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天運の少女たち  作者: 麻柚
第1章 香穂
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いじめ

 五月の穏やかな青空は、無邪気で、憎らしいほど優しい陽光を全ての生物に降り注いでいる。まるで自分を嘲笑っているかのようだと、遠藤(えんどう)香穂(かほ)は太陽に背を向け昇降口へと吸い込まれていった。

 砂の詰まった上靴。ゴミの積み上がった机の上。射るような蔑みの目線。鋭利な悪意は、毎朝、登校する香穂に容赦なく突き刺さる。

 香穂は周囲の視線から逃れるように俯き、ゴミを片付け席に着いた。教室中央という机の配置は嫌でもクラスメイトの関心を引く。鞄の荷物を取り出しながら、香穂はもう何度目か分からないながら自らの席を呪った。

 不意に、頭上が暗くなり机に影が落ちる。それが、苦しみの始まりを告げる合図だった。

「あら。今日も来たの、貧乏人」

 前と左右、席の三方を囲まれる。香穂は顔を上げられず、唇を噛んだ。今日も耐えなければならない。突然髪の毛を掴まれ頭を引き上げられると、目の前に、唇の端を緩ませた島岡(しまおか)英子(えいこ)が現れた。

「無視してんじゃないわよ」

 後ろに突き飛ばすようにして香穂を解放した英子は、彼女の両隣に立つ長谷川(はせがわ)綾葉(あやは)福田(ふくだ)(ゆう)と目配せをし合い、くすくすと笑った。香穂は膝に拳を置き、ただじっと嵐が過ぎ去るのを待つ。宙を彷徨った視線が、英子の奥、教卓に頬杖をつき気怠気に此方を見遣る少女の姿を捉えた。香穂は唾を嚥下して、その少女を見つめる。

「ねえ茉莉絵(まりえ)さん。今日はあたしの家でパーティーをやるの。貴女も来る?」

 英子たち三人は振り返って、少女――水谷(みずたに)茉莉絵に声をかけた。茉莉絵は相変わらず無色の瞳で、行かない、と答える。ぶっきらぼうな言葉しか紡がない茉莉絵の唇は、妖艶なまでに紅い。

 このクラスには二種類の人間がいる。王と、それ以外だ。水谷茉莉絵は紛れもなく香穂のクラスに君臨する王だった。英子をはじめとした臣下を数人、常に引き連れ、その権力で圧倒的多数の平民を支配する。王には誰も逆らえない。だから誰もが、香穂から目を背ける。王に制裁されるのは平民としての在り方を誤ったからであり、それは自業自得なのである。香穂はこのクラスで唯一の、平民以下に堕ちた人間だった。

 英子たちの注意が茉莉絵に移ったことで、香穂は一時難を逃れた。茉莉絵が直接に香穂を攻撃することはほとんどない。彼女はいつも、英子たちの奥で香穂に憐れむような眼差しを送るだけだ。しかし、香穂にはそれこそが最も大きな恐怖の対象であった。長い睫毛に縁取られた漆黒の双眸は美しく、だからこそ余計に冷酷で、香穂の背筋を凍らせた。

 朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴ると、友人との談笑を楽しんでいたクラスメイトが各々の席へと戻っていく。教壇に立っていた茉莉絵は厳かに壇を下りて、香穂のすぐ横をすうと通り過ぎていった。直後、苺のような甘酸っぱい香りが香穂の鼻を掠める。その馨香と、唇の紅。二つが、茉莉絵という王の象徴であった。

 担任教師が入場し、教壇から全体を見渡す。彼の瞳は刹那香穂の机を認めたが、何事もなかったかのように移動した。彼は恐らく、香穂の机が意図的に傷つけられていることに気がついた。それでも香穂の机が交換されることはなく、緊急のクラス会議が開かれることもない。それは、今年度初めて担任を任されたこの若い男性教師が事なかれ主義者であるためではない。王は、この学園の教師たちでさえ統べているのだ。

