序章
苔生した灰色の四角は、少し前より溶け込んでいるように見えた。
冴島琴音は汗ばむシャツを手で仰ぎ、藪を蹴散らしながら歩みを進める。
なんだって私がこんな事を……。
心の中でいくら愚痴ても、己の考えたことであり、己が望むことでもある。
他人から命じられたとあれば、それを命じた人物を怨み貶せばいいのだが、自分で命じたことだ。怨むならば数時間前の己を怨むしかなかった。
琴音はそう考え至るや、大粒の汗が鎖骨に沿って流れ落ちるのを見てとり、そこに向かって大きく溜め息を落とし込んだ。
しばらくその灰色の四角を中心に弧を描くように周囲を歩き回っていた琴音はついに目的の場所に行きついた。
「うへぇ……やっと見つけた」
そこにあるのは一本の巨木。否、樹齢数百年は行こうかとも見える苔生した木であった。
「進化したねぇ」
琴音はその木に向かって話しかけた。
木は僅かに葉を揺らし、幹を裂き、動きを見せた。
「ああ、大きくなったよ。今では気分も《木》になって仕方ない」
木が話した。
それをさも当たり前と聞き入る琴音はやはり魔術師、人の理の外に身を置く存在だ。
「前よりは能力も落ち着いたみたいね」
琴音はズボンのベルトに挟み込んでいた水色のタオルを手に、額の汗を拭った。
「落ち着いたかといえばどうなのかは分からない。けれども、悪い気はしない」
すっかりと変わり果てた縁三高独は落ち着いた声色でそう言った。
「そう。ならよかった。それに、今の方が格好良いわよ。なんだか、そう。『マンシング』みたいで」
「何だって?」
「巨大怪物マンシング。知らない?」
「ああ、知らない」
「そう。そうよね。B級映画だものね。『ターミネーターX』とか『トランスモーファー』と同列に置かれる奴だものね。見てる人の方が少ないわよね。でも、好きなの。なんだか好きなの。くだらない映画だけれども、それでも好きなの。ヒーロー映画かと思わせておいてそんなことは全くないパニック映画だけれども、それでも……」
「分かった分かった」
「つい熱くなってしまった……」
「もうすぐ夏だからな」
「そうね」
琴音は高独に一歩、歩みを寄せる。
「おい!」
高独は慌てて身を捻るが、根が張っているのか、あるいは体が重いのか、声の反応とは裏腹に一歩も動けずに琴音に触れられた。
琴音は静かに頷き、にこやかに高独を見上げた。
「大丈夫みたいね。ともかく、よかったよかった」
「大丈夫でなければどうする気だったんだ」
「私はこれくらいじゃ死にはしないっての」
琴音は得意げに胸を張って見せた。
「ああ、そうだ。娘さん元気よ」
「本当か!」
高独は木の葉を揺らし大きくそう尋ねた。
「ええ。天丼屋で働いてる」
「ああ……」
高独はそれを察したのか、安堵の声をもらした。
「それでね、皆ちゃんだけど……」
「妙な男と付き合ってなかろうな!」
「あーそこらへんはあなたよりも厳しめの保護者がいるのでご安心をば」
ついこの間の店での騒ぎを思いだし、少し引き気味に琴音は後頭部を掻いた。
「そうか……ならいいんだが」
「皆ちゃんなんだか大学で変なサークル入ってるみたいなんだけど、止めた方が良い?」
「変なサークルというのは?」
大きな声でやはり尋ねる。
娘の事ともなればやはり、怪物とは言え真剣な一人の父親である。
琴音はそう思い、すこし笑った。
無論、笑える状況ではないんだけれども……。
「それがなんでも、『映画料理研究会』とかいうサークルなんだけれども」
「映画料……何だって?」
「そうなりますよねーですよねー」
やはりそうなったかと、少し納得。
「何をするサークルなんだ」
「なんでも、映画に登場する料理を再現して食べるサークルなんだとか」
「それは……」
高独は絶句したようだ。
それもそうだろう。どうせ大学に行っているのだ。少しでも有意義なサークルに入って欲しいと思うのが親の考えだろう。
……親ではないからそんなこと分からないんだけれどもね。
「素晴らしいじゃないか!」
「はあ?」
なんでそうなる。
というか、この一族は何なんだ。
琴音は初めて件の『テムズ』に行った時のあの二人に感じた空気を今ここで再び感じることになるとは思ってもみなかった。
血は争えない。
……あの店主とこの人血は繋がっていないけれども。やはり、義親子か。
「止めなくていいのね?」
「ああ、私もいければよかったんだが……」
非常に悔しそうに物語る高独。よほど悔しいのだろう。木の葉が悲しさを奏でているように聞こえてならない。
琴音は件の『ブルーミルク』を思いだし、少し苦笑いと共に再び頭を掻いた。
「で? 何をしに来たんだ」
高独が尋ねる。
「うん? ああ、聞きたい?」
「いいや、だが気にはなる」
