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天運の少女たち  作者: 麻柚
第7章 香穂
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笑顔

 翌日、香穂と茉莉絵は渋谷に出かけた。東横線の端から端まで、過ぎゆく景色を楽しむ間もなく二人は会話をした。ドア口に立つ茉莉絵の後ろにある晴れた日の輝きは、それでも茉莉絵には敵わなかった。

 今日の茉莉絵はノースリーブのマキシ丈ワンピースにカーディガンを羽織っている。涼しげなブルーの上に白が重なっており、可愛らしい。男性のみならず女性までもが茉莉絵に熱っぽい視線を投げていた。茉莉絵自身それを気にした様子もないのがかっこよく思え、香穂は友人が誇らしく、鼻が高かった。そんな香穂はサロペットショートパンツにスニーカーであるが、茉莉絵に嫌な顔はされなかったので、恐らく及第点であったのだろう。

 渋谷は相変わらず人でごった返していた。スクランブル交差点では賑やかすぎる音楽と人々の会話が鳴っている。カメラを持った三十代ほどの男が二人に声をかけてきたが、茉莉絵はそれを慣れたようにかわし、信号が変わるとともにセンター街に向かって歩き出した。香穂は茉莉絵を見失わないよう慌てて追いかけ、茉莉絵の進行する方向にただ付いていった。茉莉絵は直進を続け、人影の少なくなった奥まったところまで来た時、ふと香穂に振り返った。

「で、どこに行くの」

「……え?」

 てっきり茉莉絵には目的地があるのだと思い込んでいた香穂は、ほうけた声を漏らした。

「だから、どこに行くのって聞いてるの」

「え、えっと、茉莉絵ちゃんの行きたいところに行ってるんじゃなかったの?」

「そんなところないわ」

「い、109とかは?」

「あそこうるさくて好きじゃないの」

 茉莉絵は腕を組んで鼻を鳴らした。香穂は一呼吸置いて、吹き出す。茉莉絵は香穂を睨みつけた。

「なに笑ってるのよっ」

「だって迷いもなくここまで来るんだもん。行きたいところがあるのかなあって思ってたのに」

「あんな人だらけのところにいたらあんたの声、聞こえないでしょう」

「だからって」

「ああもう。うるさいわね」

 茉莉絵がつんとして踵を返してしまったので、香穂はその腕を掴んで引き止めた。収まりきらない笑いを噛み殺して謝罪すると、渋々といったように茉莉絵に許された。

「茉莉絵ちゃん、私109って行ったことないの」

「……それで」

「よかったら、一緒に行ってくれないかな。茉莉絵ちゃんお洒落だし、色々教えてほしいなって」

 茉莉絵はしばらく不機嫌な様子であったが、香穂の申し出を拒否するでもなく、道玄坂方面に向かい始めた。香穂は茉莉絵に走り寄って、茉莉絵の左腕を取る。自分の右腕をそこに絡ませて茉莉絵に寄り添った。茉莉絵は訝しげに香穂を見たが、呆れたように溜息を吐くばかりだった。煙草の吸殻や食べ物の残滓が所々目につくアスファルトも、茉莉絵と共にいるなら素敵な道になる。

 交差点を通過して109に入ると、香穂は茉莉絵の案内を受けるでもなく、むしろ茉莉絵を彼方此方へ引っ張り回した。衣服に興味を抱く前に琴乃を亡くし、過去の友人ともそういった話題を共有してこなかった香穂は、茉莉絵によってようやく素敵な話し相手を獲得したのだ。それにより、遠足時の小学生のように愉快な心地でいたのである。

「あっ、これ茉莉絵ちゃんに似合いそう!」

 パステルカラーを基調とした、乙女趣味的な服が多く並んだ店で、香穂は言った。ここまで連れ回された茉莉絵は疲れた様子を見せていたが、香穂の目には入っていなかった。

 香穂はレジ横のスペースに掛けられていた白レースのワンピースを手に取った。胸元や裾にリボンの編み込みがあり、アクセントとなっている。そばのマネキンが華麗に着こなすそれは、美しい茉莉絵の雰囲気にぴったりだった。茉莉絵は口をへの字に曲げながらも、ワンピース自体は好みだったようで、全身鏡の前で合わせていた。香穂は店員に声をかけ、茉莉絵を試着室に押し込んだ。

