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天運の少女たち  作者: 麻柚
第7章 香穂
12/16

与えてしまった絶望

 妖精、天使、女神、フランス人形、お姫様。美しく可愛らしい女性を形容する際に用いられる種族は数多くあれど、茉莉絵にはそのどれもが当てはまらない。茉莉絵に当てはまるものがあるとすればそれは、《水谷茉莉絵》である。

 そっと部屋の扉を開けた先にいたのは、後光のように朝日を纏った茉莉絵だった。香穂は瞼をこすり、もう一度茉莉絵を見直した。そこにはやはり煌びやかな茉莉絵がいて、これは幻覚ではないのだ、と思う。脳天からつま先まで、香穂は茉莉絵の全身を注視した。

 茉莉絵の華麗さを引き立てるのは、昨日購入した白レースのワンピースである。白を基調とした香穂の部屋の中においても、そのワンピースと茉莉絵の肌は白光のように純な色合いだった。茉莉絵の背後の窓は微かに開いていて、カーテンとともに茉莉絵の艶髪を揺らしていた。純白の世界に、漆黒の花びらが舞う。

「な、何か言ったらどうなの」

 ワンピースの端を固く摘んだまま、茉莉絵が言った。

「わざわざ大袈裟に着替えさせたのはあんたでしょう。何か言いなさいよ」

 茉莉絵に急かされ、香穂は我を取り戻した。目の前の光景に心奪われ言葉を失うことは、本当にあるのだと思った。セーラがエミリーを運命的に見つけ出した時でさえ、こんな風にはなっていなかったのに。

「ご、ごめんね。びっくりしちゃって」

 香穂は部屋に入り、静かに扉を閉めた。窓を通して、外からは雨の匂いが飛び込んでくる。昨夜、雨が降ったらしい。

「凄く綺麗だよ、茉莉絵ちゃん」

 茉莉絵は何も言わなかった。褒め言葉に悪態で返す茉莉絵も、素直に噛みしめる茉莉絵も、どちらも愛くるしい。

 香穂は静かに窓辺に立って、茉莉絵を引き寄せた。窓を押し上げて大きく放つと、微風が二人を包んだ。露に濡れる木々は青々として、夏を予感させる。

「明日、学校だね」

 香穂が呟いた。茉莉絵は窓枠に両腕を乗せて、体重をかけた。

「まだ今日が始まったばかりじゃない。明日のことなんか考えてどうするの」

「……うん。そうだね」

 まだ見ぬ今日は希望に満ち溢れている。だが、その先の未来にもまっさらな光輝が待っているとは限らない。それでも時間は止まらないのだと、香穂は深く思い知っている。時間を止める術がないのなら、前に進むしかないのだ。

 その日一日、二人は香穂の部屋で森閑として過ごした。香穂は少女小説を読み耽り、茉莉絵はスマホを眺めたり思い立ったように気ままなイラストを描いたりしていた。

 そんなことをしているだけで、気がつくと夕方であった。香穂は小鳥の壁掛け時計で時刻を確認すると、ベッドから起き上がった。

「茉莉絵ちゃん、お夕飯の買い物行こう」

 回転椅子に座っていた茉莉絵は、くるりと椅子ごと香穂に向いた。

「夜ね、お父さんが帰ってくるらしいの。だから益々気合入れて作らなきゃ」

 香穂は、朝からそのままにしていた窓を閉めた。眼球を焼き尽くすような夕日をカーテンで遮ると、照明を灯していない室内は僅かばかり暗くなった。

「あ、そんなに緊張しなくていいからね。茉莉絵ちゃんが来てることは言ってあるし、お父さんはとっても優しいから」

 香穂は財布をジーンズに突っ込んで、茉莉絵を見た。満面の笑顔を茉莉絵に差し向けた香穂の頭には、ある計画が出来上がっていた。

「でも、その前に」


 香穂と茉莉絵は、連れ立ってリビングに下りた。香穂の笑顔に不信感を抱いたらしい茉莉絵は、ろくなことではないぞと重苦しい瞳をしていた。そんな茉莉絵を椅子に座らせて、香穂は洗面台に向かう。棚から手鏡とブラシ、リボンを取り出した。自然にスキップを始めそうになる足を黙らせて、とにかく準備を急いだ。

