第五章
1
門には『本日休業日』との張り紙を張った。
琴音は朝早くに市役所に行ってきたそうだが、そんなに朝早くに市役所は開いているのか?
まあ、ともかく。今日はゆったりとしよう。
縁はソファの上でまどろんでいた。
結局、琴音は何を見たかを教えてくれない。
ただ、外に出る時は一緒に出ることって……。
「それじゃあ……今までと一緒よ」
ぼそりと呟き、クッションを腕と足で抱きしめる。
ずーっと。小さい時から私はこうして館に縛られている。
この館は体の良い監獄だ。座敷牢みたいなものね。
だとすれば、私は狂人?
そうよね、座敷牢といえば狂人が連想される。
まあ、間違ってはいないわね。
自分の考えを鼻で笑い、目を閉じる。
琴音ならば、分かってくれると思っていた。
琴音ならば、私をこの座敷牢から連れ出してくれると。
でも、違う。
琴音も結局同じ。
私を閉じ込める。
けれど……。
『ようこそ』
昨日の言葉が縁の脳裏をよぎる。
そして、あの暖かさも、あの光も……。
何考えてるんだろ、私。
彼女はもう、私を連れ出してくれているじゃないか。
後は、私が自分で切り開いていくんだ。
守られてばかりじゃいけない。
私も……役に立ちたい。
自分の無力感に自然とクッションを抱く腕に力がこもる。
琴音は友達だ。
私を心配してくれているんだ。
きっと……きっと。
門の開く音が聞こえる。
帰ってきたのかな?
扉が開く。
そうして、足音が聞こえる。
いいや違う。
これは……琴音じゃない。
縁は飛び跳ねる様に上体を起こすとリビングの入り口を睨みつける。
そこには異様に黒い靄のような物が溢れて見えた。
「誰!?」
リビングの扉がゆっくりと開く。
現れたのは長身に黒い外套を羽織った細身の男性だった。
「話をしに来た。君とね。縁縁」
男の顔は病的に白く感じた。やつれた様に頬が窪んでいるため、どうにも不健康そうな印象だ。
そうして、何よりもこの男に掛かる黒い靄が気になって仕方がない。
縁は立ち上がると、距離を保ちつつ横に移動をした。
「そう警戒するな。最初にも言ったが、僕は話をするために来た」
「では反させてもらうけれども。最初にも言った通り、あなたは誰?」
男は細く鋭い目つきで部屋中を凝視する。その目付きはどこか猫を思い出す。
「答えて!」
「君には魔術が効かないらしいな」
男は質問を無視して語り出した。
「座っても?」
男は足元のソファを指差した。
「質問に答えて」
男は「ふん」と鼻で笑うと、ソファに腰かけた。
「許可してないんだけど」
「構わん。気にするな」
男は表情を変えずにそう言い放つと、黒い手袋をはめた手を眼前で組んだ。
「鬱陶しいな。良いだろう。話してやる。僕はエイブラハム・ハリスンだ。間違えるなよ。ハリスンだからな。ちなみに、初対面ではないぞ」
「え?」
どこで……。
「こうすれば分かるか?」
ハリスンは外套のポケットから取り出した灰色の帽子を被って見せた。
「昨日の……」
市役所の……清掃員。
縁は気味が悪くなり、一歩後退去った。
「何の用? 何者なの?」
ハリスンは帽子を取ると、外套に閉まった。
「ふむ。その質問に対する答えを君が望んでいる頃合じゃないかと思ってね。こうして来た次第だ。大方、あの魔術師は何も説明していないのだろう?」
確かに……琴音は何も、教えてくれない。
「僕はあの事件の黒幕だよ。まあ、予想外の出来事も多々あったが、概ね僕の所為だ。そういう存在だよ、僕は。これで満足か?」
「じゃあ……あなたが」
「ああ。一つ言わせておいてくれ。僕は誰も殺していない。殺すなんて実につまらんからな。だが、まあ、僕が雇った人間が人殺しに少なからず関与したことは事実だ。そういったことを考えて大元を辿ると行動の責任は僕にもある。もっとも、悪いとは思っていないがね」
「琴音はこの事を知っているの?」
「ああ。もちろん知っているとも。だが、僕は冴島琴音とは会ったこともない。それでも、彼女は僕とは出会っているだろうし、僕の事を理解もしているだろうね」
会ったことが無いのに、彼が誰であるか知っている。そして、琴音は彼と出会っている?
