第四章
1
魔素を辿れば……無理か。
琴音は廊下の突き当りの扉を蹴り飛ばし、マンションの裏に出た。
木々が生い茂っており、何処にでも潜むことが容易だ。
だとすれば、先ほどどうように声をかけて動きを探るべきか。
「危害を加えるつもりはない。私は魔術師だ。助けに来た!」
耳を澄ます。
どこだ。
どこに隠れている。
がさりと草が揺れた。
「本当か?」
「ええ。私は魔術師……無所属だけど。冴島琴音って言うの」
「私を……助けてくれるのか?」
草木が大きく揺れ始める。
何をしているのだろうか。まさか、何か仕掛けてくる気?
あの《首》の理式に乗っ取られているのならば、有り得ない事ではないけれども。
「私を救えるのか?」
「それは、あなた次第ね。でも、最善は尽くす」
大きく草木が落ち込んだ。何やら、鼻に付く臭いを感じる。
これは……想定はしていたけれども。
腐り落ちた草木。その中心には何者かが静かに佇んでいる。
「これでも、助けられるか?」
皮膚は青白く、皮下のもう血管はこれでもかと浮き出し、両の目は赤く充血。そして、何よりその頭蓋ははち切れんばかりに肥大化していた。
「《首》を使ったのね」
「使った?」
「違うの?」
「違う! 襲われたんだ。あの……《首》に!」
「ふうん」
琴音は含んだ笑みを浮かべる。
「ってことは、あなたは《縁魔の首》を知っているってことで良いのね?」
「…………」
異形の男は何も答えない。変わりきった顔だが、それでも彼が困惑しているのは見てとれた。
「だとすれば、あなたは縁家の人間、ね」
男はこちらに何とも言えない目を向ける。
「加えて、あなたがこうなったのは一昨日あたりでしょう。だとすれば、一族の人間であれば縁家の屋敷に居たはず。だが、あなたはそこにいなかった。だとすれば……分からない。あなたは、誰?」
琴音はその双眸で男を分析する。
衣服はズボンのみだ。
そのズボンも緑色に変色している。
先ほどの草木の腐食。加えて、ホームレスの不自然な死体。
琴音は河原で触れた人皮によって爛れた自身の手を見てから、男を見た。
すべては、この男の能力なの?
「私は……縁三高独。君の推理の通り私は縁家の人間だった」
「だった……どういう事?」
琴音が一歩歩みを進めたときだった。
「やめろォ! それ以上、私に近づくなァ!」
びくりと琴音はその場で動きを止める。
「近づかなければ、助けられない」
「駄目だ。近づけばまた……私は人を殺してしまう」
「私は魔術師。大丈夫よ」
「黙れ! お前に何が分かる! 私の……気持ちなんて」
「……そうね。分かりっこないわね。でも、私はあなたを助けたいの。どうすればいい?」
「係わらないでくれ……頼む」
「分かった」
琴音は高独に踵を返した時であった。
「やっと見つけた。どこ行ったのかと思ってた」
縁がいた。
瞬間。後方で、明らかに何かが変わる。
全てが、入れ替わってしまった。絶望は怒りに、それをぶつけるに足る対象が現れてしまったからだ。
「貴様ァ!」
男は駆けだした。
縁だけを視界に捉え、迫る。
「琴音! 逃げなきゃ!」
縁はとっさに《縁》を感じ取ったのか、琴音に向かって叫んだ。
「任せて」
琴音はポケットから無色の魔石を三つ取り出すと、高独と自分たちとの間にそれを投げた。
二つは地面に跳ね返り、宙を舞う。一つは地面にめり込んでいく。
魔術を行使するにあたり、体理式に魔術理式を取り込む。体に異物が入り込んでくる感触が不愉快極まりない。
高独は突然、視えない衝撃を受け、大きくその場に転ぶ。宙に舞った二つの魔石が結んで作った大気圧縮によって築かれた壁にぶつかったのである。地面からは土が盛り上がり、手の形となり彼の体を地面に押さえつけた。
「さて、いろいろ教えてくれるかしら。どういうことか」
「ぐぅ!」
高独は必死に体を動かし、土の手から逃れようとするが、びくともしない。
「無駄よ。それは私の許可なくして何も離さない《握り手》なの」
観念したのか、高独は動かなくなった。彼を掴む土の握り手が次第に青々と苔生し始める。地面に伏せる高独の瞳は憎悪に燃えていた。
「説明してくれるかしら?」
「その……化け物に聞け!」
「化け物? 縁の事?」
「ああ、そうだ! 縁魔の化け物!」
縁を見やると、無表情に高独を眺めていた。
「縁、この人を知ってる?」
「……知らない」
「ははっ……だろうよ。お姫様は自分しか見てないもんなァ!」
縁は本当に知らないのだろう。
この子は興味が無いのだ。興味の無いものは見ようとも、理解しようともしない。そんな子だ。
きっと、私ぐらいしか縁とはまともに話せないんじゃないだろうか。
「縁。縁三家は知ってる?」
「ええ」
「彼は、縁三高独さん。もっとも、私があなたの親戚を説明するのも本来すっごく変なんだけれどもね」
「……そう」
静かにそう言う。
