私を見て
茉莉絵にとって女に抱き締められるということは、ほとんど快楽に直結にするかぐわしい行為だった。女にしか持ち得ない独特の柔らかさや香りに没入し、思考を融解させると、何もかも忘れることができた。陽一郎への不快感も、香穂をいじめることに対する罪悪感も、叶わぬ恋への辛苦も、何もかも。だから、紗希を抱き締めた。自分の都合で紗希を利用して、その実利用されていたことに気づきもせずに、紗希を抱き続けたのだ。
そして茉莉絵は今、香穂に抱き締められている。
「私は、茉莉絵ちゃんのそばにいる」
香穂は茉莉絵にそう囁いた。それは全てを失い、過去の失恋に更なる追い打ちをかけられた今の茉莉絵にとって、甘すぎる誘惑だった。香穂の腕に縋っても現実逃避にしかならないと分かっていて、求めてしまいそうだった。茉莉絵は、香穂の背中に向かって手を伸ばしかけていた。
「行こう、茉莉絵ちゃん。私たちならできる。二人で生きていこう」
茉莉絵の指の間を微風が吹き抜けて、香穂のバニラの香りも飛んで離れていった。掴むものをなくした手は行き場を失って、取り残された。
香穂は本気なのだ。高校生が二人だけで生活していくなんて荒唐無稽な提案を、香穂は本当に実行しようとしている。その実現のためなら、彼女は全てを投げ出すだろう。茉莉絵が望む限り、体も、心さえも。香穂からはそんな、狂った強さを感じた。
「ねえ、茉莉絵ちゃん。ずっと、一緒にいようね」
この時の茉莉絵の感情を一言で表すとすればそれは、恐怖だろう。香穂との抱擁は茉莉絵に快楽ではなく、底知れぬ恐ろしさと魅惑を与えた。香穂は純粋で一途で、穢れを知らない。この先に待つ苦難への覚悟も、あるとは思えない。無垢ゆえの暴走を、茉莉絵は止めなければならなかった。茉莉絵の使命は、香穂を突き放すことだった。
だが、香穂を突き放してその先に待っているのは、一人きりの地獄だ。
茉莉絵は香穂を抱き締め返した。たった一人地獄に堕ちるくらいなら、目の前のこの少女を道連れに堕としてしまいたい。共に、苦しみを味わっていてほしい。彼女は決して、それを拒まないのだから。
たった一人になるくらいなら、いっそこの少女を愛してしまいたい。だがそれは決して神に認められないことなのだと、茉莉絵自身が最も強く自覚していた。
腕時計の針が二十一時を示した頃、茉莉絵と香穂は東京駅に到着した。
二人は駅付近のビジネスホテルを確保して、ひとまず腰を落ち着けた。二人が取ったホテルは、ビジネスホテルにしては割高寄りの部屋で、欧風でクラシック調な空間に纏められていた。天井は高く窓は縦長で、開放感がある。五灯のシャンデリアは白く明るく、華やかさを添えていた。ツインのベッドも弾力があり清潔そうである。茉莉絵にとってビジネスホテルは初めてだが、林間学校時のホテルよりは当然ながら格が落ちるものの、居心地は悪くない。
香穂はビロード張りの椅子に沈み込み、コンビニで調達したおにぎりを貪っていた。玉子オムライスと銘打たれた、オムライスの上に薄い茹で玉子が乗ったおにぎりである。鬱陶しいくらい玉子ずくしで、茉莉絵は開発者のセンスを疑った。そういえば香穂は、オムライスが好物なのだろうか。
「ん。この新作おにぎり美味しいよ、茉莉絵ちゃん」
「……暢気ね、あんたは」
茉莉絵は、丸テーブルを挟んで香穂と隣の椅子に腰掛けた。茉莉絵が肩をすくめても、香穂は幸せそうに満足気に笑うだけだった。
茉莉絵はベッドの上のポシェットを引き寄せ、赤い長財布を取り出した。中にあるお札の枚数を数えて、溜息を吐く。
「とりあえず必要になりそうなお金は下ろせるだけ下ろしといたから。当分困ることはないでしょう」
「うん、ありがとう。茉莉絵ちゃんがお金持ちで良かったなあ、なんて」
「本当、あんたの無計画っぷりには驚かされるわ」
香穂の温もりに縋りついたのはつい寸刻前の出来事だと言うのに、今はそれが嘘のように茉莉絵は香穂に呆れ返っていた。GPSから追跡されぬようにスマホの電源を切れと指示した時には、香穂はドラマのようでドキドキすると言い出す始末だったのだ。全てから逃げようと提案したのは香穂であるのに、全くの能天気ぶりである。
