序章
既に何件かの依頼者が館を訪れていた。
そのどれも断ったことから見て、彼女が欲する類の依頼ではなかったようである。
リビングのソファでくつろぐ琴音を尻目に、縁は紺色のダウンジャケットを羽織ると、館を後にしようとする。
「どこ行くの?」
なんとも退屈そうに琴音はそう尋ねる。
「ぶらりと散歩だけど」
「ふうん。ま、がんばって」
「ところで」
縁がそう言いうと、気怠そうに琴音は振り向いてみせた。
「依頼に《首》が関係ありそうなものはあったの?」
「いいや、まったく」
肩を竦めて頭を振る。
「犬の散歩をしてくれという依頼と、最近空き缶のポイ捨てが増えて困るとのご老人の依頼が二件。宇宙人を捕まえてくれという少年少女合わせて三人の依頼が一件。その他は不倫云々が四件。あなたが聞いても関連なさそうでしょ? だから、丁寧にお帰り願ったわ」
確かにその内容だと、関連はなさそうである。ただ……あの子供たちが言っていた宇宙人の件は少し気になる。
「そうね」
「退屈……」
そうとだけ言うと彼女はクッションを顔の上に置き、仰向けに寝た。
その時であった。館にベルが鳴り響く。
どうにも新しい依頼者がやって来たらしい。
「呼んで来てゆかりん」
誰が『ゆかりん』だ。と、突っ込みそうになったが、とりあえず己を抑え、玄関に赴く。
戸の前にはあからさまに汚い初老の男性が佇んでいた。
くすんだねずみ色のコートは穴だらけであり、そこかしこがほつれている。むき出しの肌は虫に噛まれたのか、赤く腫れて薄皮が剥けていた。おそらく、浮浪者と見て間違いないだろう。
「あのぉ……」
「はい。なにかしら?」
「無料の探偵事務所ってのはここであってるかね?」
申し訳なさそうに喋る男。喋る度に鼻につくまるで何週間も放置されている三角コーナーのような悪臭に、思わず顔をしかめる。
「え、ええ。ここであっているけど」
「良かった。あのな、頼みたいことってのは、つい先日死んじまった仲間たちのことでなんだよ」
仲間たち?
縁はその言葉に違和感を覚えた。
「どういうこと?」
「警察にも話したんだけどよ、取り合ってもらえなくてよぉ」
男はそう言うと白髪だらけの頭を掻く。ぼろぼろと大きなふけが飛び散り、縁はすかさず一歩身を引いた。
「いやね。先日仲間が四人死んじまったんだ」
さらりと男は言ったが、縁からしてみれば人が死んだというだけで大した出来事であった。
しかし……。
縁はぼろぼろの男を見る。
いついかなる時も外で生活している彼らからしてみれば、人死には大したことではないのかもしれない。
「殺されたの?」
「さあ。分かんねぇんだ。何せ遺体の損傷が激しすぎて」
「ばらばらとか?」
「違う。腐っちまったんだ」
「それって、死体が長い間放置されてたから自然にそうなったとかじゃないの?」
「お前さんも警察と同じこと言うんだな」
「というと?」
「あいつらも、集団で食中毒か何かを起こしてそのまま死んだのが腐っちまったんだろう。なんてぬかしやがるんだ」
「でも、それはもっともな意見じゃない?」
「そいつらが腐って見つかる前日に俺がそいつらに会ってたとしてもかい。お譲ちゃん?」
男は頬を緩め、縁を見た。
「これはこれは……やっとそれらしくなってきたじゃない!」
いつの間にか背後にいた琴音が声を弾ませてそう答える。
「アンタが、探偵さんかい?」
「そう。私が冴島琴音です。あなたの依頼お受けいたしましょう!」
※ ※ ※ ※
この町はいき苦しい。
別に大昔この町が工場で栄えていたからとか、光化学スモックが未だに起こるからとか、そんな現実じみたことからではない。
私がこの世に生を受けてから、『普通』に生きていこうとした。
人は道を作りたがる。──いや、道というよりはレールという方が的確なのだろう。
どこかの誰かが引いた。誰しもが通るレール。
人は列車に近い生き物なのかもしれない。
だから──私は生き辛い。生き苦しい。
とどのつまりは、そういうこと。
私は、『普通』ではない。
少しどころか、変わっている。
変人……と、まではいかないのかもしれないけれども──いや、どうなのだろう。
ついこの前も誰かに病院に行け、精神科に見てもらえと言われた。
……いつもこうだ。親しく話せる友人だと思って自分を少しでも曝け出したらこうなる。
まったく、分からない。人という奴が。
別に、憎んではいないし、そうする理由も訳もないのだけれども──どうなのだろう。嫉妬、憧れぐらいはあるのかもしれない。
人は誰かと生きたがる。
私も、そうあろうとする。
でも……、それが苦しくてたまらない。
本当はそんなレール通りたくない。
私は私の価値観で動きたい。
私はそう動いている。
だが、レールを通る人々は、草原を歩む私を睨む。
だから、苦しいのだ。
この町は、──いや、この町だけではない。
この世はなんて生き憎いのだろう。