第三章
1
親族会議の翌日、二人は叉奈木の外れにある縁の住まう館に向かった。
小高い丘の上にうっそうとした針葉樹に囲まれるようにしてその洋館はひっそりと在った。
明治の中頃にJ・コンドルに師事していたとされる東祁紅吉という建築家に頼み、建築された館である。南東方向に大きめの塔があり、北西方向には南東の物より小型の塔がある。そして、何より特徴的なのが、当時としては珍しく赤レンガを用いず、西洋の建築物に用いられていた灰色のレンガを用いたことである。
その灰色のレンガで築かれた佇まいから、叉奈木の人々はこの館を『灰色館』と呼ぶ。
「ここだけど……ねえ、涎垂れてる」
冴島琴音のぽかんと開け広げられた口からはだらしなく涎が糸を引き、地面に不恰好な楕円を描いていた。
「素晴らしい……まさに、私にぴったり!」
「別にあなたの物じゃないでしょ」
「ねえ! ここに一人で住んでるの?」
「まあ……そうだけど」
「すごい! ここあなたの物なの?」
これは縁家の物である。将来的には──認めたくはないが──頭首になる縁の物ともいえないことは無い。
「後々はそういう事になるのかな……」
突然。冴島はしゃがみこむと、縁の手を両手でがっしりと握った。
「な……なに?」
「結婚しよう!」
「はあ?」
「だってぇーー! この館すっごい欲しいんだもん! ねえ、結婚してよぉ!」
冗談ではない。何を言っているんだこの女は。
「あなた女でしょ」
「問題ないわよ。いい。これからの世の中、そういう結婚の在り方も出てくると思うのよ。だから!」
「無理」
縁は手を振りほどくと、門をくぐった。
「うう。ご無体なぁ……」
館に入ると、やはり重苦しい。
我が家とは言え、独りで住んでいるわけで。管理なんて行き届かないものだから、埃だらけで非常にかび臭いのである。
縁に続く形で冴島が館に入る。
途端。後ろで何か掃除機のような音が聞こえたかと思い、振り向くと冴島が館の空気をこれでもかと鼻で吸い込む音であった。
そして、肺一杯に吸い込んでいるのか、もともと大きな胸の辺りはとても膨らんでいるように見えた。
「ちょっと、何してるの?」
見ればわかることであったが、とりあえず尋ねてみた。
一気に息を吐きだすと、頬を緩ませサムズアップをしてみせる。
「素晴らしいかび臭さね!」
褒めているのやら、貶しているのやら……。きっと彼女的には前者だろうが。
思いはしたが訊ねずに、縁は先に進んだ。
玄関から突き当りの場所に階段がある。その前で縁は立ち止まった。
「二階の一部屋好きなところを使って。二階はほとんど使ってないから、どこでもいい」
「本当に?」
「……たぶん。少なくとも私は使ってない」
「含んだ物言いね。幽霊でも出るの?」
「出ないんじゃない。見たことないし」
「それはそれでがっかりね。面白くないし」
冴島は大きな旅行鞄を階段の手すりに預け、階段を少し上がり、吹き抜けを眺めた。
「ねえ。何か曰くは無いの、この館」
そう言われても……縁家の人々から聞いたことは無いが、そう言えば学生時代はいろいろとこの館にまつわる噂を耳にしたことはあった。
「無いこともないのかもしれない」
「やっぱりあるんだ」
冴島は嬉しそうに階段の上から縁の方を見る。
「例えば、この館の地下室で昔、旧日本軍が人体実験をしていたとか」
「して、その真相は?」
「地下室はあるけど、そもそも軍部とは縁家があまり仲良くなかったらしくて、有り得ないって、以前祖母が言ってた」
「……何に驚くって、さも当たり前のように軍部を引き合いに出してくるあたりやっぱり縁家ってすごいのね」
「普通じゃないの?」
「そりゃそうさね。他には何か面白そうなことは?」
「どれもこれも、適当な噂ばかり」
「そうなんだ。まあ、あんまり期待してはいなかったけどね」
冴島は階段を下りると、再び鞄を手に取った。
「いやぁ。それにしても広いね」
縁はこくりと頷く。
「どこに何があるとか把握してるの?」
「いいえ。最低限自分の使うもの、必要なもの程度の場所しか知らない」
それを聞いた途端、冴島が頬を緩め、「ほお」と顎をさすった。
「何?」
この時点であまり良い予感はしていなかったわけであるが、その後の彼女の発言はなんとなく予想が容易であった。
「館を探索しよう!」
かくして、あまり乗り気ではない館の主と居候の魔術師による灰色館の探索が始まったのである。
2
「ねえ。ここあなたの館なんでしょ?」
冴島は縁にそう尋ねる。
「ええ」
「二階の事全く知らないのね」
「ええ」
縁はこくりと頷いた。
「それは良いとして……私の腕に抱き着くの止めてくれないかな」
縁はこれでもかと冴島の左腕にしがみ付いていた。
風で窓が震えるたびに縁もわずかに震える。
「ははーん」冴島は嬉しそうに頬を緩めた。