「あはは、茉莉絵ちゃんって頼もしいね」
「あんたが頼りなさすぎなの」
茉莉絵はそう言って、レジ袋からサラダスパゲティを出し、蓋を開けた。香穂はそんな茉莉絵を見てへらへらと笑いながら、おにぎりを頬張っていた。香穂の口許に付いた米粒を取ってやると、香穂は照れたそぶりを見せた。
スパゲティとドレッシングを混ぜながら、香穂とは何者なのだろう、と茉莉絵は思った。香穂は、普段は色気もなく世間知らずな、所謂お子様であるのに、時たまはっとさせられるほど官能的な一面を見せる。特に、彼女の腕の中。香穂に抱き締められると、強烈なバニラ香と胸元の柔さが直接茉莉絵に伝わってきて、惑わせるのだ。涙に濡れる目尻や、風呂上がりの上気した頬と桃色の唇も、茉莉絵の欲情を誘う。自らの核が疼いていることに気がつくと茉莉絵は目を閉じて、欲望を追い出す。香穂によこしまな感情を抱いてしまっては今後の関係に支障が出るし、何も知らない香穂に低俗な性欲をぶつけることは、許されないだろう。
「そうだ、茉莉絵ちゃん」
香穂はおにぎりを口に押しやって、咀嚼しながらジーンズのポケットをまさぐった。出てきたのは、二本のペンだった。交換日記を書きつけるために購入したものだ。
「あんた、いつの間に」
「えへへ、後で一緒に絵を描こうと思ってね、茉莉絵ちゃんに交換日記を渡した時に入れておいたの。日記はうちに置いてきちゃったけど、お手紙書こうよ」
香穂は茉莉絵に赤い方のペンを渡した。茉莉絵がサラダスパゲティを食している間、香穂は熱心に机に向かってペンを動かしていた。ホテルに備え付けられていたメモ用紙が次々に引き千切られ、書き損じたと思わしき用紙は丸められて机に散乱していた。そんな香穂の背中を眺めて、茉莉絵は再度溜息を吐いた。食べ終えた容器をゴミ箱に捨てる。茉莉絵は靴を脱いでベッドに横たわった。
香穂は、まるで旅行にでも行くかのように浮かれている。だが今回やろうとしていることは、生半可な意気込みでは到底成功しない。高校生が二人で、しかも女だけで生きていくというのだから。本当に実行するならば、当てにならない香穂を自分が引っ張っていくしかないだろう。
思えば香穂には、手を差し伸べてもらうばかりだった。今度は茉莉絵が、香穂に手を差し伸べる番だということだろうか。
「できたっ」
香穂は不意にそう叫び、ベッドに駆け寄ってきて茉莉絵の顔を上から覗き込んできた。香穂のショートボブが茉莉絵の頬を掠めて、くすぐったい。茉莉絵は起き上がって、香穂から一枚のメモ用紙を受け取った。
「なにこれ」
そこには、クリーム色で謎の生物が描かれていた。人間の顔、なのだろうか。輪郭らしきものと髪の毛らしきものがある。目鼻の形は奇怪で、唇も醜悪だ。茉莉絵は眉をひそめた。
「嫌だなあ、茉莉絵ちゃんの似顔絵だよ」
「はあ? あんた下手くそすぎるでしょうっ」
「ええっ。そ、そう?」
香穂はメモ用紙をシャンデリアに透かしながら、首をかしげていた。確かに本物の茉莉絵ちゃんには敵わないけど、と呟きながら、香穂は茉莉絵のベッドに腰を下ろす。背中から倒れた彼女は、伸ばされた茉莉絵の二の足の上に頭を乗せた。
「やっぱり、本物の茉莉絵ちゃんを見てる方がいっか」
歯を見せて笑った香穂の頭から、茉莉絵は足を引き抜いた。ベッドに頭を沈ませた香穂は、起き上がると茉莉絵にのしかかった。香穂が茉莉絵の胸に頭をうずめて、茉莉絵は喉からくぐもった呻き声を漏らした。
「ちょ、あんた重い!」
「茉莉絵ちゃん大好きっ」
茉莉絵は首だけを動かして香穂を見た。香穂は茉莉絵の胸の中にいるため、表情は分からない。香穂の両腕が茉莉絵の腰をしっかりと抱き回した。
「……大好き」
茉莉絵は抗うことを諦め、頭を枕に戻し天井を見上げた。頬が火照る感覚があったが、それは恐らく照明の熱のせいだろう。そう思っていたい。
香穂の片足が茉莉絵の内股に触れていて、むず痒く、体の奥が疼いた。手持ち無沙汰となった両手で香穂を抱き込もうとした茉莉絵は、触れる直前になってやめた。
