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その三 「入営の風景」


 ――――年が替わり、そして入営の当日となった。

 正門に掲示された「入営者は歩兵第256連隊本部前に集合」という指示に従い、だだっ広い本部前に朝八時に到着したときには、馬鹿でかい本部庁舎前には黒山の人だかりができていた。そのほとんどが入営する本人と付き添いの親族だ。当然、軍服なぞまだ支給されていないのだからほぼ全員が私服だ。

 ぼくは一人で連隊の正門を潜った。兄がついて行くと言ってくれたが、途中まで車で送ってもらったところで別れを告げて車を降り、基地まで歩いて行った。

 みんなの様子は、例外なく落ち着きがない。

 本人はもとよりその母親といい、父親といい不安げな表情を浮かべ、中にはうっすらと涙を浮かべている者もいる。そんなぼくらの集まりを遠巻きにして、「MP」の腕章をつけた兵隊が無表情のままこちらの様子を伺っている。深く被られた軍帽からは、その眼差しを窺い知ることができなかった。

 やがて、期限の八時半になった。ここで、見送りとはお別れになる。

 「兄貴! いってらっしゃい!」

 突然の蛮声に、その場の全員の視線が一点に集中した。

裾の長い学ランに蛇腹のベルト、デカいリーゼントを靡かせている者もいた。絵に描いたような不良学生だ。そうした連中の輪の中心に、ボロボロの学帽を被った大男がいた。恐らく彼が入営する本人で、連中は彼を見送りについてきた手下なのだろう。

 「オウ……!」

 鷹揚に大男は頷くと、地面に倒していたズタ袋を肩に提げ直した。


 付き添いの皆が去ったところで、急に辺りが寂しくなった。

取り残されたという不安が、お互いを自己紹介や世間話に走らせた。ぼくもまた、その時点になると周囲の様子をじっくりと確かめる余裕が出てきた。

去年の身体検査でいっしょだったお上りさんが、呆然と突っ立って本部の時計台を見上げていた。さらに視線を廻らせると、同じく一緒だったヒッピーが、でかいギターケースを傍に置いてその場に座り込んでいた。一身に読書をしている者。落ち着きなくそわそわしている者もいた。先程の番長に至っては、中腰になって煙草を燻らせている。ここは確か禁煙のはずなのに……。

 九時になったとき、いままで無言だったMPが初めて口を開いた。

 「はい! 私語をやめて集合してください。集合!」

 その口調は穏やかだったが、何故か心の奥まで響く威圧感があった。ぼくらは自らを急かすように広場の中央へ集まった。

 ぼくらの前に、MPの隊長らしき人が立ち、言った。

 「お前たちは只今より、帝国陸軍現役兵士となった。これより所属中隊の発表を行う。中隊及び内務班は、以降当分お前たちの属するものであるから、一字一句漏らさずしっかりと記憶しておくように。人事課の担当官が、只今より説明を行う。お前たちは担当官の指示に従い行動するように……!」

 本部の奥から、数名の女性兵が書類を抱えて出てきた。その中の一人に意外な顔を見て、ぼくは眼を剥いた。

 「スー……ちゃん?」

 そう、見紛い様の無いほどスーちゃんだった。カーキ色の制服に身体を覆っていても、見事なボディラインは変わっていなかった。キリっと上がった柳眉の下に、大きな瞳が優しい光を湛えていた。部下らしき女性兵士に指示を与える姿も、あの頃の芯の通ったスーちゃんを思わせた。こんなところでスーちゃんと遭うとは、神様は人間の人生をトリッキーに、かつ意地悪に創っている。

 そのスーちゃんが、ぼくらの前に立った。

 「ウワァ……いい女」

 「シャンだねェ」

 誰かが囁くように言った。

 スーちゃんは、一段高いところからぼくらを見回した。そのとき群の隅にいたぼくの眼と、彼女の眼が合った。慌てて、ぼくは眼を逸らした。

 「只今より所属中隊の発表を行います。名前を呼ばれた人から前に出て整列するように」

 ピシッとした言い方ながら、耳に心地良い声も健在だった。下にいた女性兵が、入営者の名前を一人一人呼んでは、前へ集めていく。前へ出たところを、先輩の兵士が整列させていく。その分業振り、まるで青果の選別のような光景だ。

