉絵だと思い込もうとした。虚しさは加速した。
十分ほどで戻ってきた香穂は、ホテル近くのコンビニ袋を持っていた。茉莉絵用にはサラダスパゲティ、香穂用にはカルボナーラとサンドウィッチだった。茉莉絵がサラダスパゲティの蓋を開けた時、香穂は袋から見慣れないものを取り出した。苺のショートケーキだった。
「茉莉絵ちゃん、今日お誕生日だよね」
香穂はそう言って、茉莉絵の前にケーキを置いた。茉莉絵はぽかんとして香穂を見上げた。
「あんた、なんで知ってるの」
「交換日記の初めのページに、自己紹介書いてくれてたでしょ?」
香穂は茉莉絵の隣に椅子を運んできて、座った。
「お誕生日おめでとう、茉莉絵ちゃん」
自分自身忘れていたことを、香穂が覚えていた。茉莉絵は、香穂の自己紹介ページを確かに読んだのに、彼女の誕生日が思い出せないことを恥じた。
「誕生石の話をしちゃったから思い出しちゃうかなって心配だったけど、茉莉絵ちゃんずっと忘れてたみたいで良かった。どうせなら驚かせたいもんね」
大したものじゃないけど、と香穂は笑って、カルボナーラの蓋を取った。礼を言おうと開いた茉莉絵の唇は、ありがとうの言葉を紡ぐことなく閉じた。茉莉絵はこれまで、香穂に感謝を述べたことがないことに気づいた。
「茉莉絵ちゃんより私の方がお姉さんだなんて、なんだか変な感じだな」
コンビニのスイーツなど勿論奇想天外な味がするでもなく平凡に甘くて、可もなく不可もない味わいであった。茉莉絵は意識して機械的にプラスチックのスプーンを動かした。名状できない感情が喉元にまで込み上げてきたが、ケーキを飲み込むことでそれを押し流した。
昨年の誕生日はどうしていたのだろう。どうせ名のある店のケーキを食べたのだろうが、何の記憶もなかった。
「あ、茉莉絵ちゃん」
香穂の指先が茉莉絵の頬に触れた。茉莉絵の体に電気が走ったような衝撃と爆発する熱が同時に襲い、茉莉絵は左手で太腿に強く爪を立てた。血が溢れて、ワンピースをじわりと染めた。
「えへへ、付いてたよ」
香穂の指先には雨粒のような生クリームが付着していた。香穂はそれを躊躇いもなく口に含み、茉莉絵を誘うように舌で舐め取った。茉莉絵は再び、太腿の別の箇所を爪で抉った。
香穂は自分を救出する存在でもあるが、じっくりと自分をなぶり殺す存在でもあるのだと、茉莉絵は思った。
「あ、その絵!」
香穂はサンドウィッチを食しながら、茉莉絵の傍らにあった紙を手にした。
「思いきり下手くそって言われちゃったやつなのに、まだ持っててくれたんだね」
香穂は自分で描いた似顔絵を見て、嬉しそうだった。ケーキを食べ終えた茉莉絵は、胃袋をサラダスパゲティで上書きせず、蓋をして端によけた。
「そうだ。ケーキだけじゃ心もとないし、また似顔絵描いてもいい? プレゼントというよりは押しつけになっちゃうけど、また描きたいな」
イラストの練習も沢山したし、と香穂は茉莉絵は覗き込んだ。茉莉絵は香穂の瞳を捉え、瞬きもせず見つめた。香穂は僅かに戸惑いを見せた。
「本当に、描いてくれるの」
茉莉絵は言った。香穂は、間を置いて頷いた。
「描きたい。茉莉絵ちゃんを」
「今度こそ、私を描いてくれるの?」
香穂は茉莉絵の発言の意味を理解できない様子だった。茉莉絵は歯軋りをした。
「私を見て。私を描いて」
「え……で、でも、これも茉莉絵ちゃんだよ。あ、凄く下手くそだけど、その」
「これは私じゃない!」
茉莉絵は叫んだ。香穂から目を逸らした茉莉絵は膝の上で拳を作り、震わせた。己を憐れむもう一人の自分を追い出して、全てを曝け出せば香穂は茉莉絵を見てくれるのだろうか。香穂の視界の中に、いつだって茉莉絵はいない。
「私と一緒にいたいって言ったのはあんたでしょう。あんた、私の何を見てるの」
「茉莉絵ちゃん、」
「私を見なさいよ!」
茉莉絵は立ち上がって、香穂の顔を挟み自分の方へと向けた。茉莉絵の手の中にいる香穂の瞳には、確かに茉莉絵の姿が映っている。だが香穂のフィルターは、茉莉絵を別のものに変えて認識してしまう。
茉莉絵は香穂に、水谷茉莉絵そのものとして見てほしかった。香穂に対して何かを要求するとすれば、それだけだった。
「……私を、見てよ。遠藤」
「…………」
「ねえっ」
茉莉絵は香穂を激しく揺さぶった。香穂はただ呆然とするだけで、頷くことも声を発することもしなかった。茉莉絵は唇を噛みしめて香穂を放した。
「……あんたは、私なんてどうでもいいのよ」
茉莉絵は堪らなくなって、急いでベッドにくるまり固く目を閉じた。瞼の奥から涙が押し寄せた。惨めとは、今の自分を言うのだろうと思った。香穂は何度も茉莉絵に呼びかけていたが、次第にその声も遠のき、彼方で霧散した。
茉莉絵の目が覚めた時、ベッドの枕側にある電子時計は午前三時過ぎを表示していた。室内は暗く、机のスタンドだけがぼんやりと淡く光っていた。隣のベッドにいる香穂も、流石に眠っていた。起こさないようにそっと覗くと、香穂の目許は赤くなっていた。茉莉絵はまた、香穂を泣かせてしまったのだった。
