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 安っぽい割烹店の『和椀』はふぐ料理を名物として営業している。これといって評判になるほどの店舗ではないが安さが売りである。偉い人の嗜好品なので幹事が宴会の予約をしたようだ。もう少し部員達の意見を聞いてもいいのではないか、と楠田利造は思ったが口外することはなかった。

 ふぐは好みが分かれる。皆が嗜好する食材ではない。特に鍋は若手女子が最も嫌うスタイルで、変な親父と一緒なら長時間席を外すこともある。

 幹事は大変気を遣う役目だが、トップの意向だけで進行すると興醒めする。宴会は出席者全員を満足させることが求められる。上司優先よりも別な手法はなかったのかと訝っていた。

 壮年で話好きな林原由一部長の諄い挨拶が終わり宴が始まった。人一倍メタボな磐田臣弐推進役の乾杯の号令で盛り上がりを見せている。座敷なのに起立させるのは銀行の風習である。大所帯になった組織を眺めながら、楠田は風貌に反して遠慮気味に着座した。

「是非、当社に来てください」そんな売り手市場の時代に入社した楠田は、女子社員から注がれたビール呑み干し昔を懐かしがっていた。小学校から野球で鍛えた体軀には物足りない酒量であるが、白髪の出る世代になれば体力も落ちる。幾人かに注がれて上機嫌になり、まだ序の口と思いつつも随分弱くなったと長嘆していた。

 阪東大学経済学部を卒業し、(株)白氷カードに入社したのは二十年以上も前のことだった。営業、経理、管理、審査、融資部門を経て、現在は事務システム部次長を務めている。

 出世レースでは平均的なポジションで特に目立つ存在ではなく、どちらかと云えば常に無難な道を選択するサラリーマンらしい生き方だった。早くに結婚し、一姫二太郎の子供達も働く年齢に達している。住宅ローンも僅かで、親の遺産も転がり込み生活に困ることはない。

 他社志望だったが内定が貰えず仕方なく入社したのだが、同期も皆同じような境遇で違和感もなく溶け込めた。多くの学生には滑り止め程度の存在であり、不本意で安月給だが業務内容は易いので転職する者は僅かだった。

 白氷カードは大阪に本店を置く白氷銀行の仔会社で、上層部は総て母体行からの出向者が占めている。別名をバンカーパラダイスと呼ばれ、やる気の全くない出向者達が定年まで居座る状態が続いていた。仕事よりも麻雀が優先し退社定刻になると我先に雀荘に駆け込む者ばかりで、居残る次長以下のプロパーに業務全般を任せていた。稀に時間外に難題が発生すると、行き付けの雀荘にいる上司に報告するのがお決まりのパターンだった。

 出向者は評価されない時代だったので真面目に働こうとしない。復職することがない片道切符であり、年収が減少するだけの職場ではモチベーションも下がる。どんなに繁忙時でもプロパーに任せ定時退社をしていた。

 プロパーは出向者同様に適当にサボっている者と、懸命に働く者に二分された。若年層は安月給でも一所懸命に働くのだが、年嵩になるにつれサボり癖が付く傾向にある。真面目な者には大量の仕事が流れ終電まで残業するが、サボっている者は適度に切り上げ帰宅する。そんな状況が長く続いていても、月給や賞与は年功序列で決まっている。古参社員が九時から五時まで行方不明状態が続いていても、他者と遅れることなく昇進する。多くの者が不満を抱いているのだが人事部は動かない。正直者が莫迦を見る社風であった。

 亀梨善吉人事部長は波風を立てたくなかった。古参プロパーは悪条件で採用した転職者ばかりで、中にはチンピラ同然の強面がおり、怒らせると職場内で喚き散らすことも珍しくなかった。勢い余って重要書類やキャビネを投げ飛ばしたこともある。制止しようとすると激昂し、拳で殴られた部長もいた。

 敬虔なクリスチャンの亀梨は安息の日々を送ることだけを考えていた。主な出向理由は胃潰瘍で入院したことだ。『休まず、遅れず、仕事せず』が銀行員のモットーであり欠落すればポイ捨てである。酒好きの亀梨は体調管理が出来なかった。

 定年まであと僅か、関連会社で身体を張って頑張る理由もないので少々のことは看過していた。暴力沙汰の報告を受けても何もしない。問題は先送りして後任者に引き継ごうと考えていた。

 出向者の背中を観て育ったプロパーにも十人十色の所思があり、頑張って部長職を目指す者もいれば、無理をして身体を壊したらバツが付くと思考する者もいる。楠田は入社当初から平均的な仕事をこなしバツが付かないように心掛けていた。

 可もなく不可もなくだが、当時の白氷カードは小体企業で優良な人材を集められる状態ではなかった。従業員は二百名足らず、資本金一億円、売上千億円、利益七千万円であり、当たり前の事ができない社員ばかりでトラブルが頻発し、上司は顧客に連日謝罪廻りだった。稀に土下座をさせられた者もいた。

 そのような状況下では普通の仕事ができれば充分な戦力であり優秀な人材として扱われた。入社後数年間は常にエース的存在だったが、好景気が続き業容が拡大したことで優秀な人材を確保できる規模になると一変した。

 東京支社がダブル本社に格上げされ、早智大、慶明大、青習大といった一流校から大量に採用されるようになった。稀に最高学府の国立赤門大から入社する者もいた。大阪本社にも古都大、浪花大、尼神大といった国立大から優秀な学生が多く来るようになった。

 俊才な人材が増えると、高卒や二流大出身者揃いの旧社員ではレベルが大きく乖離し頭脳では全く歯が立たなくなる。日常会話の多くが横文字になり語学力の疎い中高年には頭痛の種となり、楠田も部長代理になる頃には部下の大半が一流校出身者で肩身の狭い思いをした。阪東大は関西では有名だが所詮ローカルレベルであり、関東人からは冷視線を浴びるだけの存在だった。

