その七 「哀しき内情」
「民主化」の御時世、帝國陸海空軍にとってPR――――いわば広報――――は欠かせない要素となっていた。
少なくとも、戦前までは軍隊は人間を比較的簡単に集めることができた。
「教育勅語」に代表される愛国主義教育が幅を利かせていた時代ではあったし、何よりもまず、人々の間に軍籍に入りお国のために働くことを誇りとする風潮が大勢だったからだ。それに、この時代は本当に貧しく、才幹と体力がありながらも、コネもツテもない若者は軍隊に入るしか生きる途はなかった。
「兵の多くは農家の次男三男坊にして、住むに家なく食うに職なく、家長の邪魔者であり、来る嫁もなく、故郷を追ん出る流れ者をもって適するものなり」
という一説が、精強なる帝國陸軍の兵下士官の出自を的確に現しているように思う……勿論その全てがそうだとは言わないが。
―――変化の端緒は日華事変とその後に続く大東亜戦争だった。
日本を取り巻く二つの戦いは同時期に日本の勝利の内に終息したが、その戦いで徴兵され、無事に復員を果たした人々が、前線の戦いの如何に過酷なこと、自分が属した軍の如何に理不尽なことを、巷におおっぴらに語りだしたのだ。さらに、徴用と称して軍需工場での労働や勤労奉仕など、いわゆる「銃後」で戦争に協力していた市井の人々の間で、一種の権利意識が芽生えていたことも変化に拍車を掛けた。
つまり、「俺たちはお国にこれだけ尽くしたのだから国も俺たちに真実を教えるべきだ」というわけだ。それは国民として正しい反応だったが、薄氷を踏む思いの勝利だったことなど三歩歩いた鶏の如くすぐ忘れ、大東亜戦の勝利に奢っていた軍部は、そうした国民の意識変化に気付かなかった。
直接の原因は朝鮮戦争だった。
朝鮮戦争で日本はアメリカを初めとする自由主義陣営の一翼として南朝鮮側を支援すべく大軍を派遣し、南侵してくる共産軍と激闘を繰り広げた。そのとき撮影された前線の悲惨な光景を写した写真が、外国の通信社を通じて全世界に配信されたのだ。
当時の日本では間違いなく検閲の手が加わって掲載できない写真が、日本に持ち込まれた海外の新聞や雑誌を通じて前線の実情を知らない多くの人々に知られるのに、さほど時間はかからなかった。
さらに、戦後急速に普及した8mmカメラの映像で撮影された過酷な戦闘の光景が、ポルノ専門の映画館やストリップ劇場で上映されては(一般の映画館では検閲が入るため、ヤミで上映された)、取り締ま
る側の官憲と観客の間でもみ合いになるといった事例が日常茶飯事となっていた。
後に起こったのは、国民の深刻な軍隊不信だった。軍人の子供が学校で苛めの対象になったり、国会や陸海軍の庁舎を連日反戦デモ隊が取り囲んだ。学生が衆人環視の下で、郵送された赤紙を焼き捨てるといったデモンストレーションが新聞やテレビを賑わせたのもこの頃だ。この光景はちょうど、後のベトナム戦争末期にアメリカで起こった若者たちの反戦運動を想起させるものがあった。徴兵忌避で逮捕された者はこの年五千名に達した。
海外の報道を比較に出されてこれ以上軍の提灯持ち記事を掲載できなくなった一般の新聞社ももはや軍部を擁護することも無く、これまでの鬱憤を晴らすかのように(手のひらを返すかのように?)容赦ない軍部批判記事を掲載した。こうした反戦運動は結果論として朝鮮戦争の推移になんら影響を与えることがなかったが、軍に少なからぬ衝撃を与えるのに十分だった。
さらに決定的だったのは、一九六二年に起こった「キューバ危機」だった。
アメリカ政府内の対ソ強硬派の動きに刺激され、軍部は議会の承認なしに動いた。具体的に言えば「演習」と称してソ連牽制のために(「挑発」と言う人もいる)、日本海と東シナ海海上に海軍の空母機動部隊が展開し、空軍は海軍と似たり寄ったりの口実をつけて核爆弾搭載の爆撃機を沖縄、択捉の基地に展開させた。