「さては、この館を広く使わないのは……怖いからだなぁーー縁ちゃん」
縁は頬を膨らませ冴島を睨むが、冴島が縁を振りほどこうとする仕草をしてみせると、涙目で冴島にしがみ付くのである。
「さっきあなたが幽霊なんていないって言ってたじゃない」
「あれは……幽霊ってね。いるって思ってる人の所に集まるって、言ってたから……だから、幽霊なんていない、の」
泣きそうな声で縁は言う。
「うう……そこまで怖いんなら、使用人とか雇えばいいのに。縁家ならそれぐらい難しくともなんともないでしょうに」
「……人付き合い苦手だから」
「んん……いろいろな要素が足を引っ張り合って二進も三進も行かない状態なわけね。とりあえず戻ろうか」
縁は黙ったまま静かに頷いた。
かくして、二人の灰色館探索はものの数分で終了したのである。
リビングは二階のようないかにも古風な館の雰囲気ではなく、ある程度は現代風に使い勝手の良さそうな趣きである。
オレンジ色の光に照らし出されるリビングはなんとも美しい。
縁は一人用のソファに腰をおろし、冴島はその隣にある大きめのソファに腰を下ろした。
「ねえ。聞きたいことがあるのだけれど」
先に口を開いたのは縁であった。
「あなたって何歳なの?」
「うーん。それを聞いちゃうかぁ……その前に、私の事は琴音って呼んでくれると嬉しい。どうにも、名前で呼ばれなきゃ変にむず痒くて」
「そう。分かった」
「何か飲み物ある?」
「冷蔵庫が奥にある。多分その中に何かあると思う」
「じゃあ、取って来るわ。あなたも何か飲み物いる?」
「ええ。水か何かを頂戴」
「分かった」
琴音はそう言うとソファから立ち上がり、すたすたと歩いて行ってしまった。
縁はふと、年齢を聞いていないことを思いだした。
なるほど。
それほどまでして年齢を聞かれたくないのか。
面白い。是非にでも聞き出してやる。
しばらくすると、琴音は両手にミネラルウォーターを持って帰ってきた。
「飲むでしょ?」
「うん。では、話の続きとする?」
「何の話?」
「冴島琴音が何歳かって話」
琴音の眉がぴくりと反応した。
「はぐらかしたって無駄よ。私はしつこいから」
「そのようね。ところで、この水──」
「はーい! はぐらかすのは無し! さあ、何歳なの?」
縁はソファから腰を浮かし、琴音に顔を近づけた。
「う……そう言うのは、ほら、デリケートな問題だし」
「そう? あなたが言わないなら私が先に言う。私は十八歳よ」
「十八歳なの? 若いのね……」
「ほら、はぐらかさないで」
「もーう! 言いたくないのよぉ」
「私はこの館の主だもの。素性の知れない輩をここに居座らせるわけにはいかないの」
「二階に一人で行けない癖に……」
ぼそりと琴音は呟く。
「何か言いましたか」
「いいえ、何も言ってませんよっ!」
「さあ、何歳なの?」
「ま……まだ、二十代よ! こ、これだけははっきりさせておくわよ!」
ということは、二十九か、あるいは今年で三十かそこいらという訳か。
なるほどね。魔術師でもそれなりに並の悩みも持っているものなのね。
縁はとりあえず頷き、それでいいことにした。
「さて、冗談はさておき。そろそろ、この間君の身に起きた問題について教えておくことにしましょうかな」
琴音はそう言うと、ソファに深々と腰をおろし、ミネラルウォーターを開け口に含んだ。
「あの光について何か知ってるの?」
「まあ、ね。あの後君のお母さんにいろいろ尋ねたから」
「私のこれって何か、その、魔術的なやつなの?」
「会った時から気にはなっていたんだけれどもね。君は、魔術をどこまで知っているの?」
「え?」
「普通。魔術師、って名乗ると聞き返されるのが常なのよ。まあ、そうやって相手を確かめてる節は無きにしも非ずだけど。それが君の場合は特に聞き返すことも無くすんなりと聞きいれた。その理由を詳しく教えてはくれない?」
ああ、そういえば、あの時含んだような笑みを浮かべたのはそういう事だった訳か。
私が魔術を知っていると。
それを彼女は見抜いていたわけか。
縁は少し、琴音に感心した。
「別に魔術が使えるわけではないけど。存在は知ってる。昔、祖母が生きている頃に会った程度だけど……。だから、どういった仕組みで、術が行使されるとかまでは知らない」
「なるほど」
そう言うと、彼女は腕を組み、顎をさすった。
「まあ、魔術に関しては後々説明するとして。今はとりあえずあなたの能力についてだけ説明しておくわ。あなたには《縁》が視えるみたいね」
「《縁》?」
「そう。日本においてはそう言うのが最も分かりやすいたとえ。別名は《星の眼》とも呼ばれる一種の魔眼ね」
「《星の眼》って、どういう事?」
「そのものずばりよ。星に眼があるとしたら、あなたが感じているような視覚を持つことになるってわけよ」
星に……視覚?