 景気が傾いた頃、白氷銀行と三央銀行との合併に伴い、白氷カードも三央ファイナンスと合併し白氷三央クレジット(株)となる。資本金三百億円、売上五兆円、利益二百億円に業容拡大していた。必然的に母体行からH系、S系出向者が大量に流入し組織は大混乱した。

 人事権が総ての銀行業界でありポスト争いが激化し、部長や副部長職が濫立した。部付部長、調査役、推進役といった中途半端な役職が増え、水と油のH系、S系が同部内で発令すると、スタンドプレーが目立ち指示系統は朝令暮改が続いた。社員達は誰を信じればいいのか解らず不信感が募り、モチベーションは大きく失っていた。

 白氷銀行と三央銀行は財閥系同士であり合併前から融和は不可能と云われていたが、経営基盤の充実を最優先した財務省主導の結果だった。業界内では比較的良好な関係であったが、いざ一緒になると、H系、S系と別称され行内は分断された。H系主導で業務が統一されたのでS系行員は意気消沈した。

 電話帳よりも分厚いマニュアルを見る度に不快感を口にする者も少なくなかった。合併比率が四対六なのでどうしても不公平感が残る。サラリーマンの悲哀だけでは割り切れないものがあり銀行本体は混乱した。それに伴い経営状態が良好な関係会社も大混乱に巻き込まれた。

 プロパーにとってはポストが消滅すると死活問題になる。次長の上は副部長だが○○役が濫立すると、どのポジションが上なのかわからなくなる。銀行時代の職位を継承するので個人差が生じる。副部長と○○役は同等だが相手次第でランクが変動する。宴会の座席になると細心の注意が必要になる。少しでも間違えると怒声が響く、挨拶の順番相違をすれば、蹴飛ばされ土下座させられた幹事もいた。

 今日は順風満帆な宴会だがこの先何が起きるかわからない。随分おかしな時代になった。あの頃は良かったと楠田は嘆息した。


 長身で痩せ型の奧埜幸多が何時ものように説教されている。都合が悪くなると頭を搔く癖があり既に数回繰り返している。国立滋津大出身の若手で俊才だが早合点が多い、おまけに口下手で要領が悪く連日上司から叱責される。事務手続きはマニュアル通りにするものだが、独自の手法で勝手に改定することがある。必然的にトラブルが発生し詭弁を並べるのだが、口下手なので上司に上手く伝達できず怒声を浴びることになる。

 図太い精神力の持ち主で他人から何を言われても気にしないタイプだが、周囲の女子からの醒めた扱いには顔を曇らせている。若い女子の多い部門なので恋愛の対象になる。唯我独尊のように蔑視されていても、意中の女子には好かれたいと思っていた。

「前にも言っただろ」

 林原が飽きれ気味に漏らした。社内では部付部長だが名刺は部長である。聞き慣れないポストは銀行の名残で多数存在する。事務システム部には5名いるが一癖も二癖もある者ばかりだ。

 謝るばかりで進展しない会話に疲れたので奧埜を席に戻した。

 林原は同命大出身で営業畑を歩んでいた。東京本社勤務時代に新宿駅構内で酔っ払いに絡まれ、格闘となり勢い余って線路に転落死させてしまう。正当防衛は認められたが各紙からゴシップされ大阪本社勤務となる。本来なら自主退職があってもいいのだが、当時の武川功児人事担当常務が慰留した。欲深い武川と金品の受け渡しがあったとの噂が社内では持ち上がったが真相は定かではない。

 その後黒縁の眼鏡を掛け、禁酒し連日終電まで残業した。休日もサービス出勤して励んだ入会自動審査システムの功績が評価され、関西地区同世代の出世頭になる。努力の賜であるが蔑視する者もいる。殺人者以下に扱われることに不満を抱く者は少なくない。

 楠田は林原の配下で、付かず離れずの距離感で接している。年嵩の部下になるので林原も接し難く、殆ど会話を交わすことがない。歴代の人事部長に献上品で籠絡したことは社内に広まっており、否定しようがない状況になっている。同世代以上からは冷淡に扱われ、同職位の他者との待遇とは大きく乖離していた。

「また、怒られたのか」

「ええ、まあ」

 楠田と奧埜の会話は何時もこんな内容である。すぐに頭を搔き言葉が続かない。俯き加減で自信喪失にも映るので、深追いすると虐めているように思われる。奧埜は口下手なので多くの会話を望まない。必然的に片言だけで終わってしまう。

 蒲生博寿副部長が林原と立ち話をしている。事務部門担当だがシステム部門と接点が大きく、毎朝クレームを報告する。蒲生はH系出向者で小言が多い。小太りで霜髪、手足が短めでモテるタイプではない。キャビネの配置が1cmずれても小言が出る。商業高卒で計算が滅法速く、銀行時代は営業、取引先中心の叩き上げである。些細な事で罵倒する峻烈さなので中年になれば出向するのは必然、指示したことの朝令暮改が多く社員達からは煙たがられている。質問や具申をすると、反抗的と受け止められ容赦なくパワハラを実践する。

「部長、頼みますよ。困っているんです」

「はい、そうですね」

 スタンドプレーが好きな蒲生は声高に騒ぐのが生き甲斐である。大袈裟に言っているが些細な出来事で下請け会社に直接云えばいいことであって、林原は聞き流す程度にしか受け止めていない。連日こんなやりとりをしていれば慣れてくる。真剣に聞くこともあれば聞き流すこともある。そうでなければ身体が持たない。

 今日も長い一日が始まる。林原は何時も通りの朝を迎えていた。


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