 「鳴沢 醇さーん?」

 女性の声でそう呼ばれ、ぼくが連れて行かれたのは第二小隊の第三班だった。所属中隊名を告げられると、ぼくを引率した揉み上げのすごい古参兵は、「よく覚えとけよ」と念を押した。

 そこには、あのヒッピーがいた。眼が合うと、ぼくらはお互いに自己紹介をした。不精な外見を除けば、結構いい奴かも知れない。

 やがて、次はお上りさんが来た。そして番長。彼は悠然とぼくらの列に腰を下ろすと、煙草を取り出した。

 「君、煙草はダメだよ。ここは禁煙なんだ」

 いつの間にか近くにいたMPが、彼を諭すように言った。訝しげな視線で、番長はMPに応じた。物怖じする様子など、彼は全く見せていなかった。

 「そんなの、誰が決めたんだよ?」

 「煙草を捨てたまえ」

 しばしの睨み合い……やがて、番長は面白くない、と言う風に舌打ちし、煙草をしまった。それをじっと見守る周囲の視線に気付いたのか、彼はぼくらを睨み返した。

 「あんだコラ? 見せモンじゃねえんだぞ」

 慌てて視線を逸らす皆の様子がさらに気に障ったのか、番長はむっつりと黙り込んだ。

 全員の所属が発表される頃には、広場にはみごとな隊列が出来上がっていた。満足げな眼で皆の整列具合を確認すると、スーちゃんは女性兵を連れて奥へと引っ込んで行った。引率役の兵士が、ぼくらに進むよう促した。

 「本官の後に続いて進め。気をつけっ! 前へ進め!」

 隊列に従いながら、ぼくは何気なく背後を振り向いた。遠くから、今にも閉じられようとしている正門の様子が伺えた。

 そして、ぼくの目の前で、正門は……閉じられた。

 その日から、ぼくらは社会から完全に隔絶されたのだ。



 ――――行進は、次第に敷地の奥へと進んで行った。

 行進を始めて二分ほどたったろうが、それでもぼくらが目指す中隊兵舎は見えない。これから皆と生活を共にし、軍隊生活のイロハを学ぶ場でもある中隊兵舎が。

 妙に思ったのが、ぼくらの傍らを歩く引率役の兵士が、ぼくらとは一言も口を聞かないのはおろか、眼も合わせようとしないことだ。まるでぼくらに何か重大な事を隠しているかのようで、その様子は気味が悪かった。後で知ったことだが、初年兵と迂闊に口を利くと、情が移って指導がやり辛くなるために、彼らはぼくらから距離を置いていたのだった。

 「止まれ」

 と言われたその先には、画一的な中隊兵舎が広がっていた。あまりにも没個性的な造りで、これと言われなければどの兵舎に入ればいいのか判らないほどだ。

 割り当てられた内務班に入って最初に驚いたのは、その殺風景さだ。

造営されてかなりの期間が経ってはいるが、これ以上ないというくらい、全てが簡略化され、機能的に作られている。それがなお、入る者に緊張を誘うのだ。

 営舎には、それぞれ班の人数分を満たせるだけ、鉄パイプ剥き出しの二段ベッドが置かれている。ほんの十年前まで寝台は一段ずつだったのだが、軍事費の削減で営舎の維持費が賄えなくなったために、数を減らされた営舎の有効利用を目指して「アメリカ式」に二段ベッドが導入されたらしい。ぼくはヒッピー君と同じ寝台だった。その隣が番長とお上りさんだ。

 「おいお前。ベッド替われや」

 と、相棒に言ったのは番長だ。自分に宛がわれた下の段が気に入らないらしい。お上りさんの方はベッドの上下にこだわるような人間ではないらしく、二つ返事で了解した。

 寝台の割り当てでひと時営内を喧騒に満たした後、ぼくらはその場で整列、待機を命ぜられた。急な沈黙に、その場が重苦しくなる。

その間、ぼくは想像を巡らせる。

 ぼくらを担当する教官は、どんな人なのだろう。「コンバット」のサンダース軍曹みたいなカッコイイ、ジッポーのライターが似合う渋い軍人なのだろうか?……はたまた、「拝啓天皇陛下」の渥美清のように人情味のあるオッサンなのだろうか?……それとも、「兵隊やくざ」で勝新太郎にとっちめられるような意地悪な男なのだろうか……?

