ぎこちない距離感
初めて自宅を案内する友人がまさか茉莉絵になるなんて、香穂は思いもしなかった。少し警戒したように玄関を上がってくる茉莉絵は、あの日のサーモンピンクのワンピースを纏っている。その緊張は香穂にも伝染したが、それでも香穂は頬を綻ばせた。
茉莉絵の代わりに巨大なボストンバッグをリビングに運ぶ。それをテーブルに置き、茉莉絵を座らせた香穂は、冷蔵庫から苺水を出した。氷と一緒にグラスに収まったそれは涼しげで、可愛らしかった。
フェアリームーンに茉莉絵からのダイレクトメールが届いて、香穂は居ても立っても居られなくなった。昼休みに荷物を持って学園を出た香穂は茉莉絵を迎えて、この家に招き入れたのだ。人目を盗んでの早退はスリリングで後ろめたさもあったが、茉莉絵が自分を求めてくれたことが嬉しくて、この奇跡を逃したくないと思った。しばらくは茉莉絵と一つ屋根の下で生活できるのだから、嫌でも胸は弾んだ。
「はい、茉莉絵ちゃん」
「……ありがとう」
普段は凜然とした雰囲気の茉莉絵が、打ち解けない様子で苺水に口をつけていた。それすら愛らしく、香穂は目尻を下げて腰掛ける。茉莉絵と同じように苺水を飲んで、頷いた。
苺水は甘酸っぱい。茉莉絵の象徴である、苺。
「私、着替えてくるね」
香穂はそう言って、急いで自室に向かった。制服をかなぐり捨て、フード付きのパーカーとガウチョパンツを身に纏う。ハンドミラーを覗いて手櫛で髪の毛を整え、制服をハンガーに掛けて部屋を出た。ここまで、所要時間はおよそ三分といったところであった。部屋の扉を閉めると、茉莉絵の隣にいるには自分の格好はあまりにもみすぼらしい気がしたが、頭を振ってリビングに戻った。
リビングでは、茉莉絵が棚の前で琴乃の写真を持って立っていた。香穂に気づいた茉莉絵は、香穂の方に写真を向けて言った。
「これ、あんたの母親?」
茉莉絵の瞳が儚げで、香穂は茉莉絵の手に自分のそれを重ねて、答えた。
「うん。……私が七歳の時、亡くなったの」
「……そう」
茉莉絵が香穂を見つめた。香穂は狼狽しながらも、視線を返した。
「あんたに、似てるわね」
思いも寄らない言葉をかけられて、香穂は目を見開いた。茉莉絵に触れていることが急に恥ずかしくなって、慌てて手を放す。茉莉絵は静かに写真立てを元の位置に戻していた。
「そ、そうだ。私の部屋に行こう、茉莉絵ちゃん」
熱くなった顔を持て余しながら、香穂は言った。やはり香穂がボストンバッグを持とうとすると、茉莉絵の手が伸びてきて、一方の取っ手を掴んだ。茉莉絵は無言だが、二人で運び出そうということらしい。香穂は微笑んだ。
香穂の部屋に着くと、茉莉絵は真っ先に四段の本棚に関心を示した。香穂の部屋にある目新しいものは本棚くらいなので、それは当然であろう。香穂は『家なき娘』を取り出して、茉莉絵に手渡した。
「このお話の主人公ね、ペリーヌっていうの。ペリーヌが使った偽名がオーレリーで、私のオーレリーもそこから取ったんだ」
「……へえ」
「あれ、あまり興味ない?」
「あまりどころか、全然よ」
そう言いつつも茉莉絵は『家なき娘』をぱらぱらと括っていた。香穂は『赤毛のアン』や『あしながおじさん』など、様々に本棚から引っ張り出して紹介した。知らず知らず饒舌になっていた香穂を止めることもせず、茉莉絵は聞いていた。
茉莉絵の関心は物語のあらすじではなく、本そのものにあるようだった。茉莉絵は両膝を内側に倒して座ったまま、『牧場の少女』を手にして、言った。
「あんたの本、随分古いのね」
香穂の少女小説は多くが日焼けし、年月の経過した本独特の香りを放っている。図書館等で借りる本が持つそれらには若干の不快感が含まれるが、香穂にとってこの本棚にあるものだけは別だ。古書である証は、香穂の中で愛おしさを加速させる。
「ここにある本はね、ほとんどお母さんのものだったの。お母さんが子供の頃からずっと読んでて、大好きだった本なんだって」
香穂はそう言って、まっさらなベッドに飛び乗った。『少女パレアナ』を両手で高々と掲げながら、仰向けになる。それから本を胸の上に置いて、首だけを茉莉絵の方に向けた。
