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例年に比べて随分暑い日が続く夏だった。歩き続けると汗が吹き出し、喉が渇き腹も減る。あまり流行っていない飲食店であっても、ついつい立ち寄りたくなる。
流行の店で行列に並ぶことが好きな者がいれば、その反対にがら空きの店を好む者もいる。世の中とはいろんな人種がいて成り立っている。
「ごちそうさん、置いとくで」
イカ焼きとサイダーの代金をテーブルに置き足早に店を出るのは、兵庫県警園田署勤務の中浦弥輔警部補であった。十席程度で落書きだらけのたこ焼き屋だが、イカ焼きも売っている。粉ものとしてのイカ焼きであり、烏賊の姿焼きとは異なる。どちらも美味いとは云えないが、何時行っても空いているのが利点なので贔屓にしている。
「毎度、おおきに」
普段は物静かな店主も警察官には愛想が良い。物騒な地域なのでトラブルが絶えない。いざという時は警察の世話になることもあるので、顔を覚えて貰って損はない魂胆である。
中浦は連続放火事件の捜査で聞き込みをしている。随分足を運んで巡回したが、バイクや物置が延焼した程度の小火なので目撃情報は少ない。十二件発生しているが何れも小規模なので捜査を増強することはなく、定年間近で閑職の中浦が担当となった。
管轄内は競馬場があり治安が悪い。負けた腹いせに放火することが頻発しているので、この程度では住民も慣れており騒ぎにならない。隣接する仁川地区にも競馬場があり、同様に連続放火事件が発生している。その内一軒は全焼し老夫婦が焼死した。
仁川署は大人数で捜査や警戒を強化しているが、園田署はその域に達していない。中浦は刑事の直感として、園田と仁川は同一犯ではないと思惟していた。
地方大を中退し、自衛隊を経て警察に勤務して以来、刑事畑を歩み数多の難事件を解決してきた。剣道三段、柔道初段、それほど大柄ではないがスポーツマンらしい体軀で、若い頃は凶悪犯や暴力団を担当していたが、二年前から未解決事件や軽犯罪といった閑職に回された。
今から幾ら頑張っても退職金が増えることはないので程々に手を抜いているが、上司も年嵩の部下を叱責することはない。敏腕刑事としての功労者であり周囲からも一目を置かれている。
初犯者には、鷹揚に接し温情を示したので人情派刑事として評判だったが、暴力団や異邦人の理不尽な凶悪犯には厳酷だったので、『猛禽の弥輔』と別称されていた。締め付けへの報復として、銃弾で太股を撃たれ二ヶ月入院したこともある。
職種柄、妻子がいると危害を加えられる恐れがあるので独身でいる。臆病なのではなく愚直で変わり者である。モテない訳ではないので内縁関係になった女性は複数いたが、今は一人で暮らしている。親戚縁者とも疎遠なので誰からも容喙されることはない。
『呑む、打つ、買う』は付き合い程度で人並みの蓄財はある。老後は有料老人ホームで優雅に暮らそうと計画している。
勤務地は空港、競馬場、市役所、陸上自衛隊駐屯地が並ぶ阪神間のベッドタウンだが、共同住宅も多く人口が密集しているので評判はあまり良くない。JRや阪急電鉄があり、大阪、神戸には利便性が高いのだが、工場が多いことや空港の騒音が住環境を悪くしている。
中浦は五年前に園田署に転勤になった。その前は仁川署なので土地勘は充分にある。競馬場巡りと揶揄されたが本人の希望だった。兵庫県は二つの海に面し勤務地が広い、日本海側に勤務すると冬は雪下ろしばかりで飽きる。
事件も少なく刑事をしていてもつまらない。姫路や加古川は事件が多発するが遠い、大阪生まれなので最後の勤務地は近場がいいと思料した。住居も尼崎市内で通勤には自転車を活用している。雨の日はバスを使うが普段は健康維持に精を出していた。
閑職なので生命を狙われることはないので、変わり者らしく裏道ばかりを好んで走る。最短コースを選べば十五分で通勤出来るのだが、倍近くかけて風景を愉しんでいる。
帰宅時に行き付けの『なみ代』という定食酒場に寄り食事を摂っている。流行っていないが老舗で煮物が美味く、化粧っ気のない老女将が機嫌良く迎えてくれる。中浦にとって重要なのは常時空いていること、味はそれほど気にしない。
何時ものようにカウンターで、焼き魚定食と本日のサービス品ナスの煮浸しに、大好物のだし巻き卵を追加する。ビールは中瓶一本、二千円内で晩餐を愉しむのが唯一の道楽だった。
