第一章 月がなく、夜もなく
麻雀物の小説です。
麻雀がわからないと、チンプンカンプンだと思います。
プロローグ
麻雀は、運の要素の強いゲームである。
将棋や囲碁のような実力絶対主義のゲームではなく、だからと言って運百パーセントのゲームでもない。囲碁と双六の間にあるようなゲームだ。数多のローカルルールが存在し、楽しみ方が地域によって様々である点を思えば、トランプに近いゲームなのかもしれない。
しかし、トランプゲームがそうであるように、基本的に強い人間が勝つようにできている。
初心者とプロが対局した時素人が勝つ事もあるのが麻雀だと言われているが、そんなことは精々半荘四、五局が限界だ。数打てば必ずプロが勝つし、勝率は間違いなくプロの方が上だ。勝率が高いのだから、短期決戦でもプロ有利であることに変わりはない。
そして、絶対的な必勝法は存在しない。
囲碁や将棋と同じように。
イカサマという手法をとれば、必勝法がないではない。しかしそれはイカサマが発見されないことを前提とした考え方だ。発見されればむしろ必敗法になってしまうし、それを言うなら、囲碁や将棋には理論上必勝法があるとされる。しかしそれは人類には絶対に打ち得ない方法だ。人類が使用できない以上『必ず勝てる方法』としては未熟だし、最悪必敗法になってしまうイカサマも、必勝法とは言い難い。
しかし逆に、必敗法は存在する。
不思議なことに、絶対的に。
少し、矛盾をはらんだ例え話をしよう。
例えばのお話だ。
――例えば、麻雀で、
鬼のような技術を持ち、化け物みたいな強運を持ち、にもかかわらずいつも負けてばかりの、『最弱にして最強』。そんな雀士がいたとする。
誰にも勝てない、最強の雀士。
そう、例えば。
そんな人間が、物語の主人公だったとするならば。
これはそういうお話だ。
『無月』。それは彼、月梨春海の、ネット麻雀IDだ。
成績
5001戦
5000ラス
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第一章 月がなく、夜もなく
私立立前高校二年三組の教室から、およそ普通の学校生活ではまず耳にしえないだろう奇妙な音が零れてきていた。碁石の音とも違う。実にリズミカルな音色だった。
「ツモ。2000、4000」
そう言うと、黒板に背を向けた金髪の男は手前に並べられた牌を倒した。教室で麻雀を行っていたのだ。ちなみに、牌を他の人間に見せることを『チョンボ』と言い、安くはないペナルティが発生するのだが、今回は牌を他人に見せていい条件を満たしていたので、そのペナルティは発生しなかった。
見事なタンピン三色。文句のつけようもない和了りだった。
それを受けて、金髪の前に座るピアスの男が、髪をワシャワシャさせて怒鳴った。
「かあ。また千輝のトップか……」
「やってらんねえよな」
金髪の上家が割って入った。
「これで千輝の五連トップだぜ? しかも全部一人浮き。一体いくら稼ぐ気なんだっての」
「イカサマしてんじゃねえの?」
金髪の下家がボソリと呟いた。その言葉に金髪の少年、白夜千輝は愉快に笑い、そしてこう口にした。
「お前ら相手にイカサマなんかするかよ。獅子は兎を狩るのに全力を尽くすのかもしれねえが、恐竜はアリンコなんか相手にしねえんだ」
「んだとぉ?」
ピアスは勢いよく雀卓から立ち上がり、千輝の胸元に掴みかかった。その時の衝撃で雀卓に積まれていた牌がバラバラと音を立てて吹き跳んだ。
「乱暴に扱うなよ」
「うっせえ!」
ピアスは拳を振り上げた。しかし、その拳が千輝に届くことはなかった。
ピアスが拳を振り上げると同時に、千輝は卓を真下から蹴り上げたのだ。雀卓と言ってもそれは所詮木製の机にマットを敷いて作っただけのものだ。衝撃には脆い。下から衝撃を加えられた雀卓は川魚のように跳ね上がり、ピアスの上半身に激突した。
ピアスに大したダメージは無い。しかし、ピアスは現在対面に座る男の胸ぐらを掴んでおり、端的に言うと非常に不安定な姿勢を余儀なくされている。そんな姿勢で、腹部に強い衝撃が加わって無事なはずがない。ダメージこそないが、より深い姿勢を強いられることになった。
その姿勢は、頭部を千輝の真正面に置いた、どうぞ殴ってくださいと言っているような、スキだらけな姿勢だった。
千輝は眼前に置かれた球体を全力で蹴り飛ばした。
「ガッ――ハッ!」
顎を蹴られたピアスの頭は綺麗な弧を描くようにスッ飛んだ。その身体は黒板の反対側に、ちょうど、生徒が物置に使う木製ロッカーに激突するかたちになった。
ドン。という重い音が二年三組教室に響く。ピアスの男は打ち所が悪かったのか、泡をふいて気を失ってしまった。
「はあ。麻雀打つと友達が減る――って、本当だなぁ」
千輝はボリボリ頭を掻き、どうしていいのか分からずにワナワナしている二人に目をやった。彼らはピアスの腰巾着のような人間だ。ピアスがやられた以上、敵意は無いらしい。
「おい。木野」
「……ハッ、ハイ!」