 だが、それもわずかな間だった。伍長の階級章をつけた男を筆頭に、四人の兵士が入ってきたのだ。

 長身とは言えないが均整の取れた体格。軍帽を深く被り、角ばった顎と濃い揉み上げの取り合わせが、強烈な印象を与えていた。

 その伍長が、言った。

 「おい、何だこいつらは?」

 悪意ありありの猫撫で声に、ぼくは反射的に飛び上がりそうになった。

 「おい貴様。ここに何しに来た?」

 列の一人に、顔を近づけて、兵士が聞いた。聞かれた男は唾を飲み込むと、おずおずと口を開いた。

 「陸軍兵士として、国民の義務を……!」

 全部言い終わらないうちに、伸びた腕が男の襟首を捉えた。

 「陸軍だァ? 何処の陸軍だ。その辺のバッタ陸軍といっしょにするな!」

 「え……!?」

 「陸軍ではない! 帝國陸軍だ! てめえのサルにも劣る頭で覚えておけ! わかったか?」

 「おい貴様。この髪の毛は何だ?」

 と、長髪を鷲掴みにされたのはヒッピー君だった。苦渋に顔を歪ませながら、ヒッピー君は反論を試みた。

 「長髪で来るなって言ってねーじゃんよぉ!」

 だが、抗弁は逆効果だった。

 「何だ貴様! 口答えするつもりか。いい度胸だな。それに何だ。このニッコリマークは?」

 彼は、あの検査のときと同じピースマークのシャツを着ていた。

 「ピースマークだっての! オレあんたと違って平和主義者なんだよね」

 その瞬間、足を払われたヒッピー君は派手に床に倒れこんだ。起き上がろうとするヒッピー君の頭を、兵士のブーツが押し込むように押さえつけた。

 「貴様ら聞けっ!」

 伍長がぼくらを怒鳴りつけた。

 「こいつはやってはならんことをやった。上官に対する反抗だ! 連帯責任として、班全員この場で腕立て伏せ五〇回!」

 運動部じゃあるまいし、いきなり腕立て伏せ五〇回と言われても、いきなりできる人間なんて少ない。案の定、ぼくが腕立てしている傍で耐え切れなくなった連中が次々にヘタリ出した。それを古参兵たちが目ざとく見つけては怒鳴りつけ、蹴飛ばすのだ。ヘタった者、蹴られた者の呻き声が、未だ耐えている者の恐怖をいやがうえにも倍増させる。

 伍長は言った。

 「自分は徳山伍長である。貴様らの属する三班の班長であり、貴様らの教育係だ! いいか聞け、貴様らは晴れて入営を果たしたわけだが、まだ光輝ある帝國陸軍兵士ではない。貴様らはほんの数時間前まで人間だった。だが、もう違う。人間でもなく兵士でもないということはどういうことか判るか?」

 伍長は、ぼくの前に立った。

 「貴様だ! 答えろ!」

 ええっ……ぼく?

 「何だ貴様。口がないのか?」

 「わっ……わかりません!」

 腕の痛みに耐えながら、ぼくは伍長が鼻で笑うのを聞いた。

 「人間ではないということは、俺たちは貴様らに何をしてもいいというわけだ。貴様らはここでは畜生にも劣る。いや、日本でも最底辺の存在だ。だからたった今から、俺がじっくり時間を掛けて真人間にしてやる。御国のため、大元帥陛下のために命を捧げるまっとうな人間にな! 耐えられない奴は死ね。死んだ奴は皆非国民だ! 国賊だ! わかったか?」

 「貴様ら返事は!?」

 「はい……!」

 「声が小せえ!」

 「ハイッ!」

 お先真っ暗とは、こういうことを言うのであろう。ぼくはそのスタートから貧乏くじを引いてしまったのだ。ちなみにこの徳山伍長、この恐ろしい外見や性格と同じく、プライベートでもとてつもなく恐ろしい趣味の持主だったのだが、それについては後述する。