駄目だ。やっぱり理解の範囲外だ。
話について行けない。
「……分からない」
「でしょうね」
琴音はさっぱりとそう言い切ると、再びミネラルウォータで口を湿らせる。
「良いのよ、それで。簡単にあなたの眼の事を説明するとすれば、人との繋がりをあなたは視覚として認識することが出来るってわけ」
「人との繋がり……」
苦手だ。
人との、繋がりは。
人に合わせることほど苦痛なことは無い。
縁は俯きかげんに琴音の話を聞く。
「皮肉よね。人と繋がることを頑なに拒むあなただけが、この世でただ一人その繋がりを認識できるなんて、ね」
「そう……ね」
「ま。でも、まだあまりはっきりとは視えてないんでしょ?」
「ええ」
「まだ完全に覚醒しているわけではない、か」
そう言うと、鹿爪らしい表情で耳にかかる髪を掻きあげた。
「今の状態はおそらく、親族や親しい人間からのあなたに対してのみの《縁》しか視覚化できないようね」
「私に対しての?」
「そう。だから、あの時あなたに注目が集まった瞬間。一気にあなたに対する《縁》が収束してあなたを覆ってしまったというわけよ」
「あの赤い光は全部私に対しての物だったんだ……」
「で、ここからが今回の件に係わってくる重要なところだからよく聞くように」
そう言って彼女は右手の人差し指をピンと立て、顔の横に持って行った。
「分かった」
「あなたのその《縁》を視る力で件の《首》の有りかを探ってほしいのよ」
琴音はそう言うとともに縁の額に人差し指を当て、俯いていた顔を押し上げた。
「はあ? そんなことできるわけない」
「その反対よ。できるに決まっている。あなたと件の《首》は遠く離れているとはいえ、血縁関係にあるのよ? だから、あなたの魔眼を強化すれば、きっとあの《首》を見つけ出すことが出来るはずなのよ」
「そんな……」
「大丈夫。私も協力するから。そのためにこうやってあなたに付き添ってるのよ?」
にこりと微笑みサムズアップをしてみせる。そんな琴音を見て、縁はなんとなく気恥ずかしくなりまたしても俯いた。
だが、縁の頬は琴音まではいかなくとも、うっすらと緩みを見せかけていた。
誰かに頼られることなど生まれてこの方経験したことが無い縁は、うれしくてたまらなかったのだ。
「友達……」
ぼそりと縁がそう言う。
「何?」
「友達……からなら、許す」
そう言って縁は顔を上げて琴音の眼を見た。
「…………あ」
琴音はなんだかそわそわして、目線を合わせなくなった。
「その、こんな私好みの館に居候させてくれてうれしいし、正直、あなたはすっごく美人さんだと思うわ……」
琴音が突然そう言いだしたことが分からず、縁は小首を傾げた。
「さ、さっきは、その、冗談で言ったつもりだったんだけど……あ、別に偏見は無いのよ。そういう事に関しては。ただね……うう、参ったなぁ」
そうして、ここで縁は彼女がとんでもない勘違いをしている事に気づく。
「べ、別にあなたとそういう関係を望んでるわけじゃない!」
「へ? そうなの? ありゃ、てっきり口説きに掛かってるのかとばかり……」
「私はただ、これから一緒に住むなら、他人じゃなくて、友達になっておきたいと思って」
「…………普通はそんな友達の約束なんてしないんだけどもなぁー」
やはりどこか引き気味に縁を伺う。
「だから、違うって! 私は別に……そういう人間じゃない!」
「ふうん……」
「あ、何その『苦し紛れな嘘をつきおって』みたいな顔」
「どんな顔よ」
「鏡見れば」
「あ、そうだ。お風呂場とかは?」
「案内しようか?」
「はっ!? やっぱり、それが狙い?」
「お風呂場って言いだしたのあなたじゃない!」
気が合うのか、合わないのか、いまいち分からない二人の奇妙な共同生活はこの夜から始まったのである。
※ ※ ※ ※
苦しい。
いき苦しい。
突然襲い掛かって来たその物体は、しっかりと首に噛みつき離さない。
喉が焼ける様に熱い。
まるで熱湯を直接喉に流し込まれているような感覚であった。
喉が焼け爛れるのを感じる。
く、苦しい。
息が、できない。
悶える様に呻き、体をのた打ち回らせる。
その様に気づいたのか。
同居人が駆けつけてきた。