「お休みの日はこうやってごろごろしながら本を読んでるの。すっごく幸せだよ」
香穂は笑った。茉莉絵がここにいること、琴乃の少女小説に気づいてくれたことが、浮かれるほど嬉しかった。茉莉絵は少し唖然としているようだったが、肩をすくめた。
「暇人ね」
「あはは、そうかも。でも茉莉絵ちゃんは? お休みの日は何してるの?」
香穂は起き上がって正座した。茉莉絵の情報を、香穂はほとんど持ち合わせていない。どんな些細なことでも、茉莉絵のことならきちんと知りたかった。
茉莉絵は黙っていたが、何度か躊躇う素振りを見せた。それから決断したように香穂を見据えて、言った。
「うち、メイドがいるのよ」
「メイドさんっ。凄いね」
「抱き合っていたのよ、そのメイドと」
時間が止まった。香穂と茉莉絵はその体勢のまま、互いに見入っていた。
性的なことに無縁に生きてきた香穂は、茉莉絵の言葉をすぐには理解できなかった。茉莉絵の言葉を咀嚼し結論を導き出した瞬間、香穂の顔は火照り、茉莉絵から目を逸らした。自分と同い年の人間が既にそういう経験を済ませているという現実が香穂にはむず痒くて、上手く反応ができなかった。
香穂が遠慮がちに茉莉絵に視線を戻すと、茉莉絵は無表情で本に目を落としていた。香穂はその全身を、上から密かに観察して、観察してしまったことを恥じ入った。香穂にはやはり、茉莉絵の服の下に隠されたものを想像するなんてことはできなかった。そもそも知識がないし、香穂は茉莉絵のように、レズビアンではない。少女小説に登場するヒーローに憧れてしまうような、まだ初恋すら知らない少女だ。そんな香穂が唯一はっきりと確信できるのは、茉莉絵の肉体は香穂とは比にならないほどに美しく、神々しいのだろうということだけだった。
香穂はしめやかにベッドを下りて、茉莉絵の隣についた。茉莉絵が読書しているのは『小公女』だった。
「その本、大好きなの」
茉莉絵は目線だけを香穂に向けた。香穂は紙面を撫でた。
「セーラみたいに強くなれたらなって、ずっと思ってた。結局なれなかったけど」
香穂は苦笑した。茉莉絵は、何も言わなかった。
「私ね、茉莉絵ちゃんこそセーラみたいだって思うの」
「……可哀想ってこと?」
「ち、違うよ。なんて言うか、えっと」
香穂は口籠った。茉莉絵がセーラのようだというのはずっと考えていたことであったが、いざ説明するとなると、上手く言葉に表せなかった。思考を回転させてようやく見つけ出した答えを、口にした。
「そう。プリンセスみたいだからかな」
「はあ?」
「だから、茉莉絵ちゃんはプリンセスに相応しいなあって。セーラみたいっていうのは、そういうこと」
茉莉絵はぽかんと口を開けて、香穂を見た。常の茉莉絵では決して見せないその表情が可愛らしく、香穂の頬が緩む。友人に対して、心の底から愛らしさと慈しみを感じるのは、初めてのことだった。
香穂は茉莉絵の両頬に触れて、覗き込んだ。茉莉絵は真っ赤になっていて、素っ気なく香穂を払った。
「あんた、よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるわね」
「でも、本当にそうなの。茉莉絵ちゃんは私にとってプリンセスだよ」
美麗な容姿だけではない。茉莉絵が湛える威厳や奥にある優しさなど、全てが香穂にとって手の届かない素晴らしさであった。茉莉絵のような人間が自分の友人でいてくれるなんて、琴乃に報告したら飛び上がって歓迎してもらえることだろう。
「……王子様じゃなくて女が好きなプリンセスなんて、聞いたこともないけど」
茉莉絵はそう言って、香穂に背を向けた。その背中は丸くて小さかったため、恐らく拒絶の仕草ではないだろう。香穂はまた微笑んだ。
「そういうプリンセスがいたって、良いんじゃないかな」
「あんたねえ」
「あ、そうだ。茉莉絵ちゃんお昼もう食べた? お夕飯はどうする?」
茉莉絵が非難がましい瞳を香穂に投げたが、香穂は気に留めなかった。
「茉莉絵ちゃんの好きなところに食べに行こうよ。私の作ったものじゃ茉莉絵ちゃんの口に合わないだろうし」
