第1話「走るなら流れる汗をそのままにせずきちんと拭くべし」
「もう、全然意味が分かんない。どういうことなの?食い逃げって……」
地下道を歩きながら伊予奈がぼやく。それを一番言いたいのは他の誰でもない俺なのだが、あえてここは突っ込まないでおこう。そうこうしていると伊予奈の家に着いた。とりあえずリビングのソファーに腰かけるよう言われ、俺は見慣れた今井家のソファーに腰かけた。
「さて、あのオッサンが持ってたメモリーには何が入ってるのかしら?」
伊予奈が携帯を取り出し、メモリーを差し込む。
……何もない。無機質な画面に「データは入っていません」の文字。
「まさかアイツ、俺の家の財産がはなから狙いだったのか!?」
「そうかもね……おじさんもおばさんも売れっ子の物書きだからゆすりに来たのかも。ニュースで言ってたことって、本当なの?その……おじさんとおばさんが、全国指名手配って」
「ああ、俄かには信じがたいが本当のようだ。置手紙にもそうやってかいてあるしな」
とっさに持ち出したテーブルにあった手紙を伊予奈にも読ませる。
「あ、そうだ……飲み物、お茶でいい?」
「ああ。俺も手伝うよ」
「そう?悪いわね」
「勝手知った仲だろ」
俺と伊予奈は台所へ向かい、湯を沸かし始めた。
俺はその後ろにある棚の急須と茶葉を取り出し、
「はぁ……なんだってこんなことが起こるんだよ畜生め……」
愚痴りつつも茶葉を急須に入れた。
すると、急須の蓋がカタカタと音を立て、揺れた。
「ん?」
そのカタカタは次第に大きくなり、最早がたがたと音を立てて揺れ始めた。
「な、何!?」
次の瞬間、茶葉と粉が急須の注ぎ口から飛び出し、あたりを緑色に染めた。
間違いなく茶葉だ。むせると同時に茶の香りが俺の鼻を擽った。
「ちょっと疾兵!?なにやって……」
伊予奈が言葉を止める。
伊予奈の視線をたどると、そこには……「何か」が存在していた。
「それ」の形は知っている。しかし、俺が知っている「それ」には手や足や顔が存在しない。そして「それ」は宙に浮いて腕を組んでさっきの衝撃で腰を抜かして倒れた俺を見下したりはしない。
しゃもじが……しゃもじに手足と顔がついていて俺を見下ろしていたのだ。
「貴様か?吾輩を呼んだのは」
「しゃもじがしゃべった!?」
「しゃべっては悪いのか?我が名はメッシ・チョウチューヤであ~る。食を司る魔人なる者ぞ」
「えっ、なんだって?」
「貴様は吾輩を呼び出した。なにやら物憂げな顔をしてお~るな。申してみよ」
「ちょっとまて、どうしてしゃもじがしゃべるんだ!?」
「吾輩はしゃもじなどではない。食を司る魔人、メッシ・チョウチューヤであ~る。貴様は物憂げな表情で『んなことがおこ~る』と言いながら茶葉を入れた。それは吾輩を呼び出す際の呪文とその儀式なのであ~る」
俺は目と耳を疑った。
目の前にいるしゃもじが声を発している……しかも変な語尾付きで。
しかし、俺の背後にいる人物の反応は、そうではなかった。
「きゃあああああああああっ!」
長いこと一緒に居た俺でさえ聞いたことのない悲鳴を上げる。
そりゃあそうだ、自宅の急須から異形の魔人と名乗る変な物体が湧いて出てきたのだか――――
「もしかして急須の魔人!?」
「いかにも。吾輩こそが食を司る急須の魔人であ~る」
「おばあちゃんが言ってた!急須を大事にしてるといいことがあるって!
魔人さんが現れて願い事を一つ叶えてくれるって!」
「……へっ?」
「それが、この魔人さんなのね!」
伊予奈は、目を輝かせてしゃもじに近づく。
まさかさっきの悲鳴は歓喜の悲鳴……!?