この子は一族の人間といることを嫌っているのだろうか。
どうにも、親戚の人間がいると人が変わる。
「ま、こんな感じだから、あなたが説明して」
「……全部。お前の所為だぞ! 全部!」
「落ち着いて。順に説明してよ」
「こいつが……とっとと頭首になると決めていれば、私も……こんなことにならずに済んだのに……」
「私の……所為?」
「そうだ! 覚えちゃいまいだろうがな。お前が一時期頭首を継がないなんてぬかしやがった所為で、私は……縁三家は失われたんだ」
縁は小首を傾げる。
「お前が頭首を辞退するとなって、一族は新しい頭首を立てるという事になった。そこで、私の娘が選ばれたんだ」
「それがどうして私の所為になるの?」
「お前は《縁魔の首》がどういう力を持っているか知っているか?」
「いいえ。知らない」
「だろうな。あれは家を栄えさせる力を持っている。だから、アレの所有者である縁家は事業でも常に成功しているんだ。縁三家が頭首になれば《首》は私の家の物だ。だから、私は新しく事業を起こそうとした……」
「なるほど、ね。で、縁が頭首になるって言いだしたものだから、あなたは縁を怨んでるってわけね」
高独は何も言わなくなった。
「縁。行くわよ」
琴音は縁の腕を掴んだ。
「あなたの拘束は解いておくわ。後は好きにして。また、罪のないホームレスを惨殺してもいいし、すぐそばの住宅街の人々を皆殺しにしても構わない。もちろん。おそらくあなたが今考えているであろう縁縁に対する復讐を果たしに来ても構わない。ただね。どれを実行するにしても、私は必ずあなたの敵になるから。あなたの境遇には同情する。それに、縁が悪くないなんて言わない。それでも、何かにすがり続けたのだから、これぐらい自分で責任を負ってみたら?」
琴音は淡々とそう語った。
「あ。そうだ。あなたの娘さんの名前は? 会ったらよろしく伝えておいてあげる。どうせ、その体じゃ娘さんはおろか、もう誰にも会えないだろうから」
琴音は不敵に微笑んだ。
「む、娘に何をする気だ!」
「何もしないって。私がそんなに極悪非道の魔術師に見える?」
男の返事は無い。
「うっ……傷付くわね。ま、まあいいわ。娘さんへの遺言は無いの?」
「娘の名前は皆という。娘が頭首候補に挙がったのも現頭首と名が同じだからだ。それに……」
「それに?」
「いいや。なんでもない」
「ふうん。今もこの町に?」
「妻とは既に離婚している。だから、今はもう分からない。だが、私の所為でつらい思いをさせてしまった。この町に良い思い出なんてないだろうから、もういないだろう」
「そう、ね。分かった。ま、会ったらとりあえずお父さんは元気にしてるよって言ってあげた方が良い?」
「いいや。何も言わずに……友として接してやってくれ。あれは、友達をつくるのが下手だったから」
その表情は父親のそれだった。
「分かった。じゃあ、さようなら」
琴音は静かにそう言うと、踵を返してその場を後にした。
「ねえ。良いの? 放っておいて」
「構わないわよ」
「違う。危険じゃないかって事。あの人だったんでしょ、ホームレスを腐らせたの」
「そうね」
「じゃあ……」
「でも、彼は自分が危険だって気づいてるし、人を殺すのは嫌がっていた。それに、後悔もしている。だから、おそらく、ホームレス殺害は事故だし、もう誰も殺さないはずよ」
「いや、そうじゃなくて、ここは子供たちが来るんじゃないの?」
「別に良いんじゃない? だって、彼らを視ようとしていないのは人間でしょう?」
「え?」
「もっと、真面目に調査をしていれば、あの異常繁殖するカビが危険だってすぐに気付ける。それこそ、あれは魔術なんていうよりどちらかといえば人間お得意の科学の分野だもの」
「そうなの?」
「そう。彼を変えたのは魔術だけど、ね。それ以外は人間が認識すれば理解できる出来事よ。ホームレスだからって、無視した人間が悪いの。加えて言えば、もし仮にまた誰かが死んでも人間は無視するでしょうね」
「どうして?」
「不可解ではない。ただ理解したくないだけ。だって、恐ろしいから。さっきの人もそうだけど、人間という生き物はそういうところがある生き物なのよ。だから、楽観的に物事を視たがるの。都合の良いようにね」
琴音は人差し指をピンと立て、にこやかにそう言った。
「それにしても、うまいと思わない?」
「何が?」
「あの人の名前」
「そう?」
「ま、あなたが言えたことではなかったわね」
2
館に帰り着いたとき、館の門の前にいろいろと手紙が置かれていた。
「大人気ね」
縁がぼそりとそう言う。
「そりゃ、無料だからね」
琴音は大きく背伸びをしながら門を開けた。
縁は落ちている手紙を眺める。
「ちょっと、琴音」
「何よ」
「これ依頼じゃない」
「じゃあ何? ファンレター? 今日からなのに? 有り得なくない?」
「違う。役所からのお達しなのだけれども……あなた、許可取ってこれやってるの?」