木野と呼ばれた千輝の下家に座る少年は、自分を呼ぶ千輝の声に全身で反応した。木野は、普段から千輝に対してこんな態度をとる人間ではない。いつでも落ち着いた対応のできる人間で、普段はぶつくさと呟くようにものを言う。その反応を見て千輝の頭を掻く力が一層強まった。これから自分が尋ねるつもりだった質問の答えを、先に言われてしまったようなものだったからだ。
「お前、俺とこねえか?」
「……は?」
木野は聞きなおすように声を出した。千輝が口にした言葉の意味がよく分からなかったのだ。
「そこでのびてる馬鹿じゃなくて……その、なんだ。俺と、一緒につるまねえかって言ったんだ」
言葉の意味は理解できたらしい。木野の表情はいつの間にかいつものムスッとした顔に戻っている。――しかし、やはりどこか落ち着きがなかった。選びかねているというよりは、千輝を恐れているかのようだ。
無理もない。目の前で人間が一人宙を舞ったのだ。怖がるなという方が無理な話だ。しかし、断ったら断ったで一悶着あるかもしれない。人一人蹴飛ばしたその足が、次は自分に向けられかねない。木野はそれを想像してしまったのだ。そのせいで、委縮してしまっていた。
「あ、あ……」
それでもなんとか声を出そうと必死に声を絞り出した。答えなかったら答えなかったで、気を悪くされるかもしれない。とにかく何が何でもいち早く「イエス」の返事をしようと、カチコチの身体に鞭を打った。
「……悪い。忘れてくれ」
木野が返事をする前に、千輝はそう呟いた。千輝には木野の考えが読めていた。返事が「イエス」である事も、木野が自分を怖がっていることも、そして、『自分に恐れて都合のいい返事をしようとしている』ことも。
木野に手を上げようという気は千輝にはなかった。単純に、木野と一緒にいたいと思っていただけだ。千輝は遠くでのびているピアスのことが前々から気に入らなかった。けれど、いつもピアスの隣にいる木野のことは、以前から目をつけていた。
千輝たちこの四人は、立前高校の四大問題児と呼ばれている。特に暴力事件を頻繁に起こすピアスは教師からも恐れられる存在だ。しかし、千輝を含む三人は、そのピアスとつるんでいるから問題児扱いされているというだけの、至ってノーマルな人種なのである。高校に入って初めての席が近かった。それがピアスと接点を持つことになった理由である。
しかし、それが悪い事ばかりかというとそうでもなかった。例えば千輝の場合、ピアスとつるんでいるからこそ金髪姿が許されている。本当は許されている訳ではないのだが、教師たちはそれを指摘しようとはせず、むしろ意図的に視線を逸らしてきていた。その様は中々に滑稽でとても気分がよかったし、何よりその特別扱いは都合がよかった。
千輝もピアス同様問題児だ。勿論ピアスとつるんでいるというのが一番の理由だが、年齢制限のある店に出入りしているという理由もあった。
年齢制限のある店と言っても、いくつも種類があるわけではない。足を運ぶのは『雀荘』だけである。要するに金銭を賭けて麻雀を打つ場所なのだが、十八歳以下の入場は禁止されており、高校二年生である千輝は、どれだけ入りたくても入れないのだ。
そこで登場するのが金髪だ。ここら一体にある高校は、私立公立の区別なく、すべて金髪を禁止していた。つまり、金髪で入店すればそれだけで十八歳以上の証明になる。
同級生や教師はそんな千輝のことをヤンキー、もしくはチンピラと呼んでいたが、実際彼が行っている校則違反は金髪と雀荘への出入りくらいのもので、しかもその二つは「麻雀がしたい」という千輝の強い想いからくる行動で、ヤンキーと呼ぶよりは麻雀馬鹿と言う方が正しい。
そんな麻雀馬鹿である千輝は、普段麻雀を打っている時、『誰が強いか』『誰と打てば面白いのか』と、常に他家の力量を測るように打つっていた。正確なことは分からなくても、大まかなことであれば、少ない局数でもなんとなく分かってくるのだ。
ちなみに、ピアスへの評価は『ド素人』。負ける要素すら見当たらないというものだったが、木野への評価はとても高かった。千輝とはまったく別種類の麻雀を打つのだが、実際木野と千輝はいつも『分け』ていたのだ。
今回は運よく千輝が勝ち、その余裕で強い言葉を使ってしまったが、木野の実力を認めていることに変わりはない。だから誘ったのだ。ピアスといるより自分とこい、もっと楽しい麻雀を打とうぜ、と。
しかしだからと言って、脅しのような状況で無理やり仲間にしたかった訳ではないし、なにより自分の認めた人間が、力に屈する姿を見たくなかった。
「……後始末よろしく」
千輝は卓から立ち上がり、逃げるように教室を出た。ピアスを殴ってしまったことから逃げたのではない。完全にアウェーと化した凍てつくほど冷たい空気から逃げたかったのだ。そして、二度と木野と打てないだろう現実からも逃げたかった。
ああ、どうしていつもこうなのだろう。
ただ麻雀が打ちたいだけなのに……。
その想いだけが、虚しさと共に込み上げてきていた。
◆
白夜千輝の父親はプロ雀士だ。
今でこそマイナープロ扱いを受けているが、数年前まで、超実力派プロとして数々のタイトルを欲しいがままにしていたほどの男である。実力派と呼ばれるが、その麻雀は一般人には理解不能な感覚打ちで、オカルトチックな理屈や考え方を持っていた。しかし、そのくせ確率や牌効率にとても強く、【確率を知るオカルト】なんて呼ばれていた。
