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縁魔  作者: 鹿角深泥
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第一章

  冴島琴音へ

 

 遠上佳苗

 大木雄二

 立花蒼汰

 横八昴

 

 彼らの死はいずれも私の仕業である。

 今より一週間以内に彼らと同じような運命をアナタに与えようと思う。

 もし、過酷な運命を味わいたくなければ、私を探せ。

 私を見つけて止めて魅せろ。

 

 ファントム

 

  1

 

 黄金色に輝く丘に白銀の月がゆっくりと沈み込んでいく。わずかだが、緑色豊かな森に、赤く照る河が流れている。黄金色の丘から赤く夕陽に彩られた土地を取込み、半月となった銀色の月は流れる様にして、飛んでゆく。

 縁縁はオムライスを一口頬張った。

「……ーん」

 瞳を閉じ、その感触を楽しむ。

「どう? 今日は私が作ったんだけれどもっ」

 弓狩皆は身を乗り出し、縁の表情を眺める。

「美味しい!」

「本当? やったっ!」

「でも、富子さんの方が美味しい」

 素直にそう言った。富子さんとは皆の祖母だ。この喫茶『テムズ』の経営者でもある。

「あーやっぱりかー。いやぁーでも、縁ちゃんに聞くのが一番だよね。素直に感想言ってくれるもんっ」

 縁はもう一口オムライスを口に運び、上目づかいに皆を捕える。にこやかに微笑み、嬉しそうにこちらを眺めている。

「じゃあ、私以外に聞けば、素直に返してもらえないの?」

「うーん……どうなんだろう。みんな気を使っちゃうからね。だいたい美味しいって言われるし」

「でも、あなたは美味しいとは思っていないのでしょう?」

「そういう訳ではないんだけど……」

「じゃあ、あなたが聞いた人の意見というのは合っているのではないかしら」

「そう、なのかなぁ」

 分からない。

 縁は眉間に皺をよせ、小さく小首を傾げる。

「やや、ごめんごめん。なんだか悩ませちゃってっ。大したことじゃないからっ。気にしないで」

 縁は小さく頷くと、またもオムライスを頬張る。

「ねえ、縁ちゃん」

 カウンターの向こう側に肘をつき尋ねる皆を見る。

「今度、大学に来ない?」

 縁は口の中のオムライスをよく噛み、飲み込むとコーヒーを口に含んだ。

「どうして?」

「うーん。どうしてだろっ」

 またも分からず、眉間のしわは険しい渓谷を生み出していた。

「あ。そうだ。今度、お祭りがあるの。そこで、私もサークルで出店するから、良かったら手伝ってくれない?」

「何のサークルに入っているの?」

「映画料理研究会」

「はあ?」

 聞いたことが無かったし、理解もできなかった。

「みんなそんな反応するんだよねぇ」

「それはそうでしょう。意味が分からないもの。どんなことするの?」

「えーっと……縁ちゃんって映画とか見る?」

「まあ」

「そしたらさ、映画の中に出てくる料理っておいしそうに見えない?」

「……分からなくもないけど」

「でしょう。私たちはねっ。それを現実に再現して食するサークルなのよ!」

 ぐっと拳を握り、そう力説する皆。

 本当に、分からなくもないのだが、よくそのようなサークルを大学側が認めたものだ。

 縁は最後の一口を口に頬張ると、皆を見た。

 楽しそうな顔をしている。

 私も、何か趣味を見つけるべきかも。

 縁は小さく頷いて見せる。

「来てくれるの? やったー!」


  2


「という訳なのだけれども」

 琴音はソファの上で膝を抱え、ただぼんやりと虚空を眺めながめていた。

「ねえ、聞いてる?」

 縁は琴音の眼前に立ち、見下ろす。

「……ええ。もちろん」

 一度上目使いに縁を捉え、再び視線を下ろす。

 琴音の上の空の返事に縁は口をへの字にした。

「何か考え事?」

「……ん? まあ、ちょっとね」

 琴音は頭を抱え「うーん」と、喉の奥そこから這い出るような声を発した。

 縁は、その様を冷めた視線で捉えるのであった。

 覆った両手の指の隙間からちらちらと、縁の方を伺う琴音。

「……何?」

 縁は呆れ気味にそう尋ねる。

 それでも「うーん」と首をひねる琴音。

「だから、何なの!」

 声を張り、大きくそう発した。

「いやね。縁には和服が似合うか、メイド服が似合うかを思案してたのよ」

 言葉がなかった。