「やだなぁ──」
琴音は後頭部を掻きながら笑顔でそう言う。
「それは、そうよね。じゃあ、向こうの手違いという……」
「昨日この町に来たのに許可なんて取ってるわけないじゃない」
「…………」
縁の手に有った手紙がはらりと無言のまま落とされる。
「あれ……まずかった?」
「まずいなんてもんじゃない! 何とかしてよ! 迷惑はごめんだから!」
琴音は分が悪そうに頭を掻く。
「とはいえ、市役所を焼き払うのは流石にまずいからなぁ……」
「もういい! 私が届け出だしてくるから」
「本当?」
「ええ。それに、私が行かなかったら行く気ないでしょ?」
「まあね」
悪びれる様子も無く琴音は頷く。
「だと思った」
縁は必要になると思われる書類や印鑑を鞄に詰めていた。
「ずいぶん可愛らしい鞄ね」
鞄にはクマの刺繍がされてあった。小学生が家庭科の授業でつくるようなそんな鞄だ。到底十八にもなろうかという少女の持ち物ではない。
もっとも、十八には見えないのだが……。
「わ……悪い?」
「いいや。でも、なんていうか……すごく似合うなぁって」
「うるさい!」
「あいあい」
琴音は偉そうにソファで横になり、コーヒーを飲む。
「このコーヒー美味しいね」
「インスタントだけれどもっ!」
「ふうむ。あなたが淹れてくれたからかな?」
「人の話聞いてるの?」
「あう……」
「今更ご機嫌取りは結構! じゃあ、私行ってくるから」
「明日にしたら?」
「今日できることは今日するのっ!」
「あーそれ私が一番嫌いな言葉ね」
「見て分かる駄目人間っぷりだものね」
「そうかな?」
「ええ」
琴音はコーヒーカップをソファの横のテーブルに置き、立ち上がった。
「どうしたのよ」
パンツのポケットから取り出したのは小さな青い石だった。
「お守りよ」
「そ……そんなのいいって」
縁は断るが、琴音はその石を彼女のコートのポケットに入れた。
「ちょっと! どこ触ってるのよ!」
「いいじゃない別に……あっ。何? やっぱり意識してるの。私の事?」
「そんな訳ない!」
無表情に即答されると少し悲しい。
琴音は少し残念そうに、
「だよね」
と返した。
「でも……一応、お礼は言っておく。ありがと」
「どういたしまして。あ、それと、今夜は雨が降るかもだってよ」
「そうなの?」
「当たらない天気予報が言ってた」
縁はそれを聞くと、傘を手にすたすたと館を後にした。
戸が閉まり、門が閉じる音が彼方で聞こえたのを合図に琴音はソファに深々と腰かけた。
コーヒーを口に含み、天井を見上げる。
「さて」
手にした縁の携帯を見る。そして、対の手の指を鳴らす。館のカーペットの上に散らばっていた市役所からの手紙が青白い炎で一気に燃え上がる。
「悪いね。ゆかりん。やらなきゃならないことがあるのよ」
3
「どうもー。琴音ちゃんでーす」
「どうして……」
「それは全部分かってたから」
「なるほどね」
「そういうこと。ま、肝心の一点が今まで分からなかったけど、それが解けたからこうして待ち受けてたってわけ」
「このことは?」
「縁には言ってない」
「残念」
「でしょうね。でも、せっかくだから行ってあげるわ。場所は?」
「相楽橋で」
「えーっと。あのホームレスの住家で良いのよね」
「ああ。じゃあ、今日の夜会おう」
「準備しておいてね」
「もちろん。それと、一応謎解きを聞くからあの格好で出向くぞ」
「それは見ものね。写メ撮っていいかしら」
「撮影料を貰うかも」
「ふふ。じゃあ、後でね……」
4
呉れ沈んだ夕陽に変わり、荘厳なる宵闇の月が彼方より全てを照らす。
蜘蛛の巣のように張り巡らされていた縁は、縁魔の末裔に紡がれ、今、月下のもとに収束した。
「やあ。冴島さん……だったかな」
田後はゆっくりとした足取りで相楽橋に現れた。
「ええ。お元気かしら」
「もちろん」
「空き缶は拾えた?」
「ふむ。では、どうして僕がホームレスでないと気付いたか教えてもらえるかな?」
田後の口調は突然若くなる。先ほどまでの初老の男の声とは打って変わり、まだ生き生きとした少年のような声だ。
「簡単。手よ」
「手? 手のどこが」
「虫刺されよ」
「やり過ぎたかな?」
「違う」
琴音は頭を振り、それに両手で呆れたというようなジェスチャーをみせた。
「虫刺されまではよかった。ただ、それを掻いちゃったのがまずかったのよ」
「ふむ」
田後は訝しげに腕を組むと、自分の腕に目線を落としこんだ。
「二年間もホームレスをやってれば、そんなに柔らかく皮が剥けるわけないのよ」
「ははっ。てことは、その時点から、あんたは僕に合わせて演技してたってわけか」
「そう。演じきってるあんたを見ると笑いが出て来そうで、直視できなかったから、けっこう大変だったのよ」
「これはこれは……」