 漸く腕立て伏せを終え、息も絶え絶えのぼくらに、伍長は無情にも言い放った。

 「これより物品受領に向う。全員一列に並び、舎前営庭まで行進。モタモタするな!」

 物品受領とは、作業服や軍帽、靴など軍隊生活に必要な物資を受け取ることだ。徴兵、志願を問わず軍隊に入った者なら誰でも最初は経験する。だが、そのほとんどが「供与」ではなくあくまで「貸与」なのだ。したがって除隊時はそれらの物品は全て「返還」という形式をとることになる。

 行進をしながら辿り着いた舎前営庭では、衣料、消耗品などの受領物品が、山のように積み上げられていた。その傍では補給課の兵士が、すでに先着していた他班の連中に慣れた手捌きで物資の供給を行っていた。

 「貴様、身長は?」

 「一七四センチであります!」

 「よし五号。次!」

 「君、足のサイズは?」

 「二六センチかな……多分」

 「ホレッ。合わなかったら早めに申し出ること。次は誰?」

 こと物品の受領に関しては、「服のサイズにてめえの身体を合わせろ」と言われていた(大家さん談)戦前戦中より、いくらかマシになっていた。

全部で六〇品目近くになる受領した物品を両手一杯に抱えて営内に戻ったが、それでも一息入れることすらままならない。

 「髪の長い者は整髪室へ、これより散髪を行う」

 原則として、入営までには髪を切ってこなければならなかったのだが、営舎の面々で正直にもそれを履行して来た者は少数派だった。切ってこなくとも罰を受けないという経験者の話を聞いていたから、ぼくもまた多数派に属した。それくらい自分の髪型には名残が惜しかった。ヒッピー君も同じだろう。

 ……数十分後。ぼくとヒッピー君は散髪室でお互いにスッキリした丸坊主を見合って苦笑していた。今のところ、最初は丸刈りでも年季が上がれば「任務に差し支えない程度の長髪」が許されるようになっているらしいが、そこまで待つ頃には、ぼくらは除隊を迎えている計算になる。

 だが、物品受領と調髪が終わってもなお、気を抜くことは許されない。先程受領した物品に、名前を縫付けるのだ。そう、ただ名前を書くだけではなく、針で縫い付けるのである。

 ぼくは東京で一人暮らしをしていた頃からこういうことには慣れていたが、他の連中はそうではなかった。針仕事ばかりしている男というのは、寿司職人をしている女と同じくらい捜すのは難しい。

 その作業に皆が悪戦苦闘している端から、徳山伍長の声が響き渡る。

 「作業しながら聞け。軍隊では軍服の上着のことを上衣。ズボンのことを袴という。シャツのことは襦袢だ。よく覚えておけ!」

 注意深く見れば、徳山伍長が、先程からずっと皆の仕事振りに目を凝らしている。

 ぼくは最初の頃別段気にも留めていなかったが、後に進級し、初年兵の指導係となったときにその真意を身をもって知ることになった。観察の理由は、ズバリ自分の班の誰がいわゆる「使える奴」で、誰がそうでないかをこうした作業から見極めていたのだ。そしてこういう観察は、結構的中するのだった。

 「記名が終わった者は作業服に着替え、一切の私物を纏めて置くように。規則により私物は全て実家に送り返す」

 すかさず起こる落胆の溜息。もっと説明すれば、当日に着てきた私服や、所持金などの貴重品はすべて実家に送り返されるか部隊の貴重品預かり所に保管されることになる。でかいギターを持ち込んでいたヒッピー君などは、自分の身体の一部といってもいいほど愛用していたギターに、泣きながらしばしの別れを告げたものだった。

 ぼくは手を挙げた。

 「班長、質問があります」

 「鳴沢三等兵。何か?」

 自分の名前を軍隊の階級で呼ばれたのは、生まれて初めてのことだった。

 「階級章がありませんが……」

 「アホ! 貴様らのようなクズ共に階級章なんぞもったいないわい。そんなに星が欲しくば訓練期間を乗り切って見せることだな」

 要するに、三ヶ月過ぎなければ階級章はもらえないのだ。当初はそういう感じで軽く考えていたが、階級章を持たないことの重大さを、ぼくはこの後イヤというほど思い知らされることになる。