「今月末には林間学校を控えていますが、浮き足立つのは程々に。体調管理には充分注意して下さい」

 事務的な連絡事項が淡々と続く。思考に止まることなく耳から抜けていくそれらを聞きながら、香穂はこの時間が終わらないでと思う。終わりを告げるチャイムは大嫌いだ。ホームルームも授業も、永遠に終わらなければいい。終わらなければ英子たちはやってこない。終了のシグナルは、地獄の始まりを伝達する。

 教室前方、黒板の左上に設置されたアナログ時計を睨む。あと一分。終わらないで。私を暴力から、罵倒から、あの人たちから守って。秒針は刻々と進んでいく。そして、無慈悲にも時計が午前八時四十分を指した瞬間、終わりのチャイムは静かに響いた。

 また、時間は止まらなかった。時の流れを止めたいだなんて誰しもが一度は願うことなのに、どうしてそれを叶えてくれる発明は、いつまで経っても誕生してくれないのだろう。科学が時間を超越する日はいつ訪れてくれるのだろう。

 平民という地位すら失った人間は、奴隷として一生、虐げられ続けなければいけないのだろうか。


 昼休みになると、香穂は弁当を入れた巾着を持って教室を後にした。王の領域を脱出できる限られた時間だ。二年三組の教室を脱け出た香穂は、そのまま東階段を利用して四階まで上がる。上がりきるとすぐ左に見えてくるのが、社会科準備室だった。

 誰もいないと分かっていながらも、遠慮がちにドアを開け室内を確認し、入る。地図、地球儀、年表といったものが棚に押し込まれていたり床に転がされていたりする中を注意深く進むと、奥に一セットの机と椅子が見えてくる。そこで香穂は昼食を摂る。

 四階には教室はなく、各教科の準備室がずらりと並んでいるだけでいつも人気がない。とりわけこの社会科準備室はもう何年も使われていないらしく、香穂が初めてここを訪れた時は埃と黴にまみれていた。いくら掃除をしても綿埃が発生するため食事には極めて不向きな空間だが、他者の来訪を避ける点では確実だ。すぐ横の窓から射す光が机の上の小さな埃を照らしていたので、払った。

 弁当を広げる。香穂自身の手作りであるから、開ける瞬間の楽しみはない。香穂はハンバーグを箸で摘んだ。咀嚼するが、何の味もしない気がした。

 香穂は、葉桜が風に揺れる様をぼんやりと眺めた。初夏の空気は生温く、鬱陶しいくらい体に纏わりつく。それでもこの社会科準備室は、寒い。言い知れぬ冷気が足許に絡まり全身に広がって、骨の髄まで染み渡る。

 寒くて一人ぼっちの部屋。『小公女』でセーラに充てがわれた屋根裏部屋も、こんな風だったのだろうか。暖炉があっても火の気はなく、暗くて不衛生な部屋。食事を抜かれたり殴られたり、そういうことにセーラはあの屋根裏部屋で生活しながら耐えた。比べて、香穂は食事をきちんと摂れるし、突き飛ばされたり足をかけられることはあっても殴られるまではいかない。セーラのように、隣にいてくれる仲間が香穂にはいないけれど。

 直接生死に関わるような厳しい環境を仲間とともに乗り越えたセーラと、精神的な苦しみを孤独に忍ぶ香穂。セーラは最終的に幸福を取り戻したけれど、香穂はきっと、何もかも取り戻せない。

 制服のプリーツスカートのポケットからスマホを取り出した。香穂は迷うことなくフェアリームーンをタップし、マイページからお気に入りユーザーページへと飛ぶ。

 フェアリームーンは女性専用の交流アプリだ。ユーザーはそれぞれマイページやブログを持ち、他のユーザーとコメントを交換し合うなどして様々に交流することができる。別に全ユーザーが利用できる掲示板もあり、目的に合った板を使用し意見を交わすことが可能だ。

 香穂がお気に入りに登録しているのはたった一人のユーザーだった。ジャスミン、というハンドルネームをタップすると、その名の通りジャスミンの花のアイコンが一番に表示され、ジャスミンのマイページが画面に現れる。彼女のブログが更新されていないかと覗いてみたが、最終更新は四日前で止まっていた。香穂は溜息を吐き、スマホを仕舞う。

