その一 「入営が決まった」
『鳴沢 醇 殿
昭和四八年年七月一二日を期して満二十歳に達したこと。謹んでお喜び申し上げます。
つきましては貴殿の兵役適齢に達しました由、以降の流れについて左に詳細致します。
貴殿の本籍地は西部軍管区に属するものです。よって、左記の場に出頭し、該当検査を受診してください。
〒○○○―○○○○
福岡市小倉区○―○○―○
陸軍歩兵第256連隊本部。
なお、出頭時は本書類を必ず持参してください。個人照合に必要となります。
期日 同年八月六日正午までに出頭すること。所用により期限を果たせざる場合は左記部署に必ず連絡すること。
〒○○○―○○○○
東京市六本木○―○○―○
防衛省人事課 電話○○○○―○○―○○○○
もしくは最寄りの帝國陸海空軍地方連絡本部及び在郷軍人会
※もし連絡無く期限までに出頭しない場合。刑法○○条の義務不履行罪に問われる恐れがあります。ご注意ください。
貴殿のご健闘を、心よりお祈り申し上げます。
防衛大臣 中曽根 康弘
帝國陸海空軍統合作戦本部長 海軍大将 小福田 晧文』
それは、ぼくが二十回目の誕生日を迎えた三日後のことだった。
夜も更け、長引いたバイトに疲れた足を引き摺って帰り着いた安アパート。今にも壊れそうな新聞受けに無造作に差し込まれた親からの手紙。そこに同封されていた「それ」を何気なく開いた瞬間。ぼくの青春は終わった。少なくとも、ぼくはそう思った。
「それ」が、いつかはやってくることぐらいわかっていた。しかし、余りにも早すぎる。夢にまで見た東京暮らしに漸く慣れてきたと思った頃には大学二年生。それもようやく二十歳に達したばかりのぼくに、お国はこれから約束されているであろう青春を捨て、これから三年の間を国に全てを擲つ防人として過ごせというのだろうか?
若いぼくらは「それ」――――つまり召集令状のことを「ホット‐ペッパー」と呼んでいた。
その語源はもちろん、戦前から召集令状の一般的な固有名詞となった「赤紙」である。最初の頃は赤紙をそのまま英訳してレッド‐ペーパーと呼んでいたのが、いつの間にかホット‐ペッパーに訛って呼ばれるようになっていた。レッドは赤い。赤いといえば唐辛子を連想させる。それがレッドをホットに変えた。それに、ペーパーよりペッパーのほうが、何となく語呂がいい。そんなわけで、次第にそういう別称が定着してしまったらしい。でも、未だ兵役を経験していない若者にとってその響きは苦々しいものがあった。
日本国籍を持つ成人男子は、二七才までに入営し、兵役を勤めることが義務付けられている。
「大東亜戦争」後、かの大日本帝國憲法が、「民主化の推進」の美名の下一九四五年に国論を二分した大波乱の末に改正されてもなお、教育、納税と並ぶこの「国民の義務」は抹消されることはなかった。
期間は陸海空軍各三年。しかし例外として、海空軍のように任務に一定以上の専門性が要求される分野によっては、さらに数ヶ月ほど延長されることもある。
電車の通過する度に、襲い来る震動にブランブランと揺れる煤けた白熱灯の下。ぼくは軍隊生活を想像して、暗澹たる思いに浸っていた。
小学生の頃、熱心に読みふけった月刊の少年雑誌には、必ずといっていいほど軍隊の特集が組まれていた。大東亜戦中の戦記読み物はもちろんのこと、海原を勇壮に進撃する艦隊。ジェット戦闘機の編隊飛行。戦車の分列行進のカラー写真に多くの少年が胸を躍らせたものだ。
あの時代。当時のぼくらと大して変わらない年頃の子供が、パイロットやら、戦車兵やら、レンジャー部隊の服装に身を包んだ姿が、三ヶ月に一回の割で巻頭を飾っていたものだ。戦車や戦闘機を背景ににっこりと作り笑いを浮かべる少年の姿に、自無自身の姿を投影した人もさぞかし多いと思う。