 全員がどうにか記名を終え、カーキ色の作業服に着替えたところで、昼食となった。

 日本の陸軍の場合、食事は班の営内で別個にとる。外国の戦争映画でよく出てくるような兵員食堂というものはなく。それが導入されたのはぼくが除隊して三年ほど経ってからのことだった。

 メニューは尾頭付きの鯛と赤飯、それに卵入りの汁物がついている。これが入営祝いの定番メニューらしい……というのは、後で聞いたことには、ぼくらの前と後に入って来た兵士達も等しくこのメニューだったからだ。

 だが味はあまりよくないというより不味かった。メニューから何処となく漂うスチーム臭も、ぼくらの食欲を奪った。普段ハンバーグや鳥のから揚げとかを食べ慣れているような奴なぞ、「こんなもん食えるか」とでも言わんばかりに鯛をそのまま残したりした。

 赤飯をかき込みながら、班長は言った。

 「皆食え、次からは腹が減って堪らなくなるぞ」

 それでも、班の多くがあまりの不味さにメシを残したが、次の日からは誰もメシを残さなくなった。それぐらい軍隊というところは腹が減るのだ。差し入れをその場で全部平らげた先輩の苦労を、ぼくはこのとき初めて痛感したのである。「軍隊に行けば、食べ物の好き嫌いがなくなる」という話の根拠はこういうところにある。とにかく、食べなければ軍隊は勤まらない。

 昼食の後、ぼくらは舎前営庭に再び集合を命ぜられた。

 この日、ぼくらの前に始めて姿を現した中隊長はとてつもなく若かった。おそらく、ぼくより二、三年くらいしか違わないだろう。今日入営した人の中には彼より年上の者も結構いたはずだ。

 その中隊長は、張りのある声で言った。

 「これより連隊本部前まで行進。連隊長の訓示がある」

 でも、彼よりその傍らで整列するぼくらを無言で睨みつけている下士官や古参兵達の方が、遥かに迫力があった。戦争映画でよく言う「士官学校出のペーペー」とはおそらくこういう隊長のことを言うのかもしれない。

 ぼくらがこの中隊長の姿を見たのは、このときの集合と、教育課程修了直前の検閲訓練と、修了式の三回だけだった。それぐらい、教育隊の中隊長というのは影が薄い。

 もと来た道を再び行進し、本部前に集合したときには、すでに連隊の幹部連中がぼくらの到着を待ち構えていた。

 「気をつけ! 休め」

 一見したところ、「お前たちは軍人ではない」という班長の言葉が理解できるような気がした。確かに軍服に身を包んではいるが、なんとなくアンバランスな感じがするのだ。もっと具体的に言えば、その辺の人を集めて軍服を着せただけ、というような感じなのだ。TVや雑誌でみる兵隊の姿は、もう少しキリっとしていたような気がする。

 皆が整列を終えたのを見計らうかのように、士官の階級章を付けたおばさんが、連隊長に登壇を促した。おばさんの傍には、スーちゃんの姿。彼女はぼくの存在には気付いていないようだった。もしくはぼくのことなどもう忘れているのかも……。

 「連隊長訓示!」

 顔に刻み込まれた皺は、老境に達したというよりも軍人としての戦歴の程を示しているように見えた。鷲の様に鋭い眼光が、深く被った軍帽から除いていた。盛り上がった肩をいからせるようにして、かれはその中肉中背の体躯を壇上に進めた。

 「諸君らは、今日を持って晴れて栄誉ある帝國陸軍兵士となった!」

 この一言から訓示は始まり、次に、とうとうと連隊の歴史、戦歴を語ることから始まる。256連隊は、戦時中に本土防衛専門の部隊として新設されて以来、後に朝鮮戦争にも投入され、南侵を図る北鮮軍、中共軍と過酷な戦闘を繰り広げた。かの国連軍の反攻作戦時、半島に投入された日本軍として最初に38度線を越え、当時の北鮮の首都平壌にいの一番に入城を果たした栄誉ある戦歴もある。