 無論。呆れてである。

「あ。何? その『やってらんねー』みたいな顔」

「お察しの通り。ご考慮、痛み入るわ」

「わー」

 琴音は自分の頬を右手に預け、

「これは養豚場の豚を見る目だぁ」

 そう言うと、にたりと微笑んだ。

「気持ち悪い」

「え? 知らないの? 今の」

「何が」

「だから、養豚場うんぬんのくだり」

「知らない。それに、私はそんな下劣な目はしない」

「うーん。知らないのかぁー。ま、冗談は程々にしておいて、実際問題外に出ていくというのであれば、偽名でも使ったほうが良いんじゃない? あなたってば名前だけは有名らしいし、ね」

「それは、そうね」

「どんなのがいい? 中国人を名乗る? それとも、フィリピン人?」

「どうして外人名乗らなきゃいけないのよ」

「いや、いやいや。その顔で日本人とか、あははっ」

 琴音はニコニコしながら縁を指差し笑う。

 私はそんなに日本人離れした顔つきなのだろうか……。

 縁は頬をさするふりをして自身の顔の輪郭を探る。

「まあ、ともかく。適当に名前は考えなさいな。仕様も無い面倒はごめんよ」

 琴音はそう言うと、膝に挟んでいたプリントを取り出し、ぼんやりとそれを眺めると、鹿爪らしく眉を顰めてみせた。

「それ依頼なの?」

 縁は昆布茶を一口含んでからそう尋ねる。

「へ? いいや、違うよ」

「じゃあなんなの」

「依頼ともいえないことは無いのか……」

「どっちよ」

「ファントム……怪人?」

 ぼそりとそう呟く。

「結局、依頼なわけね」

「まあ、概ねは────あっ!」

 突然、声を上げた琴音。縁は鹿爪らしく彼女を眺めた。

「どうしたのよ」

「さそり……か」

「蠍? さそりってあの?」

 縁は砂漠なんかにいる毒の尻尾を有する虫のことかと思った。

 当然、琴音の思い描くさそりとは別物であることは言うまでもなかった。

「違う。分からないけれども、きっと違う。あなたがアンディ・ロビンソン演じる狂気の殺人鬼を連想しているというのであれば、話は別だけれども、いいとこ毒々しいちっちゃな虫けらを思い描いていたんでしょう?」

 縁は瞳を閉じ、軽く頷くと、

「ふうん。で? 何の映画なのかしら」

 と、澄ました表情で琴音を見やった。

 琴音は少ししてやられたといった表情で後頭部を掻いた。

 最近、ある程度は彼女の行動や言動を理解してきたところだ。

 縁は少し得意げに頬を緩めた。

「『ダーティーハリー』って知ってる?」

「ホグワーツとか出るやつ?」

「なんだってあんな少年少女が44マグナムをぶっ放さなきゃならないのよ。そもそも、ハリーがダーティーならスネイプ先生も苦労少なくすんでるしね」

「何言ってるの?」

「ごめんごめん。ついつい調子に乗ってしまいました。『ダーティーハリー』ってのはクリント・イーストウッド主演の映画よ」

「イーストウッド……誰それ?」

 琴音は短くため息をつくや、頭を抱えた。

「お願いだから、今のセリフだけは『テムズ』で言わないでよ」

「なんであの店が関係してくるのよ」

「そりゃクリント・イーストウッドって言えば西部劇の代名詞みたいなものだからよ」

 そんなこと知ったことか。

 とはいえ、皆たちを怒らせたくはない。なるべく不用意な発言はしない方がよさそうだ。

 

  3

 

「どうも……冴島縁と言います」

 縁はそう言うと、頭を下げた。いくら名前を考えてもこれしか浮かんでこなかったので仕様が無い。

「へぇー縁ちゃんかぁー。皆の従妹なんだって?」

 そう非常に明るい金髪の女性は皆に尋ねた。皆の説明によれば、たしか星野だったか。なるほど、確かに星色の髪の色とは言い得て妙だ。

 縁は独り納得して頷いた。

「うん。母方の叔母のね」

 星野は腕を組み、にたりと頬を緩めた。

「絶対、金髪似合うよ、キミ!」

 そう言って縁を指差してきた。

 礼儀を知らないのだろうか。その指今ここでへし折ってくれても構わないんだけど。

 縁は内心そう思ったが、顔にも口にも出さずににこりと笑って見せた。

 最近、琴音に教わった『渡世の術』の一つだ。『渡世』がよく分からないが、どこかの国の魔術の一つなのかもしれない。

「ちょっと、美咲。そんな事言ってどうせ、あなたのバイト先に連れ込む気なんでしょう?」

「そんなことないわよ。絶対似合うって! だって、この子金髪にしたら外人に見えなくもなく無くない?」

 どっちだ!?