ここにいるのは紗希ではない。いや、紗希だとしても、もう触れ合うことはできないのだ。この先誰かに恋をしても、きっとそれは実らなくて、誰の温もりも知らぬまま自分は死ぬのだろう。一人は苦しいとして香穂を此方に引きずり込んでも、香穂はその意味を理解せぬまま、茉莉絵を受け入れる。香穂を利用することは簡単だ。だが、いや、だからこそ香穂にだけは、何の感情も抱いてはいけない。
「……遠藤」
そっと、呼びかけた。香穂は返事をしなかった。代わりに返ってきたのは気の抜けた寝息で、茉莉絵は拍子抜けした。
突飛な行動をしたと思ったらおとなしくなったり、大人の色香を見せたと思ったら子供のように無邪気になる。ここ最近ずっと香穂と接しているが、香穂のことはまるで掴めない。知ろうとすればするほど、凪いだ風のように掌からすり抜けていくのだ。
思えば茉莉絵の初恋も、このような天真爛漫な少女だった気がする。確か彼女は、茉莉絵が想いを伝える前に、医者だった父親が亡くなって神楽条小学校から姿を消した。
「ん……」
香穂は微かな寝言とともに吐息を零して、身じろぎをした。乱れたショートボブは茉莉絵の喉元を流れて、バニラの匂いがきつく茉莉絵に押し寄せる。薄桃の唇が光って、茉莉絵は目を背けた。下腹部が熱くなる。急激に上昇する体温に従って、自己嫌悪も加速した。これでは香穂の描いた茉莉絵の方が、欲情なんて知らないぶん、余程綺麗だろう。
好きになりたくないのに。そう思いながら茉莉絵は、ハーフアップを形作っていたリボンをほどいた。
この無防備な寝顔を守ることが、果たして自分にできるのだろうか。
「叔父様の家に行こうと思うわ」
翌日は朝から小雨が降り続き、厚い雲に覆われた鈍色の空だった。茉莉絵の後に洗顔を済ませた香穂が上機嫌にベッドに座った時、茉莉絵は言った。
それは、茉莉絵が一晩中香穂の温もりを全身に受けながら導き出した、明確な答えだった。香穂は肩に掛けたタオルを両手で持ちながら、目を見開いた。
「やっぱり、二人で逃げるなんて無理よ。住む場所決めて働いてなんて、とても現実的じゃない。それにあんただって、高校くらいは卒業したいでしょう」
茉莉絵が口にした理由は、それでもまだ小さなものだった。最大の理由は、これ以上香穂を巻き込むわけにはいかない、という思いだった。
香穂は父親を捨ててまでも茉莉絵に付いてきた。だが、香穂の家庭環境は茉莉絵と違って、温かいものであったはずだ。それを自分のせいで壊してしまった。茉莉絵にはそんな、自責の念があった。このまま共にいたら、茉莉絵は香穂の人生を破壊し尽くしてしまう。昨夜の穏やかな香穂の寝顔を傷つけるわけにはいかない。
それに茉莉絵自身、香穂から離れたかった。香穂におかしな感情を抱いてしまう前に、突き放してしまうべきだと思ったのだ。
「なんで」
香穂は呆然とした様子で、茉莉絵を凝視していた。
「私は高校なんてどうでもいいんだよ。私がいるのに、茉莉絵ちゃんはその叔父さんのところに行っちゃうの?」
「……あんたは、父親のもとに戻るべきよ」
「簡単に言わないでよ!」
香穂が立ち上がり叫んだ。茉莉絵は突然のことに驚いて、手許のベッドのシーツを握った。白く張ったシーツに皺が寄る。香穂はタオルをベッドに叩きつけるように放った。
「わ、私だってお父さんと離れたいはずないよ。でも、それでも私は茉莉絵ちゃんといたいの。簡単に決めたわけじゃないの。なのに、どうして分かってくれないの?」
「遠藤、」
「茉莉絵ちゃんには私なんていらないの!?」
香穂は自分のベッドに頭から潜り込み、出てこなくなった。茉莉絵が何度か呼びかけるも、反応はなかった。朝食の時刻が迫っても、香穂が動く気配はなかったため、茉莉絵は仕方なく一人で食事会場へ向かおうと立った。ベッドと反対側の壁に沿って設置されている机の上には、昨日の香穂の落書きがあった。茉莉絵はなんとなくそれを手に取って、そして、見つけてはいけないものを見つけてしまった。メモ用紙を握り潰してしまう前に机に置き直して、部屋の鍵を持ち、会場を目指した。
二十分ほどで食事を終えて戻ると、香穂のベッドはまだ膨らんでいた。
「遠藤」
相変わらず、返事はない。
「遠藤。どうしたらそこから出てくるの」