田後はぼろ雑巾のような服を脱ぎ捨てる。下には綺麗な白亜のローブがあり、その手には金色に光るステッキが握られている。
「駄目駄目ね。もっと修業しなきゃ駄目よ、お坊ちゃん?」
「さて、そろそろ始める?」
「自己紹介をしておこうかな」
「いいね。どっちからする?」
「じゃ、私から」
琴音は「コホン」と取ってつけたような咳払いをし、一礼した。
「無所属。灰色魔術師の冴島琴音。どうぞよろしく」
「なるほど、灰色、か」
「あなたは?」
「僕は田後文起。魔術師だ。色は無い。これでいいかな?」
「ええ。構わないわ。ところで、どうして『境屋』に来たの?」
「そりゃ、チラシを見てさ。きっと魔術師だと思ってね。邪魔者は消しておくに限るだろう? アイツが君たちを殺してくれるんじゃないかとも思って仕向けたんだけれども、駄目だったね。やっぱり、予防線を張って置いて正解だったよ」
「徹夜で配った甲斐があったってわけね」
橋の上を吹き荒ぶ風が琴音の長髪を靡かせる。
田後はステッキを手に、琴音を睨む。その瞳には明らかな殺意の意志が放たれていた。
短く息を切り、琴音は田後を即時に分析する。
アイツは私より弱い。それは相手の手にあるステッキを見ても明らかだ。アイツは魔力が人並より下なのだろう。故に、ああして増幅媒体を使っているのだろうが……。
琴音は田後がそれを自覚しているであろうという事が恐ろしかった。明らかに己の魔力が人より劣っていると知っているのなら、それに代わる何か別の……そう、魔力を用いない戦闘方法を会得しているはずなのだ。
それを読み説かなければ、負けはしないだろうが、手痛い攻撃を受ける可能性がある。腕の一本でも取られれば私の大敗と言ってもいい。それに、今の腕は気に入っているから失いたくはない。
お互いの双眸が虚空で重なり、瞬間、全てが動き始める。
琴音は考えるよりもまず大きく一歩を踏み出した。彼女の体理式に染み込んだ術の理式が読み起こされ、眼前に大気の壁を築く。
田後はステッキを振るい、虚空に文字を刻んだ。
なるほど。ルーン文字か。だが、魔力が低いのであれば……それを選ぶべきではなかった。
にたりと頬を緩め、琴音は距離を詰める。
田後の眼前に突如出でた炎は琴音めがけて撃ち放たれた。
それを避けようともせず、琴音は受けきる。
相手の魔力は大した量ではない。
故に、扱いきれる魔素も限られる。だとすればそれ以上の魔素を放つ彼女の視力であればそれを視るだけで掻き消すことは可能なのだ。
打ち破り、散らばりゆく虚空の炎を琴音は体で絡め取り、その身に纏わりつけた。そうして、さらに加速をつけて一気に駆け寄る。
焔と光を司る《灰》の魔術師に炎をぶつけるという事は、正直見習いでもやらない愚策であった。
単純に生み出された炎であれば、魔術理式が無くとも、体が理式を覚えているため、操ることは可能である。
琴音の体に纏わりつく炎は彼女の体を這うようにして蠢き、次第に下半身に下りて行った。
それは右足に纏わり、螺旋を描きながら彼女の右足を覆った。
途端。彼女は飛んだ。
大きく地を踏みしめ、前方に跳躍したのだ。
雲のかかった夜空は漆黒そのものである。その中で、赤い閃が暗闇に浮かび、小さく弧を描いた。
琴音は空中で一回転し、その勢いを持ってして田後めがけて炎を纏わせた右足で蹴りかかる。
迫る琴音を田後は凝視する。
この技を用いれば田後を灰燼と砕くことは容易だろう。
だが、そうすれば彼の動機、そして、件の《首》をいかようにして操ったのか、それが解明できなくなる。
殺すわけにはいかない、か。
月光が彼女を捕える。
わずかに炎を弱めた────その瞬間であった。
琴音の右の太ももと、左のわき腹を下方からの閃光が貫いた。
力を失い、琴音は宙から墜ちる。
田後はにたりと頬を緩める。
「やっぱり……あんたは単純だねぇ」
苦痛に歯を食いしばり琴音は田後を睨む。
驚きはしない。罠だったんだ。
それにしても、運が良い奴だ。
まさか、あのタイミングで月が出るとは……。
「何が起きたか分からないって顔してるぅーっ! これで、邪魔者一人排除っ!」
明らかに調子に乗っている。だが、何が起きたかは分かっている。
それでも、喋らせるのが得策だろう。その間にこちらは回復させてもらう事にするか……。
琴音は左のわき腹は放っておき、機動力を確保するために右足の修復に魔素を集めた。
「あんたは言った。灰色の魔術師だと。だとすれば、絶対的に炎に対しては自身を持っていると思ったんだ。だから、僕はそれを利用させてもらった」
なんともうれしそうに語る。
分かりきったことを……どことなく、痛々しい。
「君は、僕が炎のルーンをステッキで宙に描いたと思ったんだろう? 残念、本当は──」
「月光文字、でしょ? ルーンを描いていると見せかけて、その実は地面に街灯の光で出来るステッキの影で別の文字を描いていた。まったく、運がいいわね」