 口には出さない。それでも、顔には現れてしまったようだ。

 皆は驚いた表情で縁を見ていた。幸い、皆以外は私を見ていなかったようで助かった。

「皆ー。アンタも絶対金髪似合うっていつも言ってるでしょ? なんで染めてくれないのよ?」

「美咲はいっそのこと金髪崇拝教でも始めた方が良いんじゃないの? だいたい、髪の毛染めるとすっごく毛が痛むんだよ? 美容師目指してるならそれくらい分かってるはずでしょ?」

「あのね、皆。何にも分かってないわね。いいこと? 美容師ってのは芸術家なの。画家がキャンパスに絵を描くように、映画監督がフィルムに映画を撮るように、小説家が原稿用紙に文字を書き連ねる様に、私たち美容師は髪に美を表す芸術家なのよ!」

「画家は紙。映画はフィルム。小説家も紙。けれども、彼らは枠からはみ出ないうちならば、迷惑ではないでしょう? 紙やフィルムが文句言ってくる? 来ないでしょう。でも、他人の髪を許可なく彩っちゃたらそれは迷惑以外の何物でもないでしょう?」

「それは、そうだけど……」

「なら、その金髪押しはやめて」

「でも────」

「あー。もう、うざい!」

 割って入ったのは短く切り揃えた茶髪の女性だった。たしか、峰矢と言っただろうか。このサークルの部長らしい。

「いつもそれじゃない。結論出ないんだから、やめなって」

「でもさぁー実際、この子金髪似合いそうでしょ?」

 峰矢は鋭い目で星野を捕える。その視線に手をかざせば斬れてしまいそうなほどの視線だ。

 ああ、部長なだけあって、頼りがいがありそうな人だ。

 縁はその凛とした表情に、琴音がいつぞやのファミレスで見せた凛と澄ました表情を重ねて見ていた。

「茶髪が似合うに決まっているじゃない!」

 どうしてそうなる!?