「ちょっと、なにするつもり」

 香穂は手鏡を伏せた状態でテーブルに置き、ブラシとリボンをその横に並べた。香穂の怪しげな行動に眉をひそめた茉莉絵は、問うた。

「そのワンピース見てたら、なんだかもっと可愛くなってほしくて」

 香穂は茉莉絵の髪を指先で梳いた。そこは神聖にして侵しがたい領分であったはずだった。それに触れる権利を得たと考えるのは烏滸がましいが、触れる勇気をくれたのは、茉莉絵だ。

 聡明な茉莉絵は香穂の意図を見抜いたようで、黙って香穂の指を受け入れていた。

「出来上がりは、後のお楽しみね」

 その言葉を合図にして、香穂は茉莉絵のヘアアレンジメントとなった。茉莉絵の髪は見た目通りにさらさらとしていて、まるで白砂のように手中から零れ落ちる。

 香穂が作業をする間、茉莉絵は交換日記を読んでいた。自分の手書きの文章を目の前で読まれるのは少し気恥ずかしい。だが、香穂の頬が熱くなっても、それを茉莉絵に気づかれることはない。香穂は一本一本を労るように優しく柔く束にして、三つ編みを編んでいった。

 今日は一日、茉莉絵ちゃんとごろごろした。昨日みたいに特別なことがあったわけじゃないけど、こんな風になんでもない日を茉莉絵ちゃんと過ごせるのは嬉しい。でも、茉莉絵ちゃんはどうかな? 少しでも楽しいって思ってくれたら、幸せだな。

「……大袈裟よ」

 茉莉絵が小さく漏らした。香穂は僅かに頬を緩めるだけで、何も言わないでいた。三つ編みは固くなりすぎないよう、少し髪を引っ張りつつ、丁寧に編む。香穂が動くたび、フローリングは微かに軋んだ。

 嬉しいニュース、初めて茉莉絵ちゃんの笑顔を見たこと。悲しいニュース、思いつかない。

「あんたのことだから、好きな人のところに私の名前書くんじゃないかって警戒してたんだけど。流石に、そんな馬鹿なことはしなかったのね」

「書いてほしかった?」

 香穂は毛束を持ったまま茉莉絵を覗き込んだ。茉莉絵があからさまに不愉快気な表情をしたため、香穂は苦笑した。

「冗談だよ。……ふざけて書いていいことじゃないなって、思ったの。特に、茉莉絵ちゃんには」

 ハート型で設けられた、恋のお話という欄。好きな人はいるか、の問いに対して、香穂は茉莉絵同様、いないと回答していた。確かに、初めは茉莉絵と答えようとしていたのだが、面白可笑しく書いていいことではないと気づき、直前で踏みとどまったのだ。交換日記の相手がヘテロヘクシャルな友人ならいざ知らず、茉莉絵なのだ。冗談半分に、茉莉絵を掻き乱すことはしたくなかった。

 茉莉絵が香穂を愛することはないだろう。だが、嫌うことはあるかもしれない。香穂は、茉莉絵に好かれたいわけではないのだ。ただ、嫌われることのみを恐れている。

「ねえ茉莉絵ちゃん。茉莉絵ちゃんのタイプって、どんな人なの?」

 三つ編みが完成して、香穂はテーブルのリボンを取り、結び始めた。真紅のリボンは、茉莉絵の荘厳さと端麗さをより際立たせる。

「そうね、馬鹿じゃない人間かしら」

「あはは、辛辣。茉莉絵ちゃんらしいかも」

 茉莉絵は、交換日記を閉じてそっとテーブルに置いた。

「それと、私を特別扱いしない人間。まあ、もう特別でもなんでもなくなったけど」

 香穂は一瞬、手を止めた。サテン生地のリボンは光沢が照明を反射して、艶やかに光る。茉莉絵の言葉を否定するべきか迷ったが、先日のように、同情するなと言われる気がして、やめた。