種明かしを取られたからか、田後は少しむっとした表情をとったが、すぐさま先ほどまでのしたり顔に戻った。
「それにしても、アンタは何が目的なの? 金?」
その質問に、田後はきょとんとした顔で琴音を見た。
そうして、声高らかに腹を抱えて笑った。
「どうして? ははっ、どうしてだって? 冗談だろ、アンタもあの《首》が目当てじゃないのか?」
「《首》って、あの?」
「アンタ、知らないのか?」
「ええ。私は、あの《首》を探してくれとしか言われてないし」
「ははっ。傑作だね。馬鹿じゃないのか? あの《首》がとんでもない代物だって事はアンタだって分かるだろ」
「ええ。まあね。でも、アレを使いこなせるほど私は器用じゃない。何分、性格が非常に大雑把なもので」
「……おい。冗談で言ってるのか?」
「いいや。マジもマジ。本気と書いてマジと読むでござるってくらいマジよ」
「よく分からねえけど、アンタはもしかしてアレがただの魔術媒体か何かだと思ってるのか?」
「そうよ。違うの?」
「違うさ! あれはエンサ=ダ=バールの首だ。白の魔法使いの首なんだよ!」
エンサ? ああ、なるほど。縁を含め、縁家の人々はどうにも日本人離れした顔立ちだと思ってたけど、向こうの人が祖先だからか。納得、納得。
琴音はほぼ内部構造は修復した右足の傷口を眺めながらそう考えた。
「もしかして、理をどうのこうのって代物なわけ? たとえば、そう……魔法使いみたいに?」
琴音の頬が僅かに緩む。
「そうさ。あの《首》はこの世でただ一つ。魔法の理式を刻んだ魔術媒体なんだよ!」
ああ、これも納得。なるほどね。あの《首》を手に入れて、魔法使いになろうとしてるのか……何とも、まあ。
誰もが考えそうなことね……ありきたり、つまらない。
琴音は小さく落胆の溜息を落とし込むと、呆れた顔で田後を見た。
「どうしてそれが唯一って分かるのよ……」
「その情報だけが世に出ている情報だからだ。世界中をくまなく探せばいくつか出てくるかもしれないが、それでも今確実に分かっている物はあの《首》しかない」
「ふうむ」
琴音はどことなく腑に落ちずに苛立たし気に息を吐いた。
「そもそもあれは縁家の一族だけの秘密でしょ────」
そこまで言ってはたと気づく。
「ああ、縁三高独……か」
街灯の光を上から浴びる田後。琴音から見えるのは薄気味悪い笑みを浮かべる口元だけであった。
「御名答だよ。あの男に聞いたんだ」
「でも、アレは魔法を収めた魔石なんでしょう。だったら、最初の私の見解で合ってるじゃない……」
「お前は何を……」
「魔法も、魔術も、私にとっては変わらないって事」
「お前……おかしいんじゃねえのか?」
田後は困惑した様子でうろたえる。
「おかしいも何も、私は魔法使いの弟子よ。おかしくて当たり前。この世の理の外にいる存在だもの。魔術師も、魔法使いもみんな同じ。そう易々と、そん所そこらの貧弱魔術師風情に私を理解されてたまるかってのっ!」
ようやく、右足の傷もふさがり、動けるようになった。
琴音は痛むわき腹を押さえ、やおら上体を起こした。
だが、足が動かない。
「……ああ。なるほど、内側だけ回復をしてたわけか。それで、延々いろいろと話を長引かせたんだな。恐れ入ったよ灰色の魔術師さん」
田後はステッキを振り回しながら、琴音の横にしゃがみこんだ。
「残念でした。アンタは今、地面に打ち付けられているのでしたぁー」
いくら足を動かそうとしても足はびくともしない。
「僕が描いた月光文字は『杭』だよ。だから、アンタは動けない。来年の同じ日に同じ時間に同じ場所で、月光を浴びない限り、ね」
「その素敵なステッキをぶち壊せば、問題ないでしょ?」
渾身のギャグだった。
「まあね。でも、どうやるのさ? アンタは動けないんだぜ?」
田後のステッキが琴音の頬をなぞる。
「ま、安心しろよ。今ここで殺してやるから」
そう言って、田後は魔石の付いている方を握ると、大きく振りかぶり琴音の頬をステッキで殴った。
痛みというよりは衝撃と口内に広がる鉄の味に気がいく。次いで、じんわりと痛みというか、痺れが顔に広がる。
不愉快な血を吐き捨て、田後を睨む。
「魔術で殺すとは言ってない」
次はステッキの先端を先ほど射抜かれたわき腹の傷に突き立てられる。
「ぐぅっ! ぅうううう!」
大きく目を見開き、歯を食いしばる。
かろうじて動かせる上体をしならせ、その痛みから逃れようとするも、逃れられるはずもなかった。
「いいねぇ。こういうのって動画撮影しとけばマニアックな人には高値で売れるんだよな。アンタ、顔は美人だし、撮影してあげようか?」
にたりとした表情で田後が琴音に顔を近づける。
「この……いぎぃっ! あっあああああああぁぁぁ!」
何か、言おうとしたが、それを言う前にステッキが傷を抉る。
わき腹からくる激痛が頭蓋の内側を跳ねて回る。
「駄目駄目、駄目だ。お願いしますって言えよ」
