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9/11

その八 「検閲演習」

 「総員着剣! 突撃よーい!……」

 

 「……突撃ぃーーっ!」

 

 今日もまた、班長の号令が演習場にこだまする。

 

 ウワアァァァァァァーーーーーーーーっ!


 号令一下、吶喊の声を上げ、ぼくらはかりそめの目標へと向って銃剣を向け、なだらかな丘陵を、解き放たれた猟犬のように駆け上る。

 実戦ならば、その先に待ち構える敵の形をした死に抗うかのようにぼくらは叫び、地を這い回る。ここ数日の間、演習場の過半を占める広大な丘陵を、ぼくらはカーク‐ダグラス主演の戦争映画のように完全装備で駆け回っていた。


 その目的など、溜まりに溜まった疲労に犯された身体にはどうでも良かった。もう一日、さらに一日を過ごせばこの忌々しい訓練期間の修了日が手に届く範囲までに近付くのだ。実際、訓練期間の三分の二以上を消化したぼくらに課せられているのは、より高度で、実戦的な戦闘訓練ばかりになっていた。


 ここに来て、ぼくは本当に良かったのか……?


 息を弾ませて傾斜角四五度の丘陵を踏破し、有刺鉄線の網を匍匐前進で潜り抜けながらぼくは考える。弾の装填されていない、先っぽに剣の着いていることを除けば単なる鉄の棒も同然の小銃。しかもそれは部品が脱落しないように各所をテーピングされている。それでも、実戦ではその「大元帥陛下より賜った六四式小銃殿」に二つとない命を託さねばならないのだ。それもまた、世界の戦史に燦然とその名を轟かす大日本帝國陸軍の偽らざる真の姿の一つである。


 ……その一員となって、ぼくは本当に良かったのか?


 苦悶と緊張に満ちた匍匐前進の末、遂に網を潜り終えたとき、後方に人の気配を感じ、ぼくは振り返った。未だ網を潜りきれず、絡みついた有刺鉄線を振りほどこうともがく一人の兵士――――ハカセだった。

 意を決するまでもなかった。ぼくはもと来た網の下に潜ると。ハカセの側に近付いた。


 「鳴沢?」


 「何も言うな」


 ハカセの自由を奪っている有刺鉄線を振り払い。掴み上げてハカセを先に行かせる。彼が無事に網を潜り終えるのを見届け、ぼくは再び有刺鉄線から抜け出した。そのすぐ側では、番長とヒッピー君が同じく有刺鉄線から抜け切れないトッポ君を引きずり上げていた。

あとは駆け上るだけだ!


 銃剣を連ね、ぼくらは進む……勝利の頂へと。一人一人の動きではない、ぼくらは確かに、あの頂を、共に制するために団結していた。


 頂へと足を踏み入れた瞬間、ぼくらは戯れるように地面へと転げ込んだ。


 嗅覚に土の匂い、草の匂いを感じながら、ぼくらはどっと押し寄せてきた開放感に、そして心地良い疲労感を堪能した。無造作に放った小銃が丘陵の自然の中に無機的な山を形作っていた。


 ぼくらを追及するジープのエンジン音が、次第に近づいてきた。ぼくらは慌てて銃を執り、ジープを迎えるように並んだ。ジープを止めると、班長は無言のままジープから降り、ぼくらの前に立った。例の如く、表情一つ変えないまま、無感動な視線でぼくらを一巡すると、言った。

 

 「お前たち、よくやった」


 ぼくらは耳を疑った。あの班長が、ぼくらを褒めた……? そう、確かに褒めたのだ……!


 この瞬間、ぼくは思った。皆も思ったはずだ。


 この面々の一員となって、本当に良かった……! と。


 訓練期間は、終りに近付いていた。


 しかし、訓練期間所定の三ヶ月がそろそろ過ぎ去ろうかというときが、実は最も初年兵が緊張する頃なのだ。何故なら、訓練期間中の総仕上げとでも言うべき二つの重要な「儀式」が身近に近付いて来ているからだ。


 検閲演習と、行軍訓練がそれである。言い換えれば、これら二つの関門を無事突破できればあとは栄光の修了式が待っているというわけだ。


 検閲とは、教育や年度の終りに兵士の訓練成果を確認する意味で行われる。

これは基本教練、武器訓練、戦闘訓練の三つに分かれ、検閲官がそうした一連の動作を採点するのだ。しかもこれは班全体のみならず、個人の挙動までもが採点対象となっている。ここで点数を稼いでおけば進級する上で有利になったり、希望の部署に就ける可能性もまた高くなるのだ。


 だが……その実相は、


 「コラーっ! てめーチンタラやってんじゃねえ!」


 練兵場に班長の怒声が響き渡り、ヘマをやった兵士の後頭部に平手が飛ぶ。


 一定の間隔を保ち、それも非現実的な歩き方で行進するのは至難の業だ。テレビのニュースでたまにソ連軍の一糸乱れぬ行進にお目にかかることがあるが、傍目ではいかに格好よく見えてもその実際は非常に厳しい運動と訓練の末に成り立っている。