かのフルシチョフが核引き上げを宣言する直前、空軍参謀本部に至っては本土と沖縄、台湾、南朝鮮に展開する戦術航空団でソ連のウラジオストック、そして中国、北朝鮮への一斉攻撃を下命する寸前まで行ったという。
軍部の意図はこうだ……如何に日本の周辺が危機に溢れているか。日本を守る者は何者であるか。「愚昧な」国民に思い知らせ。軍部の権威を復権させる……! その結果「第三次世界大戦」が未発に終わろうとそうでなかろうと、我々には何の関係も無い……! この時点で、軍部は戦前の栄光を取り戻せるという希望を未だ捨ててはいなかった。だが……
「キューバ危機」のときのことは、当時小学生だったぼくも覚えている。
俗に言う「緊迫の十三日間」の間。休み時間や放課後の学級会の時間に、学校はぼくらによく避難訓練をやらせた。火事ではなく、敵の空襲に備えた避難訓練である。
具体的に言えば、先生の号令一下、机の下に潜り、家庭科の時間に作った「防火頭巾」を被って列を作って外に出る。大抵の場合、校庭に集まった校長先生の訓示の後にそのまま下校となった。
戦争に備えた避難訓練……本来なら笑えない展開なのに、それでも皆の顔は何かピクニックでも楽しむように笑っていた。先生も、別段それを咎め立てもしなかった。
どうやら戦争が始まりそうだ。というのは学校の皆が知っていた。
でも、何か他人事のように皆には思えたのだった。商店街も普通に開いているし。その三年前に日本初の有人宇宙飛行が行われたときのようにテレビも特番を組む様子も無い。戦争になったら絶対に起こると言われていた物資の買い溜めも、物価の高騰も起こらなかったし、ぼくらの親も戦中の話でよく出てきたように庭に防空壕を掘るとか、電灯に覆いをかけるとか、戦争の準備などしなかった。
買い溜めするほどのモノが溢れているのに、どうして戦争をする必要がある?……危機、危機と騒ぎ立てる新聞は、戦中のように嘘をついているだけさ……戦前戦中の生活を知っている年配のおじさんおばさんたちは、テレビで口角泡を飛ばして戦争の危機を煽る軍人達をそう言って笑っていた。今考えれば、非日常の中で、あくまで日常を貫き通せるだけの性根を、日本人の多くが戦争体験から培っていたのだ。
結局……軍部の思惑は外れた。日本の危機云々というよりも高度成長に浮かれ、戦争の発生でこれまで築き上げてきた豊かな生活が崩壊することを皆は歓迎するはずが無かったのだ。戦争をして他国の領土や賠償金を分捕らなくとも国を富ませ、いい暮らしができるということを、ここ十数年の内に皆が知ってしまっていたのは、軍部にとって大きな誤算だった。
革新派、保守派を問わず危機を「演出した」軍部に対する非難は一層強まり、当然、議会を無視した、事後承認を要求するが如き作戦行動もまた問題となった。時の統合作戦本部長 辻正信陸軍大将を初め二十三名の将官が職を解かれ、五二名の上級指揮官が退役または予備役に追い込まれた。結果として軍の信用はこれ以下まで行かないほど失墜した。
このような国民意識の変化は軍部、特に陸軍に大きな影響を与えた。具体的に言えば、親米色を強め、日本国内の「民主化」の浸透をある程度容認しつつ失墜した国民の信頼回復を図りながら以前の発言力を回復しようとする勢力と、戦前戦中のような統制色を強め、戦後「民主化」体制を打破し、自由主義陣営からの離脱と「旧き良き日本」の復興を成し遂げようとする勢力に陸軍上層部の勢力配置は二極分化したのである―――ちょうど戦前の統制派と皇道派の勢力争いのように―――そしてこの状況は現在でも続いている。
朝鮮戦争時の反戦活動や、「キューバ危機」時の策動とはまた別の形でも、国民の軍隊離れが加速する要因が生まれていた。戦後の高度成長と欧米文化の急速な流入がそれである。
戦前、台湾や朝鮮、満州などの植民地経営に大して実りの少ないながらも少なからぬ投資が行われていた一方で、東北地方のように日本の他地域と比して資本投下が行われず、発展から取り残された地方の悲惨な状況が2.26事件など数々の政情不安を引き起こしたことは有名な話である。