彼が言ったその通りを脳裏に並べてみるがいよいよ分からない。
「君は《理》というものを知っているか?」
「突然。何よ」
「いいや。君の《縁》を視る力を詳しく説明しておいてやろうかと思ってね。説明はあったか?」
縁はただ首を横に振った。
「いいか。《理》というものはこの世界を構築するいわば数列だ。この地球に存在する全ての物にその《理》は干渉する。魔術であれなんであれ、だ。そして、その《理》を書き換えることが出来る者が存在する。それが、魔法使いだ。ここまでは良いか?」
早口ではある。だが、少なくとも、琴音の説明よりは理解できた。
縁はこくりと頷く。ハリスンは「ふん」と、鼻で笑い再び話を続けた。
「《縁》とは言いかえれば《理》に含まれない人の感情だ。当然、そんなものが視覚化できるはずがない」
「じゃあ、私が見ているのは何なの?」
「言っただろう。この世には《理》を書き換えることのできる存在がいると。それが魔法使いだ。《理》を書き換えるのだから、当然《理》を視覚化する力も持っているものだ。本来ならば、この世の《理》を認識する能力なのだ、それは」
男は何処か苛立たし気にそう言うと、落ち着きがなくなり、貧乏ゆすりを始めた。
「どうしたの?」
「なんでもない!」
大きくそう叫ぶと、懐に手を伸ばし、そこから銀色の何かを取り出した。男はそれを破ると、中からこぼれた二つの白く四角い固形物を口に運んだ。
「……変な薬?」
男は縁を睨み、口に入れたものを必死に噛んだ。
「禁煙中なんだ。イライラしたらこれを噛むよう言われていてな」
そうは言うものの、一向に眉間のしわと貧乏ゆすりは治らない。
「ああ。何処まで話した?」
「えっと……本来《理》を視る力だとかなんとか」
「ああ。そうか。つまりだ。君の力は劣化した能力だという事だ。本来見えるはずの《理》の部分が視えないため、視えるはずの無い《縁》が、浮き彫りになっているという非常に珍しい状況だ。まあ、それもそうだろうな。長い年月をかけて血を薄めればそうなる。いいか。こんな説明で?」
「で? 何をしに来たの?」
「何を? 可笑しなことを聞く。何をだと? ははっ! 最初に言っただろう。説明をしに来たんだ」
「どうして? 意味が分からない」
「どうして? ふむ。それは、僕が君の疑問の答えを知っているからだろう」
「はあ?」
「知っていても、他人に言えなければ無駄じゃないか。違うか?」
「え? ちょっと待って。あなた、その知識を自慢するためにこうしてやって来たの?」
「それ以外に何かそれらしい説明をしたか?」
そう言われれば、何もしていないのだが……。
「ふむ。気が済んだ。僕は帰る」
ハリスンはむくりと立ち上がると、すたすたとリビングを出て行こうとする。
「ああ。そうだ」
突然踵を返し、縁を見る。
「見送りは結構」
「しないわよ」
「それともう一つ」
「何?」
「君は僕の事を覚えてはいないだろう。だが《縁》について僕が説明した話を覚えている。そう言う風に僕の『忘却言語』は整えているからな。高度な魔術なのだ……と、説明したところで僕の事は覚えていないのか。まあ、良いだろう」
ハリスンはにこやかに微笑むと、その場に佇んだ。
縁はハリスンを眺めていると、突然黒い靄が弾け、縁の視界を覆い隠した。
ぼんやりとその場に佇む縁。
残ったのは開け広げられたリビングの扉だけ。
不意に、玄関が大きな音を立てて開けられる。
「縁ー。ご飯食べに行こうよ」
どたどたと忙しくリビングに入り込んでくる琴音。
「いいけど。どこ行くの?」
琴音はにたりと微笑む。
「何よ」
「西部劇はお好き?」
2
「いらっしゃい」
そう出向いたのは白髪の老人であった。
「あれからどうだい? 問題ないかい?」
老店主は琴音にそう尋ねる。
なんだろう。この音楽……店の雰囲気とてんで合ってない。
まあ、それは抜きにしてみれば、この店は落ち着いていて個人的にすごく好きだ。どことなく屋敷の離れを思い出す。
「ええ。元気です」
「こちらは?」
「縁です。縁家の」
「ユカリ? ああ。ああー」
そう言う反応だろうね。当然だ。
この町で縁家は何処に出向こうと驚かれる。
縁はどことなく拗ね気味に腕を組む。
琴音は「ふむ」と前髪を掻き上げる。
その顔は「どうしたものかな」と言った表情である。
「今日は、何がおすすめですか?」
「今日は『オムライス』があるぞ」
オムライス?
