その六 「娑婆には出たけれど……」
―――その日は、朝から透き通るような青空が広がっていた。
早朝の点呼のため整列する初年兵たちの動作は、日を追ってきびきびとした、メリハリのあるものに変わっていた。最初の頃は頻繁に聞こえてきた初年兵を叱咤する各班の班長の怒声も、もはやめったに出なくなっていた。
「あ、飛行機だ」
「海軍かな、それとも空軍機?」
班長たちの会話を聞き流しながら、ぼくらはまっすぐに前に立つ週番士官の方へ向き直っていた。
週番上等兵の声が響き渡る。
「点呼用ぉーー意!」
第一班の号令が、舎前営庭にこだまし始めたその直後――――。
ボンッ……!
何だ?
その場の全員の視線が集中したのは、空のかなただ。
青い空の中、真一文字に引かれた飛行機雲の先に、一機の戦闘機の機影が見えた。その様子に全員が目を剥いた。その戦闘機はエンジン部分から発火していたのである。
バランスを崩したように、黒煙交じりの飛行機雲が微妙に曲がっていく。そのうち何かが発火し、機影から操縦士らしき人影が二つ飛び出すのが見えた。瞬時にして開かれた白い落下傘が力なく漂い、町の向こう側に流れていく。
……それから一時間後、急な報告が基地にもたらされた。
『演習のため、帝國海軍大村飛行場に進出していた帝國海軍航空隊 空母「大鳳」飛行隊所属のF―4Jファントム艦上戦闘機が日本海上の母艦へ帰投中エンジン不調により墜落。乗員二名は脱出し無事を確認。墜落地点は―――――』
「オイ、それ本当かよ!」
墜落したファントムは、よりによってハカセの大学の教養学部を直撃していた。講義時間が始まる前だったからよかったものの、もう少し時間がズレていたら大惨事だったろう。それでも、当時学舎にいた十数名が死傷したらしいということだった。
直後、午前の課業の準備を切り上げて中隊に属する全兵士が舎前営庭に集められた。
中隊長が出張で不在だったため、部隊最先任の老少尉がその総指揮をとる。
「これより、墜落した海軍機の回収作業に向う。総員は防護服を着用し任務に当たれ!」
ぼくと番長は、班長に呼ばれた。
「お前たちは墜落地点の警戒要員だ。小銃を所持し班長控室へ集合。大原軍曹の指示に従うように」
営舎に戻り、配布された防護服に着替える。
防毒服は化学戦に使われる一面繋ぎの宇宙服のような服だ。これに防毒面を着用することで、完全に機密が保たれるようになっている。墜落で漏れ出し気化した航空燃料の充満する中で行動するのには必要な装備ではある。棚から小銃を取って部屋から出る途中、ぼくはハカセの寝台へ行った。彼は顔色一つ変えることなく、回収班に加わるべく軍靴の紐を結びなおしていた。
「なんだい? 鳴沢君」
「気を……落すなよ」
ハカセは嘆息した。
「僕ね、入営前はあすこで教官の助手をしてたんだよ。もし入営してなかったら巻き添えを食って死んでたかもなぁ……」
「…………」
「鳴沢君は、警戒任務だって?」
ぼくは頷いた。
「気をつけろよ。あすこの全学連は武闘派だからな。官憲と見れば見境なく襲ってくるぞ」
ハカセの語尾は、震えていた。
ひょっとすれば、ハカセは動揺する自分を必死で押し殺していたのかもしれない、ぼくに対する忠告は、自分の学校をあんな目に会わせた彼の言うところの「資本主義独占支配体制」に対する隔意の裏返しだったのかもしれなかった。
班長たちの控室で、ぼくらは空砲の詰まった弾倉一個と、実包の詰まった弾倉を二個配られた。各班から抽出された警戒班の前で、指揮を執る大原軍曹が言った。
「今ここで空包を装着」
各所で弾倉を接続する音がする。ただし装填はしない。ぼくらは本隊とは別にトラックに乗せられて現場へと向うのだ。何処からか遠雷のようにトラックのエンジンを始動する音が轟いて来た。