戦争末期の和平交渉により、日本はそれらの植民地全てを手放した結果、行き場を失った資本が「均衡ある国土発展」の名の下、一気に東北地方を初めとする地方部に流入し、各地が公共事業等から来る好景気に沸いた。
好景気、ということは簡単にいえば「農家の次男三男」でも食うに困らぬ程度、否、それ以上の仕事にありつくことができるということだ。それが人材の多くをそうした人々に負っていた軍隊には衝撃だった。要するに、これまで何もしなくても集まっていた人間が集まらなくなったのだ……かといって、戦前戦中のように強権を発動してムリに集めることなど、この平和な世の中ではまず無理な相談だった。徴兵でも様々な決まりごとがあって数を揃えることが難しい上に、揃ったとしてもそいつにやる気がなければまた元の木阿弥だし、やる気がない者ばかり揃えていたのでは、これからの現代戦には到底対応できない。
欧米文化の流入もまた問題だった。
明治期より欧米を手本にして整備されてきた軍隊はもともと、地方出の若者が始めて欧米文化に触れる数少ない場の一つであり、それが若者に軍隊への魅力を与えていたが、戦後の「民主化」と同様都市部から地方に至る急速な欧米の最新文化の流入は、忽ちそうした「軍隊文化」を陳腐化させた。
今風に言えば軍隊に行くなんて「イモい」「ダサい」というわけだ。都市部はもとより地方の若者にまでそう言われてはもはや立つ瀬などなかった。一九五二年を境に、陸海空軍の志願枠の志願状況は未だに定数割れが続いている。手を拱いている暇など、なかった。
一九五六年に至って、国防予算の中にこれまであって無きに等しかった広報枠が飛躍的に拡充され、軍は若者の勧誘に本腰を入れ始めた。
帝國陸海空軍地方連絡本部(略して『地連』という)が各地に作られ、そこに配属された古参兵が民間企業で営業研修を受け、中学高校の卒業式間近に行われる就職説明会に顔を出すのは今では毎年恒例のこととなっているが、それはこの頃から本格化している。大学によっては就職シーズンが到来すると必ずキャンパスの一角に「出張所」と銘打たれた軍の志願窓口(どことは具体的に言わないが体育会系、神道系の大学には必ずある)が作られ、笑顔も眩しい軍の広報官のオジサン(またはオネエさん)がめったに来ない学生を待ち構えていることを知っている人もいるだろう。これも、五十年代後半から始まっている。さらに言えば、怪獣映画に頻繁に登場する戦車やヘリコプターの映像もまた、軍のPR活動の一環だ。
「民主化」に伴う男女平等の流れからか、男だけでなく女性にもその範囲は拡がった。一九五八年に帝國空軍初の女性戦闘機パイロットが誕生したとき、軍は某新聞社に一面ぶち抜きで大々的にこれを報道させたものだ。こと日本において女性の軍隊進出の勢いは凄まじく、ぼくが現役兵として最初の職場に配属されたころには、すでに女性の参謀本部勤務の参謀までいた。
――――前置きが長くなったが、以下に語る体験も、ぼくら徴兵で入営した者もまた、軍の広報戦略(?)の一環に関わっていることを自覚させられる印象深い体験だった。
その日の昼食は、普段考えられないほど豪勢だった。
「ウワーーーー、カレーだ」
カレーなんて、ここ二ヶ月以上食べたことがなかった。日々単調で、不味い食事に甘んじていたぼくらの胃が、いじらしいまでの唸り声を上げて反応する。カレーに感動するのは子供の頃までと決めていたぼくには、嬉しい一方で情けない気持ちに襲われたのも確かだった。
カレーを一年に一度しか食べられないような貧乏人の子供ように、カレーにがっつく兵士を、班長は怒鳴りつけた。
「コラッ! もっとゆっくり食え」
班長の言葉に、皆は耳を疑った。班長の物言いは不自然だった。軍隊とは早メシが当然だとは、当の班長の言い分ではなかったのか?