その時、既に喉の熱さは体中に広がっていた。
皮膚は爛れ、腫れあがる。
赤く変色した体。
血管は膨れ上がり、青色の寄生虫の様に皮下を蠢きまわる。
「違う……」
不意に耳元で誰かがそう囁いた。
途端。首に噛みついていた黒い物体はけらけらとけたたましく高笑いを上げると、家の屋根を突き抜け夜空に消え去った。
3
翌日、縁は日課のジョギングに赴こうと館を出て驚愕した。
館の入り口には『境屋』と達筆で描かれた看板が立てかけられていたのである。
驚くというより、呆れて踵を返し館に引き返した。
ゴチック調の扉を開けると、彼女は腕を組みそこに立ち伏していた。
「どうよ」
「……どうもこうもない。まず、説明して」
琴音は親指と人差し指で輪を作り、顔の横に持って行って「オッケー」とウインクして見せた琴音の眼は充血しており、目の下にはクマがある。
歳を考えろ。と言いかけたが、ここで大喧嘩になっても仕様がない。
「ほら、あの《首》って、強力な魔力を持ってるらしいじゃない?」
そう言われてもあまり詳しくはないが、とりあえずこくりと頷いて見せる。
「だったら、間違いなく人に影響があるはずなのよ」
「だから?」
「端的に言うと、ここを探偵事務所にしちゃった」
「は?」
「だから。ここを探偵事務所にしちゃった」
「しちゃったじゃない! 意味が分からない。まず、そもそもあの《首》は危険なの?」
「そりゃそうでしょ。危険だから一族集めて会議して、門外不出の情報をよそ者のお雇い魔術師風情に開示したうえで一族頭首が頭を下げてお願いするくらいだからねぇ」
彼女はどこか得意げにそう言う。
「具体的にどう危険なの?」
「さあ。実物は見たことないから何ともだけど、残留していた劣化魔素から察するに、あれは大量の魔素を食らって動くみたいだから、それと同量の劣化魔素が周囲にばらまかれてしまうってわけなのよ」
魔素? 劣化魔素? 何を言っているのだろう。
縁はたまらず小首をかしげる。
「分からない、か。そりゃそうよね。いいわ。説明しましょうかね。とりあえずここで話すのもなんだから、リビングに行こう」
「魔術云々の事はどうでもいいの。あの《首》が危険なのは分かったから、どう危険なのかを教えて」
縁はソファで胡坐をかく形で座る琴音に詰め寄った。
「それは分からない」
彼女はさらりとそういう。
いい加減なことを……。
怒りを含め、縁がそう発しようとするのを琴音は人差し指を差し向け、制止させる。
「いいこと? さっきも言ったけれども、私は現物を見たことがない。だから、限られた証拠をもとに、《縁魔の首》を推測しなければならないの。それはお分かりでしょう?」
縁は黙って頷く。
「だから、具体的には分からないってわけ」
「じゃあ、おおよそでいいから、どれくらい危険か教えて」
「よろしい」
琴音はそう言うと小さく頭を下げて見せた。
「見てて」
彼女はおもむろに立ち上がると、カーキのブルゾンのポケットに手を入れた。
指につままれて取り出されたのは、小粒大の血のように赤い石だった。
「それは?」
「魔石よ」
もちろん理解していないが、ここでまた「分からない」なんて口にすれば、話がいよいよこんがらがること必須だろう。
そう思い、縁はとりあえず『それ』が《何か?》ではなく。『それ』を《どうするか?》について質問をすることにした。
「それでどうするの?」
「ふふん」
彼女は鼻で笑うと、左手に魔石を握り、右手を前に掲げた。
途端、琴音から放たれたのは白色の光線だった。それは最初無数にあり、蜘蛛の糸のように細かったが、すぐさま螺旋を描くように動き始め、一つの太い束に収束した。そうして、部屋の壁に埋め込まれている暖炉に行き、そこで球体に形状を変えたかと思えばごうと青白い炎が燃え上がった。
「これが、魔術」
得意げに胸を張り、そう言う。
「思っていたより……派手、ね」
「そう? これでも割と地味目な奴なんだけど」
「これで? 冗談でしょ」
「ま。感性なんて人それぞれよね。まあ、これが魔術なわけだけれども、ほら」
彼女はそう言って左腕の袖を捲った。
左手には赤い石。それは手のひらの上に転がっていた。そして、その彼女の手の平には青い幾何学模様が浮かび上がっており、それは手首の辺りまで広がっていた。