大粒の脂汗を額から滲ませ、田後を睨みつけた。
「何だ、その反抗的な面は?」
ふと、琴音の目が変わる。
そうして、にたりと頬を緩めた。
「いいね。そうだ。そういう顔を見たかった。さあ、服従しろ」
「そうじゃない。するのは、アンタ」
縁は、田後の頭を傘の柄で殴った。
田後は鈍い音と共にふらりとその場で一回転し、無様に地面に転げた。
「ナイスショット!」
縁はすぐさま琴音のもとに駆け寄る。
「大丈夫?」
「うん? まあ、大丈夫かな」
「血が出てる……」
「怪我をすれば血は出るものよ」
「そんなこと知ってる!」
「あーそれより、そいつにいろいろと尋ねなきゃいけない事があるから、さ。そこのステッキを壊して」
そう言って田後の握っているステッキを指差した。
「どうして?」
「アレのせいで私が動けないから」
縁は「分かった」と、ステッキのもとに向かう。
そうして、ステッキの先端にはめ込まれてあった青い魔石を傘の柄で打ち砕いた。
「サンキュー」
「ねえ。この人、死んだかな?」
「さあ。どのくらいの強さで殴ったか知らないから、何とも」
縁は琴音のブルゾンの裾を掴み「どうしよう」と震えながら言う。
琴音は「ふむ」と、胸を張る。
「死んでいたら消しちゃえばいいよ」
「そうね」
二人は軽く頷き合う。
縁は納得し、とりあえず田後が生きているかを確認する。
生きはしているようだが、後頭部は血で黒ずんでいる。
「また、結構な力で殴ったね」
わき腹を手で押さえながら琴音が近づく。
「だって……」
「それより、どうしてここが分かったの? 場所は教えてなかったでしょ?」
「それは、《縁》を視たから。苦しんでるあなたが視えたから……」
「ん? でも、昼ごろあなたまだ親戚ぐらいしか分からないって言ってなかった?」
「……だから」
縁はぼそぼそと何かを言っている。
「え? 何だって?」
琴音はオーバーに耳に手を当てると縁に顔を近づけた。
「だから……」
「だから?」
「友達、だから…………だと思う」
「ふうん」
琴音は何とも言えない微笑みで縁を見た。
「あ。また、変なこと言いだす気ね。そういう意味ではないから。勘違いしないで」
琴音は笑う。
何故だろう。
久しぶりに、面白い。
何故だか、すごく懐かしい……なんだろう。
ずっと忘れていた気がする。
「な……なによ。満更でもないみたいな顔して。気持ち悪い」
「お風呂、一緒に入ろっか?」
「はあ? 冗談じゃない」
「そんな事言わずにさぁーー。お姉さんに全て委ねればいいから」
そう言って抱き着こうとする。縁は傘を手に威嚇する。
「痛っ……穴開いてるんだった」
琴音はその場で蹲る。
「ちょっと、大丈夫?」
「ふふ……捕まえたーー!」
琴音は縁にしがみ付く。
「やっ! やめてよ!」
「これでも、怪我人なのよ。肩ぐらいかしてよ」
「…………分かった。肩だけだからね」
縁の肩を借りて琴音は立ち上がる。
「そうだ。アイツからいろいろ聞き出さなきゃいけないんだった」
琴音と縁は倒れる田後に近づく。琴音はブルゾンのポケットから黄色の魔石を取り出すと、左手で握った。
「すぐ終わるから」
琴音は田後の額に手を置いた。
5
そこは見覚えのある街並みであった。
叉奈木の駅前だろう。
だが……これはいったい。
「やあ。僕が話しかけているという事は、こいつは倒せたんだな」
全体的にすらりとした男だった。男は交差点の中央に佇んでいる。
「まさか、本家が戦闘に秀でた魔術師を雇うとはさすがに想定外だが……まあ、いいだろう」
彼は琴音に歩みを進める。避けているのか、それともこれは全て精神世界の創造物なのか、それを測らせないためだろうが、彼は一切車に接触しなかった。
「あなたは誰? 田後文起ではないわね」
男は黒色の手袋をした両の手を眼前で合わせると、片方の眉を器用に吊り上げ、小さく顎を引き頷いた。
「僕は君の敵になるかもしれない男だよ。そして、仮にそうなるのだとすれば、僕は君の『最悪の敵』だろうね」
男はコートに手を入れると、煙草を取り出し、
「吸っても構わないか?」
と尋ねた。
「精神世界でしょうに。お好きにどうぞ」
「それはそうだが、人は記憶で生きているものだろう。だとすればこれもまた一興だよ」
男はそう言い、口に銜えマッチで火を点ける。
鋭い切れ長の瞳を閉じると、恍惚の表情で煙を吸う。
「で? あんたは誰なわけ?」
男は琴音に手のひらを突きつける。
それを攻撃と思い、琴音は身構える。
「まあ待て。煙草くらい吸わせろ」
どこか名残惜しげに煙を口から出すと、再び煙草を銜える。
「さて、脳内ニコチンを補給したところで話をしようか」
脳内ニコチン? なんだそれは。
「君の事はほぼすべて知っている」
「そうなの?」
「ああ。今の時点の僕は君の情報をほとんど知り尽くしている。そして、君の今の時点での僕だと今よりさらに詳しく君について調べていると思う」