「あんたは」

「私、は。そうだなあ、優しい人かな」

「ありがちね。あんた、結婚詐欺に引っかかりそう」

「もう。酷いんだから、茉莉絵ちゃんは」

「気をつけた方がいいわよ。男も女も、まともな人間の方が少ないんだから」

 香穂は輪を作り、結び上げた。リボンの先が下ろした髪と絡み合う。ハーフアップが完成した。

 香穂は伏せた手鏡を取り、茉莉絵に渡した。桜が彫刻された木製の手鏡は茉莉絵によって裏返され、そこに二人が映し出された。香穂は茉莉絵の肩口に顔を寄せた。

「どうかな」

 茉莉絵の両肩を抱いて、問いかける。茉莉絵は静かに言った。

「……これ、わざとこの形にしたの」

「え、」

 茉莉絵が手首を下げたことにより、鏡から、茉莉絵の唇から上が消えた。茉莉絵の表情が確認不能になる。回り込むなり覗き込むなりして確認することはできたのだが、思いがけず茉莉絵の声色が仄暗かったため、香穂は動けなかった。

「ご、ごめん。嫌だった? 嫌ならすぐにほどくよ」

「別に。いいわ」

 茉莉絵は手鏡を置いた。沈黙がリビングに横たわって、香穂は逃げるように手鏡とブラシを片付けに出た。洗面台の電気を点けて、道具を戻す。鏡に映った自分の顔を見て、香穂は両頬を叩いた。茉莉絵の前で笑顔を失うことは許されない。香穂は指先で口角を釣り上げた。

 揚々とした足取りを作ってリビングに戻ると、茉莉絵はテーブルに背を向け、棚に寄り添って立っていた。その手中には琴乃の写真立てがあった。茉莉絵の瞳はどこか寂しそうに、切なげに歪んでいて、香穂は声をかけることができなくなった。香穂に気がついた茉莉絵は、すぐに元通りに写真を立て直して、何事もなかったかのように振る舞った。

「鞄、取ってくるわ」

 茉莉絵はそう言って香穂の横を通り過ぎ、階段を上がっていった。そっと香ってたちまち霧散してしまう苺の後を追うように、香穂は振り返った。

 ほとんど同時に玄関のチャイムが鳴り、はっとして香穂はドアに駆け寄った。返事をして、チェーンを掛けたまま開けると、そこには春治がいた。香穂は一旦ドアを閉め、チェーンを外した。

「おかえりなさい、お父さん」

 沈みかけた夕日を背負った春治は、愛用のスーツに眼鏡をかけ、目の下に薄い隈を作っていた。数日家を空けた彼はいつも、このような姿で帰宅する。普段と異なるのは、春治に笑顔が浮かんでおらず、代わりに狼狽した雰囲気を見せていることだった。

「春治、さん……?」

 春治の異変について香穂が問いかける前に、春治の脇から女性の弱々しい声がした。それはどこか聞き覚えのある声で、香穂は玄関を飛び出した。

 ドアのすぐ横の白壁に凭れ蹲る女性は、顔を赤く染めてとろけた瞳で春治を見上げていた。スーツ姿に黒いパンプスを履いたその女性は、紛れもなく、桐生雅だった。香穂は桐生を見つめ、凍りついた。

「すまない香穂。これには事情があって、」

「あら。久しぶりねえ、遠藤さん」

 桐生は春治の弁解を遮って香穂に微笑みかけた。それは神楽条高校での彼女からはかけ離れた、女そのものの笑みで、艶と色気を孕んでいた。桐生は、柑橘系のような香りとともに酒の匂いを漂わせていた。