 いじめを受けている自分の唯一の味方が、顔も本名も分からないネットの向こう側の人間だと言ったら、何も知らない人間は自分のことを笑うのだろう。それでも香穂はジャスミンにしかいじめを打ち明けられないし、王を恐れるクラスメイトや教師は誰も手を差し伸べてくれない。香穂にとってジャスミンは母親であり姉であり、自分を見ていて、思っていてくれる大切な人だ。

 香穂は目を閉じてジャスミンの姿を想像した。年の頃は恐らく大学生。艶やかで風に靡く長い黒髪、大きくて愛らしい瞳は上向いた睫毛で飾られている。色白で、その分唇の淡い桃色が綺麗に映えるのだろう。世界一、美しい人なのだろう。

 ジャスミンの白く細い指先が香穂のショートボブを梳く。ジャスミンが香穂を抱き締めると彼女の薫香が香穂の全身を包み、彼女の体温が香穂へ伝染して調和する。香穂は瞼の奥で、柔らかい腕の感触と温もりを感じた。

 放さないで。ずっとずっと、こうしていて。

 香穂はゆっくりと目を開けた。すぐそこにあったはずのジャスミンの気配は、もうなくなっていた。確かにあったはずなのに、香穂はそれを決してその目で見ることができない。

 何故、消えてしまうのだろう。貴女はこんなに、私のそばにいるじゃない。

 香穂は無味の玉子焼きを飲み込んで、教室という最悪の現実を思い出した。


 放課後になった。香穂は教材係の仕事として、今日までが期日となっている古典のプリントを一人で回収していた。本来教材係は五人いるのだが、英子辺りが香穂に協力するなと言って回ったらしい。教材係である葛城(かつらぎ)正美(まさみ)横山(よこやま)千夏(ちなつ)の二人と目が合ったが、申し訳なさそうに逸らされた。二人は教卓の前に立つ香穂にプリントを渡すと、そそくさと帰っていった。

 粗方回収が済んだところで枚数を確認すると、四枚足りない。顔を上げると、席に着く茉莉絵を囲う英子たちが笑って香穂を見ていた。仕事を終えねば帰宅はできない。香穂はプリントを傍らに抱え、茉莉絵たちに近寄った。

「プリント、提出お願いします」

 香穂が左手を差し出すと、英子は香穂の右脇からプリントの束を抜き取り床にばらまいた。プリントは四方八方へ床を滑っていく。英子たちのいやらしい笑い声が響く中、香穂は落ちたものを掻き集めた。ちらと目を上げると、茉莉絵は無表情で足を組み、香穂を見下ろしていた。

 奴隷を直接に虐げ、嘲笑するのは王の臣下たちだ。王は決して笑みを見せない。それでも奴隷を虐げている最高権力者は、紛れもなく王なのだ。

 香穂は、プリントを拾い終えて立ち上がると、真っ直ぐ茉莉絵を見つめた。そして茉莉絵にだけ向かって「水谷さん」と手を伸ばした。

 茉莉絵がじっと香穂を見るので、香穂も視線を返した。教室には茉莉絵たちと香穂以外誰もおらず、水を打ったような沈黙が広がる。香穂は自らの感情が瞳に映って茉莉絵に伝わらないように、意識して表情を隠した。悲しみや苦しみを茉莉絵にだけは悟られたくないという、それは香穂のプライドだった。そんな香穂が面白くないのか、茉莉絵は下唇を噛んだ。

 茉莉絵が立ち上がった。彼女の椅子が後退し後ろの机に激突して鈍い金属音が鳴るのと、香穂の体が茉莉絵の両手に寄って傾くのとは同時だった。香穂は尻から床に叩きつけられ、バラバラに宙を舞ったプリントが香穂の頭上に降り注ぐ。茉莉絵は体を震わせ歯を噛みながら、香穂を睨み下ろしていた。その瞳には茉莉絵が時折見せる独特の色が映っていて、香穂は言葉を失う。茉莉絵から目を背けられなくなって、何も言えなくなる。