それがなぜ、今ではマイナープロ扱いなのか。
あれは、今から五年ほど前のお話だ。
五年前、最上父は仕事帰りで車を運転していた時、居眠り運転をしていた対向車両が突然脇にそれ、白夜父の運転する車に衝突するという事故があった。打ち所が悪かった白夜父は生死の境を彷徨うことになり、幸い命に別状はなかったが、それ以来自身の感覚打ち麻雀に狂いが生じるようになったのだ。今まで通りに打って負けが込む。普段通りに打てない。確率が見れるとはいえ基本は感覚打ちの雀士だ。今まで通りでない以上、どうしてもブレが生じてしまう。
つまり、いつも通りの麻雀が打てなくなってしまったのだ。
五年たった今でも、そんな自分の麻雀を変えられず、【堕ちたオカルト】なんて皮肉を言われるようになっていた。
息子は父親の姿を見て育つという。
「オカルトなんていらない。カッコいい勝利なんていらない。親父とは違う。ブレの無い、確率を重んじる、安定した麻雀を打ち続けてやる!」と。
息子――白夜千輝はこう思った。
それから五年の歳月がたち、彼は順調に成長していた。
ブレの無い、確率通りの麻雀へ。
◆
部活動に所属していない千輝は、放課後特にやることは無いので、さっさと下校することにした。半荘五局の後ということもあり日も傾きつつある。いつもはこの後雀荘巡りをするのだが、今日はそんな気分じゃなかった。
最近千輝は健康麻雀以外の雀荘に足を運んでいなかった。
いくら金髪に染めているとはいえ千輝の見た目は歳相応である。雀荘では、負けていればそうでもないのだが、勝ちが込むと大体年齢確認をさせられてしまう。同卓していて邪魔だからだ。しかも千輝は、雀荘でも基本勝てる人間だった。
『勝つ→年齢確認→出禁』という流れで、もうこのあたり一帯のフリー雀荘は大体出禁になっていた。
残っているのは、白夜父の知り合いが経営しているノーレート雀荘くらいのものだ。ここならいくら勝ってもフリー雀荘のように嫌がられることはない。それどころか、そこで開かれる初心者講座の講師を請け負っている千輝は、むしろ他の客から親しまれる存在だった(本当はノーレートであろうと十八歳未満の入店はNGなのだが、客がいいなら別にいいのだ)。
しかし、今日はそこにも顔を出す気はなかった。
普段は足を運ぶことを日課としているのに。
「店長に心配されねえかな……」
ま、いいか。と寂しそうに呟いた。
実際、少し寂しかった。
「……ん?」
そんな千輝の目に奇妙な光景が飛び込んできた。「何だありゃ?」と声を漏らし、そちらの方を注目した。
立前高校の学ランを着た少年が、雀荘でオヤジ達と卓を囲んでいたのである。
年齢確認をするまでもなく、どこからどう見ても十八歳未満だ。千輝はその光景を、店に備え付けてある少し大きめの窓から覗き見ていた。
「おいおい。歳聞けよオッサン共……」
と呟いて、
「あ、負けてるのか」
と一人で納得した。
千輝は「どれどれ、どんなもんかな~?」とブツブツ独り言を呟いて窓の中に意識を集中させ始めた。少しぼやけるが、何とか捨て牌と学ランの手牌は覗き見ることができそうだ。
「(お。ちょうど何切る問題だな。さて、何を切るか)」
【基本情報】
南一局 西家 7600点持ち 七順目 ドラ七m
【手牌】
一二六m 五六七九s 二四五七九p 西 ツモ三m
【場況】
下家二鳴き、確定二翻 対面ヤオチュー牌連打 上家特徴無し
【安牌状況】
下家の安牌 一二m 五p 西は生牌
タン。という音と共に学ラン男は牌を河に置いた。
「(五筒かぁ。牌効率ではナシだけど、下家が二副露している今、堅実な選択だろう。まあ、自分の手も悪いし、ラス親あるならここは我慢。降ったら実は満貫でした――っとかなんとか言って、親が回ってくる前に飛んじまったら目も当てられないしな)」
しかし固い打ち手だなと、千輝は一人感動を覚えていた。この手でゼンツはない。しかし、二筒を切るという選択はあった。それすらしない鉄壁ぶり。字牌にすら手をかけない。降りるには少し早い状況ではあるけれど、ツモによっては復活も十分にありえる。
千輝はこういう固い麻雀が好みだった。さっき卓を囲んでいたメンツは腕の良し悪しはともかく基本ゼンツッパ麻雀で、少し物足りなさを感じていたのだ。
「ロン」
下家が牌をツモる前に、対面の男がそう口にして牌を倒した。千輝は「え?」と間抜けな声を漏らし、対面の手に注目する。
「タンピン三色ドラドラ。親っ跳だ」
そこには見事な六七八の三色が出来上がっていた。
確定跳満の二、五筒待ち。
二筒でさえ、放銃。
更に、対面の捨て牌からテンパイ気配は全く感じられない。
「これはツカン。誰がどう打っても放銃してるだろ」
っていうかダマっパネって――と千輝は吐き捨てるように声を出した。確かこの雀荘は、この辺りでは珍しい『赤』の無い雀荘だったはずだ。跳満出現率は中々低い。そんな雀荘でこんなダマッパネに振り込むなんて、不幸としか言いようがない。
対面のオヤジからは笑みがこぼれ、学ランは平静そうに点棒を渡した。