 待機する間、香穂はテナント内をうろついた。お姫様のような、乙女らしい服には憧れるが、やはりこういうのは茉莉絵のような女の子にこそ似合う。茉莉絵がこのような服装をして微笑んでくれたら、香穂はそれだけで満ち足りる。

 試着室から出てきた茉莉絵は頬を紅潮させていて、そのままレジにワンピースを持っていった。ショップバッグ片手の茉莉絵は、仕方なく買ったのだと言い訳しつつも、ほくほくとした顔をしていた。茉莉絵の内心を垣間見ることができた気がして、香穂は有頂天だった。学校では常に無表情でいた茉莉絵の様々な表情を知ることができたのだ。等身大の表情を見せてもらえる自分は、茉莉絵の中で少なからず特別な存在なのかもしれないのだ。

「やっぱり、茉莉絵ちゃんは可愛いね」

「な、なに言ってんのよ急に」

「なんでもないよ。さあ、別の場所に行こう」

「あんたは買わないの?」

「私はいいの。ほら早くっ」

 香穂は再び茉莉絵の腕を取り、エスカレーターを順々に下りていった。香穂が前、茉莉絵が後ろで乗る。茉莉絵が香穂の手を放そうとして腕を引くと、香穂は茉莉絵の足に向かって倒れそうになった。そんな攻防を繰り返しているうち、地上に出る階に到着した。あるブランドの店員と目が合い笑顔を投げられ、香穂は茉莉絵を引きながら笑顔を返した。

 初めて来たこの場所は明るくて楽しくて、女の子たちの微笑みが照り輝く温かいところだった。

 109を後にすると、香穂はようやく茉莉絵を解放した。茉莉絵に毒づかれながら宇田川方面へと戻っていく。香穂が、コスプレカフェの広告が挿入されたポケットティッシュを配布員から受け取ると、茉莉絵は言った。

「まったく。あんた、馴れ馴れしすぎるのよ」

「ええ、そうかな」

「あんたがこんなに面倒くさい奴だなんて思わなかったわ」

「……嫌いになった?」

 ポケットティッシュを握りしめ、香穂は茉莉絵を覗き込んだ。茉莉絵は少し怯んだようで、顔を背けた。

「そんなこと、言ってないでしょう」

 香穂は、笑った。

 二人はセンター街からマルイの方角へと歩いた。相変わらず人通りは激しい。アンケートへの回答を求め香穂に声をかけてきた女を、茉莉絵がやり過ごした。カラオケ店を通り過ぎ宇田川交番のある通りへ出た時、先導していた茉莉絵が不意に立ち止まった。つられて香穂も停止すると、後ろを歩いていた男性二人組に一睨みされ、平謝りした。

「茉莉絵ちゃん、どうしたの?」

「あれ。……英子よ」

 茉莉絵の目線の先には、駅の方から此方にやってくる一組のカップルがいた。群衆の中にあって頭一つ分大きな身長を持つ二十代くらいの男と、男の腕にしがみついて身を預けているのは、確かに英子だった。極度に短いスカートと胸元の開いたカットソーは、制服姿の英子からは想像もつかないほど派手な彼女を演出していた。英子は男に夢中で、香穂たちには全く気づくことなく、路地に入り込んで消えてしまった。

 香穂は深く息を吐いた。

「島岡さんて、あんな格好するんだねえ」

「……あの男、知ってるわ」

「え、」

「前に英子たちと遊んでる時寄ってきたナンパ野郎のうちの一人。あの男、今度は英子に手を出したのね」

 茉莉絵が、眉をひそめた。

「脳みそが下半身でできてんじゃないのってくらい、最低な男よ」

 茉莉絵はつばを吐くように言って、歩みを再開した。香穂は後を追う。

「ま、茉莉絵ちゃん。島岡さんを追わなくていいの?」

「どうして追うの」

「だ、だって、酷い男の人なんだよね。それなら止めないと」

「あんた、お人好しね。英子にも散々嫌なことされたんじゃないの。……まあ、私が言えたことじゃないけど」

 茉莉絵はふと歩みを止めて、香穂に振り返った。瞬間、茉莉絵の髪が風にそよぐ。高い建物の隙間から射す太陽は茉莉絵の天使の輪を煌めかせ、苺を香らせた。香穂は息を呑む。

「相手がまともがどうかなんて、見えなくなるのよ。恋をすると」

 茉莉絵は顔にかかった髪の束を、耳にかけた。

「だから、外野が何を言ったって無駄なの」

 香穂が決して口にできない台詞を、知らない世界を、茉莉絵は知っている。香穂はそんな茉莉絵に憧憬を抱くと同時に、茉莉絵がとてつもなく遠い場所にいる気がした。香穂が茉莉絵に追いつこうとしてもがいても、きっと茉莉絵には一生手が届かなくて、求めても得られない。それでも、ジャスミンの時よりはずっと近づけたと思いたいけれど。

