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その五 「新兵たちは、地獄を見た?」

 訓練は、日々厳しさを増していく。三ヶ月の教育期間中、その過酷さ(?)で後半の行軍訓練と双璧を為すのが、前半総仕上げに行われるいわゆる「対化学戦訓練」通称「ガス訓練」である。

 その日、午前中は防毒面(帝國陸軍ではガスマスクのことをそう言う)性能と使用に関する説明を受け、続けてその着用訓練となった。


 「ガス!」


 その一言が聞こえたら、有無を言わさず防毒面を着用しなければならない。所要時間は八秒。それ以上掛かったら実戦では命がないのである。米軍のM17ガスマスクをそのままコピーした五一式防毒面を、全員が八秒以内に被れるようになるまで、三回のやり直しが必要だった。

着用を終えると、整列して次の指示を待つ。班長は全員を一通り見回すと、言った。


 「よーし! 総員そのままで駆け足!」


 え……走るの?


 「上官の命令は朕の命令と思え」と言われていた戦前戦中ほどではないが、軍隊において上官の命令は絶対である。ぼくらは列を作って駆け足を始めた。だが……

 

 く……苦じい。


 そう、口と面の吸気口との間を防毒フィルターが覆っている以上、普通の呼吸など不可能に近いのである。もしこの状態でも普通の呼吸ができるということは、つまりは防毒面の機密がなっていないということだが、これでは走ることなどムリというほど息苦しい。


 しかも、面体が顔面を圧迫しているということもあって、一層の疲労感がぼくらを襲った。駆け足を続けているうちに、本当なら何の苦も感じないはずの距離でもヘタリ出す者がボロボロ続出する。そいつの尻を、班長は容赦なく蹴り上げた。


 「コラ! だれが休んでいいと言った? 後ろからガスが追いかけて来ると思って走れ!」


 そのガスに耐えるための防毒面じゃなかったの?

 

 やがては耐え切れず、防毒面を放り出してその場に倒れこむ者も出た。


 「てめえは戦死だ! このアホ」


 午前だけでもこの惨状だが、午後からはまさに「この世の地獄」がぼくらを待っていた。


 一旦返却した防毒面入りのバッグを再び受領し、ガス訓練室。通称「ガス室」へと駆け足で行進する。緊張に胸を膨らませて足を踏み入れた瞬間。室内に充満している煙に、ぼくらは眼を白黒させた。

 松脂を燻した煙に満たされた室内は、闖入者を忽ち地獄のどん底へと叩き込む。だが、まだそこは序の口に過ぎない。ゴホッゴホッゴホ……皆の咳き込む音が煙と同じくその場に充満するのに、それ程時間はかからなかった。しかも煙は濃過ぎて班長はもとより、誰がどこにいるのか皆目見当も付かない。


 そこに加えて班長の命令が飛んだ。だが、その内容にその場の皆が耳を疑ったはずだ。


 「全員、その場で兎跳び五十回!」


 防毒面が絶対に必要な状況で、生身のまま兎跳びをせよと言うのだ……!


 「…………?」

 「聞こえねえのか! やれといったらやれ!」


 どうにか兎跳びを終えたそのときには、顔といわず体全体と言わず一面滝のように流れ落ちる脂汗、涙、鼻水、涎にぼくらは覆われていた。まるで体中の水分がどんどん失われていくような感じだ。喉を灼きながら肺に雪崩れ込んでくる松脂が、ぼくらから貴重な酸素を得る機会を奪っていく。


 「防毒面着用!」


 その声は、天からの声のように聞こえた。だが、未だ安心するには早すぎたのだ。藁にもすがる思いで防毒面を着用した瞬間。ぼくらは恐るべき事態に気付いた。


 フィルターが入っていない!


 午前の段階で返却したとき、フィルターを抜かれてしまっていたのだ。班長たちには、貴重な軍需品を初年兵ごときに使わせるつもりなど、はなから無かったのである。

その班長が、番長の名を呼んだ。


 「オイ! 貴様の好きな歌は何だ?」

 「歌……ですか?」

 「何でもいい、言ってみろ!」

 「自分は……『瀬戸の花嫁』が好きであります!」

 「よぉーし! 今から全員で『瀬戸の花嫁』を歌え!」

 「…………」

 「さっさと歌え! この馬鹿共!」


 班長は怒鳴りつけ、指揮棒で内壁をしたたかに叩いた。それが合図だった。蛮声を振り上げて、ぼくらは歌った。



 せとわぁーーーひぐれてぇーーーーー♪

 ゆうなぁーみこぉなぁーみぃー♪

 あなたぁーのしぃまぁーえーーおよめぇーーにゆぅーくーわぁーーーー♪……



 皆、もはやヤケクソになっていた。ぼくもそうだ。何でこんな目に遭わなければならないのか? 今頃友達はきっと日々愉快なキャンパスライフを満喫しているに違いない。美味いモノ、美味い酒を飲み食いし、女の子の尻を追いかけているのだろう。