「しかも飛んでるし……」
思わず深いため息を吐いた。擁護する気こそないが、堅実な手を打った人間が箱をかぶっている姿は、見ていて忍びないのだ。
学ラン男はその場で右手を上げた。何を言っているのか千輝にはよく聞こえない。窓に耳をくっつけてようやく「ラスハンお願いします」という声が聞き取れた。
ラスハン。次で最後という意味だ。
対面のオヤジがニヤケながら声を出した。
「なんだなんだ、まだラス引き足りねえってか? じゃあ次で六連ラスだな」
六連ラスという単語に千輝はギョッとした。運がないにも程がある。この学ランは既に二万円近い現金を失っていたのだ。
高校生に二万円はキツイ。
低レートだったのが唯一の救いか。
「すいません。役満祝儀いくらでしたっけ? それと複合役満の祝儀はどうなってますか?」
学ランはメンバーにそう尋ねた。
「んなもん。和了ってから言え」
学ランの上家に座ったオヤジが不機嫌そうにそう吐き捨てた。学ランの次に負けているのだろう。その通りではあるのだが、聞くくらい別にいいだろと部外者の千輝は思った。
「分かりました。――では」
学ランは卓に積まれた牌を崩し、自動卓の穴に入れた。
「次は、勝ちます」
学ランは自然な調子でそう言った。
千輝には見えない角度だったが、この時の学ランは、実に不愉快そうな目をしていた。
誰かぼくに勝ってくれ。
◇
その一半荘に起きた出来事を、千輝は永遠に忘れないだろう。
学ランは東場だけで七万点を超える点棒をかき集め、全員を虫の息にした。その後南場の親番で、字一色四暗刻単騎――親のトリプル役満をツモ和了。三人を同時に飛ばすという、まさに奇跡のような半荘だったのだ。
負け分のほとんどを回収――いや、この店は複合役満の祝儀をシングルから倍々計算したハズだ。回収どころか、いくらかおつりがきたハズである。
僅か半荘一回で、連続ラスの負け分を一気に取り返したのだ。
部外者である千輝でも顔をひきつらせてしまうありさまだ。同卓した者はたまったものじゃないだろう。泡をふいていたり目をパチクリさせていたりと、反応は三者三様だが揃って絶望の色を醸し出していた(低レートでそんな馬鹿なと侮るなかれ。この半荘は、レートを無視して最悪だった)。
しかし、後ろで見ていた千輝は全く別のところに驚愕していた。――いや、恐らく対局者全員も気付いているはずだ。それに気付いてしまったら、もう絶望しかない。
「なん――つう手順だ……」
千輝はポロリと言葉を零した。
後ろで見ていた千輝にはその異様な手順が分かっている。特にトリプル役満を和了った手順は最早理解不能だった。
配牌タンピン三色のテンパイを、
あろうことか『左から順番』に切って行き、
配牌を河に並べ終えると同時にテンパイし、
次順、字一色四暗刻単騎をツモ和了ったのだ。
これが異様でなくてなんだと言うのか。ダブリーだってありうる配牌をわざわざ崩しての役満和了だ。しかも、もしダブリーをかけていたら絶対に和了れない役満だったし、タンピン三色のツモすらなっていない。何せツモは字一色なのだから、タンピン三色の和了り牌であるはずがない。
配牌、ツモ、ともにありえない。しかしそれよりも、その役満を拾い当てる学ランに、怒りにも近い感情を覚えていた。
「ふざけるな。それは和了っちゃいけない役満だろ……」
こんな理不尽な感想を抱くほどだった。
固い麻雀だなんてとんでもない。異様な打ち手だ。今まで出会ったすべての雀士たちの中でもトップクラスでイカレた打ち手だ。もしかしたら全盛期の親父よりひどいかもしれない。千輝は青ざめた顔でそう思った。
精算が終わったのか、学ランは卓から立ち上がり、脇に置いてあった学生用カバンを持ち上げた。そしてゆったりと玄関に向う。
ガチャリと扉が開き、学ランの男は外に出た。背丈は千輝のそれより一回りほど小さく、見下ろすかたちになっていた。
「おい、お前」
千輝の声に学ランはビクッと反応した。千輝には学ランの顔はまだ見えない。角度のせいもあるが、学ランのその長い前髪のせいでもあった。そのせいで、学ランの目元がはっきり見えないのだ。
学ランは恐る恐る千輝の方に向き直る。
「……って、お前まさか、月梨か?」
月梨と呼ばれた少年は千輝の姿を確認すると、「え、白夜くん?」という声と共に一歩だけ後退りした。二人とも混乱している。千輝は千輝でまさか学ランが月梨だとは思わなかったし、月梨もまさか千輝に声をかけられる日がくるとは思っていなかった。
月梨春海。千輝と同じ立前高校の二年生で、千輝と同じクラスでもある。背は低く、その長い前髪のせいで暗い印象を受ける少年だ。
いつも教室の隅で読書ばかりしており、見た目通りの暗い性格をしているのだが、不思議なことにいじめの対象にはなっていなかった。千輝が意識して見ていないという理由もあるのだが、千輝は月梨が不幸に苛まれている光景を見たことがない。
ついでに、成績優秀の優等生でもある。とてもじゃないが、こんなところで麻雀を打つような人間とは思えない。
「月梨、お前、なんでこんなところで――」
一瞬、時が止まってしまったかのように、二人は静まり返る。
「……ご」