「貴様ら、おれより早く食い終わったら、殺すぞ」
これでは、気が気でない。豪快にかき込みたいのを我慢して、ぼくらは当たり障りのない福神漬けを齧ったり、わずかにルーを掬って口に入れるしかなかった。この日、班長はやけにソワソワしていた。まるで、何かを待ってわざと食事を遅らせているような……。
その疑問は、すぐに氷解した。
「失礼しマース」
首からカメラを提げた女性兵がいきなり営内に入って来たのだ。班長はおもむろに立ち上がると、背後から二人の兵士の肩に両腕をまわし、腰を屈めた。
「オイお前ら、笑え」
「は……?」
「笑えっつってんだよ」
意味が飲み込めず、言われたとおりに二人が作り笑いを浮かべたところを見計らって、女性兵は三人に向ってシャッターボタンを押した。班長も白い歯を見せ、笑っていた……その目は笑っていなかったが。この瞬間、ぼくは意味を察知した。そうか……広報写真の材料に使うつもりなのか。
最初に基地の門を潜って身体検査を受けた帰り際に貰ったパンフレットを、ぼくは思い出していた。きっとさっき撮った写真も、「和気藹々とした営内生活」とか、「親切な班長と配慮の行き届いた食事」とか題名を付けられてパンフレットに載るのだろう。そして、何も知らない奴がパンフレットに目を通し、騙されて(?)軍に志願する……というわけだ。
女性兵が一礼して部屋を出ると、班長は言った。いつもの、無表情な鬼班長の顔に戻っていた。
「全員、十分以内に食え 遅れは許さん!」
班長のにやけ顔を見たのは、後にも先にもこれだけである。
さらにその日の晩、夜間の内務教育の時間。班長は全員に切手と便箋を配った。
「お前たち、今から実家でも友人でも誰でもいい、手紙を書け」
手紙……?
きょとんとしたぼくらを前に班長はさらに言った。
「お前たちの親類友人の中には、軍に志願する適齢期に達した者もいるだろう。そういう縁者に、営内生活の楽しさ、帝國陸軍の素晴らしさを宣伝するのもお前たちの勤めである」
「班長、自分には軍隊生活の素晴らしさとはどういうものか全く分からないであります」などと言おうものなら罰直を喰らうことぐらい目に見えている……それにしても、無理に入営させておいて他の人間も引っ張って来いとは、まるでヘンな宗教だ。
ぼくは質問した。帝國陸軍の表と裏を知り尽くした班長には、結構意地悪な質問かもしれない。
「班長、班長が考える楽しい営内生活とはどのようなものでありましょうか? 自分は手紙の参考にしたくありますが」
その途端、班長の表情が固まった。恐らく、班長が入営したての当時、彼の教育班長や先輩に難癖を付けられたときこういう表情をしていたに違いない。彼の表情が、彼なりの困惑を表したものであることは確かだった。
「それはだな……」
注目するぼくらそっちのけで、班長は腕を組んで黙り込んだ。重苦しい沈黙の中、しばらく無言で考えて、班長は言った。
「まあ何だ……そんなに難しく考えるな。とにかく何か書けばいいんだ。わかったな」
そのまま、そそくさと部屋を出て行く班長の後姿を、ぼくらは眼を凝らして見送った。
「おいどうするよ?」
声を上げたのは番長だ。
「事実をそのまま書いたら、ぜってぇ殴られるだろ。何書けってんだよ」
「とにかく……あること無いこと書けばいいんじゃないか?」
「そんなのありかよ。まるでソ連の収容所じゃねえかよ」
ともかくも、皆は書き始めた。
「醇ちゃん。読んでみ」
と、となりのヒッピー君がぼくに手紙を見せてくれた。
陸軍は楽しいところだ
軍内の戦友はとても明るく