 声には出さない。それでも、驚いた。

 何なのだ。

 このサークルは……。

 縁はどうしたものかと皆を見る。

 皆はその視線に気づき「まかせて」とでも言うように、小さく頷いた。

「みんな、落ち着いてよ。縁ちゃんが困ってるよ」

 皆は静かにそう言った。

 なんだかんだ、皆が一番頼りになる。

「縁ちゃんは黒髪が一番に決まっているでしょうっ!」

「なんで!?」

 たまらずそう尋ねてしまった。

 それと同時に、緑色の部室の扉がぎいと軋んだ音を立てて開く。

「あ。なんか……お邪魔でしたか?」

 申し訳なさそうにそう言って頭を下げる男性。

 特にこれといった特徴を感じない黒髪に、健康そうな肌。目鼻顔立ちは整ってはいるが、美男というには少し違う普通の顔。

 縁はこの男性に何も感じなかった。

 感じられなかったのだ。あまりに、情報が無さすぎる。《縁》は感じられない。おそらく、普通の人間だけれども……この感覚は何だろう。

 何も感じていないはずなのに、胸に妙なザワつきがある。

 縁は分からず小首を傾げる。

「へ? えーっと誰かな」

 皆も分かっていないのか、縁と同じように首を傾げていた。

「あ。そうか、皆は会ってなかったのか」

「どうも。僕、この度『映画料理研究会』に入部させていただくこととなった尾上謙介です。どうぞよろしく」

「あ。どうも……」

 皆はそう返す。

「私が誘ったの。ゼミの後輩。良い子なのよー、ね?」

 星野がそう尋ねて尾上の方を向くと、

「え? あ、はい。いや、そんな……ありがとうございます」

 と、焦った様に頭を下げる。

 終始どこか怯えているというか、なんというか。

「美咲に何か弱味でも握られたんじゃないのかってのが、今のところ私の推理だけど」

 峰矢は腕を組み一人頷く。

「アタシはそんなに信用ならんか!」

「金髪の人間なんて信用できるわけない」

 峰矢は先ほどの鋭さを持った視線で星野を捉える。

「金髪に何の恨みがあるんだ!」

「あのぉ……」

 尾上と名乗った男は申し訳なさそうにそう言って口をはさんだ。

「弓狩、さん……ですよね?」

 皆の方を向いてそう尋ねる。

「ええ。そうだけど」

「えっと、では……お隣の方は」

 今度は縁の方を向いた。

 彼からしてみれば情報にない人物なのだ。困って不思議はない。

 縁はそう納得して、名前を名乗ろうとした時であった。

「緒桐さん、ですか?」

 その瞬間を縁は見逃さなかった。駆け抜けたのは緑色の煌き。三人の女子を結んだのは明らかに怪しげな《縁》であった。

「違う。彼女は、皆の従妹の……えっと、なんだっけ? アタシ、物覚えが悪くてさぁーゴメンねっ」

 星野は明るくそう訪ねて場の明らかに不穏な空気を隠そうとしている。そんなことは縁でなくとも分かっており、事実、尾上は少し大変なことをやってしまったという反省の色をその表情に色濃く表していた。

「えに……ああ、いや。冴島縁です」

「冴島……さんですか。あの間違っていたら、申し訳ないんですけど。もしかしてお姉さんとかいらっしゃいます?」

「お姉さん?」

「ええ。僕、駅前の中華料理店でバイトしてるんですけど、そこによく冴島さんって方が出前の注文してこられるから」

 そういえば……。

 縁は二日前に天津飯を食べた気がする。

 ああ、まさか……。

 縁は早くも偽名がバレるのではないかと嫌な汗が背中を伝う。

「え、えっと……」

 どうするべきだろう。

 ここでイエスといえば私は『灰色館』に住んでいるのではという疑いが……それに、皆との従妹という話にもいろいろと無理が生じてくるのでは?

「姉? いえ、いないですね」

 事実を語った。

 姉など私にはいない。

「そう……ですか。なんだか、すみません」

「いえいえ」

「ねえ、皆」

「なに?」

「ちょっと、お手洗いに行きたいのだけれども」

「分かった。じゃあ、私が案内するね」

 皆はそう言って赤茶色のパイプ椅子の背もたれから離れ、立ち上がった。

 それに合わせて縁も立ち上がり、部員が座るその後ろを壁を這う様にして通り抜け、扉を開き廊下に出た。

 廊下は暗かった。遠くの扉の四角い曇り硝子からさしいる外の光がワックスで磨かれた廊下に反射しているが、それでも澱んだような暗さが廊下を覆っていた。

 縁は部室が並ぶ廊下を歩きながら、皆に尋ねた。

「緒桐って誰なの?」

「えっと……」

 皆は目線を逸らし、腕を組んで鹿爪らしい表情をとった。

 よほど言いたくない何かがあるのだろう。

「言いたくないの?」

「うーん。いやぁ、そういう訳ではないんだけどね。ただ……」

「ただ?」

「彼女、病気なのよね」

「それは、なにか重い?」

「うん」

 短くそう言い、頷いてみせる。

 縁は「ふーん」とだけ、呟くとそれ以上は聞かないことにした。言いづらい何かがあるのだろう。

 廊下の突き当たり左手にトイレはあった。

 二人は一緒にトイレに入ったが、先に出てきたのは縁であった。

 縁はトイレの入り口付近の壁にもたれ掛り、皆が出てくるのを待っていた。

 ふと、眼前の階段から声が聞こえる。

 誰かがこの階に上がってきている様だ。

 階段の切れ端から現れたのは長身の男性だった。

 くっきりとした大きな瞳。凛々しい眉に薄く小さな口。身長は縁が見上げるほど大きかった。

 男は縁に気づくと、一瞬眉をひそめた。ふと、青い光を縁は体中に感じる。

 気色の悪い青色であった。

 まるで、体中にヘドロを塗りたくるようなそんな不快感。

「君、一年?」

 男は突然、縁に話しかけてきた。依然としてその青い光は縁の体を舐める様に覆っている。

「違うけど」

「そっか……君、どっかで会った事ない?」

 縁はそう言われ、わずかに彼の事を考えてみた。

 どこかで……ああ、言われてみればどこかで会っているかもしれない。

 だが……。

 縁は鮮やかに色濃くなりつつある青い光にうんざりしていた。

「どっかで会った事あるはずなんだけどなぁ……」

「ない」

「ねえねえ。暇?」

 縁は男が何の意図を持ってそう尋ねてくるのかが分からなかった。

 どうして、今出会ったばかりの私にこれからの予定を聞いてくるのだろう。

 小首を傾げる。

「よかったら、飯でも食いにいかない? 奢るよ」

 どうしてそうなる?