 翻ってオレは……不味いメシに日々甘んじ、バカだのクソだの怒鳴り散らす班長に追い回される毎日……松脂によるものではない涙が、歌うだけで精一杯のぼくの眼に溢れて来た。

 隣のハカセが、もうダメと言わんばかりにその場にへたりこみ、壁に向ってゲーゲーやり始めた。こういう場合、一人の行動はすぐその場の全員にも伝播する。一気に二、三人の兵士がハカセに続いて戻し始めた。ぼくは喉元までこみ上げてくるその衝動に必死で耐えた。


 そのとき、一人の初年兵が堪らず駆け出し閉じられた入り口へと突進した。その前に立ちはだかる班長。振り上げられた指揮棒が彼の肩をしたたかに打ったが、それをものともしないかのように、何と彼は班長を押し倒し、ドアのノブに手を掛けた。

 それが合図だった。班全員が、何か吹っ切れたように押し開かれたドアに殺到した。ちょうど火災に遭遇したとき、狭い非常ドアをめぐって押し合い圧し合いする避難者の様子をそれは連想させた。


 外に駆け出し、拭うように防毒面を打ち捨てると、ぼくはその場でゲーゲー吐いた。急速に肺に入り込んでくる外の空気が、ぼくを心身両面から癒していくかのようだった。空気というのは、これほど美味いやつだったのか……!

 ふと横を見ると、ヒッピー君が同じく四つん這いになってゲーゲーやっていた。目脂に汚れ充血した眼、顔は真っ赤になり、ガマ蛙のような脂汗が顔全体に浮いていた。アケミと初めてデートしたときに映画館で見たゾンビ映画並みにその顔はオゾマシイ。

 そのヒッピー君が、ぼくの顔を覗き込むようにして、言った。


 「醇ちゃん、ひどい顔してるぞ」

 「君こそ……」


 お互いの顔を見ているうちに、自然と笑いがこみ上げてきた。

だが、笑って済ませられるのはここまで。やがてのっそりと部屋から出てきた班長は、怒りに手をプルプル震わせて言った。


 「脱落者が出たので、ガス訓練を再度実施する!」


 皆の安堵が、いっぺんに吹き飛んだのは言うまでもない。その日ぼくらは、班長の気が済むまでアウシュビッツばりにガスが充満するガス室の中で『瀬戸の花嫁』を熱唱させられたのだった……。


 軍隊には、何の娯楽もない。文字通り、娯楽と名のつく何物もないのだ。

長期にわたって何の楽しみもなく、毎日を拭い難い緊張の下ひたすら肉体の鍛錬に費やしていると、自然、頭の中も単純化してくる。軍隊で兵士がする話と言えば、メシとオンナ、あとはパチンコの話と相場が決まっている。これが精強にして伝統ある帝國陸軍の微笑ましい(?)内情のひとつでもある。


 夕食後のささやかな休養時間のとき、番長がふと口を開いた。


 「そういやもう一ヶ月くらい煙草吸ってねえなぁ……」


 ぼくも、番長に言われるまでそのことを忘れていた。


 「……チョコレート食いてぇなあ……」


 と、誰かが言った。皆チョコレートどころか、ここ一ヶ月以上甘いものなど食べたことがない。お菓子等を売る酒保(今では欧米式にPXと言う)はあるにはあったが、初年兵、それも教育中の三等兵ごときが利用できるはずもなく、またそのためのお金もすべて入営の段階で没収されている。


 ふと、ヒッピー君が言った。


 「ああ~っ……セックスしてぇ~……」


 セ、セックス!?


 皆の視線が、一瞬にしてヒッピー君に集中した。番長が寝台から身を乗り出した。


 「おめえアレか、女がいるのか?」

 「ああ、いるよ?」


 初耳である。さらに聞くと、入営前まで同棲していたらしい。まさかあのヒッピー君が……。


 「そうかぁ~……俺もなァ、入営祝いにヤクザやってる叔父貴に中州のトルコに連れて行ってもらったんだよなぁ。くぅぅぅ~~っ、思い出すぜえ。尻がでかくてさァ、ムネで挟んでさァ……シャブってくれんだよなァ~~~っ」

 「やめてくれよォっ!」


 思わずぼくは叫び、毛布を被った。それを見て皆がゲラゲラ笑った。


 「可哀相に、童貞さんかい。そういうもんは普通入営する前に捨ててくるもんだぜ?」


 と、番長は心にもないことを言う。


 おもむろにハカセが立ち上がり、小股にそそくさと部屋を出た。こういうときに、何処に行ってナニをするかは皆わかっている。それを見た番長がニヤリとする。


 「おまえらも便所行かねえのか? 溜まってんだろうが」


 皆は爆笑した。ぼくは毛布の中で、アケミをオカズにマスをかきたい衝動をぐっとこらえた。それくらい、当時のぼくは女性に関し純情だった。


 外に出たい……アケミに会いたい。


 その晩、消灯下の営舎の中、毛布に潜り込みながら、アケミの面影を思い出しながら、ぼくは切に外に出られる日の到来を願ったのだった……が、その日は意外に早く、しかも意外な形で訪れたのだった。



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