温かすぎる手
近場の東京駅に飛び込んで、夢中になって走っていたら辿り着いたのは一つの喫茶店だった。茉莉絵は入口の前で息を整えながら、口許に手の甲を当てる。外はいつの間にか土砂降りになっていて、白レースのワンピースはかなり濡れた。それでも喫茶店は外界の湿気も蒸し暑さも感じさせず、静かに佇んでいた。茉莉絵はゆっくりと扉を開けて入店した。
なんでもない平日朝の喫茶店は客の姿がほとんどない。カウンター越しに座っているマスターは気怠げに茉莉絵を見て、すぐに目を閉じた。茉莉絵は最奥のテーブル席を見遣り、誰も座っていないことを確認すると、そこに腰掛けた。椅子の座り心地も、少しささくれ立ったテーブルも、あの時と何も変わっていなかった。オーレリーが香穂だと知ってしまった、あの時と。茉莉絵はテーブルに突っ伏した。
唯一、茉莉絵に温かな感情を注いで、それを茉莉絵にも教えてくれようとした香穂を、傷つけてしまった。茉莉絵は自ら、ただ一人になる道を切り拓いてしまったのだ。康隆にあるのは身内への愛情というよりは、同情だろう。同情は嫌いだが、茉莉絵を思慕してくれた香穂を失った今、もう本当にそれに頼るしかない。
あの時オーレリーと会おうとしてしまったのは、桐生雅への想いがあまりにも呆気なく憎悪に転じたことに自分でも驚き狼狽し、恐怖さえ感じたからだった。あの時、自らの変化を消化できていれば、こんなことにはならなかった。
オーレリーを香穂と知らぬまま傷つけたあの頃と、知ってから傷つけた今日。傷に大小なんてないのだろうが、茉莉絵にとっては今日一日が、過去何ヶ月と与え続けてきた傷への後悔より大きかった。
茉莉絵は目を閉じた。うつ伏せていると長い髪が前に流れテーブルに落ちるのが分かる。だが、香穂が結んでくれたあのハーフアップを作り直そうとは、思えなかった。
肩を揺さぶられて茉莉絵が目を覚ました時、喫茶店内の音楽はクラシックからジャズに切り替わっていた。体を起こした茉莉絵の目の前に座っていたのは、振り切ってきたはずの香穂だった。動揺した茉莉絵は意味もなく腕時計を見た。ホテルを飛び出してから二時間ほどが経過していた。
「茉莉絵ちゃん」
香穂に呼びかけられたが、茉莉絵は顔を上げられなかった。罪悪感と羞恥心は茉莉絵の頬を赤く染めた。両の手指を絡ませていると、茉莉絵の視界に一枚の紙が入り込んだ。テーブルに置かれたそれは、ビジネスホテルにあったメモ用紙だった。
「茉莉絵ちゃん、ごめんなさい」
香穂の声は消沈していた。また泣きそうに顔を歪めているのだろうと、確認せずとも分かった。茉莉絵は謝罪すべき対象に謝られ、そのようなことをする香穂にまたえもいわれぬ怒りを覚えたが、唇を噛んで押し込めた。メモ用紙を手に取り、そこにクリーム色で綴られた文章に目を落とした。
茉莉絵ちゃん、ごめんね。
先程の香穂と同じ台詞から、手紙は始まっていた。
何を言っても言い訳にしかならないかもしれない。でも私、茉莉絵ちゃんが嫌だったわけじゃないの。本当はもっとやり方があったのかもしれないけど、さっきは驚いて、あんなことしかできなかった。
嫌だったわけじゃない、なんて。その気もないくせに、思わせぶりな慰めだと茉莉絵は思った。
それに、駄目だって思ったから。私、茉莉絵ちゃんといると、時々自分がすごく汚い人間に思えるの。茉莉絵ちゃんがあまりにも綺麗だから、私なんかに触れたら茉莉絵ちゃんまで汚くなっちゃうような、そんな気がした。だからさっきは、思わず突き飛ばしちゃって。