 ちなみに、同じ小倉基地には第14及び第47といった歩兵連隊があったがこちらの方は日清、日露戦争以来の歴史を持つ伝統ある連隊だ。こうした浅い伝統の悲しさか、現在では256連隊はこの小倉基地において専ら初年兵の教育部隊的な役目を負っている。256連隊で教育を受けた初年兵は、大抵この両連隊のいずれかか、もしくは九州各地に分屯する陸軍部隊に配属されることになっていた。

 大体、福岡に留まらず九州の陸軍部隊は戦略上重要な位置付けをされている。福岡の部隊は有事の際速やかに半島に上陸し、南朝鮮軍の援護を行う役目を負っている。また、南方の鹿児島や沖縄に展開する部隊は南西方面において台湾侵攻を伺う中共の行動に対応する役目がある。

 ぼくらの連隊長は、徴兵で昭和一〇年代前半に一兵卒として入営して以来、日華事変や大東亜戦、そして朝鮮戦争の重要な作戦に参加し、ついには陸軍中佐として連隊を預かる身にまでなった立志伝中の人だ。訓練を受けるうちにわかったことだが下士官や古参兵はもとより、学校出の士官の信望も厚かった。

 「貴様ら、うちの連隊長を見習え」

 と、訓練期間中古参兵からは耳にタコができるほど言われ、どやされることになった。爺さんになるまで軍隊に居るつもりなどハナからないぼくらは、当然見習おうとは思わなかったが……。


 波乱は、入営の初日からやってきた。唐突な腕立て伏せが入営への通過儀礼とするなら、これは明らかに軍隊式の懲罰というやつだ。

 発端は一人の男だった。彼のことを、以降「ハカセ」と呼ぶことにする……というのは、彼が入営前は福岡にある某帝国大学の院生だったからだ。後に、この大学である重大な「事件」が起き、その後始末のため訓練期間修了間際のぼくらが駆り出されることになる。

 就寝時間までにたっぷり時間を残した春の夜長。皆がその日に感じたあまりにも強烈な一般社会と軍隊とのギャップをしみじみと語り合っていたときのことだ。彼は自分の寝台に皆を呼んで言った。

 「みんな、この国はおかしいと思わないか? みんなは昨日まで平和を愛すると同時に自分の仕事に誇りを感じていたごくまっとうな労働者だった。だが、今ではこうしてごく一部の特権階級どもを守るための犬として躾けられるべく、こうして重苦しい兵舎に繋がれている」

 ハカセは、さらに続けた。

 「今現在も、ベトナムでは理想に燃える労働者や農民が、悪辣な資本家の手先と化したアメリカと戦っている! 中華人民共和国では毛主席の指導一下、紅衛兵の若者が民衆に真の自由と解放をもたらすべく革命に邁進している! 朝鮮民主主義人民共和国では、偉大な金日成主席が列強の魔手を廃し独立した強勢大国への道を進んでいる! 我々も行動を起こすべきだ。我々が動けば、日本中のプロレタリアが封建主義打倒に決起するに違いない!」

 オイオイ……こいつ何言ってんだよ?

 ぼくとヒッピー君は顔を見合わせた。ついこの間まで現役の大学生だったぼくと、路上ライヴ活動に励む前は一年ほど大学に通っていたヒッピー君には、ハカセの言っていることの重大さが瞬時に理解できたのである。アジ演説なんて学内でやっていればいいものを……よりによってこんなところでやらなくてもいいじゃん。

 呆然と彼を見つめている者。うんうんと頷いている者……ハカセの周囲に集まっている人の反応は様々だった。

 「貴様、何やってるんだ?」

皆の視線が、一斉に入り口に集中した。仁王立ちした班長が、鋭い視線を此方に廻らせていた。

 ハカセは、すっくと寝台から腰を下ろした。

 「自分の意見を、皆に表明しておりました」

 何も言わず、班長は彼に冷たい視線を送っている。そういえば、ぼくも子供の頃虫けらを見るときああいう眼をしていたかもしれない。考えて見れば、彼にとってもぼくらのことなぞ虫けらにも等しいのだろう。