 縁はそう言おうかとも考えたが、琴音から言われた通り、何でもかんでも思ったことを口にしてはいけない。守らねば。

 縁は口をつぐんでまじまじと男の顔を見つめた。

 ああ、どこかで…………。

 縁はそれをこの男に聞いてみようと考えたが、その質問は男が最初にしている。

 だとするならば、やはり、どこかで出会っているのだろう。

 双方の考えが一致しているのだ。きっと、それが正しい。

 両方向の紛れもない《縁》だ。

 そう思ったところで縁は注意深く男を見る。

 意識をすれば、青以外にも視えるかもしれない。

 だが、青は先ほどに比べて非常に濃くなっている。加えて、どこか毒々しい色合いに感じる。

 ああ、もう嫌だ。

 でも……これを嫌がっているようでは、琴音の様になれない。

 誰とでも、笑顔で楽しく……そんな、琴音の様に、私もなりたいんだ。

 だとすればこの程度……。

「離れて!」

 ふと、振り向くと、そこには緑色の光線を男に向ける皆の姿があった。

 男は小さく舌打ちをすると、踵を返し足早に階段を駆け上って行った。

 縁はしばらく黙って皆を見ていた。

 皆の形相は見たことが無いほど、怒りに満ち満ちていた。

「あの人……誰?」

 縁は尋ねた。

「生きている価値の無い人間……かな」

 低く、小さく、皆はそう言った。

 縁は己の耳を疑った。

 少なくとも、彼女の知りうる弓狩皆はそのような事を間違っても口にするような女性ではなかったからだ。

 それ以上は聞かなかった。

 聞くのが怖かったからだ。


  4


 食堂は丁度昼時の所為で学生で随分と込んでいた。

 その中ほどで、縁と皆はお盆を手に二人並んでいた。

 食堂はこういうものだと思っていたが、やけに騒がしい。本当に大学生なのかと疑いたくもなる様な稚拙な行動をしている連中もいる。

 縁はぼんやりとそんなことを考えていた。

「騒がしいね」

 皆もそう感じているらしく、縁の方を見向きそう言った。その表情はいつも通りの優しく柔和な印象を与える顔。縁の知る、いつもの皆であった。

「そう。いつもこの調子なのかと」

「うーん。概ねはそうなんだけどっ」

 そう言うや、皆は背伸びをして列の先頭を見ようとする。それにつられて縁も背伸びをする。しかし、前に並ぶ女性の身長が高いため、中学生と見間違われるほど背の低い縁は当然の如く背伸びをしようが前など見えるのは眼前の女性の背中だけ。

 前が見れないことに、少しむくれて縁は頬を膨らますと、眼前の女性の履いているハイヒールを睨みつけた。

「なんだか騒がしいのよねっ」

 縁は小首を傾げる。

 しばらく列に並んでいると、ゆっくりではあるが前に進むわけで、結論として言えばその騒ぎの元凶に心当たりがあったわけである。

「ふむ。真面目な君よ」

 澄ました、それでいてどこか高圧的な、非常に上から目線の声。

「俺ですか?」

「ああ、君以外に僕の会話の対象になる人物がいるか? 君を見ながら隣の彼女に僕が話しかけているとでも? 残念だ、彼女は真面目ぶった格好をしているが、それは世に言う清楚なイメージを他人に与えたいからであり、彼女自身は決して清楚でも真面目でもない。どうして、君が真面目と分かるか。教えてやろう。君の手の端がインクで黒ずんでいる。それは長時間にわたって手の端をプリントの上に付けた状態でスライドさせていたからだ。つまり、君が何か勉学に励んでいた証拠だ。そして今日は平日だ。君の眼にはくまがある。加えて、寝不足なんだろう? 唇が荒れている。以上の事から、君は徹夜で勉学に励んでいた。それも、平日にだ。だとすれば君は真面目な人間だ。この残酷な世界においてはよく馬鹿を見る馬鹿な人種ではあるがね。そして、そんな徹夜で勉学に励んでいた君にすこしでも幸あれと僕は今からアドバイスをしよう。君は徹夜で勉学に励んでいた。それだというのに、君の彼女は君とは別の男性と一夜を共にしている。ファンデーションで隠してはいるが、首元の内出血は鏡じゃ気付かないか? かなり激しかったようだな、君が鈍感あるいは……いいや、君が真面目な馬鹿だからか、ははっ。気づかないんだろうが、その男性とは君も出会っているはずだ……二人に共通した、高価な香水の匂い。若い男性が付けるものではない……首回りに集中している内出血。ああ! ゼミの教授だ! ははっ! 君の彼女はゼミの教授と昨夜ベッドを共にした。教授は君の彼女の唇が大好きなようだね。その代償は何だ? コネを作ってもらうか? それとも、単位を貰えるのか? ふんっ。どうでもいいか。まあいいさ。ともかく、君が幸せを願うのであれば、彼女とは別れるべきだ! さあ、ご注文通りニンニクたっぷりスタミナ丼だ! もちろんそのスタミナは彼女との口を使った交渉に使った方が良い! ま、その様子であるならば、今夜あたり予定していた彼の家での疑似交尾もする気にはならんだろうからなっ! ふははっ。面白かったよ! 代金はいらん! もう語ることは無い、僕の前から失せていいぞ。さあっ! 次の注文は何だ!」

