シアター
シアター
真っ暗な空にある光源は星。けれど、その星も地上からの光が強すぎてほとんど見えない。残念だな、と思う。
風が吹いた。夜風だ。寒いぐらいの夜風を纏っていると、なんだか切なくなってくる。どうしてなのだろう。
……そうか。
わかった。切なくなるのは未練があるからかもしれない。でも、もう決めたことだから。
「さようなら」
一言、それを呟いて足を踏み出す。浮遊感と共に目を閉じれば、風を切る音が聞こえるだけ。心が無に満たされていく。何の感情も生まれない。涙も出てこない。そろそろ地面も近づいてきていることだろう。
これで、お別れ。
これで、終わり。
──私は今、私自身を殺した。
暗闇しかない世界に一瞬何かが光ったような気がした。けれど、その光は何度も点滅を繰り返し力強くなっていく。
やがて光は閃光となった。眩しくて、それでいてこちらを呼んでいるようにも思えた。
光の先が見たくて思わず瞼を開けた。光の先には、
……え?
古びた建物があった。
「……え?」
思わず声を出して確認してしまった。
訳がわからない。自分はさっき飛び降りて死んだはずじゃなかったのか。もしかしてまだ生きているのだろうか。
混乱しながらも、とりあえず眼前の建物を観察してみた。どうやら映画館のようだった。スクリーンも一つしかないような、とても小さな規模。外装は茶色く変色している部分が多くあり、かなり年季が入っているように思えた。続いて看板を見た。何か文字が書いてあるのは確認できるが、こちらも茶色く変色しており読むことはできない。
……一体何なんだ。
状況が全く掴めないでいると古びた建物の扉が軋んだ音を立てながら開かれた。薄暗い館内から出てきたのは一人の影。多分従業員、だと思う。人影は一歩ずつこちらへと近づいてきた。進むに連れて光が当たり、姿が次第と鮮明になってくる。どうやら女性のようだ。そして姿がこちらからはっきりと見えるようになった位置で彼女は歩みを止めた。
現れた女性は、長い黒髪で、長身で、美人だった。
驚きのためか彼女の魅力のせいなのかはわからないが、彼女から目を離すことができない。しばらく見つめていると、彼女が口を開いた。
「お急ぎください」
彼女の声にどきりとした。不意だったからというわけではない。彼女のその声自体は綺麗な声なのだが、感情というものが全く感じられなかったからだ。
それに瞳にも感情は宿っていないように思えた。にも関わらず私は彼女から目を離せられないでいた。やはり彼女には不思議と惹き付ける魅力があるのだろう。
「…………」
さらに数秒見つめていると彼女が再び無機質な声で言った。
「間もなく上映時間となります。スクリーンへお急ぎください」
その声で我に返った。今はこの状況を把握することが大切だということをようやく思い出した。
「ここは、何処なんですか」
「…………」
質問をするが答えは返ってこない。空っぽの瞳が見つめてくるだけだ。仕方なく他の質問に切り替える。
「スクリーンってことは、やっぱりこの建物は映画館なんですよね? 何を上映しているんですか」
質問を口にした後で失敗したと思った。もっと他に聞くべきことはあっただろうに。
けれど、意外にもその質問には即座に返答が返ってきた。
「お客様のための映画でございます」
「お客様って、私のための映画ってことですか」
「その通りです」
きっぱりと彼女は言い切った。自分のための映画? 言っている意味がさっぱりわからない。
「間もなく上映時間となります。スクリーンへお急ぎください」
先ほどと同じ台詞を繰り返す。
「あ、でもお金とかは……」
「お客様のための映画ですので料金はいただきません」
無機質な声で言う彼女。一体何なんだ、ここは。何処なのかわからない場所で、自分のための映画を上映すると言われる。やっぱりここは生きていた世界とは違うのか。いや、そもそも自分は死んでいるのか。
沈黙していると、
「お急ぎください」
無機質な瞳で訴える彼女。どうやら映画を見なければならないらしい。私のため映画というやつを。
溜息を一つ吐く。ここが何処なのかわからないし、何をしたらいいのかもわからない。だから、
「わかりました。スクリーンまで案内してください」
「畏まりました。こちらへどうぞ」
彼女に連れられて映画館の中へと入って行った。
「それでは、ごゆっくりとお楽しみください」
上映室の扉が閉められると、その低音が室内に響いた。最小限の照明に照らされて多くの座席の影が見える。けれど、そのどれもが空席。観客は自分一人だけなのだろう。
……だから、私のための映画なのか。
思うと同時にブザーが鳴り響いた。上映開始の合図。
疑問は湧き上がってくるばかりだが、とにかく近くの席に着いた。意識はしていなかったが座った場所は一番見やすい中央の席だった。
照明が消え、幕が開いていく。真っ白な巨大スクリーンが薄暗い闇の中に現れた。映写機の回転する音とともにスクリーンに光が当てられる。
……そういえば、映画を見るのはどれぐらいぶりだったかな。