「これ……なに?」
「私の体理式にこの魔石に刻まれた魔術理式を理式取込したの。んで、これは理式が私の体を乗っ取ろうと侵食しているところ。くわえてどうせ理解していないだろうから一気に話すけど、魔術とは、とどのつまりこの侵食を押し返してこそ成立するの。だから、今から私はこの侵食を押し返す。するとこの侵食痕は消えてなくなっておしまいってわけ。分からなくていい。こういうものだと。こういう事も起こるのだと、そう理解しなさいな。
それで、あの《首》の行動にもこういったことがとんでもない規模で起こっているはずなのよ。今のはこの石ころサイズの魔石で私の手首までの侵食だったけど、あの《首》は、人の頭大の大きさでとんでもなく莫大な魔術理式を内蔵した魔石みたいなものだから……これは想像つくと思うけど、人間一人じゃ術の行使に体理式が足りないのよ。だから、何人もの犠牲者が出るはずなの。それもおそらく不可解な出来事であるはずなのよ!」
そこまで一気に話す琴音。もちろん理解はしていないが、それでも聞きたいことがあった。
「どうして不可解な事だって分かるの?」
縁は無理やり言葉を押し込む。すると、彼女はニタリと頬を緩ませ、
「それは簡単な話。だって魔術なのよ。人間が理解すると思って? いや、しない。しないわ! 魔術なんだもの! 人はそんなもの見向きもしないのよ! 見たくないのだから! 視えないものを理解できると? 不可能よ。だから不可解な事件のはずなの。お分かり?」
琴音は怏々と両手を広げて雄弁した。
縁はやはりというか、当然と言うか、小首を傾げるだけだった。
琴音はそんな彼女を見て「よろしい」と、語りかけた。
「詳しくは暇なときにでも教えるわ。私は徹夜でこの町を駆けずり回ったので非常に眠いわけよ。ってなわけで二階のマイルームで一眠りするけど、たぶんお客が来るだろうから、適当に話聞いてあげて。その中で何か私好みな依頼があれば受けなさいな。以上! さらば! とりあえず朝だけどグッドナイト!」
琴音は駆け足でリビングを出る。どたどたと扉を挟んだ向こう側で階段を駆け上がる音がする。
縁は「ふう」と溜息をつくと、ソファに腰を深々と落とし込んだ。
壁際に見える暖炉では小さくなった青い炎がゆらゆらと揺らいでいた。
全く理解できない。
あまりに……過激で、刺激的すぎる。
この館に追いやられてこんなに充実した朝をかつて迎えたことがあっただろうか。
縁は首をソファにもたげ、天井を見上げた。
オレンジ色の光が真上にはある。
ああ、なんて……綺麗な。
待てよ。誰が来るというんだろうか。
入り口の看板。
探偵事務所。
徹夜で町を駆けずり回っていた。
そして、そろそろ人が来るかもしれない。
何故?
縁の中で全ての単語が結びつく。
途端、ソファから跳ね起き、玄関に出向く。
先ほどは気付かなかったが、玄関に何やらA4サイズの紙が積み上げられているではないか。
一枚めくり見て見る……。
『無料探偵事務所『境屋』丘の上の灰色館でお待ちしております』
言葉が無かった。
何を……無料?
混乱する。
いったい……。
その時、館に呼び鈴が鳴った。
※ ※ ※ ※
ぬらりと糸を引く液体。
それは彼の一種異様に膨らんだ腕から、滴り落ちていた。
河川敷の橋の下。
河原の砂利にいくつかの黒ずんだ物体が煙を発て、その形を異様に変えながら広がっていた。
眼前の光景に只々立ち尽くす彼は、驚愕と絶望を感じていた。
何故?
どうして?
その言葉ばかりが脳裏を駆け回る。
足元で煙を上げるのは友の腕だ。
その友は、つい先ほど彼が殺してしまった。
殺した。
そのつもりはなかった。
いつか見たサスペンスドラマみたいだ。
彼はぼんやりとそのような事を思った。
殺すつもりはなかった。
そう。彼に殺すつもりなどなかったのだ。
それは確かに事実であった。
だが、結果として語れば、彼は間違いなく人殺しなのである。
そして、彼が殺したのは眼前で腐り落ちる友人。
人は、世間は、社会は、彼を何と言うか。
それは社会を捨ててしばらくたつ彼にも予想は付くことであった。
殺すつもりはなかった。
誰が信じる?