機敏な動きで縁は店主を見る。
その仕草に店主は少しビクつく。
「オ……オムライス下さいっ!」
縁はオムライスが好きなのだ。
「注文は席に着いてからだぞー、ゆかりん」
「あう……」
縁は顔を赤く染め上げ俯いた。
「分かった。お嬢ちゃんはオムライスね。あんたは?」
お嬢ちゃんって……私、十八なんだけどなぁ。
「私は……」
琴音はカウンターに明らかに不釣り合いな木目に墨で描かれた『穴子丼』を見つめている。
「穴子丼で」
「あいよ」
店主はメモ用紙にボールペンで注文を書いている。
「オムライス一。穴子丼一。カイ、お前が穴子作れっ」
「はーい」
カイ?
ふと何か引っかかり、縁と琴音は顔を見合わせた。
「縁……もしかして」
縁はこくりと頷く。
「すいません」
琴音はそう言って店長を呼ぶ。
「なんだい?」
「あの、娘さんの事なんですけど」
「ああ。カイか……」
その声にはどこか重いものが感じ取れた。琴音はそれを感じ取ったのか、軽く首を傾げて見せた。
「店長―。タレどこにやったの?」
そう言いながら暖簾をくぐって現れた少女。歳は私と変わらないくらいだ。髪の毛を後ろで一つに束ねている。
途端。その少女と眼が合う。
どこかで……。
「あ。縁ちゃんっ!」
突然名前を呼ばれ、縁は大きく目を見開いた。
「ほら、覚えてない? 私」
そう言ってにこにこと自分を指差す少女。
「あー覚えてないかなぁ。結構昔だもんねぇ」
「どこで……」
そう尋ねた縁であったが、既に答えは知っている。彼女と瞳が交わった瞬間に感じた赤い光。
それが指すのは、彼女が縁家の一族であるという事だ。
「私、縁三家の皆だよ。元……だけど」
琴音は「ふうん」と、呟くと感慨深そうに腕を組んだ。
その顔には「あなたが何とかしてみせなさいな」というような顔をしていた。分かりやすく言えば、私を巻き込むな、というような顔だ。
店の店主を見やると、困ったような表情で皆と名乗った少女を見ている。
「ごめんなさい。覚えて……いいえ、知らないの」
はっきりと、縁はそう言った。
店主は頭を抱え「しまった」というような表情だ。
琴音は、よく分からないが、にやにやと笑みを浮かべながら縁を眺める。
「だから、教えて」
皆は少し困った顔をした後、小首を傾げた。
「知ってると思うけど、私の名前は縁縁。私はなんて言うか、すごく人の名前を覚えるのが苦手なの。だから……」
「えーっと。私はねっ……うふっ」
皆はそう言いかけたところで「ふふっ」と小さく笑った。
縁は少しむっとした表情になる。馬鹿にされた気がしたのだ。
「可笑しなこと言ったかしら?」
「違うの。そんなつもりじゃないんだけど、不思議だなぁって思って」
縁は分からず、眉をひそめる。
「今の私の名前はね、弓狩皆なの」
それにまず笑い出したのは琴音だった。
「あはっ! あははははっ! 出来過ぎ! 出来過ぎよっ! ああ、もしかして……あなたの名前は?」
琴音は店主の方を向き、そう尋ねた。
店主は「分かった」という顔で頷き、
「俺の名前は弓狩史城だ。皆は俺の孫だよ」
と、しぶしぶといった具合に答える。
琴音は笑いをこらえ、こくりこくりと頷く。そうして、縁の方を見やるともう一度大きく頷いて見せた。
「なるほどね。これも全部《縁》ってわけね。あなたと居れば、当分暇はしなさそうね。あははっ!」
「ふふ」
それにつられて縁も笑う。
皆も笑った。
先ほどまでは鹿爪らしく腕を組んでいた店主でさえ頬を緩めている。
店内の西部劇の音楽に負けず劣らずの笑い声で笑った。
「ど……どうしたの?」
突然の騒ぎに厨房から女性が現れた。店主の奥さんだろう。
「いや……なんでも、何でもないんですよ」
琴音がそう言う。
縁もそれに頷き、
「何でもない」
小さく事実を語った。
この上ない楽しさであった。
これほど世界を楽しいと感じたことはあっただろうか。
これほど世界を小さく感じたことはあっただろうか。
これほど人との繋がりに喜びと感動を覚えたことはあっただろうか。
無い。
無かったのだ。
彼女と出会うまでは……。
これは、一人の少女が《縁じる》成長の物語である。