 行進は、曲がるのが難しい。特に曲がる内側の人間は、外側の人間が回り終えるまで歩調を合わせる必要がある。それがなかなかできなくて、また班長の雷が落ちる。


 「貴様らそれでも兵隊か! お嬢様学校の生徒のほうがもっと上手く行進するぞ!」


 班長の怒声には、一種の必死さも含まれていた。それもそのはず、この検閲訓練の結果は、班長自身の評定にも影響するからだ。自分が教育を担当した初年兵が検閲官の前でヘマをすれば、班長自身も点数を下げることになる。「初年兵がミスをするのは、お前の教育がなってないからだ」というわけだ。だから、自然とシゴキにも熱が入る。


 同じような事情で、特に第一線部隊の場合上等兵と兵長とでは大きく評価が分かれる場合がある。上等兵は兵隊の仲間内では神様扱いだが、その上の兵長はそれ程おいしい位置ではない。何故なら、兵長は自分より下位の兵士を直接監督、指導する立場にあるわけで、もし部隊の兵士がヘマをやろうものなら上級の下士官から、


 「お前の監督がなってないからだ」と真っ先にハッパをかけられることになる。だから多くの兵士にとって、兵長への昇進は実はあまり嬉しくない。


 ぼくらの隣の班では、ヘマをやった初年兵に班長がなにやら叫びながら蹴りをいれていた。さらに隣の班では、班全員が何かポカをやったらしく、一斉に腕立て伏せをやらされている。

 動作と同様、検閲当日までにやかましく指導されるのが服装だ。当日に備え、徹底的に洗濯され汚れを落された作業服にはしっかりと糊付けし、靴はそれこそ顔が映るくらいになるまでピカピカに磨くことを命令される。兵士の動作とともに、見栄えの良さも検閲官には重視されるのだ。


 検閲訓練当日には、ぼくらが日頃めったに(ひょっとすれば、除隊するまでまったく)お目にかかれないものを眼にすることができた。


 基地の敷地内に、衛兵の捧げ筒を受けて続々と入ってくる車……軍用ナンバーに、一つも二つも金ぴかの星をくっつけた黒塗りのクラウン……と言えば、我等が帝國陸軍では将官専用の公用車を意味する。


 徴兵で集められたぼくらに、軍人意識を高めてもらいたいのか、それとも単なる公務の一環なのかは知らないが、この日は帝國陸軍西部軍管区司令官をはじめ、大将から少将まで十名くらいの将官がこの基地を訪れた。

 濃いカーキ色の、開襟の上衣に同色のシャツとネクタイ。上腕部に付けられた所属部隊と兵科を示すワッペン……戦争映画やドラマでよく見るあのいかめしい、詰襟状の軍服が廃止され、アメリカ式に倣った現在の軍服が採用されてすでに二十年以上が経過していた。

 当然、軍刀なんて今時吊っている人などいない。それどころか非常時を除き憲兵以外の将兵が武装して街中に出ることなど法律で禁止されている世の中である。戦前戦中のように、兵士が短刀を携帯することも、もうない。


 野外に設営された天幕に居並ぶ彼らの中には、軍人としてかの大東亜戦争を経験した人もいるだろう。彼らの目に、彼らの言う「今時の若者」が扮した「帝國陸軍兵士」はどのように映っているのだろうか?


 からりと晴れた青空の下、練兵場で、ぼくらはこの日のためにアイロンで新品同様に伸ばしたての服に身を包み、連隊長の訓示に顔を上げて一心に聞き入っている……フリをしていた。

 この一日だけ、彼らが帰るまでぼくらは彼らが望む兵士像を―――たとえそれが如何に非現実的で、理想的に過ぎるものであっても―――演じきればいいのだった。士官からその軍人人生をスタートさせた彼らの多くは実のところ、ぼくら兵士を取り巻く帝國陸軍の「実相」を知らない。否、知っていても知らない振りをしているだけなのかもしれない。


 ぼくらの前に立つ班長もまた、ぼくらと同じく戦闘装備に身を包んでいる。

 その胸には、その過酷さで知られるレンジャー訓練を潜り抜けてきた証である月桂樹とダイヤモンドの徽章――――これまでぼくらを散々シゴキ上げ、苛め抜いてきた伍長が、帝國陸軍の誇る精鋭であることを、ぼくらは今更ながら知らされたのだった。


 次々と下される班長の号令に、ぼくらは完璧な反応を示した。

 午前中に繰り広げられた散開……構え……駆け足……そして午後の部の突撃演習……検閲訓練は瞬く間に過ぎ去り、気付いた頃には主席検閲官の講評を元いた練兵場で聞いていた。


 「今日の演習はなかなかよかった。問題なし……!」


 たとえ問題があったとしても、問題有りとはここでは口に出すはずもない。ぼくらは人形のように、ただ検閲官の講評に聞き入るだけだ。

 日頃は晩飯の場で訓練や営内生活上の注意をくどくどと言っていた班長は、この日に限って何故か無言だった。薄気味悪いまでの不安を、ぼくらは麦飯とともにかきこんだのだった。無言のまま、ひたすらメシを食う班長の様子に、ぼくらは何も言えなかった。



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