手紙を最後まで読まないまま、茉莉絵はそれをぐちゃぐちゃに丸めた。香穂を思いきり睨みつけても、香穂はただ悲しげに笑みを作るだけだった。
「馬鹿じゃないの!」
茉莉絵はメモ用紙ごと、両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。ジャズが鳴る以外は静まっていた喫茶店内に、茉莉絵の声が反響した。二、三人の客とマスターが茉莉絵に視線を投げたので、茉莉絵は気恥ずかしさとともに椅子に座り直した。香穂は驚いた様子もなく、茉莉絵の罵りを全てを受け入れようとするかのように穏やかだった。それが、茉莉絵の苛立ちを更に走らせた。
「なんなのよこれ。なによごめんって。汚いって、あんたそんな風に考えてたの」
「……うん」
「ふざけないで!」
香穂が汚いなど、あろうはずがない。汚いのは茉莉絵なのだ。汚い自分が純真な香穂を穢そうとした。ビジネスホテルでの出来事は、ただそれだけを意味しているというのに。
茉莉絵は最早、怒りの対象が定まっていなかった。何の咎もないのに頭を下げる香穂も腹立たしかったし、そんなことをさせている己にも沸々と怒りが湧いた。
「あんたが汚いってことはね、あんたに触れようとした私も汚くなるってことなの。私をこれ以上汚い人間にしないで」
「茉莉絵ちゃんは汚くなんか、」
「汚いのっ。自分でよく分かってるのよ。だから、だからやめなさいよっ」
茉莉絵は丸めたメモ用紙を引き裂いた。紙の破れる音が鋭く茉莉絵に刺さった。細切れになったメモ用紙は、香穂に向かって粉雪のように降り注いだ。
茉莉絵は、自らが涙していることに恥辱を覚えた。香穂の前で泣くのは、二回目だった。
「あんたは汚くなんかないのよ!」
茉莉絵は、紙切れと嗚咽とともに香穂への不満を撒き散らした。香穂は呆然と涙を流していた。茉莉絵は剥き出しの白い腕で、自分の熱い雫を拭った。
自分はなんて醜いのだろう、と茉莉絵は思う。泣いている香穂に優しくするどころか、責めるような言い方でしか思いを伝えられない。自分はやはり、香穂のそばにいるべきではないのだ。
「……茉莉絵ちゃんっ」
香穂は、人目も憚らずに大きな泣き声を上げた。茉莉絵はその勢いに負け、香穂を見つめた。香穂は時節ハンカチや手の甲で涙を拭き取りながら、言った。
「私、私茉莉絵ちゃんに嫌われたくなくて、でも茉莉絵ちゃんを怒らせちゃって」
それは、香穂の悲痛な胸の内を吐露する言葉だった。
「こんな人間じゃ駄目なのに、茉莉絵ちゃんのそばにいたくて。いてほしくてっ。ごめんね、ごめんね茉莉絵ちゃん」
赤子のように涙を零す香穂は、先程のような女の姿ではなく、少女そのものだった。茉莉絵は少しく安心したが、自分は何度香穂を泣かせるのだろうと歯噛みもした。結局茉莉絵は香穂を見守ることしかできず、香穂の涙が収束するまで、俯いて拳を握っていた。
ひとまずは泣きやんだ香穂は鼻を啜って、言った。
「茉莉絵ちゃん。……行っちゃうの?」
瞼を真っ赤に腫らした香穂から、茉莉絵は目を背けた。
香穂の隣にいてはいけない。茉莉絵は、既に決断していた。
茉莉絵は香穂を傷つける一方だ。恐らくそれは、この先も変われないだろう。茉莉絵が消えれば、香穂は温和な父親のもとに、そして最愛の母親のもとに戻ることができる。静穏に眠り、笑うことができる。
分かっている、けれど。
「……行かない」