……だが、理想と現実は違う。
青春を満喫しながらも、すでにそれぐらいのことぐらい十分に理解できる年頃になったころ、ぼくは兵役該当年齢を迎えた。
本当の軍隊生活がどういうものであるのかぐらい、ぼくには多少は想像がついていた。なぜなら親戚に軍隊経験者が二、三人ほど居たから軍隊や教育を受ける内務班がどんなに恐ろしく理不尽なところであるか嫌と言うほど聞かされたし、僕自身次のような経験がある。
――――それは、東京の歩兵連隊に一足早く入営していた高校の先輩を訪ねたときのことだ。
先輩が入営して最初の面会日を迎えたときのこと、ぼくらの前に現れた先輩は、ぎらついた目でぼくらを睨むように会釈したのを覚えている。丸刈りもマイナスに働いたのだろうが、先輩の人相はぼくらが知るものよりずっと悪くなっているように見えた。よく見れば精悍な顔、と言えるかもしれないが……。
コロッケ六個。太巻き寿司十本。チョコレート四枚。缶ジュース八本……ぼくらの持って来た差し入れを眼にした瞬間。先輩のノドが「ゴクリ」と鳴る音をぼくらはハッキリと聞いた。戦前大恐慌時の欠食児童も真っ青の食欲を発揮しそれら全部を面会時間三十分の内に忽ち平らげると、唖然とするぼくらを前に先輩は息も絶え絶えにこう言ったのだ。
「内務班に持って帰れば、班長や古参兵に食われちまう」
その帰りの電車の中で、ぼくらは語り合った。
「なあ醇ちゃん。俺たちも入営したらああいうふうになっちまうのかなァ?」
「俺、あんなのイヤだよ」
そう言いつつも、あの頃のぼくらには未だ余裕があった。何故なら、「大学生は徴兵されない」という半ば信仰にも似た流言が学内はもとより世間にもまことしやかに広がっていたからだ。かつての「大東亜戦争」時。当時大学生だった多くの若者が前線で貴重な生命を散らし、日本の将来を担う貴重な人材の損耗に繋がったことに対する反省が、学生に対する選抜に多少の手心を加える傾向にあるらしかった。件の先輩も、高校を卒業してすぐに就職で上京し、落ち着いたところで籍を移したところにホット‐ペッパーが舞い込んできたのだった。
夏季休校に入ったのを見計らって、ぼくは検査を受けるために帰郷することにした。当時はやりの新幹線に乗る金なんて持ち合わせていなかったので、下関まで夜行を乗り継ぎ、そこから定期船で門司に渡る。
そこからさらにバスに乗り、路線の改装を終えたばかりの西鉄福岡駅ビルを初めて眼にした感慨もそのままに、福岡市内の実家に帰り着く頃には、すでに三日目の夜になっていた。後数日で、出頭の期日になるところだ。
さすがに、
「よく帰ったねえ」という雰囲気ではなかった。
母はぼくの帰りを喜ぶよりも、今後の成り行きを心配するあまり家事も手に就かないという様子だった。すでに社会人となり、結婚して二児の父となっていた兄は、同僚の兵役経験者から聞いた話をあれこれと教えてくれる。あたかも、ぼくがもう入営が決定したかのように……三年上のこの兄もまた、いわゆる「兵役適齢期」なのだが、ある理由で兵役免除となっていた。それもまた後述する。
その兄は、
「軍隊はとにかく腹が減るそうだ。せめて娑婆にいる間はたくさん食っとけよ」
「なるべく列の真ん中にいろ。そうすれば大抵の嫌なことは避けられるそうだ」
等等、食事の度にいろいろなことを教えてくれる。そんなことを続けられては勉強になるというよりむしろ気が滅入りそうだった。
「お前、静かにしないかっ!」
ぼくが堪り兼ねるより早く、銀行員の父が拳で卓袱台を叩いた。その父は父で、上司の息子が空軍に勤めているらしく。
「○○さんの長男坊は築城の空軍基地に勤めているそうな」とか、