指揮旗に従い、指揮棒を手にした班長の号令一下、停車場で待機していた濃緑色のトラックに次々と兵士達が乗り込んでいく。中隊の全員が乗り込んだのを確認して、出発のサインが出る。
MPのジープを先頭に、トラックの車列は隊門を出た。トラックの荷台に詰め込まれたぼくらの眼に映るのは、久しぶりの外の光景ではなく真っ黒い幌の内壁。唯一外の風景を映し出すのは、荷台の出入口から覗けるちょっとした風景だけだ。しかし、幌越しに聞こえてくる街の喧騒に、不謹慎にもぼくの胸は躍ってしまうのだった。
道を進むにつれ、パトカーか消防車か区別がつかないサイレン音が聞こえてきた。入り口付近に陣取って外の風景を伺っていた兵士がぽつりと言った。
「すげえ野次馬……」
確かに、外は騒がしい。ぼくの記憶にある普段の喧騒ではなかった。ぼくらの乗ったトラックの隣の車道に、窓という窓に金網を張った機動隊のバスが止まっていた。
『軍の大学自治介入を許すな!』
『天皇制独裁体制の走狗を打倒しよう!』
『繰り返す! 集会を止めて解散しなさい! 解散しろ!』
外では何処からともなく現れたデモ隊と警官隊が衝突しているようだった。学外でこれだから、一旦学内に入ればもっとすごい光景が見られるだろう。
幌に、何かが当たる音をぼくらは聞いた。それも二、三度。音と質感からして、相当な重量物だ。生身の人間に当たればただでは済まないようなものが、ぼくらのトラックに投げつけられているということぐらい、すぐにわかった。
「あの馬鹿野郎ども……!」
と、軍曹が呻いた。
やがて、トラックは止まった。軍曹の傍らにいる通信兵が、送受話器を軍曹に差し出した。しばしの遣り取りの後に、トラックは再び動き始めた。入り口から覗ける風景から、ぼくは大学の構内に入ったことを悟った。学内での自治が確立している大学に、こうもあっさりと入れるということは、あらかじめ軍と大学側の間で話がついているのだろう。
大学の構内では、防弾チョッキを着用し、陸軍払い下げの鉄兜を被った警官がウロウロしている。その内数名かはジュラルミン製のシールドを持っている。ふと、一人が言った。
「あっ……あいつグレネードランチャー持ってる」
「本当だ……」
そのとき、無線機の送受話器を片手に何やら話し込んでいた軍曹が言った。
「防毒面着用! 降車準備!」
訓練を続けていただけあって、皆の動きは早い。忽ち、ぼくらの顔は顔面を圧迫する防毒面に覆われる。これで個人を判別することができるものは、胸の名札だけになった。
何度か車道を曲がった後、トラックは再び止まった。それが合図だった。
「全員降車!」
ぼくらは荷台から駆け出した。各分隊長を先頭に整列したぼくらの前に、軍曹と背中に無線通信機を背負った通信兵が立つ。
「頭ァ! 中!」
上等兵の号令に背を正したぼくらに、軍曹は言った。
「警戒班はこれより、警戒行動を開始する。各分隊長の指揮に従い行動せよ。かかれっ!」
分隊長たちの間で、あらかじめ配置が決定されていたらしく、ぼくらは分隊長の指示の下、駆け足で警戒位置まで移動する。
駆け足の隊列は、墜落の衝撃で半壊した学舎に近付いていた。壁が崩れ落ちた学舎の向こう側からは幾条もの黒煙がブスブスと立ち上り、幸運にも全容を保っている建造物も、窓ガラスが割れていたりとその傷跡は生々しい。
ぼくらの最初の仕事は、現場周辺に警戒線を張り、有刺鉄線付きのバリケードを設置することだった。もくもくと仕事をこなすぼくらの周囲を、いつの間にか展開していた機動隊が取り囲んでいる。その更に向こう側には……
『人殺し陸軍から我々の学び舎を奪回せよ!』
『日本帝国主義の尖兵を打倒せよ!』