茉莉絵が呟くと、香穂はあからさまに表情を明るくした。テーブルに備え付けられていたナプキンで豪快に鼻をかんだ後、茉莉絵に見せた笑顔は普段通りに輝いていた。茉莉絵は心臓を力尽くで握り潰される感覚を覚えた。
嘘を、吐いた。いずれ香穂に突きつけるべき真実を隠し、目先の喜びだけを与えてしまった。今、手を伸ばせば届く距離にある笑顔は、遠くないうちに茉莉絵によって奪われる。それでも茉莉絵は、香穂の涙をこれ以上見ていたくなかったのだった。
「ありがとう、茉莉絵ちゃん」
そう言った香穂は、はにかんだ。返すべき笑顔を持たない茉莉絵は、突き刺すような胸の痛みに耐えた。
「私、もっともっと茉莉絵ちゃんの力になれるように頑張る。絶対、素敵に変わるから。だから茉莉絵ちゃんは、何も心配しないで」
茉莉絵はただ怖かった。香穂の温もりなしで生きる自分の姿が、想像できなくなり始めていた。香穂の慈愛が自分に向けられているのではないと知っていて、香穂に縋りついていたくなるのだ。だからこそ一刻も早く、香穂から離れなければならないのに。
「私必ず、茉莉絵ちゃんを守れるような人になるよ」
香穂が微笑んでそう宣言した時、二人のテーブルに二つのアイスティーが置かれた。見上げると、寝ぼけ眼のマスターが立っていた。腰に巻かれたエプロンには店名の印字があり、微かにブラックコーヒーの匂いがした。
「あ、あの、頼んでないんですが」
香穂が戸惑ったように言った。マスターは、寝癖なのか作為的なのか判断しにくい乱れた短髪を掻いた。
「なんか、仲直りしたみたいだから」
聞き取りにくい低音の小声であったが、どこか印象に残る音色だった。
「それに君、この間は飲まないで出ていっちゃったでしょ」
マスターは香穂を一瞥して言った。茉莉絵と香穂は、驚愕のあまり顔を見合わせた。
「お金はいらないから」
マスターはニコリともせず言うと、そのままカウンターへ去っていった。二人はその背中を目で追った後、もう一度目配せをし合ってからアイスティーとミルクをそれぞれ取った。あの緩みきった雰囲気のどこに、並外れた記憶力と観察眼を持ち合わせていたのだろう。
茉莉絵はミルクを注いで混ぜた。氷とグラスがぶつかり、軽やかな音楽を奏でた。雨天とはいえ全力疾走をしたせいで渇いていた喉が、じわりと潤されていった。
「茉莉絵ちゃん、どうしてここに来たの?」
人心地つくと、香穂が静かに茉莉絵に尋ねた。茉莉絵はストローから唇を離した。
「なんとなく、よ」
ここは、歯車が動き出した場所だ。ここでジャスミンとしてオーレリーを待ち合わせたあの日から、茉莉絵は下り坂を転がるように猛スピードで多くのものを失い、そして香穂だけを手に入れた。
「……そっか。私もね、なんとなくここじゃないかって思ったの。そうしたら本当に、茉莉絵ちゃんがいた」
ここを、歯車を止める決意をした場所にしなければならない。茉莉絵は無意識にストローを噛んでいた。
香穂と離れることが、本当に香穂を救うことになるのか。香穂は茉莉絵といることを望んでいるではないか。
いや、離れねばならない。そうでもしない限り、茉莉絵は香穂の得るはずだったものを取り上げてしまう。葛城正美と横山千夏を、香穂から奪ってしまったように。
全てを喪失するのは、自分だけで充分だ。
「東京を出るのはやめましょうか」
茉莉絵が言うと、香穂はぽかんとした。