 どうせなら、ありったけの憎しみを向けてくれたらいいのに。

「なんなの、あんた」

 息を荒げながら、茉莉絵が言った。

「……気持ち悪いっ」

 絞り出すように叫んで、茉莉絵は鞄を掴み教室を走り出ていった。英子たちは香穂に、死ね、と吐き捨てて、茉莉絵の後を追っていった。香穂が体を動かすと、足と腹の間に挟まっていた一枚のプリントに皺が寄る。立ち上がれないまま、香穂はそのプリントに目を落としていた。

 気持ち悪い。茉莉絵の放った言葉が、香穂の頭の中で反響する。気持ち悪い。気持ち悪い。

 気持ち悪いって、なに。

 心が凝り固まっていて涙さえ出てくれない。思いきり泣くことができたならいっそすっきりするだろうに、涙腺が鋼鉄で固められたようで、一滴も零れ落ちてこない。茉莉絵は香穂を、泣かせてもくれない。あの人の目が、そうさせる。

 笑わないで。蔑まないで。死ねだなんて、言わないで。

 どうして貴女は、悲しそうな瞳をするの。悲しいのは、泣きたいのは、私なのに。


 プリントを掻き集めた後で、香穂は職員室へ向かった。放課後静まり返った廊下では、誰ともすれ違うことはなかった。活発に動き回る運動部を窓の外に見ながら、香穂は職員室のドアを開けた。そこにいた何人かの教師がドア口に視線を投げたが、彼らはそこにいるのが香穂だと分かると、また一斉に目を背けた。誰も、茉莉絵には、彼女の父親には、逆らえない。いや、逆らうことは許されない。

「遠藤さん。ありがとう」

 だから、香穂に笑顔を振り撒くこの桐生(きりゅう)(みやび)という教師は異端であり、革命家なのだ。

 古典担当の桐生は美人で若々しいが、それ故に正義感に溢れすぎていた。元々一年次の香穂の担任で、成績優秀な香穂に目をかけていた彼女であるが、いじめを察知してからは益々香穂を気遣っている。何故他の教師はいじめを見て見ぬ振りするのか、首謀者は誰なのか、そんなことを問いかけられても香穂は何も言えなかった。

 プリントの束を桐生に手渡す瞬間、桐生の指先が香穂の手の甲に触れた。桐生ははっとした様子で香穂の手を取り、見つめた。そこには先程突き飛ばされた時にできた切り傷があり、香穂は鳥肌が立った。

「遠藤さん、ちょっと」

 桐生は少しく眉をひそめて言うと、そのまま香穂の手を引いて職員室から連れ出した。二人は二階の東端にある職員室を出て階段を上り、四階の国語科準備室へと辿り着いた。それまでの間、沈黙は香穂をいたく苦しめた。

「貴女にこんなことをするのは、水谷さんなのね」

 桐生は香穂をパイプ椅子に座らせると、そう切り出した。とうとう桐生に感づかれてしまったと、香穂は俯く。

「先生たちが貴女を助けない理由も、それで分かったわ」

「…………」

「でもこんなの間違ってる。例え水谷さんだろうと、誤っている生徒を正すのが教師なのに」

 革命家は得てして熱意と理想を掲げて権力者に反旗を翻す。だが彼らは、その分現実を見失っている。王に逆らった革命家はどうなるか。

「ねえ遠藤さん。私が水谷さんに言うわ。もうこんなことはやめなさいって」

「駄目っ」

 咄嗟に口走っていた。香穂の脳裏に、茉莉絵の瞳がよぎっていた。

「どうして? 安心して、貴女のことはちゃんと守るから」

「ほ、本当にやめて下さい。私なら大丈夫ですから。自分でどうにかしますから、だから。お願いしますっ」

 感情が昂ぶり、上手く言葉を紡げなかった。それでもどうにか伝えるべきことを伝え、香穂は国語科準備室を飛び出した。廊下を、階段を駆け抜ける。自分の足音が校舎中に轟き、逃げる自分をどこまでも追いかけてきた。恐ろしくて泣いてしまいたいのに、涙が出ない。香穂は息を荒げながら胸を掻き毟った。