「木だけに?」
面白いと思ったんだけどなぁ……。
辺りには森の息吹きだけが響き渡る。
巨木と赤髪の女性が大自然の中、冷たく切り取られたように何人の介入も許されざる静けさに包まれていた。
琴音は滑ってしまったのだという事は言葉を発した時点で察しがついていたのだが、どうにも中途半端に引くというのも気に入らず、最後まで滑り切ってしまったわけである。
結果、世界を止めるというある種、魔術の域すら超えた現象を引き起こしたのであった。
「と……ともかく。私はちょっと、ここの土地に用事があって来たのです」
「土地?」
「ええ。ほら、こないだ私と軽く戦いになったでしょ?」
高独は苦々しく「ああ」とだけ呟く。
「あの時気付いたのだけれども。ここの土地はどうにも他の土地に比べて生命が豊かなのよ。おそらく、あなたの能力の所為もあるのでしょうけれども、ね」
琴音は前回彼との戦闘において彼を束縛したここの土地に関心を抱いていたのであった。
それというのも、彼を拘束させるだけのつもりで撃ち放った魔石が、期せずして地面を手の形に変えて彼を掴んだという事実を鑑みた結果であった。
もちろん、ああいう魔術である。けれども、あの手の構造はおそらくこの土地独特のものだ。
本来、あの魔石で握り手の魔術を行使すると、無骨な手が対象を掴むという魔術なのだ。けれども、あの手は繊細にして、機敏に行使者と同程度の手形を再現してみせた。その為、琴音は不思議に思っていたのである。
「何を言っているのやらさっぱりだ」
「理解できてたら、今頃あなたはそんな姿にはなってないんじゃないかしら?」
高独の返事は無い。
「ま、あなたはそこで見てて」
「何をだ」
「ちょっと面白いことを、ね」
琴音はパンツのポケットから針と羊皮紙を取り出した。
「何を……」
「黙ってて」
琴音は羊皮紙を足元に置き、針を右手に持つと、己の手のひらに針先を押し付ける。
赤く鮮血が溢れ、針先を埋めこんでゆく。
そうして、血が零れぬよう左手は軽く丸めてしゃがみこむや針先に血を付けて羊皮紙に文字を記し始めた。
そこに記された文字は『emeth』。『真理』の文字が血で刻まれるや、琴音は不気味に頬を緩めてみせた。
※ ※ ※ ※
明確なる意志は決意の名のもとに収束しつつあった。
わずかの誤差も許されない完璧な照明を持ってして己の正当性を見せつけなければならないのだ。
駅前の広場に一人、その人物は佇んでいた。
虚ろな瞳で道行く人々を捉え、観察する。
使えそうな人形はいないか。
それは至上の難題であり、未だかつてその域に至ったものもいない。
故に、求め。
故に、挫け。
それでも、進むのはひとえにある人物への執着。
己にとっての全てであり、最高の比較対象。
彼女の存在が証明を確実なものにしてくれる。
目的はそこにあった。
彼女の秘める力を用いてこそ、この証明は確実に成り立つ。
しかし、そこに至るにはまず実験を繰り返さなければならない。
既に数件の実験は行い、いずれも成功を収めている。
証明は最終段階に入っていた。
不敵に微笑んだ矢先、目に止めたのは不思議な少女の姿。
黒く只々黒く。
汚れなど全く感じさせない純粋なる黒色。
吸い込まれるかのような黒い髪を持った少女。
この世のものとは到底思えないほどの美しさと恐ろしさを兼ね備え、現実に上書きされるようにしてそこにあった。
どれだけ外見を読み取ろうとも、どれだけ内面を覗き見ようとも、只々、黒く。あるがまま、黒く。真理の海原の海底奥深く、暗黒の水底にて居座る深淵の姫。
そう言っても言いすぎではないだろう。
とたん、深淵の姫は振り返り、こちらを見つめた。
深淵を覗かば深淵もまたこちらを覗いているのだ。
凛と見開かれた双眸は魔の瞳。
古今東西、どれだけ切れ味のよい刃物でも、人の心をこれほどまでに容易く斬り裂くことは不可能だろう。
それでも、ああ、だからこそだ。
あれを壊してみたい。
あの輝きを────てみたい。
けれども、分からない。
あれは────ているのか。
それとも────ているのか。
姫は答えの出せぬ愚か者には痺れを切らしたか、踵を返し人が渦巻く雑多に潜り消えて行った。
名残惜しく、少女を探そうと人混みを見つめていたが、終ぞ見つけることはできなかった。
とはいえ、今はそれどころではないのだ。
何のために全てを投げ捨てたというのだ。
何のために全てに挑もうというのか。
変わり果てた己の顔をそっとさすり、意識を為すべきことに向け集中した。
灰色の魔術師。
いいや、件の事情を鑑みるならば、魔法使いと呼ぶべきであろう。
否。そう呼ばねばなるまい。
待っていろ。
冴島琴音。
人を愛せし愚かな傀儡よ。