「茉莉絵ちゃんは、どうして女の子が好きなの」

 茉莉絵を知れば、もっともっと近づけるかもしれない。確証などないが、可能性に香穂は縋りたかった。そのために、ずっと聞きたくて踏み出せなかったことを、無意識に口走ってしまったのであった。自らの愚行に気がつくと、香穂は戸惑った。

「ご、ごめんね。変なこと聞いて」

 茉莉絵は無言のままだった。自分の問いかけが、人ごみの喧騒に掻き消されて聞こえていなければいい。香穂は茉莉絵の手を握り、茉莉絵に背を向ける形で歩き始めた。

「理由なんてないわ」

 一本の路地に入った時、茉莉絵が言った。香穂は茉莉絵の顔を見ることができず、そのまま立ち尽くした。付近のラーメン屋の前には、昼時ということもあってか長蛇の列ができていた。各々スマホを眺めていたり、連れと会話をしていて、誰も香穂と茉莉絵には注意を向けない。

「昔から女が好きだった。男を好きになんてならなかった。周りの男や言い寄ってくる男がクズばかりだったからとか、それは理由になるかもしれないし、そんなこと関係なく私は女が好きなのかもしれない」

 香穂には、渋谷の雑踏がぐるぐると回って感じられた。茉莉絵の言葉は香穂にしか届いていない。

「別に、男を好きになりたかったなんて思ったことない。……でも」

 香穂は、ゆっくりと茉莉絵に振り向いた。

「女を好きで良かったとも、思ったことはないわ」

 香穂は走り出した。茉莉絵と、手と手でしっかりと繋がりながら、走って走って、雑貨屋の入口へと続く短い階段を駆け下りた。

 入口の自動ドアを避けて隅の小さなスペースにしゃがみ込んで、二人で荒い息を交差させた。状況を把握できていない様子の茉莉絵に、香穂は思いきり抱きついた。茉莉絵の首筋には一粒の汗が流れていて、それは甘美な匂いがした。

「ありがとう」

 香穂の胸と目頭は熱く、更に茉莉絵を抱き締めた。

「ありがとう。話してくれて」

「え、んどう」

「ありがとう。ありがとう、茉莉絵ちゃん」

 香穂はその体勢のままショートパンツから木綿のハンカチを取り出して、茉莉絵のうなじを拭った。茉莉絵は微かに体を震わせたが、香穂にされるがままでいた。

「え、遠藤。見られてるわよ、私たち」

「いいの。そんなこと」

 街行く人々は香穂の背中を歩いていて、香穂には自分たちが彼らの目にどう映っているのか、分からない。茉莉絵は彼らの視線から逃れるためなのか、香穂の肩に額を当てた。

 梅雨はどこで足踏みをしているのか、日本中がもう夏本番の暑さに囚われていた。距離がゼロになった二人の鼻孔には、夏の匂いと日焼け止めの匂い、互いの体液の幽香が流入した。渋谷という巨大な街の仄暗い一角で、二人はどこまでも互いだけの世界にいた。

「私、あんたが分からない」

 茉莉絵が、呟いた。

「私も、茉莉絵ちゃんが分からない」

 香穂が答える。

「でも、だからこそ知りたいって思うの」

 香穂は茉莉絵を立ち上がらせ、彼女のスカートの裾を払った。そして雑貨屋に入店した。店内は広く、階ごとに販売品目も異なっているようであった。黒光りするこのフロアでは文房具を扱っているようで、ボールペンや手帳、ポストカードにハサミと、ありとあらゆる品物が揃っていた。