死肉の匂いを嗅ぎつけたハゲタカのように何処からともなく集まってきた連中が、盛んにシュプレヒコールを上げている。一部のイカれた連中は機動隊員の構えるシールドをさかんに蹴り上げたり角材を叩きつけたりしている。
やがて追及して来た回収班のトラックも無事に現場への進入を果たし、号令一下勢い良く駆け下りた回収班が続々と現場へと向っていく。ちょうどそれは、砂糖の山に群がる蟻の隊列を連想させた。
警察でいうところの、現場保全作業を終えた後は、外部からの進入者に備えて歩哨に立つだけだ。その意味ではぼくらに課せられた任務は回収班よりもかなり楽だった。
ふと頭を上げたときには、現場の上空をマスコミのヘリコプターが舞っていた。ぼくらを取り囲むデモ隊の数は次第にその数を増していた。肩に提げた小銃の吊革を握る手に、思わず力が篭った。
現場のほうからは変な遣り取りが聞こえて来る。
「帝国主義の走狗はここから出て行け!」
「危険ですから、早くここから退去しなさい!」
「ここは俺たちの大学だ! おまえらこそ出て行け!」
「公務執行妨害で拘束する!」
どうやら軍に場を明け渡させまいとする連中が先乗りして現場で頑張っていたらしく、後からやってきた回収班と小競り合いを繰り広げているようなのだ。
やがて、回収班に両脇を抱えられながら引きずり出された連中は、一様にそれと分かる格好をしていた。顔面を覆うマスクに、「動力車」と殴り書きされた赤いヘルメット……バリバリの革マル派じゃん。
彼らはぼくらの目の前で待ち構えていた警官隊に引渡されると、どこかへとすぐに姿を消した。おそらく県警本部に連れて行かれて、特高(特別高等警察)のきっつい取調べを受けることになるだろう。
そのとき、陸軍のものよりも一回り大きなトラックが、群集と機動隊を押し分けるようにして入って来た。それも二台。フロントについているのは陸軍を示す星のマークではなく、碇のマーク……海軍のトラックだ。だが、そのときにできた警戒網の綻びが、数名の侵入を許したのだ。
すかさず、分隊長が叫んだ。
「威嚇射撃。用意!」
ぼくらは小銃を構え直した。空砲を装填し、上方に銃身を向ける。
頼む……撃たせるな。その願いも空しく、角材を手にした暴徒がどんどん早足で近付いてくる。例の如く白いマスクに覆われた顔からは、その表情を窺い知る事ができなかった。彼らにとっても、銃を構える僕らの表情を知ることができないということはどんな感慨をもたらすものなのだろうか?
ダッシュで追い縋って来た警官が、ラグビーのタックル宜しく、背後から暴徒を押倒した。逃れようともがく暴徒の上に、警官隊が幾重にも折り重なって身柄を確保する傍らを、海軍のトラックが排煙を撒き散らしながら何事もなかったように通り過ぎていく。
衛生兵の標識をつけた兵士が、現場からなにやら白い布に包んだものを担架に乗せて、待ち構えていた軍用救急車に乗せていた。布に覆われてはいたが、それははっきりと人の形をしていた。中には布から手や足がはみ出しているものもあった。あまりのことに目を釘付けにしている警戒の兵士を、分隊長が怒鳴り付けた。
「余所見をするな。馬鹿……!」
しばらくして、空の上が急に騒がしくなった。ヘリコプターが近付いてくる音だった。
「大日本帝國海軍」の字を描いた灰色のバートルが、胴体下からロープを垂れ流しながら次第にこちらへと高度を落としていた。微かに吹き降ろす風を感じながら、ぼくは警官隊とデモ隊の睨み合う前方へと一心に視線を巡らせていた。
ぼくらに撤収命令がでたのは、胴体下になにやら幌に包んだ物体を吊下げたバートルが去ってさらに一時間程経った後のことだった。吊り下げていたのは、どうもエンジンとか、電子機器のような機体の主要な部分だったらしい。
その晩、回収作業に参加した班員の多くが食事を残した。その原因がおきまりのような食事の不味さではないことは確かだった。