私のような落伍者を。
誰も真実などに見向きもしないだろう。
ふと、気付く。
彼らも同じではないか。
彼らも、私と同じ……。
一人じゃないか。
彼らも……一人っきり。
だとすれば、彼らも……。
彼はのそりのそりと足取り重く叉奈木の夜の闇に消えて行く。
その変わり果てた彼の首筋には歯形と……奇妙な幾何学模様。
4
二人は昼過ぎに来た依頼者と共に遠音川の側のファミリーレストランにいた。
「ふうん。それで、そのお友達がどうして腐って死んでしまったのか、知りたい、と」
琴音はテーブルに頬杖をつき、そう尋ねた。
「はい。そうなんです」
田後と名乗った白髪のホームレスは頷いて見せた。
縁はといえば先ほど運ばれてきたオムライスをスプーンで口に運んでいた。
琴音は退屈そうにコーヒーに口をつけ、ガラスの向こうで忙しなく行き交う車の群を目で追っていた。
「ところで田後さん。こういう事を聞くのは少し気が引けるんだけど、良いかしら?」
縁はスプーンを皿にかけ、そう尋ねた。
「何をだい?」
「田後さんはいつからホームレスに?」
琴音がちらりと縁を伺う。だが、すぐに目線を戻した。
「ああ……二年くらい前だったかなぁ。もともと自営業をしていたんだけれども、借金が嵩んじまって、どうしようもなくなってな」
「ふうん」
琴音は外の景色を眺めながら溜息のようにそう発した。
縁は「もう一ついい?」と、田後に詰め寄る。
「ホームレスが死んだとされる夜にあなたはどこに居たの?」
「そりゃ、公園だよ。俺の家はそこにあるからなぁ」
「縁。この人に聞いても無駄だって分かって聞いてるでしょ?」
琴音はそう言うと一気にコーヒーを飲みほした。
「違う。依頼人なのだから聞いておかないといけないでしょう?」
嘘だ。
彼は関係ない。
飽くまで目撃者に過ぎないだろう。
縁はそれを確信していた。
彼からは赤い《縁》を感じないからだ。
血縁者。あるいはあの《首》に関する存在であれば赤が視えるはずだからである。
何故赤なのか。それは分からない。
ただ、私の《縁》を視る力は次第に強まっていた。
それは……彼女を視れば明らかだった。
琴音と私の……いや、違う。私が抱く一方的な《縁》なのだろうが。それでも、たしかに視える《縁》。一方にしか現れてくれない薄く消えてしまいそうな程薄い《縁》だけど、それでも、確かに視える《縁》。
だから、彼は関係ない。
「ま、そりゃそうだ」
琴音は立ち上がる。それに合わせて隣に座っていた縁も立ち上がり、琴音がテーブルを離れやすいようにする。カップを手にテーブルを離れた。おそらく、コーヒーのおかわりをしに行ったのだろう。
縁は再び席に座る。目の前の紅茶を口に運び唇を湿らせ、田後の顔を見た。
好き放題伸びている口ひげ。だが、その目鼻は凛々しく見え、昔はさぞ伊達な顔立ちだったのだろうと、想起させた。
そんな縁の考えなど知る由もない田後は、ぼりぼりと虫刺されに痒む二の腕を掻き毟る。
治りかけていた薄皮は爪に掻き破られ、血こそ出ないものの、皮を捲った。
今は良いだろうが、しばらくたてば次は痛みと痒みの波状攻撃が待っているだろう。
無論。そんな事、田後は考えもしていないだろう。
縁がぼんやりとその様子を眺めていると、琴音がコーヒーを片手に帰ってきた。
「そうだ。一応聞いておきたいのだけれどもね。よろしいかしら、田後さん」
琴音は弾む口調でそう尋ねる。
縁は琴音が通れるように一度席を立つ。
「ええ」
「無料とは言え、どうして探偵事務所に依頼なんかしたの? 正直、他人が死んでいようが、関係ないでしょう。他殺だろうと自然死だろうと、人はいずれ死ぬ。それが赤の他人ならなおの事無関係。どうして、放っておかず、こうしてその死の真相を確かめてほしいなんて依頼してきたの? あなたに何か得はあるわけ?」
いつもように和やかな口調ではなかった。
もっともな事を、重みを込めた声色で叩きつけるようにして言った。
「誰でも同じでしょうが」
田後の言葉も重かった。
そして、その言葉に見合う目を持ってぶれぬ目付きで琴音の双眸を睨みつける。
「他人だろうと、親しければそう思うでしょうが」
「ふうん」
「あんたはどうなんだ。そこの嬢ちゃんが突然死んだとして、その理由を確かめたくはないか?」
「死に方にもよる。バームクーヘンを喉に詰まらせて窒息死してたなら、私はため息を手向けにして親御さんに電話するだろうね」
「じゃあ、昨日まで仲の良かった嬢ちゃんが急に腐って死んじまったら? そして、誰もその死に見向きもしなかったら?」
その言葉はどこか震えていた。
悔しいのだろうか。
悲しいのだろうか。
ホームレスと蔑まれ、見下され、それでも生きてきたのだ。
誰からも見向かれることも無く、その死すらまともに見向きもされず、適当に認識される。
縁は琴音の顔を見た。
にこりと頬を緩める。
明るく、力強く、美しい。
一言で言えば『頼もしい』顔だった。
「もちろん。私が納得するまで、謎を究明するだろうね」
5
橋の下の住居は既に警察かあるいは市役所に取り払われた後だった。
まるで、何事もなかったかのように──私が見たわけではないんだが──綺麗な河原となっていた。
「ふうむ。ここに《首》が来たのは間違いないだろうね」
琴音が砂利を足で掻きながらそう言った。
「どうして分かるの?」
「これ見てみ」
そう言って彼女が爪先で示した先には、今朝見たような幾何学模様があった。
「これって……あなたの腕に出てた」
「そう。一方的な魔術を使用したらこうして痕跡が残るのよ」
「じゃあ、ここに《首》はあったのね」
「そう。みたいね……ところで、田後さんは?」
「あ。田後さんは空き缶を拾わなきゃいけないからって、帰ったわ。明日、電話するって」
「あの人電話できるの?」
「十円玉はあるって言ってたし、私の携帯の電話番号は教えたから」
「なるほどね」
琴音は頷くと、薄気味悪い笑みを浮かべ、草むらに入って行った。
縁は何かすることは無いかと考え、辺りを見回してみる。
ふと、赤い光が視界に映る。
何だろう、今の。赤ってことは……。
だが、この辺りには誰もいない。
……じゃあ、遠くからの《縁》ということ?