はつらつとした班長の下で元気にやっている
じぶんだけのためではなく
ごく身近にいる戦友のために
くるしくとも尽くすことの大切さに
だんだん気付いている自分がいる
「…………?」
「横、よこ」
言われたとおり横から読んで、ぼくは口元を綻ばせる。
陸 軍 は じ ご く だ……確かに、その通り。
「―――アケミへ
手紙をこうして書けているという事は、ぼくは日々を無事に生きているという事だ。
よろこんでほしい。
ぼくらの訓練期間も間もなく終わる。幸い、ぼくはいい仲間に恵まれた。だから無事にここを出られそうだ。ここには大学と同じくらい、いい仲間がたくさんいる。同じ場所で飯を食って、同じ場所で寝起きし、同じ場所で走り、同じ場所で銃を撃ち、同じ場所で苦労に耐える仲間……彼らの背景は様々だ。そういう意味では、ここはおもしろいところだ。後楽園球場四つ分ほどの広さの空間に、社会の様々な面が詰め込まれている。「国防」という、たった一つの目的のために社会の様々な職業、立場の人々が、そして様々な考え方を持つ人々が集められ、一見何の意味もないように見える訓練に耐えているのだ。
果たして再び会うとき君にはぼくはどのような姿に映るだろうか。それが帝國陸軍軍人としての第一歩を踏み出しつつあるぼくには気がかりではある。
また会うときまで
PS・愛している。何処にいても、何時までも」
……少なくとも、ぼくは「事実」を書いた。
手紙を提出した翌日、班長は朝の点呼の後ぼくらを内務班に集めた。その手には数枚の手紙が握られていた。内一通を開くと、班長はおもむろにそれを読み始めた。
「『……メシはもっとゆっくり、それも美味いものを食いたいと思う。班長はあんまり時間をくれない。朝ゆっくりとクソをする時間もない。軍隊ははっきり言ってセセコマシクて困る』……貴様、何だこれは?」
と指されたのはトッポ君だった。
「いんやぁ……もうちょっと、ゆったりとしてえなあ……と思いまして」
「てめえバカか! 誰がそんなこと書けと言った? ここは保養所じゃねえぞ!」
トッポ君にその場で腕立て伏せを命じると、班長はもう一通を開いた。
「『……軍隊の生活は快適だ。特にウチの班長には結構世話になっている。除隊したら是非とも「お返し」をしたいと思う……』……」
班長は、番長の名を呼んだ。
「オイ貴様。これはどういう意味だ?」
「い、意味と申されましても……呼んで字の如くってやつでありまして……」
「ほー、呼んで字の如く、俺にお返しをしてくれるってのか? この場でよければ何をしてくれるのか詳しく教えてくれんか?」
「いや……こういうことは後々のお楽しみにとって置くべきかと小官は愚考するものであります」
「ようし、貴様が俺に何をしたいかピシャリと当ててやろうか。なあ……」
猫撫で声の直後、不意に鳩尾に飛んできた拳の一撃に、番長は抗しきれず苦痛に顔を歪ませてしゃがみこんだ。
「……てめえ、俺を甘く見るんじゃねえぞ」
番長にも腕立て伏せを命じて、班長は初年兵達の列に向き直った。
「貴様ら、貴様らの手紙はかろうじて合格だ。あまりふざけたマネはしないほうが身の為だぞ。もうじきてめえらが配属される第一線の部隊はこんなもんじゃ済まねえからな……わかったか!」
「…………」
「返事はぁ……!?」
「わかりました!」
「声が小せえっ!」
「わかりましたぁ!」
冷たい目でぼくらを一巡したところで、班長は意外なことを言った。
「鳴沢は俺に付いて来い。他は課業の準備」
班長は、ぼくに顎をしゃくった。「ついて来い」の合図だ。