 辛うじて聞き取れる程の超スピードの喋り口。一瞬でも気を他所に向けてしまえばついて行けなくなるだろう。

 眼前のカップルはしばらく無言で睨みあうと、足早に食堂の奥まった先に早歩きで行ってしまった。

 そうして、あらわれたのは長身の外国人。食堂で働いている外人というのはときどき見かけたことがあったが、なんだか新鮮だ。

 それにしても、どこかで……。

「君は……」

 外人はぼそりとそう言った。

 青い瞳。鋭い猫のような目つき。まるで狩人のような表情と白い帽子が全く似合っておらず、間抜けに見えて仕方がない。

 ああ────

「市役所で肩車してくれた!」

「──そっちか」

「そっちかって?」

「いや、別に」

「それにしても、さっきのは教えてあげない方が良かったのではない?」

「そうか?」

「ええ、知らない方が良い真実もある」

 男はそれを聞くや「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。

「謎と解の間に、人の感情なんて挟む余裕は有りはしない」

「それは……」

「なんだ? 非人道的か? 言えば良い。言われ慣れてる」

 またしても自信ありげにそう言うが、それは威張って良いものなのか。

 縁は分からなかった。

「へ? 縁ちゃん知り合い?」

 置いてけぼりの皆は目をぱちくりさせて縁を見つめていた。

「まあ、ちょっとね。皆はしっているの?」

 皆はにこやかに笑みを浮かべ、首を横に振った。

「本人を目の前に知る知らないの問答は失礼だと習わないのか!」

「どちら様なんですか?」

「なんだその日本語は……」

「変ですか?」

「変だ。それより、後ろが込んでいる。早く注文を言え」

「私は、ソースカツ丼。縁ちゃんは?」

「私は……」

「お子様セットがあるぞ」

「冗談じゃない!」

「ふむ……。オムライスつきだが?」

 オムライス!?

「じゃ、じゃあそれで……」

「縁ちゃん! それ単品である! あと、お子様セットは無い!」

「え? 無いの? はっ……謀ったわね」

「普通に気付け」

 そう言うと、偉そうに腕を組む。

「市役所の清掃員はどうなったの?」

「やめさせられた。どうにも、戸締りの後に人を市役所の中に入れるのはまずかったらしい」

「そうなんだ」

「ああ。そうらしい」

 二人してしみじみと頷き合う。

「それは……当たり前なんじゃないかなぁ、縁ちゃん」

 皆は申し訳なさそうにそう言う。

 男は踵を返し、厨房を向くと、

「ソースカツとオムライスだ」

 厨房からどこか苛立たし気な女性の声で了解の返事が返ると、再び縁たちの方を向いた。

「で? 今度はなんだ? 大学生ごっこか何かか?」

「ちょっとね」

 男はにこやかに笑みを浮かべると「ふむ」と、偉そうに言う。

「相変わらず読み取る物が無いな、お前は。まったく、面白みに欠ける女だ……だが」

 男は皆の方を向く。

「な……何です?」

 男は目を細め、皆を凝視する。しばらく皆を舐めまわすように見詰めていたが、不意に「ふむ」と低く唸った。

「君は祖父母と暮らしている。共働き……いや、父親がいないんだな。何故分かるか? 簡単だ。鞄の埃と糸くずだ。服は洗うだろうが、鞄は滅多に洗いはしない。結果として、鞄というものは多くの場合においてその持ち手を事細かに教えてくれる存在なのだ。他に何が分かるか。良いだろう当ててやる。バイト……いや、違う。祖父母の家が何か、油を大量に使う店。ああ、唐揚げか。いや、違う。違うな。チェーン店ではない。いや、だが油を大量に用いる料理……ああ、なんだ。分からない! 分からない。分からない。分からないぞ! 君は何だぁ! 何者なんだぁ! ふはっ! 素晴らしい! 最高だ! 君は謎だ。謎がある! 良い気分だぞっ!」