 香穂は目当ての商品の在り処を見つけ出すため、徘徊した。それを発見するとその場に駆け寄り、遅れて茉莉絵もやってきた。

「茉莉絵ちゃん、これやろう」

 香穂が手にしたのは一冊のノートだった。所謂交換日記というやつで、香穂が小学生の時分に女子の間で流行ったものである。今目の前のノートの表紙には、ピンクの下地に羽の生えたウサギが描かれており、その周囲にハートや星があしらわれていた。この店に交換日記はこの一種類しか置かれていないようで、三段の商品棚の下段にひっそりと存在していた。この辺りのコーナーのボスは、可愛らしい表紙の大学ノートである。

「こんなのやってどうすんのよ。子供じゃないんだから。ていうか、こんなのまだあったのね」

「うん、あったんだよ。ね、色々書こう。私は茉莉絵ちゃんのこと知りたいし、私を知ってほしいし」

 茉莉絵の判断を聞かぬまま、香穂はそのノートを胸にコーナーを移動した。色とりどりのカラーペンが陳列されたスペースには、中学生らしき三人が横並びになってボールペンを物色する姿があった。最近の人気は詰め替え式のもので、自分で好みの本体とリフィルを選ぶことができる。三人はあれが良い、これが良いと、笑顔を爆発させながらそこにいた。

 香穂はそれを見送り、三人の向かいの棚に回り込んだ。

「茉莉絵ちゃんはこれ」

 香穂がそう言って茉莉絵に渡したのは、香り付きのペンだった。色は赤で、苺の香りがするものである。香穂が自分のために取ったのは、バニラの香りがするクリーム色のペンであった。

「このノートに書く時にはこれを使うの。それで、このペンのインクが終わるまではやりとりを続けるんだ。ね、これで期限付きになったし、いいよね」

「いいよねって、あんた勝手に」

「決まり! じゃあ、買ってくるね」

 香穂は茉莉絵の制止を無視してレジに向かった。最も手前のレジで手早く会計を済ませ、茉莉絵のもとに戻る。茉莉絵は腕組みをして、肩をすくめた。

「あんた、もう少し人の話を聞くようにした方がいいわよ」

「そうかな。あ、茉莉絵ちゃん。今日のお夕飯はハンバーグにしよう。一緒に買い物しようね」

「……そういうところだって言ってるの」

 二人は店の出口から再び渋谷の騒々しさの中に溶け込んだ。香穂にとっては、何年ぶりかの友人と過ごす豊かな休日だった。


 その夜、茉莉絵の入浴中に香穂はリビングにいた。テーブルについて、早速茉莉絵からの交換日記を読んでいた。嫌々ながらも一番手として執筆した茉莉絵の文字から、苺が香る。

「遠藤と渋谷に行った、以上。あはは、以上って」

 嬉しいニュース、特になし。悲しいニュース、特になし。嬉しいと感じてくれたことがなかったのは寂しいが、悲しいことがなかったのには安心する。お悩み相談、と銘打たれたスペースには何も書かれていなかった。私の秘密、という欄も同様である。

「……いない」

 恋のお話。好きな人はいるか、の問いに対して、茉莉絵はたった三文字で答えていた。香穂の胸中で漣が立った。

 ここに記述された言葉は真実なのかもしれないし、或いは強がりなのかもしれない。香穂には分かり得ないことだ。だが一つ、香穂は茉莉絵に隠し通さねばならないことを握っている。

 例え茉莉絵には既に桐生雅への想いがないとしても、桐生の想い人が誰であったのか、打ち明けることはできない。秘密にすることは、ある意味で香穂の保身のためでもあるのだった。

 視線を移動して、次の担当に一言、のスペースを見る。そこには殴り書きのような少し荒っぽい文字で、インクをさっさと終わらせる、と書かれていた。

 一体どういうことなのか、香穂が首を傾げていると、茉莉絵がリビングに入ってきた。首にフェイスタオルを掛けて真っ直ぐにキッチンを目指した茉莉絵は、冷蔵庫から天然水を出して呷っていた。どうやら昨日一日この家で過ごした時点で、茉莉絵の辞書から遠慮の文字は削除されたようである。香穂は立ち上がりキッチンカウンターから身を乗り出した。