「なるほどね。あんたは田後文起の記憶なわけか」
「おしい!」
男は指を鳴らし、微笑んだ。
「ここまで見破ったのは君が初めてだよっ! 実に面白いね!」
「本当にそう思ってる?」
「いいや。なにせ、この術を使うのは初めてだからね」
「でしょうね」
「ほお。いつ気付いた? この術を僕が初めて使うと」
「さあね。勘かしら」
「なるほど」
少し残念そうに男は頷いた。
「ともかく。僕は君に会うべくしてここに在ったわけだよ」
「じゃあ、その役目を果たせば?」
「ああ、そうしたいところだが、何やらデータの欠損が見られるようなんだ。僕は飽くまでこの頭の持ち主の情報に寄生するデータだからね。頭の持ち主の情報に問題があればそれはここでの僕にも影響が出る。何か心当たりは?」
ああ……縁。
あなたのナイスショットの所為ね。
「まさか、頭部を欠損させたという訳ではあるまい」
「そうかもよ?」
「有り得ない。君はそんなことをするような魔術師ではない」
「ご存知の様で」
「ああ、言ったろう。君の事は全て知っている、と」
「言ったわね。どうでもいいけど、そろそろあなたが何者か教えてくれないかしら。フェアじゃない」
「それもそうだ。僕はエイブラハム=ハリスン。もちろん魔術師だよ」
「私は──」
琴音がそう言おうとしたところで、エイブラハムは手で琴音を制した。
「言わなくていい。既に知っている。それにこの僕はただの情報だ。その君の苦手な形式にとんだ挨拶は本物の僕に対してしてくれたまえ」
明らかに上から目線──事実、エイブラハムの身長は琴音を優に上回っているのだが──にエイブラハムはそう言う。
「はいはい。で、Mr.ハリソン──」
「ハリスンだ! 二度と間違えるな!」
軽くウェブのかかった髪を振り乱し、声を荒げて明確に見てとれる怒りの形相を持ってしてエイブラハムは言った。
「これだから英語圏外の地域は嫌いなんだ」
今の怒声で乱れた前髪をゆっくりと掻き上げる。
「うるさいわね。ただの情報のくせに」
「まあいい。続けろ」
「ではでは、Mr.ハリスンッ!」
意図的に『ハリスン』を強調して言う。
それを受け、エイブラハムは「ふむ」と、やはり見下したように口をへの字にする。怒るというよりどちらかといえば『その程度か、愚か者め』というような表情である。
「伝えるべき情報とは何?」
「いいだろう」
ムカつくなぁ……コイツぅー。
琴音はそう思っていたが、表情には出さずに飽くまで平静を保っていた。
「とりあえず、エンサ=ダ=バールは知っているか?」
「さあ。魔法使いは一人で手いっぱいだったものでね」
「灰色の魔法使いだろう」
「ええ。で、そのエンサ=ダ=バールって何者なの?」
「僕が知っているとでも?」
「そりゃそうよね。今や首だけの魔法使いだものね」
「もちろん知っている」
得意げに胸を張る。
「何よそれ。自己顕示欲強すぎでしょあんた」
「ああ。悪いか?」
「悪いと思ったことないの?」
「無い」
即答である。
「死んでもあんたとは友達になりたくないわね」
「場合によりけりだな」
エイブラハムは琴音を中心にある程度の距離を保ったうえで周りを歩き始めた。
「彼は数千年前に魔法使いとなった男だ」
「魔法使いだものね。驚きはしないわ」
「その彼がどうして日本は叉奈木に来たのか。気にはならないか?」
「ええ。もちろん。教えてくださいな。あなたの自慢の知識で」
もちろん嫌味を込めて琴音は言った。
「よろこんでっ!」
エイブラハムはそれを賛辞だと思ったらしく、にこやかに、そして子供の様に嬉しそうに返事をした。
何とも言えず、琴音は周囲を歩くエイブラハムを見た。
「この場所は非常に魔素の流れが素晴らしい。それは気付いているか?」
琴音は叉奈木に来た時の事を思い出した。
龍主山から扇状に広がる魔素の流れは素晴らしいものであった。
「ええ。知ってる」
「彼は、この土地で己の血族を紡ぐと決める。何故か分かるか?」
「さあ」
琴音は肩を竦めておどけた表情を取る。
「魔法使いの考えることなんてさっぱりよ」
「だろうな」
エイブラハムは手にしていた煙草を再び口に銜え、うまそうに煙を味わい、紫煙を放った。
「エンサは、考えたんだ。この土地で血を紡げば次第にこの土地に見合った肉体。つまりは魔素を大量に扱える肉体になるのでは、とな」
「ははーん。読めたよ」
「そうか。では聞かせてもらおう」
そう言い、煙草を宙に投げる。煙草は落ちる間もなく、空中で燃え上がり消失した。
「つまり、あの《首》はまだ生きてるってわけね」
「正確には死んでる。だが、最初にも言ったが、人とは記憶に生きている。そういう意味ではあれは生きている」
「つまり、あの《首》は自分好みの肉体ができるのを待ってるってわけ?」
「ああ。掻い摘んで言えばそうなるな」