ぼくが連れて行かれたのは、内務班の向かい側にある中隊本部の入っている建物の一室だった。戦前からある内務班の営舎を改修したこの建物は、これが司令部とは思えないほど暗く、微かに黴臭い。
光の届かない、薄暗い廊下を二三回ほど曲がったところに、目指すその部屋はあった。
「先任下士官室」
その部屋の前でぼくと班長は止まった。ノックの後、
「徳山伍長。御指名により、鳴沢三等兵を連れてまいりました」
「入れ」
年をとってはいたが、質感のしっかりとした声だった。ドアを開けた班長が、ぼくに入るよう促した。
「鳴沢三等兵、入ります!」
部屋に一歩を踏み入れた先には、一人の下士官が陣取っていた。その階級は曹長。重厚な机の上で、彼はなにやら分厚い書類に目を通していた。
「鳴沢三等兵、掛けろ」
曹長は、ぼくに椅子を勧めた。煉瓦のように赤黒い肌。目じりと口元に刻まれた皺。短く切りそろえられ、白いものの混じった頭髪をしていたが、その身体つきは未だ壮健そのものを保っているように見えた。
「君の個人記録には、全て目を通させてもらった」
自ずと、背が伸びた。言葉の端々に、何か相手に対し緊張を強いる要素が含まれているのを感じたのだ。
「君……いい大学に行っているね。専攻は……機械工学か。大したもんだ」
書類から目を上げた曹長と、ぼくの眼が合った。
「何か言いたいことは?」
「あのう……自分がここに呼ばれた理由は何なのでありましょうか?」
曹長は、息を吐き出すようにした。そして言った。
「それは他でもない。我が帝國陸軍は優秀な人材を求めている。特に、これからの戦争に対応できる優秀な中級指揮官が必要だ。君のこれまでの経歴、続柄ともに申し分ないし、これまでの訓練期間中の成績も悪くない……否、優秀だ。そこで本題だが、下士官候補に志願する気はないか?」
下士官候補……?
下士官候補に選ばれると、第一選抜で下士官まで進級でき、その後の待遇も優遇されるが、そのぶん長期にわたって軍に留まることを余儀なくされる。ましてやそのさらに上の幹部候補生になればなおさらのことだ。もともと軍隊に腰を落ち着ける気などさらさらなかったぼくは二つ返事で断った。
「君、下士官候補になれば奨学金も付くんだよ。それに今じゃあ大学なんて軍隊に居ながらでも通えるじゃないか」
軍が卒業後の勤務を条件に、将来有望な学生に奨学金を支給するという制度は、戦後アメリカ軍の制度を参考に取り入れられたらしい……というのは、大東亜戦争時に、アメリカは日本よりもいち早く学徒動員に似たことを行い、その制度の下促成で大量要請された士官が前線で大活躍したことに触発されたのだ。日本の学徒動員と違うのは、日本のそれが全くの「無償奉仕」に近いものであったのに対し、アメリカのそれは学費の免除や卒業、退役後の就職支援などきちんとリターンを用意していたことだ。口では愛国心とか忠誠とか唱えても、やはり対価がないと人は動かないし集まらないという当然のことに日本の軍部が気付いたのは、朝鮮戦争後のことだった。
「いや、自分はお金に困ってないし……」
「幹部候補上がりでも将軍になれる時代だから、考える価値はあると思うがね」
「自分には、興味はないであります」
軍曹は、大して伸びていない頭髪を掻き毟った、恐らく、彼が困惑したときにする動作がそれであろう。
「……君は、後どれくらい軍にいる予定なのかな?」
「ええっと……二年一〇ヶ月ほど、でありますが」
「じゃあ、考える時間はあるね」
え……? 断ったじゃん。
「今日はそういう話がある。ということだけにしておく……行ってよし」