 班長の視線が、ハカセの寝台の枕元にある一冊の本に移った。

 「おい、私物は持ち込み禁止だと言っただろうが」

 怖い……ドスの利いた声である。本をとり、パラパラとそれを捲りだした班長のこめかみに青筋が入るのをぼくらは見逃さなかった。

 「貴様! この神聖なる兵舎にマルクスなぞ持ち込んでいたのか!?」

 ハカセは、班長に向き直った。顔は毅然さをどうにか保っていたが、足が諤々震えていた。

 「たとえ暴力で人間を押さえつけても、その人の心の奥まで支配することはできない! 力による支配は必ず履がえ……」

 その口調は、自分の正しさを確信しているというより、その真意を判断せず明らかに自分の吐く言葉そのものに酔ったような物言いだった。だが、言い終わらないうちに、猛烈なビンタが飛んだ。ハカセは派手にぶっ飛び、眼鏡が向い側の寝台まで飛んで割れた。

 「そうか……帝大出ってのはてめえか……」

 班長の口元に、残酷な笑みが宿った。

 「衛兵!」

 一声ですっ飛んできた警備兵に、班長は言った。

 「こいつを営倉に連れて行け! アカの走狗だ!」

 言い終わるや否や、彼はぼくらに向き直った。

 「貴様らァ! なぜこいつを止めなかった! どうせここでアジ演説をやっていたんだろ!?」

 班長には、何もかもお見通しだったのだ。ぼくは内心で震え上がった。隣の寝台からは、ガタガタと歯を鳴らす音がした。

 「いけしゃあしゃあとアカのご高説なぞ聞きやがって! 全員その場で腕立て伏せ! 俺がいいと言うまでだ!」

 うわあぁぁぁぁぁ!!……そんな馬鹿な!

 ここでは彼の意向が絶対ということぐらい、入営した今日から骨身にしみて感じている。反射的に皆は床に手を付け、腕立て伏せを始めた。

 「ヘタった奴が出たら最初からやり直しだ。分かったか!」

 ……入営初日のその夜、消灯時間を迎えて他の班が寝静まった一方で、班長の怒声一下、いつ終わるとも知れぬ腕立て伏せを繰り返すぼくらの姿があった。


 軍隊において、ヘマをやったときに課される罰を「罰直」という。

 この場合「罰直」とは、軍隊においてはペナルティと初年兵苛めという二通りの意味を持つ。代表的なものに先程のような腕立て伏せがあるが、他にも多種多様な罰直があるので紹介しよう。

 前に上げた「前支へ」は大抵訓練期間のごく初期に課される。両手両脚を地面に突っ張ったまま三〇~四〇分耐えるのは当初かなり辛いが、やがてはその姿勢のまま眠ることができるまでに慣れてしまう。

 ……だが、この「前支へ」には応用編がある。前にも述べた「急降下」と「頭支へ」だ。

 「急降下」とは、両脚を寝台か椅子に引っ掛け、両腕により体重の掛かった状態で耐えるという罰直だ。その様子が飛んでいる飛行機の急降下を連想させることからその名がついたらしい。当然、ふつうの前支へよりきつく、かと言ってヘタろうものなら

 「コラ、誰が着陸していいと言った?」

 とハッパをかけられる。これもまた、慣れれば楽なものとなる。

 「頭支へ」は「前支へ」の三点指示バージョンだ。両脚と頭を地面につけて身体を支えるのである。馴れないころは半端でなくきついが、これも慣れればその姿勢のまま熟睡してしまうぐらいにまで楽な体操になってしまう。一説によれば、南朝鮮駐留の師団に属する一兵士が、同盟国の南朝鮮軍がそれをやっているのを見て日本にも持ち込んだらしい。

 他にも、

 「サイクリング」は、体を両腕で支えた状態で、宙ぶらりんになった足を教官がよしというまで自転車を扱ぐ容量でバタバタさせる罰直だ。

 「バイク」は、両手を前に出させ、バイクか何かにまたがったような姿勢を取らせたまま何十分も耐えさせる。やがて、耐え切れなくなり手足が痙攣してきても

 「ホーラ、エンジンが掛かってきた。だが発進までもう少しだな」

 と、さらに耐えさせるのだ。

 その効果の程は別として、こういう鍛錬(?)の末に帝國陸軍の兵士は育っていくのである。



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