遠くで、私に意識を向けたってこと?
……誰かな。
縁は考えてみたが皆目見当がつかなかったので、とりあえず今は目の前のことに気を向けた。
「おーい。ゆかりん。こっち来てみ」
琴音の声が草むらの中から聞こえる。
「勘弁してよ」
縁はそう漏らす。
縁の背丈ほどもある草を嫌々掻き分けながら、縁は川辺に進んだ。
琴音は川の淵のコンクリの出っ張りにしゃがみこんでいた。
「これ見て」
そう言って持っていた木の枝でそれを指示した。
それは何か布の様に見えたが、よく見ればどこか生々しく、何かの生物の死骸のようだった。
「何の死骸?」
「死骸じゃないわよ。これは人の皮」
「はぁっ!?」
縁は後方に大きく飛び退いた。その所為で足が草に引っかかり無様に尻餅をつく。
「痛っ!」
「大げさな」
「お……大げさじゃない! 普通! 普通の反応だって!」
縁は体を起こして立ち上がる。
琴音は人の皮を棒切れに引っ掛け、持ち上げる。
「近づけないで! 近寄らないで!」
またしても飛び退き二度目の尻餅をつく。
「まあまあ。そんな真似しないって」
琴音はそれをコンクリの上に置き、近くで観察し始めた。
何度か突いたり、臭いを嗅いだりし、ついには人差し指で突いてみたりなどして、少し焦り気味に手を川で洗浄すると、何かに気づいたのか、「なるほど」と感心した。
「人を媒体にして……いや、でも効率が悪くないかな」
琴音は腕を組み、鹿爪らしい表情でその物体を眺める。
「これは……意図的なもの? だったら、何故?」
ぶつぶつと呟きながら琴音は一人で考える。
「ねえ──」
「うるさい!」
考え出すと周りが見えなくなるらしい。
縁は訝しげに腕を組み、琴音の呟きに耳を傾けることにした。
「これは《首》にやられたのか……おそらく、そうだ。この皮には理式模様が見られる。だが、何故腐った? そして、これはどうして腐っていない? 何故? ふむ。肉体の理式が書き換えられている。ということは、こいつは変異してるの? だから……」
「ねえ」
「うるさい!」
「聞いて!」
縁の怒号に琴音は目を丸くして顔を縁に向けた。
「いい。よく考えてよ。その皮には被害者とみられるホームレスには有った腐敗が見られないんでしょう。だったら、その皮の持ち主が犯人なんじゃないの?」
「たしかに……なるほど! その通りだ。難しく考えすぎてた。あははっ」
子供の様に笑う琴音を見て縁も嬉しくなる。
「まるで子供みたいにはしゃぐのね」
「そう? 嬉しいことが有ったら笑うものじゃないの?」
確かにその通りだ。
「そう、ね。その通り。私ももう少し笑うべきなのかな?」
嬉しければ、笑えばいいんだ。
「それだ!」
琴音は人差し指を立て縁に向けた。
「何よ」
「もう一度今の言ってみて」
「え? 何を……」
「今言った言葉よ!」
強くそう言うので縁はすこし戸惑う。
「えっと……もう少し笑うべきかな────」
「違う。それの前!」
「え? えっと……その通り?」
「違う。違う。違うっ! もっと前! 私に言った言葉よ!」
「子供みたいにはしゃぐ?」
「それだ! あはは! そうだ。子供だ! あなた天才? いや、違うわね。私が素晴らしいのねっ! あはっ!」
大きく手を広げてその場でくるりと回って見せた。どことなくミュージカル風だ。
「ちょっと待ってよ。どういうこと? 説明して」
「すべては私たちの手の内に有ったのよ! これもあなたの《縁》の力かもしれないけど、いえ、きっとそうなのだろうけれども。ともかく。素晴らしいっ!」
「だから。何? 説明して」
「子供よ。子供」
「子供?」
「そう。朝来てたでしょう。子供の依頼者が」
「ああ。で……それがどう関係してるの?」
「宇宙人よ! 理式に乗っ取られた人間は人体構造が書き換えられて、変異するのよ。魔術理式は情報だから、全部頭脳に集中するの、それに耐えられるように乗っ取られた人間の体は頭脳が肥大化する。だから、変異した人間を子供たちは宇宙人と思ったんでしょう。つまり、子供たちは私たちが会うべき人間の居場所を知っているということよ!」
「で?」
「で? とは?」
「場所は分かってるの?」
「あ……」
「ほら、これだもの……計画性なさすぎじゃない?」
「だって、あの時は関係ないと思ってて……ほら、宇宙人なんていうからてっきり馬鹿にしてるのかと」
「ほら」
縁はダウンジャケットから取り出したのは住所の書かれた紙だった。
「これって……」
「どうせ、メモなんてしてないだろうと思ってたから聞いておいたの」
「っ流石! 素敵!」