今日は何かの催しがあったようで珍しく混んでいた。十数席がほぼ埋まっており喧噪としている。食べ始めた頃に容貌魁偉な男が隣席に着座した。背広を着用しているが分厚い胸板で、中浦より二回り以上大きな体軀である。普通のサラリーマンというイメージよりも、現業員か警備員を連想する。
武道で鍛錬していても喧嘩で勝てる相手ではない。因縁を付けられないように他を観るようにした。男は酎ハイと肉じゃが、枝豆、冷や奴を並べている。身体の割には余り食べないようで、メタボ対策なのかと感心していると、何処かで会った記憶が蘇った。
刑事が記憶するのは犯罪者が殆どであるが、軽犯罪者の中には忘却した者もいる。名前が思い出せないのは凶悪犯ではない証左であるが、あまり気持ちの良いものではない。悶々としていると男がこちらを向いた。
「もしかしたら、中浦さんではありませんか」
男が唐突に喋り掛けてきた。聞き覚えのある野太い低音、白髪交じりの横分け、研ぎ澄まされた眼光は犯罪者を彷彿させる。
「どなたでしたかね」
判らないので正直に訊くしかない。やくざ者ではなさそうだが過信禁物、いきなり包丁で刺されることもある。慎重に少し身構えていた。
「昔、尼神セネターズで一緒だった楠田です。ご無沙汰してます」
両手を膝に載せ、頭を少し下げた。
「四番、サードの楠田さん」
二十年ほど前、地域社会人チームで野球をしていた。初心者もいればプロ級もいる寄せ集めだが、ハイレベルな者はプロ野球にも進出した。
楠田は中学時代から地元で評判になり、高校ではドラフト候補に挙がるほどのアマチュア界では屈指のスラッガーである。大学に進学しプロを目指していたが、三年の夏に走者と交錯し膝に重傷を負った。怪我の後遺症で休養することが多くなり白氷カードに就職した。草野球では物足りないので、尼神セネターズに所属しプロを目指したが夢は叶わなかった。
中浦は運動好きなので何気なく野球を選んだ。室内競技の剣道、柔道の経験しかなく、屋外競技は新鮮だったがバットに当たらない。ゴロもフライも思うようにいかず、俊足だけが取り柄で代走として起用された。野球に関しては素人同然なので、部員数が集まらないときは球拾いに専念していた。
「奇遇ですね、あれから二十年くらいなりますかね」
少し年若の楠田は懐かしむように訊いた。
「そうですね、それくらいでしょう。今日は何かの集まりなんですか」
「ええ、ちょっと近くに寄ることがありまして。確か――」
楠田は声を出さずに、『警察』と口を動かした。場所柄、職種を云うのはまずいと判断し相槌を求めた。
「ええ、そうです。よく覚えてますね、私みたいなへたくそのことを」
「何を仰います。足のスペシャリストだったのを鮮明に記憶しております。憧れでした」
アマチュア野球界のスーパースターから褒められ中浦は舞い上がった。記憶して貰えるだけで光栄であり、普段余り呑まないのだが気が大きくなり酎ハイを追加した。一人がいいと思っていたが、偶には二人も悪くない。野球はよくわからないが何となく愉しい気分になる。
初めての対談なのに二十年の年月を埋める言葉が途絶えることはなかった。
阪急電鉄小林駅から十分ほど歩くと瀟洒な住宅街になる。中堅デベロッパーの六甲東不動産が開発した新興住宅地の一角に白氷銀行社宅街がある。厳密には一戸建ての個人住宅であり社宅ではないのだが、白氷銀行が融資した見返りに一区画の宅地が割り当てられたので、事実上格安の一戸建て社宅である。
三十件ほど並ぶ一角はすべて白氷銀行員の住居となり、定年後は職位の上下に関係なく近所付き合いをしなければいけないのだが、どうしても格差が大きくなるとすんなりとはいかない。
課長から支店長まで住んでいるので収入差は倍ほど相違する。教育費の差が子供達の進学にも影響しており、支店長の子息は赤門大に進学したが、課長の子息は同命大だった。遺伝の影響もあるが学力は教育費に比例するというデータがある。二人の子女を国立大に進学させた支店長夫人は天狗になり自慢に走る。他夫人達は聞きたくないので出来るだけ顔を合わさないようにする。
誰が言い出すのではなく自然の摂理でそうなる。下の者から流れを変えることは不可能であり、支店長夫妻は定年後も我が世の春を謳歌し、街の主として威光を放っていた。