「じゃあ何? 結局のところ、あんたは何がしたいわけ?」
「簡単な事だ。僕は試したいだけ」
「はあ? 魔法使いと戦おうっていうの? 流石に頭おかしいんじゃない?」
「違う。魔法使いが復活すれば僕の負けだ」
「はあ? なおのこと意味が分からないんだけど」
「エンサ。つまりはあの《首》の目的は最高の体の取得。それだろう? だとすればあの《首》はありとあらゆる手をこうじて己の求める肉体を手に入れようとするはずだ! もっともあれは《首》だけだから手なんてないけれどもなっ!」
縁三高独を襲ったのはそういう訳か。でも、あの変異ぶりから見て、高独は最高の体ではなかったようね。
だとすれば、縁も狙われてるのか……。
「魔法使いとの頭脳戦なんて……素晴らしいっ! 実に面白そうではないか?」
「さあ。で、それが目的でいろいろ手の込んだことやってるの?」
「実は、僕も君と同じなんだ」
「というと?」
「僕も雇われの魔術師だという事さ」
「はあ? あんたも縁家に雇われているの?」
それを聞くや、エイブラハムは高らかに笑った。
「違うよ。同じエンサの一族でも僕は別の一派から雇われている。まあ、本家よりもずいぶんあの《首》に詳しいようだけれどもな」
「どういう事?」
「僕の仕事は、《首》の回収。それと──」
エイブラハムは琴音の前で足を止め、琴音に人差し指を指し向けた。
「君たち、つまり縁家に《首》が回収されることの阻止だ」
「それで『最悪の敵』ね」
「そういう事だ」
なるほど、縁が親戚を嫌う理由が分かった気がする。
「ふむ。どうやら、僕はこれ以上聞かれても何も答えられないようだ。だが……まあ、何か質問は?」
「あんたの雇い主は?」
「さあ? 皆目見当もつかない。何分記憶が無いものでね」
おどけた様に肩を竦めてみせる。
「最後に三つだけ質問させて」
「なんだ?」
「また何か仕掛けるつもり?」
「それには答えよう。もちろんイエスだ。さあ、次は?」
「この子。田後文起は何なの?」
「僕の手下だった。情報収集に使おうとホームレスに変装させて町に放ってたんだが、僕にとっては不幸なことに本業のホームレスをやっていた縁三高独と出会ってしまってね。後は、君の方が詳しいだろう。間違った見解を持ってそれに傾倒し、君たちを直接排除しようとした。ナンセンスだね」
「なるほど。いろいろ納得」
「そうだろうな。とはいえ、彼は若い。君に慈悲があれば殺さずにいてくれ」
脳に欠損って大概だけど……まあ、大丈夫かな。
「私はそんなことしない。知ってるんじゃないの?」
「一応言っておいただけだ」
「意外にお優しいのね」
「ああ。よく言われるな。最後は?」
「そうね。あなた……若いころのアラン・リックマンに似てるって言われない? 『ダイ・ハード』の時の」
「初めて言われたぞ」
「そう」
「それでは、次は夢ではない場所で会おう」
「会いたくないけど」
「会うさ」
「でしょうね。さよなら『最悪の敵』さん」
「また会おうだろう?」
6
目を開けると、そこには心配そうにこちらを覗き込む縁の姿があった。
「大丈夫?」
「それはこっちのセリフなんだけど」
琴音は魔石をポケットにしまうと、立ち上がる。
「何か分かった?」
「全部分かった」
「全部?」
「私も、あなたの親戚が嫌いになりそうって事」
縁はどういうことか分からないと言った表情で小首を傾げて見せる。
「この人、どうするの?」
琴音はジーパンのポケットから縁の携帯を取り出して渡した。
「これ、私の」
「ごめんね。こいつとは私が会いたかったから」
「あ……別にいいけど」
「それで救急車でも呼んであげたら?」
「放って置いてもいいんじゃないかしら?」
さらりと縁はそう言う。
「……あんたがそう言うなら」
琴音は肩を竦めて見せる。
「とりあえず帰ろう」
琴音がそう言う。
「あ」
縁は琴音に肩を貸す途中でそう呟いた。
「どしたの?」
「あの手紙」
「手紙? ああ、市役所からの?」
「そう。ちょっと清掃員の手助けを借りて市役所に無理やり入り込んだんだけれどね」
おそらく縁家の権力だろう。悪びれてない辺り、恐ろしい子だよ。ほんと。
「こんな手紙送ってないって帰らされたのよね」
それはそうだ。何せ私が作った偽物だし……とは言えない。
琴音は深刻そうな顔つきで頷く。
「そうなんだ。じゃあ、明日私が持って行ってみるよ」
縁は「分かった」と頷く。
「そうだ。明日、ご飯食べ行こうか?」
「ご飯? ご飯って食べに行くものなの?」
「はぁ? あんた一人で館で暮らしてるんじゃないの?」
「だって、食べ物は送られてくるじゃない」
ああ。この子は大丈夫なのだろうか。
というより、縁家はどういう教育をこの子に施して……。
琴音は「はあ」と大きくため息を置き、縁の方を見る。
「普通は違う物なの?」
「ま、とりあえず何事もやってみよう」
縁は少し恥ずかしそうに頷く。