 突然頭を掻きむしり、怒号交じりの感激の声を飛ばしながら、満面の笑みを浮かべる男。

 当然ながら、食堂は静まり返っている。

 すると、突然男の背後から現れた恰幅の良い中年女性が男首筋を掴んだ。

「なっ! 何をする! 僕にはまだ、解かねばならないこの世の謎が……」

「アンタ……御代貰ってないんだってぇ?」

「ああ。それがどうした。僕の凄さは知ってもらえた。十分じゃないか。そんな事より大事なことがあるだろう!」

 男は悪びれる様子もなく、そして、態度も先ほどと変えることなく非常に偉そうにそう語る。

「ふざけんじゃないわよ!」

 女性は掴んだ男を勢いよく突き放した。男はよろめきながら、食堂のカウンターから飛び出し、大きく転んだ。

「な、何の真似だ!」

「クビだよ! 出て行け、アホ!」

「ア……アホだと、この僕が? あ、あり得ん! 何がいけないんだ。いったい、なにが……」

 ぶつぶつと呟きながら、やおら立ち上がると、男は沈んだ様子で食堂をとぼとぼと後にする。混雑した食堂。人混みを割りながら歩む姿はさながらモーゼ。

 だが、白いエプロンを着た後姿は滑稽以外の何でもなかった。

 やや、どこか哀れみすら感じる。

 変な人。

 縁の彼に対する認識である。

 間違ってはいない。

 だが、もう少し、正確に彼を言い現わすのであれば、《非常に》変な人と言うべきである。

 彼の変人ぶりは、並の領域に収まってはいないのだから。

「天ぷら知らないのかしら……」

「外人さんだしねっ」


  5


 星野と峰矢、そして尾上は窓際の席に座り、既に昼食を食べていた。

「おまたせ」

 皆が、そう言って椅子に置かれていた星野の鞄をどかして席に座る。

 縁もそれに合わせる形で皆の前の席に腰を下ろした。

 眼前に置いたクリーム色をしたお盆。その上には質素な白色のさらに盛られた黄金色のふくらみ。

 学食のオムライスと『テムズ』のオムライスを比べるのも酷な物ではあるが、やはり、どうしてもボリュームにかける。

 縁は少し残念そうにスプーンを手に取った。

 一呼吸置き、むわりと込み上げる甘い卵の香りを鼻腔に取込む。何とも言えぬ至福の時だ。

 それがたとえ安い定食の小さなオムライスであろうとも、縁にとっては無くてはならない行為であった。

 この時、この瞬間は何人にも邪魔されてはいけないのだ。

 すっと差し込んだスプーンは僅かな抵抗を感じさせる。それはまるで完成された形を壊されることに対する必死の抵抗のように縁には感じられた。

 美の崩壊というものはどうしてかくも美しいのか。

 すくい上げた形の不揃いな欠片を見つめ、そんなことを思う。

 それを口に運ぶ。食してしまえば美なぞ視えはしないのだ。

 どうあったところで、今や黄色と赤は口内で分かれ、砕かれ、溶けてゆく。

 それは……何にしても同じことか。

 飲み込むと同時に、縁は深くため息をついた。

 皆たちは、楽しそうに会話をしている。

 美しい。

 きっと、普通の感性であればそう捉える美しい人生の一幕。けれども、終わりの無いものなど存在はしないのだ。

 役割を終えた演者は、舞台を去らねばならない。

 ああ、これは誰かの言葉だったか。

 人ではなかったはずだ。

 しかしながら、適格といえばそうなのかもしれない。美しさというものは、言ってしまえば喪失なのだろう。

 何かを失う事で美しさという形は完成して行くものなのだ。

 縁はもう戻ることのできない欠けたオムライスを見やった。

 これも、美しさへと至るのかも。

「ところでさ、冴島さんってどこに住んでるの?」

 縁が考えふけっていたところに、峰矢はそう言って訊ねてきた。

「えっと……蝉洞って分かる?」

 とっさに琴音がいつぞや言っていた街の名前を出してしまった。

 地名なぞ知らないのだ。

 生きて行くうえで、この叉奈木以外は知らなくても今のところ良かったし。

 縁は自分のふがいなさに勝手に言い訳を済ませ、相手の反応を待った。

「せみどう? なにそれ、どこなの?」

 助け船を期待して皆を見るが、皆も首を傾げてこちらを見ている。