「あんた、料理できるの」
「一応ね。家に一人でいることが多いから、自然に覚えちゃった」
香穂はカーペット上に散乱する少女小説を本棚に収納した。『小公女』だけは茉莉絵のもとに残る。香穂は茉莉絵に回転椅子を勧めて、自分はベッドの端に腰掛けた。
「あのお弁当も?」
「あ、うん。そうだよ。ねえ、茉莉絵ちゃんの好きなものってなに? この辺にお店あるといいけど」
学校行事以外で友人とお泊りなんて経験したことのない香穂は、興奮していた。同じ空間の中で食事し、遊び、就寝する。それはやはり特別なことだった。
「別に、店なんて行かなくていいわ」
「え、」
「あんたが前にお弁当に持ってきたあのオムライス。……あれでいいから」
茉莉絵は机に向かって本を読み始めてしまった。香穂はしばしぼんやりとしていたが、目を見開いた。茉莉絵が自分の手料理を食べると言ってくれたこと。自分の手料理が、茉莉絵の目に少なからず魅力的に映っていたのだろうということ。香穂は心底舞い上がっていた。
それから二人で静かに読書をし、頃合いを見計らって香穂は階下で食事の支度をした。普段玉子は焼き上げてしまうが、とろみが残っている方が茉莉絵の好みだろうか。味付けは薄めか、それとも濃いめか。食べる人間のことを考えながら取り組む料理はいつも以上に難しく、楽しかった。
結局香穂は玉子にとろみを残しつつ、上にビーフシチューまでかけてしまった。ケチャップのみで済ませるのとはまた違った味わいの深さがある。時間も手間もかかったが、茉莉絵の口に入るその光景を思い浮かべて、香穂は踊るように調理をした。
出来上がったオムライスをカレー皿に盛りつけ、レモンスカッシュとともに食卓に並べた。リビングに下りてきた茉莉絵はそれを見て何も言わなかったが、一瞬驚いたような表情を垣間見せたことが香穂に笑顔をもたらした。
食事中、会話はなかった。香穂も、茉莉絵に感想を尋ねるなどという野暮なことはしなかった。レモンスカッシュのさくらんぼが茉莉絵の唇に吸い込まれ、ヘタと種がナプキンにくるまれる。茉莉絵のカレー皿が綺麗になった。それだけで、香穂は満足だった。
香穂が風呂を沸かす間、茉莉絵はリビングで『若草物語』を読んでいた。『小公女』はものの数時間で読破されてしまったようである。背筋を伸ばして読書に励む茉莉絵は、知的で美しい。
「茉莉絵ちゃん。明日は土曜日だし、どこかお出かけしない?」
「どこに」
「どこでも。そうだな、ショッピングしようよ。茉莉絵ちゃんの好きなもの買おう」
茉莉絵は、間を置きながらも頷いた。
香穂は茉莉絵を先に風呂に入れ、その後で自分が入浴した。浴室はシャンプーの香りに満ちており、甘い感覚が肌に溶け入る。湯船に浸かり微睡んでいると、鼻に湯が入り慌てて飛び起きた。
浴槽の中で体育座りをして、香穂は浸かりきらない肩に湯をかけた。先程まで茉莉絵の体を包んで温めていた湯が、今は香穂を癒している。そう思うとなんだか、茉莉絵の痕跡がそこに漂っている気がした。
――抱き合っていたのよ、そのメイドと。
未知なる茉莉絵の体。茉莉絵のメイドも、この湯船も、それを知っている。この湯は、茉莉絵に触れていたのだ。香穂は口許まで浸かりながら、両の二の腕を抱き締めた。そんなことをしても、香穂の知らない美しいものを、湯船は教えてくれなかった。
香穂は風呂を上がってリビングに戻ったが、茉莉絵はいなかった。急いで自室に行くと、茉莉絵は来客用に敷いた布団に突っ伏していた。その傍らには『若草物語』があり、とある頁に右手が挟まれていた。安らかな寝息を立てる茉莉絵を見て、香穂はくすくすと笑う。
「おやすみ、茉莉絵ちゃん」
香穂は茉莉絵の布団を掛け直した。茉莉絵は桜色のネグリジェを着ていて、風呂上がりの頬は上気が治まりきっていない。艶やかなその姿に手を伸ばして、香穂は茉莉絵の黒髪を流した。そこからは香穂のシャンプーと同じ香りがして、それなのに茉莉絵独特の苺の芳香もなくなってはいなかった。
きっと、明日からも一緒にいられる。きっと、明日からはずっと一緒だ。香穂は電気を消して、自分のベッドに潜り込んだ。