そう言って琴音は縁に抱き着く。
「ちょっと、やめてよ……」
間違っても宇宙人に興味があったなんてことは言えない。
6
「なるほどね。宇宙人は森の方に行ったの?」
「そう。たぶんお化けマンションにUFOが隠されてるんだよ」
少年はそう力説する。
心なしか、琴音の表情が死んでいるようでならない。
「お化けマンションってのは?」
琴音は少年にそう尋ねた。だが、やはり覇気が感じられない。
「森にあるマンションだよ」
縁はブランコに腰をおろしそういうなんとも言えない会話を聞いていた。
「ねえ。とりあえず、その森とやらに行ってみない?」
たまらず話しかける。
「うん」
しかし、返ってくるのは生返事だけ。
何だろう。
なんで、こんなに落ち込んでるのだろう。
「宇宙人捕まえてくれるの?」
「いや。捕まえはしない。けど、会いには行くよ」
ああ、もう! 見てられない。
縁はブランコから飛び降り、琴音の腕を掴み、強引に引っ張った。
「じゃあね僕。私たち宇宙人の所行ってくるから。何か分かったら報告するわ」
「うん!」
少年は大きく手を振る。
「どうしたの?」
「え? 何が?」
何だろう。目が死んでる。
「何がって……変よ?」
「変。変よね。私って……うぅっ」
顔を手で押さえ肩を震わせる琴音。
「ちょっと。どうしたのよ」
「あの子……」
「さっきの男の子? あの子がどうしたの?」
琴音は啜り泣きとともに首を横に振る。
うーん。どうすればいいんだ。
「聞いてあげるから、言ってみてよ」
縁はやさしくそう尋ねた。
涙に濡らした顔で琴音は縁を見る。
「ううぅ……あの子の」
「あの子の?」
「お母さん……がね」
「お母さんが?」
「私と同い年なのよぉ。うぅっ……」
ああ、これは……。
変に優しくしてあげない方が……良いやつだ。
そう思ったが、今更遅い。
琴音は住宅街の外れで号泣を始めてしまった。
「はい。もう大丈夫?」
縁は買ってきたコーヒーを琴音に渡した。
「……っあ、ありがとう」
嗚咽を交えながら、彼女は弱々しくそう言う。
「ふふ……」
駄目だ。
こらえきれない。
「あははは」
縁は笑った。
琴音は突然の笑いに戸惑い、小首を傾げた。
「え? ちょっと? どしたの、急に」
楽しい。
何だろう。この胸の高鳴りは。
私は楽しんでるの?
「いや……ちょっと、楽しくて」
「……酷い」
「あ、違う。あなたの境遇を笑ったんじゃないの」
「どういう事?」
「こんなに走ったことは無いし、こんなにいろんな人と会話したことなんてなかった。いつも館で本を読んだり映画を見たり。そんな生き方だったの。でも、こうして、外に出るのも、悪くないなぁって」
琴音はしばらくまじまじとした表情で縁の顔を見つめた後、くすりと笑った。
「ようこそ」
そう言って琴音は手を差し出した。
縁は辺りを見回し、誰もいないことを確かめたうえで、琴音の手を握った。
それは、柔らかく、暖かい、黄色の光だった。
7
それはのっぺりとそして、ひっそりと申し訳なさそうにうっそうと茂る森に佇んでいた。
建設途中で破棄されたため、上方は鉄筋が天を仰いでいる。
壁にはセンスがあるのかないのか分からないスプレーによる落書きがいくつか。
その全てが相まっていかにもな雰囲気を醸し出している。
お化けマンションとは、気泡と共に弾けてできた誰も住まう事の無かった虚しい建造物の成れの果てだろう。
湿り気が酷く、灰色のコンクリはところどころ緑色に苔生していた。
扉の無い四角い穴を二人はゆっくりとくぐり、内部に歩みを進める。
「何かいそうね」
琴音がそう言う。
「そうね。でも、宇宙人というよりは幽霊とかそういう感じだけれども」
縁はやはりというか、当然と言うべきか、琴音にしがみ付く形でいた。
「怖いならついて来なくても良かったのに……」
「う……宇宙人に興味があったの!」
「今あんたが言ったんだからね、宇宙人より幽霊がいそうって」
「うう……」
琴音は大きくため息をつくと、小型の懐中電灯で生活感の一切感じられない部屋を照らす。
「おーい! いるんでしょ! 出て来なさーい!」
琴音が廊下に向かって大きく叫ぶ。
「ちょっと、何やってるの?」
「いや、出て来るかなと思って」
「そんなに馬鹿じゃ──」
──無い。
そう言おうとした時だった。
廊下の奥でがたがたと物音が聞こえたかと思うと、遠くで扉が閉まる音が聞こえた。
「効果有り! 良し、走るよ」
そう言うや否や、琴音は大きく駆けだした。
そして、あっという間に廊下の闇に消えて行った。
「ちょっと……置いてかないでよ」