茉莉絵は語気を荒げた。不自然に膨れた掛け布団が、微かに蠢いた。しばらくして布団が動き、香穂の頭だけが顔を出した。
「……叔父さんの家、近くにあるの?」
今にも消え入りそうなほど細い問いかけだった。茉莉絵は意思に反して湧き上がってしまった苛立ちを拳に託して、大きく息を吸った。
「違うわ。東京じゃないの」
「……そこに住むの?」
「そうさせてもらうつもり」
香穂は掛け布団から這い出てきて、ベッドの上であひる座りをした。俯き、体を震わせている。茉莉絵は立ったままで香穂を見つめた。
「行かないで」
「…………」
「私、いじめられててもジャスミンさんがいてくれたから頑張れた。茉莉絵ちゃんが友達になってくれてからは、みんなに何を言われても毎日が楽しかったの」
香穂は、語尾を震わせた。
「でもっ。でも、茉莉絵ちゃんがどこかに行っちゃったら、私は一人になる。ジャスミンさんも茉莉絵ちゃんもいなくなったら、私はどうすればいいの?」
「…………」
「お願いっ、行かないで。行かないでよ、茉莉絵ちゃん」
香穂は、とうとうしゃくり上げた。手の甲で両目を幾度となく拭いながら、香穂は泣いていた。
「ごめんなさいっ。嫌いにならないで。ごめんなさいっ……」
涙は、女の最大にして最強の武器だ。はらはらと零れ落ちる熱の塊は、女の魅力を増すのみならず、少女でさえも女に変えてしまう。香穂の涙は茉莉絵の情欲を煽った。それはこのような場面にはとても似つかわしくない欲望だったが、今の茉莉絵は自らを律することができなかった。
香穂の描いた茉莉絵の似顔絵が、本当は茉莉絵を表したものでないと知ってしまった今、茉莉絵にあるのは理性ではなく破壊欲だった。
「だったら」
茉莉絵は涙で濡れそぼった香穂の両手を掴み、香穂の体を倒した。状況を飲み込めていない香穂に馬乗りになって、見下ろした。香穂の純朴な瞳は強烈な魅惑を持ち、艶やかで小さな唇は、まだ何にも汚されていなかった。
「だったら、あんたが私の相手してくれるの」
性欲が満たされるなら誰でもいいわけではない。だが、香穂だから求めたわけでもない。茉莉絵はただ、自分が失った純潔を持ち続けているこの少女が、羨ましくて憎らしかった。劣等感を掻き立てられた。失ってしまった純潔は二度と取り戻せないのなら、少女から奪ってしまうしかない。
堕ちてしまえ、と。
「私、言ったわよね。メイドと抱き合ってたって。今度はあんたが、私を抱いてくれるの?」
「ま、茉莉絵ちゃ、」
「できるなら、やってみせなさいよ。キスしてみなさいよ」
ほら、と言って茉莉絵は香穂の体を起こした。香穂はただ愕然とした様子で、先程より強く体を震わせていた。茉莉絵は香穂と向かい合ったまま、香穂の次の言動を窺っていた。
たった二人だけの部屋は、他の宿泊客の物音さえ響かなかった。香穂の荒れた息遣いだけが、茉莉絵の耳で木霊する。
「ど、どうしたの、茉莉絵ちゃん。茉莉絵ちゃんは私のことなんか」
「好きかなんて関係ない。あんたは、私の体に触れさえすればいいの」
自分は馬鹿だ、と思った。自分の口から発せられた言葉によって、茉莉絵の胸は悲鳴を上げた。好きでもない人間を想い人の代わりにして一時的に寂寥感を埋めて、それで何になると言うのだろう。ただただ虚しいだけで、最後にはその好きでもない人間にさえ裏切られたではないか。
それなのに何故、誰かを求めずにはいられないのだろう。
好きにならなければいい。苦しみを紛らわすために利用しなければいい。初めから誰の温度にも触れなければ、寂しさなんて生まれないのに。触れれば触れるほど切なくなって、相手は自分から離れていってしまうのに。
香穂のことを好きになることは許されない。でも、あまりにも温かい彼女に縋りたい。
触れたら、香穂も、離れていってしまうのだろうか。
「茉莉絵ちゃん」
ふと、香穂が呟いて茉莉絵の頬に触れた。体が跳ねた茉莉絵は、自ら誘っておいてなんだと、自嘲した。
「やっぱり、できないよ」
香穂は首を振って、下瞼に溜まっていた涙を落とした。茉莉絵はきつく唇を噛みしめた。
――茉莉絵ちゃんには私なんていらないの!?