「……どういうこと、お父さん」

 香穂は春治の襟元を掴んで、そのまま彼の背中を転落防止用の手すりに押しつけた。

「どうして先生がいるの!?」

「香穂っ。待て、」

「茉莉絵ちゃんがいるって言ったよね……? それなのにどうして、よりによって!」

 香穂が春治の肩を揺さぶったはずみで、春治の眼鏡が滑り足許に落ちた。動揺した香穂はそれを拾い上げようとして、一歩後ずさった。

「水谷さんがいるのっ?」

 桐生は勢い良く香穂にしがみついた。体を押され後退した香穂の足は、春治の眼鏡を割った。桐生は先程の春治と香穂の緊迫した様子などお構いなく、妖艶で柔和に笑んでいた。

「茉莉絵ちゃんって水谷さんのことでしょ。遠藤さん、水谷さんと仲直りしたのね。良かったわあ、心配してたのよずっと。ね、水谷さんはどこ? どこにいるの?」

 桐生は香穂を解放すると、パンプスを脱ぎ散らかして家に上がり込んでいった。ストッキングに包まれた足が廊下を踏んでいく様を見て、香穂は慌ててそれを追った。桐生はそのままリビングに入り、中を徘徊していた。

「あら、誰かしら」

 桐生の手が琴乃の写真に触れた。瞬間、激昂した香穂は桐生を突き飛ばして写真を庇った。胸に抱き締め、守るように桐生から隠す。床に崩れ落ちた桐生は何が起きているのか、自分が何をしているのかも理解できていない様子だった。リビングに入ってきた春治は桐生に手を差し伸べ、肩を貸した。

「香穂っ。桐生先生とは、偶然会ったんだ」

 香穂は写真立てを抱いたまま、春治と桐生に背を見せて俯いた。涙を溢れさせた今の自分を、知られたくなかった。

「桐生先生、神楽条を辞めてからずっと職場が見つからなくて悩んでいたらしくて、僕が相談に乗ったんだ。そうしたら少し、お酒を飲みすぎてしまって」

「だからって、だからってどうしてうちに連れてくるの!」

「僕だって連れてくるつもりなかった! でも桐生先生は自分の家を答えられないほど酔っていたから、仕方なかったんだ。香穂、分かってくれっ」

 香穂も春治を困らせるつもりで喚いているのではない。だが、どうしても駄目なのだ。茉莉絵に桐生を、しかも今のように剥き出しの桐生の姿を見せつけることだけは、絶対に犯してはならない禁忌なのだ。

「どうしたの遠藤。どたばたうるさいわよ」

 顔を上げた。茉莉絵はポシェットを肩に掛けて、リビングの入口に立っていた。香穂の全身は硬直し、粟立った。

「そんなところで突っ立って。買い物行くんでしょう」

「こ、来ないで!」

 香穂の剣幕に違和感を覚えたらしい茉莉絵は、眉根を寄せた。香穂の必死の制止を聞き入れず、茉莉絵は香穂に歩み寄る。香穂の隣に並び立った彼女は、その場に棒立ちになって目を見開いた。

「水谷さんじゃないのっ」

 理性が酔いに溶かされている桐生は春治に強く抱きついたまま、一人嬉しそうな声を上げた。春治の腰を更に抱き寄せて、満面の笑みを茉莉絵に向けている。茉莉絵は両の拳をきつく握りしめ、体を震わせていた。香穂は写真を持ったまま、ただその様を見つめることしかできなかった。

「久しぶりねえ水谷さん。元気だったの?」

 桐生は困惑顔の春治を放して、立ち上がった。赤らめた顔に笑みを貼りつけながら、ふらふらと茉莉絵に向かっていく。足許を狂わせた桐生がテーブルに手をついた時、茉莉絵はリビングを走り出た。玄関を飛び出していった茉莉絵に続いて、香穂もスニーカーを突っかけて外に出る。