当初の計画では、今日東京を出て新幹線で別の場所へ向かう予定だった。候補には京都が挙がっていた。だが、香穂を益々父親から遠ざけてはいけないと思った茉莉絵は、そのプランの変更を申し出た。東京内で新居を探すこと。それが見つかるまでは東京中を放浪して、ビジネスホテルなどに泊まって生活していくこと。案の定、香穂は茉莉絵の意見に反対などしなかった。ずっと一緒に過ごせるのだと信じきった香穂の無邪気さは、アイスティーを飲み下す茉莉絵を苦しめ続けた。
二人はマスターに礼を言って、喫茶店を後にした。喫茶店周辺に人影は少ないが、賑やかな地下街の気配がここまで漂ってくる。茉莉絵が歩き出そうとすると、左手を香穂に取られた。香穂は微笑んでいる。手を繋ごうということらしい。茉莉絵は振りほどけなくて、そのまま手を握り返した。
「私、幸せ者だなあ」
「どうしてよ」
「だって、茉莉絵ちゃんと一緒にいられるんだもん」
香穂は林檎の形をした腕時計を確認して、あっと声を上げた。
「茉莉絵ちゃん、もうすぐチェックアウトの時間! 急がなきゃっ」
香穂は茉莉絵の左手を固く握り、駆け出した。茉莉絵は香穂に引かれるがまま、駅を走った。
この手を振りほどかなきゃいけない。離さなきゃいけない。
……離したくない。本当はずっと、そばにいたい。
今日は遊園地に行ったね。茉莉絵ちゃん、ジェットコースターとか好きなんだ。私苦手だから、次に行く時はもっとお手柔らかにお願いしたいかなあ! でもね、とっても楽しかった。一つ不満を言うなら、写真撮る時、お姫様のドレス着てほしかったかな。せっかく従業員の人が勧めてくれてたし、私は騎士のコスプレさせてもらってたから。あ、勿論、茉莉絵ちゃんはそのままでも可愛いんだけどね!
漫画喫茶なんて余程陰気な空間なんでしょうと思ってたけど、案外そうでもないのね。あんたは少女漫画を読んで俺様男子なんて意味不明な属性に喜んでたけど、変態なの? まあそれはそれとして、『小公女』のアニメには少し興味はあるわ。あんたの好きな『家なき娘』もアニメがあるのね。機会があったら見ようと思うけど、期待はしないで。
カラオケデビュー、楽しかったね。まさか茉莉絵ちゃんもカラオケ行ったことなかったなんてびっくりした……島岡さんたちと行ってるものだと思ってたから。でも一番驚いたのは、茉莉絵ちゃんの歌声がすっごく綺麗だったこと! COSMOSを二人で歌ったけど、茉莉絵ちゃんのソプラノに聴き惚れちゃって、自分のアルトを忘れそうになっちゃった。茉莉絵ちゃんは合唱曲や童謡しか知らないことを情けないと思ってるみたいだけど、茉莉絵ちゃんの歌声が一際輝くのはきっと、合唱曲や童謡だよ。だから茉莉絵ちゃんは、それでいいの。
本屋で時間を潰すっていうのも、たまには悪くないわね。『若草物語』は途中で止まってたから、買ってちょうど良かったわ。あんたは『第三若草物語』、だったわね。まさか第四まであるなんて思わなかった。先が長くて、ちょっとうんざりしそうよ。まあでも、気長に読むわ。それと、私だって『赤毛のアン』シリーズくらい読んだことはあるんだから、見くびらないで。……『こんにちはアン』は、知らなかったけど。
苺とバニラの手紙は、毎日交換された。自分と香穂に与えられた運命を知りながら、茉莉絵は香穂の手を握り続けてしまった。
茉莉絵は、半ば悔恨の念を抱いていた。手遅れになる前に香穂を解放せねばと思っていたが、既にもう手遅れになっていたのだ。茉莉絵は自分から、固く固く、香穂の手を離さなかった。