「ねえ茉莉絵ちゃん。インクを終わらせるってどういうこと?」

 茉莉絵はペットボトルから唇を離して、香穂に振り返った。口の端から零れ落ちた水滴が、茉莉絵の鎖骨にまで伝っていった。

「そのままの意味よ」

「そのままって、」

「すぐに分かるわ。いいからお風呂入ってきなさいよ」

 キッチンを出てきた茉莉絵は香穂の背中を両手で押して、リビングを追い出した。締め出しを食らってしまった香穂は、首を捻りつつ脱衣所に入った。

 三十分ほどで入浴を終えてリビングの扉を開けると、そこにいた茉莉絵がテーブルに向かって何かを動かしていた。それは茉莉絵用の苺のペンであった。

「ま、茉莉絵ちゃんっ」

 動転した香穂が駆け寄ろうとすると、足許にあった紙切れに足を取られて尻餅をついた。腰をさすりながら皺になった紙切れを手繰り寄せると、それはパチンコの広告であった。恐らくは新聞に折り込まれていたもので、表面がつるつるとした素材でできている。

「な、なんでこんなものがあ?」

 香穂はフローリングに座り込んだまま、素っ頓狂な声を漏らした。周囲を見渡すと、茉莉絵の足許には近所のスーパー、不動産、求人情報といった多種の広告が散乱していた。状況を見切れない香穂は、頭を掻く。

「あははっ」

 不意に、大きく、でも細やかな笑い声が香穂に降り注いだ。顔を上げると、椅子の上の茉莉絵が腹を抱えながら香穂を見下ろしていた。予想だにしない光景に、香穂は茫然自失として目を見開いた。

「あんた、大丈夫? 凄い音したけど。ふふっ」

 茉莉絵は指先で目許を拭いながら、言った。

「本当、お手本みたいな転び方ね。あははっ」

 裏返してみなさい、と言われ、香穂はパチンコの広告をひっくり返した。そこには赤いテディベアが描かれていた。立体感があり毛並みもリアルで、首のリボンも愛らしい。今にも平面から抜け出てきそうな、イラストとは思えないほどの出来栄えであった。

「分かったでしょう、インクをさっさと終わらせるの意味」

 他の広告の裏にも、ネコや百合の花のイラストなど、様々な題材のものが描かれており、そのどれもが素晴らしい完成度であった。たった一本のペンで、陰影もくっきりと表現されている。

「ぼちぼち赤だけじゃ飽きたし、あんたのペンも使わせてもらおうと思ってたんだけど」

 茉莉絵は少し意地悪そうに、香穂のクリーム色のペンを振った。茉莉絵を見上げて、それから目をイラストに戻した香穂は、自分の頬がだらしなく緩んでいくのを感じた。そういえば昨年、茉莉絵は美術の時間の写生画が高く評価され、都のコンクールで優秀賞を受賞したのだった。

「……あら、噛みついてこないの。いつものあんたなら、」

「茉莉絵ちゃんっ」

 香穂は広告を空中に放り、膝立ちになって茉莉絵の腰に抱きついた。香穂の頬にネグリジェがこすれる。頭をぐりぐりと動かすには背凭れが邪魔だった。

「え、遠藤っ? なに、」

「茉莉絵ちゃん」

 狼狽えた様子の茉莉絵に向かって、香穂は微笑んだ。

「やっと、茉莉絵ちゃんの笑った顔が見られたね」

 香穂が言うと、茉莉絵は漫画のように赤面した。香穂を払いのけた茉莉絵はテーブルの方に顔を背けてしまう。香穂は茉莉絵の左隣の椅子に腰掛けて、その顔を覗き込んだ。追いかけっこのように、茉莉絵は香穂の反対側を向いた。

「もう。茉莉絵ちゃん、照れなくていいのに」

「て、照れてないわよ。馬鹿じゃないのっ」

「でもまさか絵を描いてインクを減らそうとするなんて。あはは、茉莉絵ちゃんって面白い」

「面白いってあんたね」

「ふふ、褒めてるんだよ」

 香穂はまだ何も描かれていない広告を撫でた。ここに新たに生み出されるのは、どんなものだろう。日記を交換し合う期間が短くなってしまうのは残念だが、それ以上に茉莉絵の手によって吹き込まれる息吹を見たい。

「ねえ茉莉絵ちゃん。明日は何をしよっか」

「別に、なんでもいいわ」

 茉莉絵が正面に向き直った。茉莉絵が握る苺のペンを見つめて、香穂は言った。

「明日も、明後日も、学校でもどこでも、ずっと一緒だよ。茉莉絵ちゃん」

 茉莉絵の背後にある琴乃の写真に、香穂は微笑みかけた。

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