沈黙を破ったのは月梨だった。
月梨は声を絞り出す。
「ごめんっ!」
そして全力で駆け出したのだった。
◇
「くそっ、完全に見失っちまった」
気がつくと、辺りは暗黒に包まれていた。
あの後、月梨が走り出すや否や、千輝は必死に月梨を追いかけた。仮にも千輝は学校の問題児だ。ケンカだって強い。読書ばかりしているもやしみたいな奴に運動神経で劣るとは思っていなかったのだが、どうも月梨は運動神経においても優秀だったようで、あっと言う間に見えなくなってしまった。
それでも千輝は諦めずに街中を探し回ったが、月梨を発見することはできなかった。もう街の外に出たのかもしれない。月梨の家に行こうにも、千輝は月梨宅の住所を知らなかった。当然だ。月梨はクラスメイトだが、クラスメイト全員の住所を知っているはずがない。
「あら! 千輝ちゃんじゃない♪」
途方に暮れていた千輝に、通りかかった一人の男が声をかけた。千輝はその声を聞くや否や、ギョッとカエルか何かのような反応を見せた。
そして、恐る恐る声の聞こえた方を向く。
そこには化け物が立っていた。
「いっやーん! 千輝ちゅあ~あん! どうして今日来てくれなかったのよぉーん! 私ぃ~、寂しくて寂しくて仕方がなかったんだからぁ~!」
女物の服を着た漢が、まるで男に甘える女性のような甘い声を出しながら、内股でよたよたと寄ってきたのだ。
「寄んな化け物!」
千輝はそれをジャンピング両足蹴りで迎え撃った。
化け物は「ああーん!」とわざとらしい声を上げながら吹き跳んだ。吹き跳びながらも女口調を忘れないとは、実に奇妙な漢である。
そして何事もなく立ち上がった。無傷なのだから恐れ入る。
「んもう! 今日の千輝ちゅあん乱暴! でもぉ、そういうところが好みだったりするんだけどね♪ うふっ♪」
「ヤメロヤメロヤメロヤメロォ! 近寄るんじゃねえ! いいか! この線よりこっち側にはくんな! 分かったな!」
そう言うと、千輝は近くに落ちていた石でラインを引いた。しかし化け物は千輝の後ろに回り込み、鍛え抜かれた両腕で千輝を抱きしめた。
強いと言っても千輝は所詮高校生。大人の漢には敵わないのだ。
「んわぁあああああ! 離せ! 離せこの化け物!」
「化け物はないんじゃなーい? んもう、いけず!」
「顎を擦り付けるな! 髭が痛いんじゃボケ! 畜生! 来世は絶対女に生まれ変わってやる!」
死んだ後のことを考え始めている。今生に未練はないらしい。
「あら奇遇ね。私も来世は女に生まれ変わりたいの。そしたらまたイチャイチャできるわね♪ うふ♪」
「おかしい! 何かがおかしい! 畜生! オカマに性別は関係ないのか! 呪ってやる! いつか絶対呪ってやる!」
千輝の必死の抵抗などお構いなしに、化け物は千輝の頬をすりすりしたりなめまわしたりとやりたい放題だった。
「あらそう言えば」
一瞬、化け物の力が緩んだ。
今だ。
千輝は化け物の腕を振り払い脱出すると、人間四人分の距離をとって身構えた。この距離は、普段この化け物と接する時にいつもとっている間合い――より、少しだけ長かった。
「そんなに身構えなくてもいいのにぃ~」
「用件を言え用件を! どうしてこんなところほっつき歩いてんだよ!」
千輝は警戒を緩めることなく化け物にそう言い放った。
「つれないこといわないでよぉー。せーっかく千輝ちゃんを探しにきて上げたってのにぃ」
「俺を探しに?」
あぁ、と声を漏らすと、千輝はわしゃわしゃと頭を掻いた。
「連絡を入れなかったのは、まあ悪かったよ。心配かけちまったな」
「そうよ! んもう! 千輝くんったらいっつもそうなんだから!」
化け物はぷりぷりと頬を膨らませて怒りを表現した。化け物の性別が女ならもしかしたら可愛かったかもしれないが、化け物の性別が漢である以上、むしろ千輝には気持ち悪い光景だった。
この化け物は、千輝の通う麻雀教室【健康麻雀大塚】の店長である。つまり彼の行動は、「いつも来てくれる常連さんが突然来なくなって心配した」という、中々慈愛に満ちたものだった。決して男子高校生に抱きつきたかったとか、頬ずりしたかったとか、ぺろぺろしたかったとかではない。
「後は、束ちゃんに頼まれて牛乳を買いにきてたのよ。買い忘れちゃってたんだけど。いや~、思い出したら力抜けちゃって、そのせいで千輝ちゃんに逃げられちゃうだもん。私ったら、馬鹿ね」
てへっ♪と、可愛い素振りを忘れない。
千輝は真面目に吐き気を覚えた。
「――つまり、今から買い物に行くってことか?」
「そうなのよぉ! いつものコンビニにおいてなくってぇ!」
「よし。今からあんたの店に行くわ」
「ちょっとソレどういうことよお!」
化け物は本気で嫌がっている様子だった。さっきの仕返しである。頬ずりはともかくぺろぺろの仕返しがこの程度であるあたり、千輝も化け物の奇行には慣れているらしい。
「まあそれはそうと、店には寄った方がいいかもねえ」
化け物は目の横に人差し指を当ててそう言った。
「ん? どうしてよ」
「今日ねぇ、うふふ。とってもいい子がきてるの! 一見さんなんだけどねぇ、もう私の好みドストライク! 歳は千輝君くらいでぇ、おとなしい雰囲気の子よ。あれは将来有望だわ、うふっん♪」