 憎めるならどんなに良いか。あの人が教師に叱責される姿を見て嘲ることができるなら、どんなに楽になるか。でも、あの瞳が私を責める。私が彼女を憎んだら、きっと彼女は壊れてしまう。

 美しいのに、悲しい人なのだ。とても、悲しい人。


 田園調布駅から東横線で横浜駅まで揺られ、そこから少し歩くと香穂の自宅のある高層マンションが現れる。二十九階建の二十三階、三LDKの間取りに父親と二人暮らしだ。玄関の鍵を開け、ただいま、と呟いてみても、返事はない。香穂は溜息を吐き出して、リビングに入った。食卓のすぐ脇にある棚の上には母親の写真が置かれている。香穂はそれに挨拶をして、二階の自室へ向かった。

 香穂の父親である春治(はるじ)は、今年度から大学教授へ昇格した。都内でも屈指の日本文学科で弁を取る春治の帰りは不定時で、最近では香穂一人で夜を明かすことも多くなっている。香穂が名門、神楽条学園に入学したのはそんな父親の期待に応えるためであり、亡き母親、琴乃(ことの)の念願を叶えるためでもあった。

 田園調布に所在する神楽条学園は、保育舎から大学に至るまで全てを完備した所謂お嬢様学校である。どの学年でも男子の募集は全く行われておらず、特に保育舎から入学する者には指折りの令嬢が多い。琴乃は学園の卒業生であり、香穂が学園の生徒となることを切望していた。結局、香穂は中学入学時に難関入試を突破して神楽条学園の一員となったが、その時既に琴乃は病のためこの世を去っていた。それでも、香穂にとって琴乃の記憶は鮮烈だった。

 自室の扉を開けると目の前に窓があり、向かって左に学習机、右に本棚とベッドがある。白を基調とした部屋は香穂の気が最も休まる場だ。香穂はベッドに横になると、本棚へ手を伸ばし『少女パレアナ』を抜き取った。普段ならすぐに物語の世界へ飛び込むことができるのだが、今は集中できない。桐生の発言を、反芻した。桐生は本気で、茉莉絵に注意するつもりなのか。

 本をスマホに持ち替える。フェアリームーンのダイレクトメールサービスを開き、文字を打った。

 先生があの人を叱ると言い出して、咄嗟にやめてと叫んでしまいました。私はこんなに苦しいのに、あの人は私より悲しい目をするんです。私はあの人を嫌えません。それが、辛いです。

 ジャスミン宛に送信してから、彼女のブログを読み返した。《先生》への想いを赤裸々に綴ったそのブログは、何度読んでも胸が熱くなる。

 ジャスミンは同性愛者だと言う。現実世界では決して打ち明けられない性的指向であるらしい。香穂はそんな彼女の相談を度々受けている。ジャスミンと、香穂ことオーレリーは、持ちつ持たれつの関係であった。オーレリーは香穂のかつての愛読書、『家なき娘』で主人公が使用した偽名から取っている。

 しばらくブログを眺めていると、メールの返信が届いた。鼓動が早まるのを感じながら読んでみると、そこにはジャスミンらしい温和な文面があった。

 貴女をいじめる人は我儘で自分勝手で、貴女以上に可哀想な人。でもね、何があっても私は貴女の味方よ。

 まるで柔和な微笑みを向けられているかのような温もりが、香穂の胸に広がった。琴乃が生きていたらきっと、こんな風に温かく自分を包んでくれるのだろう。携帯を抱き締め、目を閉じた。まだ見ぬジャスミンに母親の面影を重ねて、香穂は安心して深い眠りに落ちた。


 数日後、桐生は神楽条高校から姿を消した。香穂と春治に恥ずかしくない教師になってみせる。そんな言葉と笑顔だけを香穂に残した桐生がどうなったのか、香穂にはもう分かり得ない。

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