布団を剥ぐと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、呷った。ベッドに戻るとシーツに微かな血が付いていたが、太腿の出血はもうかさぶたになっていた。
茉莉絵は腰掛けて足を組み、香穂の寝顔を眺めた。安らかというよりは苦悶が浮かんでいる気がした。薄明かりに照らされた悩ましげな表情は、茉莉絵の蓄積された欲望を表に引きずり出した。
茉莉絵は、遠慮がちに香穂の頬に触れた。香穂は小さく反応して寝返りを打った。此方側に向いた香穂の髪をひたすらに撫で、指先で弄んだ。香穂の唇に親指を這わせた茉莉絵は、微かに開いたそこに爪の先を押し入れた。香穂の唾液の感触を知ると、弾かれたように立ち上がってトイレに駆け込んだ。荒い呼吸を整えて便座の上に座る。おののく親指を見つめ、恐る恐る口に含んだ。香穂の体液を確実に舐め取り、爪を思いきり噛んだ。
そのまま自らを慰める行為に及んだ茉莉絵は、トイレを出た時、何も後悔していないこと、罪悪感が湧かない自分が空恐ろしかった。茉莉絵は机に向かって、ペンを握りメモ用紙を引き千切った。
文章を書くのは得意ではなくて、香穂との日記や手紙でも毎度頭を悩ませていた。それが今は、少しの迷いもなく思いを綴っている。それを実感して、これから決行することは間違っていないのだと思った。
それほど長くはない手紙が完成したのは、午前五時に迫った頃だった。
「……これで、いいのよ」
そう呟いた茉莉絵の頬に、カーテンの隙間から木漏れ日が射した。茉莉絵は香穂を起こさない程度にカーテンを開けた。空は、数日ぶりの快晴だった。茉莉絵の頬が、自然に綻んだ。
次に茉莉絵は、鋏を持って洗面台に向かった。いつだったか、ラインストーンによるデコレーションが気に入って購入したものだった。結局今まで未開封だったそれを開けて、左耳の下の髪を鷲掴み、そこに躊躇なく刃物を挿し入れた。寸断された大量の黒髪を、茉莉絵はビニール袋に捨てた。反対側の髪の毛も同じように切って、捨てる。出来上がった、少し乱れた雑なボブは、香穂の髪型に似ていないこともなかった。
茉莉絵の艶やかなロングヘアが香穂はいたくお気に入りのようで、毎日触れていた。香穂の感触とも、これで永久に別れることだろう。自慢の髪を切るという行為は、まるで『若草物語』のジョーのようだなんて、そんなことを考えた自分はだいぶ香穂に影響されているのだろうと茉莉絵は思った。
ビニール袋を持って部屋に戻った茉莉絵は、思案の末それをポシェットに押し込んだ。ゴミ箱などに無造作に捨てては、清掃員にそこはかとない嫌悪感と恐怖心を与えてしまうことだろう。
そうしてから茉莉絵は、再び香穂の寝顔を覗いた。先程よりはだいぶ穏やかで、口角も上がっている。茉莉絵という現実の呪縛から逃れた夢の世界で、香穂を笑顔にするものはなんだろう。問うまでもなく、茉莉絵は答えを持っている。だがもしたった一度でも、茉莉絵が香穂を笑顔にできた瞬間があったなら、それだけで満足だ。
「私を見てほしかったのは本当よ、遠藤」
茉莉絵は言った。香穂には届かない。茉莉絵は、踵を返してポシェットを肩に掛けた。やるべき仕事を全て済ませると、最後に、メモ用紙に書いた手紙を携えた。茉莉絵は、今度は香穂の足許に立った。
「まだ起きないの。本当に暢気ね、あんたは」
茉莉絵はくすくすと笑った。香穂からの返答は、やはりなかった。
「ねえ。私、あんたがいなかったら死んでたかもしれない。……冗談だけど」
だが、命が尽きたとしてなんの心残りもなかったであろうことは事実だ。行方知れずの陽一郎も、娘より愛人が大事な冴も、ただ血の繋がりがあるだけで茉莉絵がいなくなろうと悲しまないだろうし、二人が亡くなったとしても茉莉絵は悲しみを覚えない。紗希も英子も拓斗も、茉莉絵がこの世にいる理由にはなり得なかっただろう。
――誰にも好かれない、憐れな人間のくせにっ。
――貴女は誰からも愛されない、汚い女なのよ。
その通りだ。茉莉絵は、とにかく誰かに自分だけを愛してほしいともがいていた。だがそんな願い、叶えられるはずもない。愛する人がたった一人しかいない人間なんて、どれだけ存在すると言うのだろう。
香穂は父親と母親を愛していた。茉莉絵はそんな香穂に、自分だけを見ろと要求した。どれだけ我儘なのだろう。叶わなくて当然ではないか。
「……あんたといるのも、悪くなかった」
香穂も言っていたが、こんなことは桐生雅を想っていた当時の自分に話しても、到底信じてはもらえないだろう。人間は、あまりにも簡単に変わってしまう。
「じゃあね、遠藤」
返事はない。窓からは、更に強い陽光が射し込んで香穂を包んでいた。茉莉絵は部屋全体を見渡して、そのどれもにある香穂との思い出を胸に閉じ込めた。絨毯を歩き、廊下へと出るための扉の前で、立ち止まった。もう一度香穂の顔を見たいと欲求する自分を押し殺して、茉莉絵は取っ手に手をかけた。
「ばいばい。……香穂」
初めて紡いだその響きはくすぐったくて、茉莉絵にはひどく不釣り合いだった。茉莉絵は苦笑して、扉を開けた。