「……へ~」
千輝の頭には月梨の顔が思い浮かんだ。自分と同い年くらいで大人しい雰囲気。そして麻雀を嗜んでいる。店長の趣味はともかく、可能性はあるように思えた。
「そいつ、つえーの?」
千輝は尋ねた。
「うーん。強いって言うか、上手いって感じねえ。手順は上手いんだけど、流れに乗れてない感じ。もっと攻めてもいいと思うわぁ。所謂、守備麻雀ね」
それを聞いて、千輝はそれが月梨である可能性を捨てた。確かに月梨の麻雀は、一件守備麻雀に見える。しかし、あの麻雀――あの、理不尽極まる常識外な麻雀を、守備麻雀とは言えないはずだ。
まして、手順は上手いときている。
違う――か。と、千輝は少し落胆した。
「そうそう!」
店長は両手を打って、こう言った。
「そんな彼なんだけどね、私が出るちょっと前、すごい強気なことを言ったのよぉー!」
そして、こう続ける。
「『次は勝ちます』だって。まるで絶対勝つみたいなことを言うの。麻雀なんだから、そんなことできるわけないのに――」
その言葉を聞き終わる前に、千輝は走り出した。
雀荘大塚。
月梨春海のいるところへと。
◇
健康麻雀大塚。
ノーレート雀荘。つまり金銭を一切賭けたりしない健康的な雀荘である。他にも、タバコを吸ってはいけないとか、対局中にメンバー(雀荘店員)を呼んでアドバイスを求めても良いとか、麻雀初心者や煙草嫌い、ギャンブル嫌いな人でも麻雀を楽しむことができる雀荘である。
客層こそ年配中心で、強いメンツと対局する機会は少ないものの、純粋で、楽しい麻雀を打ちたいという思考のお客さんが多く、治安だけはとても良い。
――が、今日は荒れていた。
いや、明確に荒れていたわけではない。
静かに、荒れていた。
麻雀は、本来静かに打つもので、あまりうるさいと他の客の迷惑になるので、自粛される場合が多い。しかし、今日の静かさは、静かと言うよりは静寂だった。しんとしていた。誰もが口を閉ざしていた。何者かによって、無理やりそうさせられてしまったかのように。
「あ、かずくーん!」
そんな空気もお構いなしに、明るい口調で千輝に声をかけた人間がいた。大塚束。現在小学六年生、あの化け物の娘である。
麻雀は強く、客受けも良いので店の手伝いをさせられているのだとか。とは言え、本人はそれを苦にしていない――どころか楽しんでさえいるので、無理やりといった風はない。
なぜかウエイトレスの服を着ているが、気にしない。
「今日は遅かったね~。束、心配しちゃった~。もう。こんなかわいい女の子を心配させるなんて、ダメなんだぞ! プンプンっだ!」
なぜだろう、デジャブを感じる。あの父をしてこの娘ありかと、とても失礼なことが頭を過った。しかしあの化け物はともかく、こんな小さな女の子にそれを言うのは気が引けたので、口にはしなかった。
千輝は素っ気なく「ワリい」と答えると、店を一周ぐるりと見渡した。いつもは千輝が雀荘にくると、誰かしらあいさつをしてくれるものだが、今日はそれがない。
「何があったんだ?」
深刻そうな千輝の質問に、束は目をキラキラさせて答える。
「わっかるぅ~? いや~流石はかずくんだよねー。もうみんな気付いてくれないんだよ? 失礼しちゃうよね~。自分で『髪を切った』って言わないとみんな分かってくれないんだよ?」
「…………」
髪、切ってたんだ。
全然気付かなかった。
まさか「気付かなかった」とは言えない。この小学生はどうやら本気で喜んでいる。それを「気付かなかった」って、それこそが失礼というものだろう。殴られても文句は言えない(女子小学生のパンチなんてきくわけないけれど)。小学生とはいえ女の子の髪の変化に気付けなかったなんて知られるべきではないのだ。
「ま、まあそのこともあるんだけど、それよりも、この雰囲気と言うか、空気と言うか」
「ま、まさか髪を切ったことで私に大人の雰囲気が! キャアアアアアアアアア! 遂に私は男子高校生を魅了できるくらいの大人の雰囲気を獲得したのね! 空気ってことはつまり匂いってことぉ! か、かずくんにはそんな趣味があったのか!」
「ちっがあああああああああああああああああうっ!」
全力否定。
というか、認めてしまったら社会的に死んでしまうのではないか?
女子小学生に匂いって……。
などと未来的な死を予感した千輝であったが、数人のお客さんが千輝の方に殺意を乗せた視線を向けていたのは言うまでもない。千輝は未来に死ぬのではなく、現在進行形で死んでいた。
社会的に。
爺婆の手によって。
「そうじゃねえよ! なんで今日はこんなに静かなんだって聞いてんだ! 誤魔化してんじゃねえ! 明らかに異常だろうが! どうして今日はみんな沈んだ空気で麻雀打ってんだって聞いてんだよ!」
「お、お客さんを、今現在麻雀を楽しんでいるお客さんを目の前に『沈んだ空気』って、凄いことを真顔で言うね、かずくん……」
もっともである。
「んなことはど――――でもいい。早く理由を話せ。じゃねえと授業参観の日を父親にバラすぞ」
「ちょっ! なんで小学生の授業参観の日取りをかずくんが知ってるのよ! ああっ! まさか友ちゃんか! 友ちゃんなのか! ちっくしょうあのおしゃべり女め!」