「失礼、お嬢さん。吾輩は確かに食を司る急須の魔人メッシ・チョウチューヤであ~るるが、吾輩が叶えられるのはそこの少年の願いなのだ」
しゃもじは紳士的な身振りで伊予奈の手を取り、手の甲に軽くキスをした。
そして俺に向き直り、
「さて、少年よ、名はなんと申す?」
「俺の名前?飯田疾兵」
「いいだしっぺい?変わった名だな」
「お前に言われる筋合いはない」
「よし、いいなんとか」
「なんとか?」
「少年、貴様のことだ。吾輩は名前を覚えるのが苦手だ。故に吾輩は名前の先っちょだけをかじって覚えるのであ~る。つまり貴様のことはあたまの2文字、『いい』と呼ぶのであ~る」
な、なにがいいたいんだこのしゃもじ……
俺が呆れているとしゃもじは再び伊予奈の方へ向き直り、
「ではお嬢さん、貴女の名前を伺おう」
「わ、私!?私は今井伊予奈と言います……」
「ほう、お嬢さんの上の名前は『いい』の……いいなんとかではないのか」
「なっ……!?」
「ふむ、まあいいであ~る。吾輩は貴様とお嬢さんのことを「めしいま」と呼ぶであ~る」
「「め、めしいま……?」」
俺と伊予奈は顔を見合わせる。
なるほど、飯田のめし、と今井のいま、か。
俺が納得していると、どこからともなくぐぎゅるるるるる~と音が鳴った。
「ふむ、腹が減ったであ~る。『めしいま』、吾輩に飯をくれ」
「おいしゃもじ、人の家にいきなり現れておいて飯を求めるなんて何様だ」
「何度も言うが、吾輩はしゃもじなどではない。食を司る急須の魔人メッシ……」
「あーわかったわかった」
「飯をくれたら何か一つ貴様の願いをなんでも叶えてやるであ~る。……そうだな……先ほどの貴様らの会話から察するに……『いい』、貴様は理由は知らぬが何者かに追われる身であ~るようだな?」
しゃもじが髭を撫でて俺を見据える。
しゃもじの分際で澄んだ瞳をしてやがる……
「ああ……」
「ならば、その追われる、という苦痛を取り除いてやろう」
「な、なにを……」
俺が言葉を言い切る前に、しゃもじの体(人が手に持つ部分だな)が光りだした。
「イチニーサンショクチョウチューヤ……
ニィニーサンショクチョウチューヤ……
……カァッ!!!!」
激しい光が俺を包む。
俺の顔にまで光がやってきて周りが見えなくなる。
「い、伊予奈!?何が起こって……!?」
「疾兵……あんた何やってるの?独りで悶えて……」
「カァッ!!!!」
再びしゃもじが叫ぶと、光が消えた。
俺は力が一気に抜けた感覚に陥った。いったいなにが……
「ほれ、『いい』。これで貴様の存在は消えたであ~る」
「存在が消えた!?おい、伊予奈、伊予奈!?」
「うるさいわね。叫ばなくても目の前にいるんだから聞こえてるわよ。……存在が消えたってどういう意味なのかしら?」
「ふむ、説明が必要なようであ~るな。……しかしその前に飯だ、飯を食わせてくれ」
どこまでも図々しい奴だ。
仕方なく俺が伊予奈の台所を借りて適当に2~3品の食事とお茶を用意した。
ほうれんそうのお浸しと味噌汁とすでに焚いてあった白米だ。
「ほう、『いい』の見た目的に料理が出来ないと思っていたが、期待以上であ~る」
「うるせぇ早く食え」
「疾兵は料理は上手だもんね!料理は!」
「……なんだよその言い方」
「騒がしいであ~る。いまから吾輩が飯を食うのであ~る」
しゃもじはしっかりと諸手を合わせて、
「……いただきます」
さすがは食の魔人、こういうことはきっちりとするんだな。
しゃもじは箸をとると、手際よく三角食べをやってのけた。
今日日三角食べをやるやつなんて見ないぞ……
「ふむ……なかなか美味であった。『いい』、ごちそう様であ~る」
「いやいや、お粗末様だ」
「『いい』、貴様食が何たるものかを知っているようであ~るな」
「いやいや、それとなくかじっただけだ」
しゃもじは謎の力で俺の存在を消した(本当かどうかは別として)、
そして食を司る魔人と言うだけあって食のマナーは心得ている。
このしゃもじ、実はめっちゃスゲー存在なんじゃないのか……?