そして映画は始まった。
始めに映し出されたのは赤ん坊を抱いている女性の姿だった。赤ん坊を抱いているのは母親だろう。ほ乳瓶を取り出してミルクを飲ませる様子が流れる。そして『どんな口にもしっかりフィット』という活字と共に、ほ乳瓶の製品と名前が映し出された。コマーシャルだった。その後には予備校、自動車などのコマーシャルが次々に流れた。映像と音声を合わせるためにコマーシャルを流すのは当然のことだ。けれど、
……どうしてだろう。どのコマーシャルにもどこか懐かしい感じがする。
墓石のコマーシャルの後に数秒の黒い画面が映し出された。その黒い画面が切り替わり、本編が始まった。
映し出されたのは赤ん坊の眠っている姿だった。その表情は無垢そのもので、まだ何にも染められていない白がそこにはあった。
……なぜだろう、どこかでこの赤ん坊を見たことがあるような気がする。
しばらく赤ん坊の寝ているシーンが続いた。時折笑顔になったり、親指を咥えたりしている仕草がとても愛らしかった。
場面が切り替わる。
映し出されたのは教室だった。とは言っても、机や椅子など無く、木でできた棚とピアノがあるだけの教室。このシーンでも再び疑問が浮かんだ。
……この教室どこかで見たことあるような気がする。
画面が切り替わった。すると、今度はその教室内に人が居るシーンが映し出された。ピアノを弾きながら歌っている女性。多分先生だ。その旋律に合わせて歌う五、六歳ほどの子ども達。子ども達は黄色い帽子を被り、平仮名で書かれた名札を付けていた。教室全体を映し出すカットになると、さっきの疑問への答えが見つかった。
……これは、通っていた幼稚園だ。だからどこかで見たような気がしたんだ。
けれど、それでも違和感が残っていた。注意深く画面を見ているとあることに気づいた。ピアノを弾いている先生が自分の知っている先生だということ。けれど現在の先生の年齢を考えても、明らかに若い姿がスクリーンに映し出されている。
……もしかして。
そう思った直後、画面が切り替わった。一人の子どもの顔のアップが映し出される。一生懸命で、それでいて楽しそうに歌うその表情。それは、
……小さい時の自分。
間違いない。間違いようもない。映し出されているその子どもは紛れもなく自分自身だった。
……一体、何が……。
混乱しているこちらのこともお構い無しに映画は進んでいく。幼い自分の顔の後は園児全員の顔が次々に映し出された。顔が映し出される毎に、自分の中から幼い頃の記憶が溢れ出てくる。名前も幾つか思い出した。歌が終わり、園児全員が大きな声でさようならと先生に言った。
場面が切り替わる。
映し出されたのは幼稚園のグラウンドで楽しそうに友達と遊んでいる幼い自分の姿だった。カットが切り替わりカメラは滑り台の上の方へとズームしていく。幼い自分が映し出された。
幼い自分が滑り出そうとしたとき、後ろから誰かに押された。体勢を崩して、顔の方から滑り落ちてしまった。その幼い自分の姿を画面は追っていた。
……これは。
覚えている。かなり曖昧にはなっているけれど。幼稚園の頃、滑り台で誰かに押されて顔から滑り落ちたことがあった。
……ということは。
さっきの彼女が言っていた『お客様のための映画』という言葉。そして今映し出されている自分の幼い頃の映像。この二つから推測すると、
……この映画は私の思い出、なのか。
でも何のために? どうして? 彼女の言葉の意味がわかっても、さらなる疑問が出てくるばかりだった。
答えを求めている間にも映像は流れていく。幼い私が滑り落ちると再び滑り台の上にカメラが向けられた。そこには当然後ろから押した園児が映っていた。
見覚えは、あった。けれどさっき思い出した顔と名前の中にはなかった。
……今更、犯人がわかっても。というか何考えてるんだろうな。
そう思うと笑みが出た。笑ったのは映画を見るのよりも、久し振りだった。そんな自分もおかしくなってさらに笑った。自嘲していると、疑問に答えを求めるのも馬鹿らしくなった。
……そうだ。これは私のために作られた映画なんだ。
私はこの映画を純粋に楽しむことにした。
次に映し出されたのは小学生の頃だった。小学一年から小学六年までのクラスの皆の顔や喧嘩をした場面などが流れた。その中には、好きだった女の子の姿も映し出されていた。名前はもう覚えていないけれど、今見てもやっぱり可愛かった。初恋の相手の笑顔のシーンには、なぜだか少し照れた。ここで映画の内容で少し気づいたことがあった。それは覚えていない出来事も幾つかあったということだ。自分の中の思い出だけが映し出されて
いるのではなく、自分の歴史が映し出されているらしい。それがわかったところで、どうこうと言うわけでもないけれど。
次は中学生の頃。クラスの仲間や部活動の様子が映し出されていた。自分の思い出と照らし合わせながら映画を楽しむ。この時に私は部活の楽しさを知った。そして少し背伸びをして大人になりたいと色々やったことを思い出した。