「だーかーらーっ! さっさと理由を話せと言ってるだろうが! それとも本当にバラされたいのか!?」
束はうーうー唸りながら「卑怯だぞー」と抗議したが、そんな抵抗など右から左に受け流した。
抵抗はしたが、束はもう逆らうことはできない。束は父(あの化け物)が授業参観にくることを本気で嫌っているのだ。父親としては、娘の授業参観には出席したいだろうけど、娘としては、あの父親を友達に見せることに抵抗が無いわけはないのだ。
普段は父がどんな格好をしていても気にしない束であるが、学校にくることだけは良しとしないのだ。
「うー。分かったよー。小学生女子をイジメるなんて、かずくん、サイテーなんだー」
最後の抵抗とばかりにそう口付くと、束は雀卓の前に移動した。客数の関係で、今は使用していない雀卓だ。卓の上には麻雀牌が綺麗に並べられており、束はその中から十四枚の牌を選んで、一列に並べた。
四五六m 五五五六s 四四五五六六七p
「何切る問題。かずくん。何切る?」
「…………」
沈黙。
何切る問題。つまりここから何を切るかという問題なのだが、あまりにも簡単すぎる。レベルイージーどころではない。百人が百人打って同じ解答。むしろこんなもの、出題者の方が馬鹿にされかねない問題だ。
問題と評して良いのかすら危うい。しかし千輝は束の出した何切る問題を無下にせず、「七筒だろ」と答えた。
「場況にもよるが、大体リーチだろ」
「うん。そうだね。私も七筒切りリーチ」
「これがどうしたってんだ?」
「うん。実はね、かずくん。これ、配牌なんだよ」
千輝はことここに至り、ようやく束の言いたいことが理解できた。配牌。そしてこの何切る問題。その二つを結びつける答えを、千輝は知っていたからだ。
月梨春海の麻雀を、知っていたからだ。
「当ててやる。そいつ、左から順番に切ったんだろ」
「!?」
正解――か。と、千輝は小さく呟いた。考えてみれば当然だ。千輝はここに、月梨春海を探してやってきたのだ。しかし、店の中を見渡してみても、月梨の姿はどこにもない。
帰った――そして、束は月梨の話をしたいのだ。
ということは、この静けさは月梨のせいか。
「かずくん。あの人、知ってるの?」
「知ってるっつーか、クラスメイト。麻雀打てるって知ったのは、ついさっきなんだけどさ」
ついさっき。まさに、僅か数時間前のことだ。
「ねえ、かずくんは信じる? これ、この後国士無双十三面待ちをあがるんだよ」
「信じるよ。俺の時はトリプルだった。親でな」
「……そっか」
「で、何があったんだ?」
「…………」
二人は数秒ほど沈黙した。あれだけ元気に振舞っていた束も、それどころではないらしい。明らかなテンションダウンだ。先生に怒られる小学生のように、下を向いてシュンとしている。
「ま、大方予想はできるけどさ。ケンカがおっぱじまりやがったんだろ?」
「ううん。ケンカってほどのことはなかったよ。言い争いってレベル。そりゃそうだよね。『次は必ず勝つ』とか、大口叩いてきて、その上そんな役満をあがるんだもん。誰だって頭にくるよ」
そりゃそうだ。と千輝は思った。そもそも、『次は必ず勝つ』なんて、普通に『煽り』だ。そういうのは、現在の雀荘では禁止されている。大塚でも当然禁止だ。ノーレート雀荘はそういうマナーに厳しい傾向がある。恐らく、大塚でも誰かが注意したのだろう。
その上、『右から順番に切る』という舐め腐った打牌。河に流れる良形テンパイ。そして出来上がる国士無双。例えノーレートでも、これで何も感じない打ち手などいるわけがない。
「ノーレートで良かったな。レートによっちゃあ、今頃マジで殴り合いが始まってるぞ」
「今はおとうちゃんもいないしね。止められる人がいないもん。とりあえず、私の権限でその人は出禁にしたんだけどね」
「出禁? そりゃ厳しすぎやしないか? そいつのやったことって、『煽り』くらいのものだろ?」
その通り。話を聞く限り、月梨のやったことと言えば、他家を煽るような発言をした――くらいのものである。確かにマナー違反ではあるが、割と軽いレベルの物である。間違っても出禁になるようなものではない。
舐め腐った打牌――と言っているが、そんなものは個人の自由だ。当然マナー違反になるはずがない。
ここで束は、不自然な笑顔を作った。
ソッポを向いて、苦笑い。
……まさか。
千輝の脳内には嫌なシチュエーションが浮かんでいた。
「だっておとうちゃんがー『私のいないうちに問題を起こしやがったクソッタレは全員出禁にしちゃってオーケーよ♪ うっふん♪』とか言うから~」
「はっはっはー。なーるほどー。それで、出禁を怖がったお客さん方が急に大人しくなっちゃった、と」
お前は馬鹿か。
千輝は笑顔でそう言った。
「だ、だだだだだ、だってさだってさ! ちゃんと『問題』は起こってたんだよ? 言い合いにもなってたし! 常連さんヘソ曲げて帰っちゃうし! そういう問題児は早々に出禁にしちゃった方がいいって偉い人が言ってたもん!」
「偉い人とは?」
「エジソン!」
「ほほー」
発明王がそんなことを?