悲劇の現場に立たされても、訓練は容赦してくれない。ほぼ時を同じくして、高所訓練が始まった。高所訓練とは、訓練兵にアスレチック張りの障害物走破を経験させ、平衡感覚と養うと同時に恐怖を克服させる訓練だ。
それは五階建てのビルに相当する高台から滑車を使って下へ一気に滑り降りる課題から始まる。ぼくの班の一番乗りは、ヒッピー君だった。
「貴様……!」
下で訓練兵の様子を見ていた古参兵が叫んだ。訓練兵の恐怖を和らげるため、恋人か母親の名を呼ばせて滑降させるのだ。
「恋人はいるか?」
「おりまぁーす!」
「名前を言ってみろー!」
一瞬ためらった後、ヒッピー君は言った。
「アヤコでありまぁーす!」
「よぉーし、降りろ!」
「…………」
「どぉしたぁ? そんなフニャチンで、女が抱けるのかコラ!」
意を決して、ヒッピー君は滑車に手をかけた。そして床を蹴った。
「アヤコォォォォーーーーーーーーッ!」
カラカラカラ……! というけたたましい滑降音にも負けないほどの絶叫を上げながらヒッピー君はロープを一気に駆け下りていく。
次はトッポ君の番だった。その次が番長、そしてぼくだ。
「貴様……恋人の名を言ってみろ!」
「……許嫁ならおりまぁーす!」
ぼくと番長は顔を見合わせた。まさかあのトッポ君が……?
「名前を言ってみろコラアッ!」
「ハツヨでありまぁーす!」
「よおーし! 飛び降りろ!」
許嫁の名を叫ぶこともなく、あっさりと、トッポ君は飛び降りた、普段は動作が緩慢な割に、実はやけに肝の据わった男なのだ。
番長の番がやってきたが、彼の場合、この台に足を踏み入れた瞬間から様子がおかしかった。引っ切り無しにソワソワして、あたりをキョロキョロ見回している。良く見ると、足元もガクガク震えていた。ひょっとして……
下を見た途端。番長は奇声を発すると、手すりにしがみ付いて座り込んでしまった。
「貴様ァッ……何やってるんだ!」
班長が怒鳴りつけた。
「勘弁してください班長ぉ! 自分は高所恐怖症なのでありまぁす!」
さっきのトッポ君の場合と同様、いや、それ以上にぼくにとってその告白は意外だった。が、この鬼班長がそんなことなど斟酌してくれるはずがない。
「馬鹿野郎っ! 貴様それでも光輝ある帝國陸軍の兵士か! 立てこのバカ!」
下のほうからもしきりに催促の声が上がっている。この場合、激励ではなくヤクザの追い込みまがいの恐喝だ。
「コラァーっ 降りろっつってんだろが! ぶっ殺すぞテメー!」
「そこで除隊まで過ごすつもりかコラー!」
「つかえてんだろがアホが! さっさと降りんと殺すぞキサマ!」
「イヤだぁぁァァァ……!」
叫ぶ番長の顔はこれ以上歪みようがないほど歪み、涙とも鼻水とも見分けがつかない液体が顔を汚していた。その番長を班長は指揮棒でメタメタに打ち据える。
「鳴沢! こいつを立たせろ!」
泣き喚く番長を、ぼくは支えるようにどうにか立たせ、滑車を掴ませた。それでも腰が引けた番長は目を瞑ってこれ以上動こうとしない。背後から腕を回して番長を支えたまま、ぼくは圧し掛かってくる巨体の重みに必死に耐えた。
堪りかねた班長が、番長の尻を蹴り上げた。番長の上体がふっと前へ浮き、ぼくも釣られて前へつんのめった。さらに足を滑らせた番長は、ぼくを背後にしがみ付かせたままロープを滑り落ちた。
「オカアチャァァァァァァーーーーーン!」
「アケミィィィィィィィィーーーーーー!」
番長の手が、滑車の取っ手から滑り落ちた。まっ逆さまに、派手な水飛沫を上げてぼくらは仲良く泥水を満たした堀に叩きつけられた。
その直後、方々の体で堀から這い出たぼくと番長は、待ち構えていた古参兵たちから仲良くビンタを喰らったあと、夕食の時間まで仲良く完全装備で練兵場を走らされた……。