「おい、『いい』」
「なんだよ」
「吾輩の名前はしゃもじなどではない。食を司る魔人メ……」
「あーわかったわかった。メッシ。こう呼べばいいんだな。つか人の頭の中の考えを読むな」
「それはそれでいいのであ~る」
「あのー……私置いてけぼりなんだけど」
「おお、お嬢さんそれは失礼を。では存在を消す、その説明をせねばなるまい」
メッシがゆっくりと箸をおくと、くるんと丸まった髭を撫でてから話し始めた。
「『いい』、貴様吾輩の名前は知っておるな?」
「ああ。メッシ・チョウチューヤだろ」
「うむ、正解であ~る。では、吾輩の過去を知っておるか?」
「知るわけがないだろうつい30分前に現れたんだぞ」
「……つまり、そういうことであ~る」
「どういうことだよ」
「『いい』、貴様頭脳がマヌケか?」
「なんだよ。古いネタで馬鹿にするな」
「疾兵!古くなんてないわよッ!」
「こら息を荒げるな、分かったから」
「埒が明かないので続けるであ~る。吾輩の名前は確かにメッシ・チョウチューヤ。しかし『めしいま』の2人は吾輩の生まれや、住所を知らないであ~る。それを『いい』、貴様に当てはめるのであ~る。追っている人間が貴様を見たとする。そいつは貴様のことを『いい』……えっと?」
「飯田疾兵」
「そう、それであ~る。それと認識する。しかしそれがそいつが『いい』のことを追うべき人間『いい』であると認識しないのであ~る」
メッシが口を閉ざす。
俺はぽかんとしたまま伊予奈を見る。伊予奈も同様にぽかんとしていた。
そんなのはお構いなしか、メッシが顔を上げて俺に向かって話し出した。
「さて。貴様からもらった飯はなかなか美味であった。しかし『いい』。貴様には枷が存在するぞ」
「枷?」
「貴様はこれから毎日、何者かから飯を頂かなければ……」
「頂かなければ?」
「コメになるであ~る」
静寂。無音。
「……はぁっ!?」
「だから、米になるのであ~る。ちなみにササニシキだ。光栄に思うであ~る」
「なんだって?おいしゃもじ!」
「とんでもねぇ吾輩は食を司る魔人メッシ……」
「コメになるってどういう意味だ!?」
「その通りの意味であ~る」
「聞いてねぇぞ!?」
「言ってないであ~る。聞かれなければ答えられないであ~る」
「……契約解除だ」
「もう無理であ~る」
「……、……」
「だから毎日飯をおごってもらって、『めしいまっ!』と叫ぶのであ~る。おや、ちょうど貴様ら2人と同じ呼び名であ~るな……クックック」
喉を鳴らして笑うしゃもじ。どこに喉あるんだ……というか笑ったのを初めて見た。
「ねぇメッシ、私が作るのはダメなの?」
「お前の飯は食いたいって思わねぇ」
「あんたねぇ……!!」
「残念だが『いま』、お嬢さんが作ったごはんはノーカンであ~る。吾輩の存在が見えているからの。仕方ないから今日の分はサービスサービスゥしてやるであ~る。しかし明日から、明日からしっかりと飯を奢ってもらうのだぞ」
「……やれやれ」
「……はぁ」
あれから訳も分からないまま10時間が経過した。
家に荷物を取りに帰ったが、確かにマスコミや警察の連中は俺の顔を見ても今朝のように密集はしなかった。
―――――――――――――――――――――――――
「おい、本当に堂々としてていいのか?」
「吾輩の力を疑っておるのか?堂々とした態度で家に入ってみるであ~る」
「あ、ああ」
俺は自宅に入るために緊張するなんてことは思ってもみなかった。
マスコミの1人が俺の家に近づく俺に気づく。
「あっ!少年です!」
「でもあの少年は飯田夫妻と何の関係が?」