次は高校生。親に少し反発した。それがカッコイイと思っていた。この頃に初めての彼女ができた。けれど、高校卒業後に別れた。名前は今でも覚えている。別れてしまったけれど、今でもこの時を思い出すことがある。自分の中でも大切な思い出だ。
大学生。一番楽しい時。一番遊んだ時。仲間と一緒になって遊びまくった。馬鹿なこともたくさんやった。将来のことなど考えず、ただ今を楽しむことをひたすらやっていた毎日。単位が危なくなり先生に頼み込んだのも良い思い出だ。
企業に就職。やる気に満ち溢れ、サラリーマンとしてバリバリ働こうと決意し、その通りに働いた。とても充実していた。働くことの喜びを知った。それと同時に社会の理不尽さも味わった。それでも負けるもんかと熱心に働いた。
就社五年目。付き合っていた彼女と結婚するという話まで行った。けれど、直前になって、意見の違いによる大喧嘩で別れた。そこで初めてパートナーの存在の大きさを知った。今でもそのショックが忘れられないでいる。 彼女と別れた後、心のどこかに穴が開いたような気持ちになって仕事に打ち込めなくなった。仕事は行き詰まり出し、上司と部下の間で板挟みになった。ストレスばかりが溜まる毎日だった。
それでも大きなチャンスを得た。巨大なプロジェクトの責任者に選ばれた。これが成功すれば今までの仕事の失敗を挽回でき、さらに出世できるほどのとても大きなチャンスだった。今回ばかりは本気で取り組んだ。別れた彼女のことは忘れて、仕事に打ち込んだ。気付けばプロジェクトの発足から二年経っていた。
けれど、プロジェクトの最終段階で大きなミスが発覚し失敗に終わった。責任を取るために企業を辞めさせられた。生きていく希望すら見失った。そこからはよくあるB級ドラマの展開と同じだった。酒に溺れ、賭け事に溺れ、過去の栄光ばかりを思い出していた。
「私はやれば出来るんだ。なのにどうして誰もわかってくれない」
それが口癖になっていた。
そして、さっきまでの自分がスクリーンに映し出された。夜、高層ビルの屋上、生きていることを放棄しようとしている自分。スクリーン上の自分も一歩を踏み出して夜の空へと落ちていった。
重力による束縛しかない究極の自由がそこにあった。けれどそれは数秒で終わりを告げた。鈍い音を立てながらの、一瞬の身体の崩壊で。
──私は今、私自身を殺した。
そのテロップの後にエンドロールが流れ始めた。整然と並べられた文字列がスクロールしていった。
映画を見終わった後は放心状態だった。何かが抜け落ちたような、そんな気分になっていた。
「私の人生に意味はあったんだろうか」
その思いは言葉として発せられていた。挫折して、生きる希望を見失って、そして自ら命を絶った。何かを残したわけでもない。何かを成し遂げたわけでもない。ただ生きることが辛くなって、嫌になって、死んだんだ。そんな私の人生に果たして意味などあったのだろうか。
気が付けばエンドロールが終わり、真っ黒な画面になっていた。
「……出よう」
まだ暗闇の中で席を立つ。扉の方へと歩き出そうとしたとき、再び光が室内に満ちた。それと同時に音声も聞こえてきた。
それは、誰かが泣いている声だった。
スクリーンに振り返る。
「…………」
声が出なかった。何かを考えることもできなかった。
スクリーンに映し出されていたのは、自分の葬儀の場面。知人、友人、親戚、そして家族。多くの人が集まって涙を流していた。
優しい人だった、悲しい、どうして悩みを聞けなかったのかと思うと、力になってあげれば良かった、尊敬する人でした、部下想いの上司でした……。
皆が皆、涙ながらに言っていた。嫌いだった人も、厳しかった人も。
「親よりも先に逝ってしまうなんて、なんて親不孝な息子……」
その中でも、
「でも、一人で抱え込んでいた息子に気付けず、助けてあげられなかったのが一番悔しい……」
一番涙を流していたのは、両親だった。
「いかかでしたでしょうか」
上映室から出ると彼女が無機質な声で感想を問うてきた。
「……もう、映画の中の世界へは帰れないんですね」
彼女に顔を見せないままそう言った。
「スクリーンの中の世界に入ることはできません。入ることができるのは、その時、その場所に居た人だけです」
言葉に感情はなかった。少し気持ちを落ち着かせてから顔を拭い、彼女の顔を正面から見た。
「色々と考えさせられた映画でした」
はっきりとそう言った。すると、彼女の顔に変化が生まれた。初めて見せた笑顔だった。
「そうですか、それは良かった」
その言葉には初めて感情が込められていた。彼女を見ていると、また何かが溢れて来そうだった。顔を伏せて、背を向け、ゆっくりと映画館の外へと歩き出す。顔を上げると扉についている小窓の向こうに外の様子が見えた。外には暗闇しか広がっていなかった。
扉に手を掛けたとき、後ろから彼女の声がした。
「ありがとうございました。お気をつけて」
その言葉はもう感情がなく無機質だった。表情も元に戻っていることだろう。それでも、
「こちらこそありがとうございました」
背中越しにそう言って、私はこの古びた映画館を後にした。