あんなことを言っておいて、いらないのは香穂の方ではないのか。香穂が触れてくれなければ、離れてしまうのかそばにいてくれるのか、それすら判断できないではないか。
欲しいと本気で願ってもらえないのなら、自分にどんな存在価値があると言うのだろう。
「私は茉莉絵ちゃんの想いを満たすことなんてできない。だから茉莉絵ちゃんには、茉莉絵ちゃんの好きな人と結ばれてほしいの」
香穂の言葉は茉莉絵を落ち着けるどころか、怒りを増幅させた。茉莉絵のままならない感情が一気に噴出して、茉莉絵は香穂を再び押し倒した。
「分かったようなこと言うな!」
好きな人? 結ばれる? それが叶うなら、茉莉絵の人生はこんなものではなく、もっと明るく健やかだったであろう。
好きになっても無駄なのだ。桐生も、その前に想いを寄せた女たちも、皆が男を愛していた。茉莉絵という女は拒絶の対象にすらなり得ず、眼中の外に追いやられた。決して報われないのだから、自分にとって恋をすることは体力の浪費に異ならず、精神をすり減らして行う拷問だ。そこには癒しも安らぎも、ましてや幸福などありはしない。
香穂を好きになってはいけない、と自分に言い聞かせていた。香穂を穢すことになるから。だが穢すということは、香穂も茉莉絵を愛することを前提とした考え方だ。なんて傲慢だったのだろう。香穂も結局、体良く茉莉絵を突き放すだけではないか。
「あんたには分からないっ。好きになったってどうしようもないの。初めから思い知らされてるのよ。結ばれるなんて簡単に言わないで!」
そうだ。例えこの先茉莉絵の前に女性同性愛者が現れようと、その女もきっと茉莉絵を愛してはくれない。だから茉莉絵にとって恋なんて、無意味なのだ。
分かっている。分かっているのにどうして、自分は恋を繰り返すのだろう。誰かを愛おしいと、そう思ってしまうのだろう。
茉莉絵は香穂のTシャツを捲り、白い腹と下着を露わにさせた。指を這わせるとそこは、痩せぎすだった紗希の腹よりも柔らかかった。香穂の肌から、いつもより何倍も甘いバニラの香りがした。茉莉絵は香穂の顎を掴み、持ち上げた。未だ透明な唇は、口づければきっと茉莉絵色に染まる。
「やめて!」
ほとんど同時に、茉莉絵は香穂に突き飛ばされていた。香穂は体を起こして枕の方に身を寄せ、泣きながら茉莉絵を見ていた。今香穂に口づけたなら、塩辛い味がするのだろう。香穂に弾き飛ばされベッドの端に追いやられた茉莉絵は、ぼんやりとそんな風に考えた。そして、そんな風にしか考えられない自分はどこまでも穢れているのだと思った。
何度も茉莉絵を優しく抱き締めてくれた肩が、茉莉絵の最低な行為によって小刻みに震えていた。香穂は茉莉絵を助けてくれたのに、茉莉絵は恩返しをするどころか、傷つけたのだ。
気がつくと茉莉絵は、ポシェットを引っ掴んで部屋を飛び出していた。