部屋を出て内務班へ戻る道すがら、班長は言った。
「下士候の話、受けるつもりはないのか?」
ぼくは頷いた。
「これだけは言えるが、貴様らは俺が入隊したときよりずっと恵まれておる。考え直した方がいい」
「志願兵ならともかく……自分は徴兵でここに来ました。こんな勧誘、フェアじゃありません」
「俺もかつては徴兵でここに来た」
「…………!」
頭を上げたぼくと、班長の眼が合った。
「俺は農家の三男坊だ。家は貧しくてな、学校も中学までしか行かせてもらえなかった。中学を出て……集団就職で街に出るには出たが、就いた仕事どれもが長くは続かなかった……それでしばらく野良猫のような生活をしていたときに、召集令状が来た」
「…………」
「入営して最初の頃は、俺も陸軍が嫌だった。できるものなら、さっさと抜け出したいと思った。だが、三年が過ぎ、陸軍を自分の意思で出られるようになったとき、最初の頃とは全く違う自分がいた。陸軍には……娑婆にはない規律がある。心を許せる戦友が居る。今思えば、あの召集令状は、どん底にいた俺に神様が差し伸べてくれた救いの手だったと俺は信じている」
聞いているうちに、伏し目がちになっているぼくが、そこにいた。
「……そうか、貴様のような大学生の間じゃ、ホット‐ペッパーとかいうんだったな」
「はい……」
「その言い種はな、陸軍を最後の希望と恃む者に対する許し難い侮辱だ……!」
何も言えないぼくに、班長は続けた。
「俺が言いたいことは、世間には俺のように陸軍に来て良かったと思う者、陸軍しか行く処がない者もいる、ということだ……少なくとも、貴様にはそれを知っておいてほしい」
「班長……何故、自分なんですか?」
班長の口元が、僅かに綻ぶのを、ぼくは見た。
「さあな……俺にもわからん。ただ、貴様だけには話しておくべきだと思っただけだ」
「班長……」
「課業開始まであと僅かしかないぞ。鳴沢三等兵、駆け足で帰隊せよ。急げ……!」
ここに来て……良かった?
……それはどういう意味だろう。駆け足で隊に戻る中で、ぼくは自分でも知らないうちにずっとそのことを脳裏で反芻していた。
班長のように、新たな新天地としての軍隊を見出す者もいれば、大東亜戦後の高度成長から取り残され、仕方なく勉学と栄達の場として軍隊を選ぶ者もいる。衣食住の心配をしなくともよく、勉強するのにカネがかからないどころか給料をくれる、というのは、能力がありながら自分の家計の事情でそれを満たせない者にとっては大きな魅力となるわけで、自然、同じような境遇の人間が集まり、団結心と目的意識がそこに形成されることになる。
それは一方で自分たちの組織に属さない、もしくは属す意思がない他者への反感に繋がる。自分たちは生まれたときからこれほど苦労し、軍隊という束縛の多い組織でどうにか生きているのに、その一方で生まれたときから不自由を知らず、親の金で遊び暮らし、大学まで行かせてもらえる同年代の者がいる。というのは確かにカチンと来るものだ。
それが、徴兵なり志願なりで軍に入ってきた大学生や大卒の人間に対する強い風当たりとなって表面化する。また、そうした軍人にひときわ辛いシゴキを受けた側も、一層軍隊への反感を募らせていく。というわけだ。前述したように、ぼくが入営する前の年、親切な体育教官が「むやみに学歴の話をするな」と忠告してくれたのは、大東亜戦中の学徒動員の頃から徴兵制の続いている現代に至るまで、この種の「階層間の対立」というのが結構尾を曳いているという哀しい現実を表しているわけなのだ。