「茉莉絵ちゃん!」

 香穂は、エレベーターの方向に走っていく茉莉絵を全力で追いかけた。二人の足音が、マンションの二十三階に高らかと響いた。茉莉絵がボタンを連打して呼び寄せたエレベーターは香穂の目前で閉じかけていたが、思いきり伸ばされた香穂の指が間一髪ボタンに触れ、飛び乗った。

 茉莉絵はずっと、エレベーターの隅で香穂に背中を向けていた。香穂は何も言えず、持ってきてしまった写真立てを抱き締め直した。いつの間にか欠けてしまったガラス部分から、強張る指先で写真を取り出した。

 独特の浮遊感のある長方形の空間は、道中で他の人間を乗せることなく、地上に降り立った。アナウンスとともにドアが開く。香穂が切り出す前に、茉莉絵は香穂を振り切って走り出した。香穂は写真立てをかなぐり捨て、ひたすらにそれを追った。

 夕日はもうほとんど沈んでいて、街灯や建物からの明かりがちらほらと漏れている。マンションを出てすぐの下り坂を行くと終点に小さな公園があり、茉莉絵はそこに逃げ込んでいった。香穂は公園の手前のガードレールに凭れ一度息を整え、再度歩き出した。写真をポケットに押し込んで、砂埃や排気ガスにまみれたガードレールによって汚れた両手をジーンズで拭う。

 老朽化した滑り台や小規模の砂場がひっそりと点在する中、ブランコが古びた音を立てて揺れていた。風も人影もない公園。暗闇の中で、茉莉絵はブランコを吊るす金具にしがみついて下を向いていた。

「茉莉絵ちゃん」

 茉莉絵の数メートル後方に立って、香穂は控えめに呼びかけた。茉莉絵は微かに肩を動かした。

「ごめんね、茉莉絵ちゃん」

 込み上げてくる涙と嗚咽をこらえて、香穂は言った。夏場の嫌な汗が背中を流れた。

「……どうして、謝るのよ」

 茉莉絵が、声を震わせて言った。

「あんた知ってたの!?」

「茉莉絵ちゃ――」

「なんなのっ。なんなのよあれ!」

 茉莉絵は金具を乱暴に揺り動かした。金具は錆びれた音を鳴らして、切ない悲鳴を上げていた。香穂は背後から強く茉莉絵を捕らえた。右腕を茉莉絵の肩に、左腕を茉莉絵の腰に回して抱き締める。

「放してよっ」

「茉莉絵ちゃん!」

 暴れる茉莉絵を押さえ込み、香穂はきつくきつく抱いた。茉莉絵の黒髪とリボンが宙に翻り、香穂を直撃した。心地良く、それでいて胸焼けするほどに甘い苺の香りに陶酔する余裕など、今はない。

「お父さんと先生は何もないの!」

「…………」

「たまたま先生と会って相談に乗って、酔ってどうしようもなくなった先生を仕方なく連れてきただけだって」

 先程春治に聞かされ到底納得できなかった言い訳を、今度は香穂が茉莉絵に伝えた。茉莉絵はどうにか落ち着きを取り戻したようで、息切れだけを繰り返していた。

「だからっ。お父さんと先生は、やましい関係なんかじゃないの」

「……でも、桐生雅はあんたの父親が好きなんでしょう」

 香穂は言い淀んだ。茉莉絵の声色がいやに穏やかで、誤魔化すことを躊躇ってしまった。

「見れば分かるわ。女丸出しだったもの」

「茉莉絵ちゃん、」

「別にあんな女どうだっていいの。もう好きでもなんでもないんだから。あの女が男と何しようが、あの女の勝手だもの」

 茉莉絵は、体を震わせた。

「結局っ。結局そうなのよ。女は男が好きなの。女を好きになったって、どうしようもないのよっ」

 茉莉絵の声は感極まった涙色で、香穂は初めてのことに対応できず、呆然とした。図らずも緩んでしまった香穂の腕から零れ落ちた茉莉絵は、頽れた。香穂はしゃがんで、茉莉絵の肩を抱いた。茉莉絵が溢れさせる熱い雫は、香穂が見てはいけないものである気がした。