中浦は楠田から聞いた話により全焼した家屋を探していた。コンビニを曲がってすぐの更地が庵倉義鷹の家跡である。百五十坪程の敷地があり、焼失以前は豪奢な弐階建て和風家屋が構えていた。普段は老夫婦のみで、年に数回子供たちが孫を連れて遊びに来る程度であった。
深夜から未明にかけて火災が発生し庵倉と君枝夫人が逃げ遅れた。台所からの失火原因とされているが不審な点も多く、周辺を聞き込んだが有力な目撃情報はない。近所で顔見知りなら協力があって当然なのだが、住民達はあまり多くを語ろうとしなかった。庵倉は昔から小言が多く周辺から敬遠されていた。
元支店長なのでこの一角では筆頭になることを鼻に掛け、日常生活の在り方について縷々指導する。ゴミの出し方や布団の敲く音、夜道の歩き方や打ち水の掛け方まで口出しするので、近所からは『銀行員の恥』と呼ばれる有様だった。
在職中は低身長を誤魔化すためにシークレットシューズで通勤し、靴を脱ぐ座敷には行かない徹底ぶりであった。庵倉家は藤原氏の末裔で、一族は上場企業重役や知事、医師、大学教授等、華々しく政財界で活躍している。地方大学から白氷銀行に入行し支店長に昇進、白氷三央クレジット常務を経て白氷オートシステム社長を歴任しリタイヤとなる。
経歴は秀麗だが評判は頗る悪い。近隣住民以外からも不評で、床屋では髪が2ミリ長いと云ってやり直させたり、競馬場のアナウンスが五月蠅いのでレースを中止しろと要求したり、コンビニの照明が眩しいから消せと云ったり、駐車が悪いとタイヤを蹴ったり、方々で悪態をついている。
必然的にトラブルになり警察沙汰になったこともある。庵倉はヤンキーな若者に胸座を掴まれても怯まないので、周辺の人たちが大事にならない内に通報した。怪我はなかったが宿怨を残している。
度胸のある迷惑老人だが通学路の旗振りは毎日励行している。「おはよう」「雨で滑るよ」「車に気を付けて」等々、生徒たちへの挨拶も忘れず、小学生には機嫌良く愛想を振りまいていた。
梅雨時の鬱陶しい朝、小学校に向かった長男を交通事故で亡くしているので、悲劇は繰り返して欲しくない。雷雨でも雨合羽を着て旗を振り、近隣の子供達に優しく接するようにしていた。
人格者の一面もあるのだが、多くの住民から敵視されているので単なる不審火ではなく怨恨も充分に考えられる。近隣商店ではモンスタークレーマーとして扱われており、いつ報復を受けてもおかしくない。
楠田の話では、白氷三央クレジット時代に職権乱用を繰り返し、人権侵害、左遷、パワハラ、等々で多くの者が泣かされた。プライドは人一倍高いので献上物は高級品しか受領せず、つまらない物品には嫌味の書状を付けて返品することもあった。
仕事の優劣は判別難だが献上品の差は容易に判断できる。人事は庵倉や武川が主導で恣意的に行われ、反逆者や安物を送った者は徹底的に左遷する。メロンが腐っていたと難癖を付け、将来有望な人材を僻地に飛ばしたこともあった。身障者は無能と公言し、公衆の面前で露骨に身体的欠点を指摘する。犯罪行為だが証拠が残らなければ何でもする。不要な社員を連日罵倒し、精神疾患に陥れ、自主退職に追い込んでいくのが生き甲斐だった。
人格異常が顕著だが出向者にはこういうタイプが少なくない。激務であり支店長に昇進するには多くの敵を作ってきた。悖徳な所行も繰り返しているので行内外から恨みを買っている。
庵倉の言動を顧みれば退職者が怪しい、リタイヤして七年過ぎており現役が手を出すことは考えられない。あるとすれば不本意な退職を強要された者の仕業であろう。
放火殺人か、中浦は刑事の直感としてそう思った。小火は仁川地区でも八件発生しているが、園田同様バイクや物置が焦げた程度である。全焼するような火災は庵倉宅だけであり手口が大きく相違する。
消防の調査では台所からの失火となっているが、火の回りが早いのでガソリンのようなものを撒き散らした可能性もある。事件と事故の双方で捜査を継続中だが大きな進展は見込めない。閑静な住宅街で深夜になれば寝静まるので、何者かが犯行に及んでも目撃されることはなく未解決で終わってしまう。
インターネットには闇サイトという商売がある。裏稼業を紹介するサイトで誰でも利用できる。恨みのある者がプロに依頼すれば迷宮入りになる公算が高い。目撃情報の乏しい放火犯は未解決に終わるのが実情なのである。
現住建造物放火罪なら死刑も充分にあり得る。相当な恨みがないと割が合わない。放火殺人なら担当外なので、中浦はどう対処しようかと首を捻っていた。