「えっと、結構田舎だからかな……」

 言葉尻が次第に消える様に縁はぼそぼそとそう言った。

「ふうん。蝉洞、か。どんなとこ?」

「何も無いです」

「何も無いことは無いでしょ」

 星野がフォークをこちらに向け、そう言う。

 相変わらずこの女は……。

 縁はテーブルの下で拳を握りしめる。

「まあ、まばらに家は有りますよ」

「それはそうよね」

 まずい、これ以上はどう聞かれても答えられそうにない。

「そう言えば、この街で面白いことなんてないですか?」

 縁は話題を反らそうと無理矢理会話に話を押し込んだ。

「面白いこと?」

「ええ、せっかくなので」

「うーん。怪人の呪いとか?」

 怪人?

 それは……。

 一瞬、昨日琴音が呟いていた言葉を思い出した。

「それはどういう?」

 星野は「うーん」と小首を傾げた後、一人頷いた。

「事の発端はこの街の劇団が街に帰る途中で事故にあったんだって。その事故から毎週金曜日に死亡事故が起こるようになって、どうにもその劇団が最後にやったのが『オペラ座の怪人』だったらしくて、だからきっと怪人の呪いだってもっぱらの噂」

「アホらしい……」

 峰矢は吐き捨てるようにそう言う。

「ホントなんだってば! 怪人を見たって人もいるんだから」

「さっきアンタが噂って言ったんじゃない」

「でもでも、怪人ってどういう?」

「それは、ほら、オペラ座の怪人って言えば……」

「ファントム……」

 縁はぼそりと呟いて見せた。

「そうそう、それ」

 星野は嬉しそうにそう言う。

 しかし、縁は曇った表情で外を眺めていた。

 仮に、彼女たちの言っていた『怪人』とやらの噂が本当だとしたら……。

 琴音に挑戦状を叩きつけてきたのはその怪人なの?

 でも、事故に見せかけて殺人を犯せるそれも、違和感もなくそれを為せるのだとすれば、やっぱりまた魔術師が絡んでいるのかもしれない。

 縁はそう思うと、落ち着かず辺りを見回す。

 不意に、小さな舌打ちと共に、縁の後ろに座っていた男性が立ち上がると足早に食堂を後にする。

 わずかではあるが、その男性は足を引きずっているように見えた。

「何よアレ」

 星野がそう言う。

「鶴来……ですね」

 尾上が突然口を開いた。

「知り合い?」

 皆が尋ねる。

「ええ。同じゼミなんで……ただ」

「ただ?」

「今話されてました劇団にアイツいたらしくて……」

「え、マジ? あー」

 星野はどこか申し訳なさそうな表情で肩を落とす。

「でも、あの人足を引きずってました。あの人も事故にあったんですか?」

 縁は尾上に訊ねた。

「いいや。彼は舞台稽古中に怪我をしたらしくて、最近まで入院してたらしいんです。だから、今回の舞台にも参加してないそうです」

「なるほど。それで……」

 縁は意識を集中させる。精神の落ち着きは彼女にもう一つの眼を開かせる。

 深く閉じた瞼をそっと開くと、世界は無数の鮮やかな《縁》に彩られている。

 誰も気付きはしないが、脆く儚い糸で構成された人々の生活はこの星から見ればきっと部屋の隅に巣喰らう蜘蛛の巣程度の認識なのだろう。

 縁はそんなことを思うが、目的は別にこの星の憂いを考えふけるためではない。

 鮮やかな線の中から、縁は黄色のそれを手繰り寄せる。

 無論、手繰り寄せるとはいえ何も手を用いるわけではないのだが。

 その先には琴音がある。そこから続く敵意の色。それをたどった先にきっと怪人がいるはずだ。

 私の勘が正しければ、きっとさっきの男が……。

 縁が《縁》を辿る。暗闇を彩るこの星に息づく人々の儚さと奇跡を感じながら、見えた先には────

 顔を包帯で覆った女性の姿。

 溢れ出る憎悪。

 それは隠すことなく邪悪極まりない青色の《縁》となって琴音にぶつけられていた。

 これは……。

「縁ちゃん?」

 気が付くと、目の前で心配そうな面持ちの皆がこちらを見ている。

「あ、いや。大丈夫」

 伝えねばならない。

 これはきっと、重要な話だ。

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