聞いたことないな。
「話をまとめると、この嫌に静かな空気は月梨のせいじゃなく、お前が安易にお客さんを出禁にしたせいなんだな?」
「あ、あの人月梨さんって言うの?」
「質問に答えろ」
「……はい」
シュン――と下を向く。
どうやらこれが、束流の『怒られる時のポーズ』らしい。
「ま、店の経営方針に文句を垂れるつもりはねえけどさ。今度から気を付けるんだぞー? 二回目は慣れがあるから、割と簡単にやっちまうもんだ。当分は出禁者を出さない方がいいな」
「はい……」
如何にも「反省しています」という態度で、小さく呟いた。普通はそれで許してやるものかもしれないが、千輝はそうしなかった。束という女子小学生の見せる「反省」がどれほど信用できないかを、千輝はよく知っていたからだ。
それに、さっきのお返しのこともある。千輝にロリコン疑惑を立てたアレだ。ここにくる前に受けた化け物からの嫌がらせのことも、忘れてはいない。
それをすべて精算してもらわないと割に合わないな。
邪悪な笑みと共に千輝はこう叫んだ。
「だそうですよ皆さん! しばらく何をしてお咎めなしです! さあ! 各々好きなように麻雀を楽しみましょう!」
「……へ? ちょっ! そんなこと――」
束が訂正にかかったが、時は既に遅かった。
千輝の号令と共に、そこに居合わせたお客さんが一斉に声を震わせたのだ。
地震のように、地響きが鳴る。
爆弾のように、破裂音が轟く。
とてもじゃないが、爺婆の声量ではない。
「ちょ! ちょっと皆さん! 落ち着いてください!」
「おい束。手前の卓で強打があったぞ」
「え!? ちょ、強打は――」
「おい束。向こうの卓で引きヅモだ」
「ええっ! だから引きヅモは――」
「おおっとぉー。左の卓で卓割れだ。一人トイレに行っちまったー」
「トイレ!? どんな無法地帯ですか!」
「あーあーあー。束さん束さん。聞こえますかー。奥の卓でイカサマが発生した。ツバメ返しとは器用なことで」
「全自動卓でなにしてるんですか!? 意味ないでしょそんなことしてもっ!」
「……天和だって」
「役に立ったよツバメ返し! でもそれ無効じゃない?!」
一瞬にして無法地帯と化した健康麻雀大塚。健康という言葉の意味を深く考える必要があるほど大荒れした店内だったが、この騒動は数秒のうちに幕を下ろすこととなる。ノリノリの爺婆としてやったり面の千輝は、その事件に恐怖することとなるのだ。
「……貴様らぁ」
そこには、
牛乳を買い終えて帰ってきた化け物、
もとい、店を護る漢の姿があった。
殺気。
全員が静まり返る。
「お、おとうちゃーん! みんなが、みんなが束をイジメてくるよー! 特定個人を指名するなら金髪高校生の白夜千輝くんが主犯格になってイジメてくるよー」
「――ほう」
冷や汗、どころではない。
滝のように流れ出る汗は、千輝の全身を這うように流れ落ち、ゆっくりと地面を濡らし始めた。
「貴様ぁ。オレの店に、オレの娘にぃぃいいいいいいい」
「ま、待て! 落ち着け店長! これにはマリアナ海溝よりも深いワケが!」
「聖母さんは言い訳なんてしない!」
「それは聖母マリアな!」
はっ! しまった。
ついツッコミを――。
「何してくれやがったンだあああああああコラあああああああああああああああああああああああああああああッ!」
「ヒィイ! お助けぇえぇぇぇぇえ!」
◆
僕は、麻雀が嫌いだった。
なぜ、こんなゲームがあるのだろう。
理不尽で、不確かで、不条理で、不合理で、強者も勝者も意味をなさず、弱者も敗者も同義でなく、最善が敗着になり、敗着が勝因になる。理由もなく敗退し、価値もなく勝利するこんなゲームがどうして存在しているのか、僕には理解できない。
ギャンブルとしては、まあよくできていると言わざるを得ない。運ゲーと称されながら、しかし確実に強者が存在するこのゲームは、イカサマという直接的な反則を用いずとも、稼ぐ者を作ることができる。
勿論、イカサマを使用したほうが手っ取り早い。手っ取り早く、そして確実に勝つことができる。まあ、現環境で一体どんなイカサマができるのか、甚だ疑問ではあるけれど。
なんて、今でもイカサマはあるんだけどね。
けれどそれは、麻雀が嫌いな理由ではない。
そんなものはどうでもいい。
僕がこのゲームを嫌う理由なんて、単純なものだ。端的なものだ。この理不尽で、不確かで、不条理で、不合理なゲームを嫌う理由なんて、一般的にはそれだけで十分だ。それだけの理由があれば、嫌う理由としては上等だろう。僕だって、何の含みも深みもなく、ただ一口でその理由を言語化するならば、やはりその辺りを理由にする。
理不尽だと、ただ一言。それだけで麻雀は嫌えるし、それだけで麻雀は好きになれる。二面性なんて無茶な言葉を使う必要もない。理不尽こそが麻雀だ。理不尽を愛せば麻雀が好きになれる。理不尽を嫌えば麻雀が嫌いになれる。
僕は、後者だった。
ただ、それだけだ。
けれど、誰が僕を責めることができるだろう。いや、僕を責めることなんて、誰にもできない。できやしない。そもそも好き嫌いなんて人それぞれだし、それを咎めるなんておこがましい。好き嫌いを強制しようなんて、馬鹿げた発想だ。
――いや、好き嫌いの話じゃないか。
訂正しよう。
けれど、
五千戦五千連敗を成した後、それでも麻雀を続けられる人って、いるのかな。
それがすべてではないけれど、
そんなものは、一端に過ぎないのだけれど、
まずはそこから、始めよう。
◆
――続く
読者の皆様、このような拙い作品を読んでいただき、本当にありがとうございます。
……でもごめんなさい。更新速度は本当に遅いです。
連載物として、これからも続けていくつもりではありますが、次回は一か月後――とか、余裕でやると思います。
今後の更新は次回に限らず、気長に待っていてください。
さて、あとがきということですが、この作品は麻雀物の小説です。麻雀がわからないと何を言ってるのかチンプンカンプン、逆に麻雀がある程度分かれば、そこそこしっくりくる話ではないでしょうか。「この作品が読みたいから麻雀を覚えてくる!」なんて読者が現れるとは思えませんが、わかる人だけわかっていただければそれでよしというコンセプトの元執筆した小説ですので、そんなに気負わずのんびりと麻雀を覚えて行ってください(覚えることは絶対な!)。
それではこの辺で、次回もよろしくお願いします。