「と、とりあえず話を聞いてみましょう」
朝俺に駆け寄ってきたマスコミよりも圧倒的に少ない人数がトコトコと歩いてきた。
「えーと、ちょっといいです?あなたはこの近所に住まれてる飯田夫妻の事についてなにかご存知ですか?」
朝とは全く態度が違う。まるで聞く気がないし、俺のことを飯田家の子だと認識していない。
「いえ、何も知らないです……」
俺がそういうと、マスコミははいそうですかと言ってすごすごと去って行った。
俺はそのまま突き進み、警察やマスコミに絡まれることなく自宅へと戻ることができた。
「ふぅ……堂々と行けるもんなんだな」
「しかし吾輩の契約の効力は時間経過でだんだんと弱まる故、次はこのようにはいかないのであ~る。
この家に来るのは極力避けた方がよいのであ~る」
「そうなのか……」
―――――――――――――――――――――――――
俺が今いるのは今井家の浴場。
幼いころからよく入っていたが、ここに入るのももう5年も前になるのか。
その浴場に俺……とあと1人(なのか?)が入っている。
「どうした『いい』?貴様風呂が嫌いか?」
俺の目の前で風呂桶の中の湯に浸かっている木製しゃもじが俺に向かって話しかける。
「いや、そうじゃねぇ。お前木製しゃもじなのにそんなに水に浸けて大丈夫なのか?」
「だから吾輩はしゃもじではない。これは仮の姿。木製とはいえ防水性抜群であ~る。真の姿なぞ貴様ごときに見せる筋合いはないのであ~る」
「へいへい左様で御座いますか」
答えにならない返答を聞き、俺は適当にあしらう。
するとドアの向こうから怒声が響いた。
「ちょっと!!私も入るんだから早く出てよねっ!」
「あー悪い悪い。もう出るよ」
そう、俺は伊予奈を待たせているのだった。
浴槽から上がりドアを開けると、そこには下着姿の伊予奈が目の前にいた。
下から細い足首、女性特有の少し広い腰、細いウエストからぺったんこの胸、そして真っ赤な伊予奈の顔。
「ばっ、バカ!早すぎるわよっ!!」
手当たり次第俺のパンツやらバスタオルやらを投げつける伊予奈。
俺は慌てて顔に投げつけられたバスタオルを引っ掴みドアを閉める。
「ごめんごめん」
「まったくもう……出る前に一声かけなさいよ」
「すまんな。いやー相変わらず胸ねぇな」
「五月蝿い!」
ドア越しに蹴られる。いてぇ。事実を俺は述べたまでだろう。
俺はさっさと体を拭き、しゃもじの風呂桶を奪い取り外へ出た。
すると伊予奈がバスタオルを体に巻いて立っていた。
「悪かったな。お待たせ」
「全くよ……2階に昔泊まるときに使ってた部屋があるでしょ?そこで寝ていいわよ」
「済まない」
「困った時はお互い様よ。じゃ、私お風呂入るから」
「おう、ほかてら」
俺は階段を上がる。
しゃもじが後ろでふわふわしながら俺についてくる。
「どうしてついてくるんだよ」
「しかたないことであ~る。吾輩は貴様と契を交わした。
つまりそれは貴様と生活を共にせねばならんということであ~る。
まぁ案ずるでない。吾輩はほとんどの人間には姿は見えておらぬ」
「案じてねぇけどな」
飯を食うべき契約、というのはコイツの腹に入るってことなのか……?
俺はやれやれと再度つぶやいて、俺が昔伊予奈の家に泊まるときによく寝ていた部屋へと入った。
もうこの部屋を使わなくなって5年経つのか……昔はよく2人でここから見える空を見にやってきてそのまま寝たもんだ。
ベッドは相変わらず綺麗で、シーツも敷きなおされていた。だが俺はそんなことにも気づかずに、ベッドへとダイブ、深い眠りに落ちた。
こうして、俺と伊予奈と変なしゃもじの奇妙な合同生活が始まった。