 夜闇と静寂が支配する公園で、二人はブランコを照らすただ一本の灯りだけに存在を許されていた。だがその街灯でさえ、切れかけて点滅している。どこかで虫が歌っていた。それはマンションの高層階で眠っているのでは決して気づけない、夏の夜の姿だった。

「分かってたことよっ。なのに、なのになんなの。なんなのよ!」

 茉莉絵は嗚咽とともに絶叫した。拳を地面に振り下ろして、殴りつける。その拳に託された感情は怒りか悲しみか、ままならない感情全てか。茉莉絵はそのまま地面に伏せって、香穂がいることを忘れたかのように泣きじゃくっていた。

 香穂はずっと、茉莉絵は王なのだと思っていた。手の届かない高みに生きる人間なのだと考えていたからこそ、失墜する様は痛々しくて直視できなかった。だがそれは、間違いだったのかもしれない。茉莉絵に王でいてほしいと願って押しつけていたのは、香穂自身だったのかもしれない。

「茉莉絵ちゃん」

 香穂は茉莉絵の名前を呼んだ。茉莉絵は嗚咽が収まってから、ゆっくりと振り返った。茉莉絵の頬についた泥を、香穂は指で優しくこすりとった。瞼を真っ赤に染め上げた茉莉絵に向かって、香穂はせめて、笑いかけた。

「行こう、茉莉絵ちゃん」

 新調したワンピースもどろどろで、元が白いこともあり余計に汚れが目立って、みすぼらしく感じられた。茉莉絵は香穂を見つめ返していた。

「行くって、どこに、」

「誰も私たちを知らないところ。どこか遠くに行って、静かに過ごすの。きっと、二人なら楽しいよ」

 香穂は茉莉絵と春治を天秤にかけた。それは本来絶対に許される行為ではなく、その上比重はどんな時も均等であるはずだった。香穂は大切な人を踏みにじる行いなど決してしない人間だった。それでも今、香穂の思いの天秤は春治を浮かせ、茉莉絵を沈ませた。春治は香穂がいなくなっても生きていく術を持っている。だが茉莉絵にはきっと、何もないのだ。

 ――助けて。

 あのメールを送ってきた時から、茉莉絵は何もかも喪失しているのだろう。茉莉絵は弱くて、決して強いなんてことはなくて、それを今、見せつけられてしまった。茉莉絵の隣にいることができる人間は、もう香穂しかいないのだ。

「あ、あんた、なに言ってんの。あんたには父親がいるでしょう」

「いいの。大丈夫だよ。私は、茉莉絵ちゃんのそばにいる」

 香穂は再び茉莉絵を抱き締めた。茉莉絵は抵抗することなく、されるがままであった。

「行こう、茉莉絵ちゃん。私たちならできる。二人で生きていこう」

 香穂の視線の先で、ブランコが揺れていた。夏の風は湿っぽくて、それでも汗を撫でられると爽やかな心地になる。塗装の剥がれた青いブランコは、軋んでぼろぼろになっていたのに、自分の使命を果たそうと懸命に体を揺すっていた。

「ねえ、茉莉絵ちゃん。ずっと、一緒にいようね」

 芍薬は、宰相として牡丹を守る義務がある。季節が過ぎて崩れた牡丹に寄り添って、またその季節が訪れるまで、じっと牡丹を思い続ける。茉莉絵がまた、かつて香穂が羨んでならなかった輝きを取り戻すまで、香穂は茉莉絵を守ると決めた。その選択のために春治のもとを離れるのなら、琴乃も納得してくれるはずだ。

 香穂は夜空を仰いだ。街中で見上げる星々は、恐らく自然の中のそれよりは遥かに心もとないものだろう。それでも、人工の光に負けじと照る星は、美しかった。満月が柔らかく微笑んでいた。

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