「もし行くんなら空軍の方がいいぞ。事務係にでもなればそんなに殴られずに済むらしいからなァ……」
などと、兄に替わってとうとうと話を始める始末。皆なりの親切心からなのだろうが……。
そうこうしている内に、出頭の期日が来た。
その日、基地まではバスと市電を乗り継いで行った。道を進むにつれ、行き交う車列の中には鼻先に星のマークをつけた濃緑色のジープやトラックが混じり始め、電車に乗り込んでくる客の中にも、カーキ色の軍服が目立ち始めた。陸軍の制服だ。
ああ、自分も入営すればあんな風になるのか……ふと、そんな感慨が沸いた。軍隊は嫌だが、ああいう服装には何と言うか独特の高揚感を感じる。
陸軍小倉基地の正門前に到着したのは、正午まであと三〇分を残した時だった。
厳しい鉄製の正門前に設けられた臨時の窓口には、すでに人ごみができていて、その内訳は検査を受ける本人と付き添いの家族だ。
垢抜けた感じの長髪姿の若者もいれば、すでに入営に備えて頭を丸めた田舎者っぽい人もいた。おそらく久しぶりに、もしくは生まれて初めて袖を通したであろう背広と、丸刈り頭のチグハグさが、何となく笑いを誘う。
だが、場の雰囲気は一様。まるで葬式を思わせる重苦しさが、正門前に妙な熱気を醸し出していた。ぼくのように、一人でやってきたのはむしろ少数派だ。
窓口からやや離れた哨所では、小銃を提げた兵士が無感動にぼくらの様子を伺っている。
「すげえ、六四式小銃だ」
人ごみの誰かが、言った。初めて眼にしたときは、単なる戦争の道具程度にしか見えなかったが、後に入営したときこいつには散々悩まされることになる。
正門越しから微かに伺える広大な敷地内の所々には、先程街中で見たジープやトラックが無骨な外観を休ませている。
「ハーイ、並んでくださーい」
女性の声がした。目を向けた先では、軍服姿の女性が、窓口から手を振って群集に集合を促していた。
「近頃の軍隊には、女の兵隊さんもいるんだねえ」
誰かが言うのを、ぼくは聞いた。年取った女性の声だった。
ぼくの前には、長髪の若者が並んだ。海援隊の武田鉄矢のような、脂ぎった長髪からは、むせ返るほどの汗臭さが漂い、着ている半袖シャツには大きくピースマークがプリントされていて、ヒョロっとした細い足を覆うジーンズは所々に大きな穴が空いていた。きっとこいつの趣味はフォークギターなんだろうなァ……。
背後には、母親らしきお婆さんを伴った毬栗頭の男が、口を真一文字に閉じて窓口の様子を伺っている。きっと遠方遥々人里はなれた田舎からやってきたのだろう。そう思えるほど、何となく間の抜けた顔をしていた。
そうこうしているうちに、窓口で手続きを終えた連中が、どんどん基地の奥へと歩を進めていく。
やがてぼくの前にいる「ヒッピー」君の番になったとき、彼は唐突に窓口の女性兵士に口を開いた。
「兵隊さん、もし検査に受かったら、俺絶対兵隊に行かなくちゃいけないの?」
「国民の義務ですから、従って頂くほかありません」
そっけなく、女性兵は言った。文字通りの即答だ。
「えー……そうなの? 俺さァ、フォークやっててさァ、全国デビュー考えてんだけど……」
「そんなこと言われましても……」
確かに、ここでそんなこと言われても、ぼくでも困る。満面に嫌悪感溢れる表情を滲ませ、用意された書類に必要事項を記入すると、ヒッピー君は本部へと続く道を進んでいく。
そして、ぼくの番になった。
ぼくが差し出したホット‐ペッパーの文面を確認すると、その女性兵は微笑みかけた。「頑張ってくださいね?」
軽く会釈して、ぼくは基地の敷地へと足を踏み入れた。
ディーゼル音もけたたましく、装甲車が通り過ぎていく路肩を、ぼくらは一列になって歩いた。ここでも誰かが声を上げる。
「あれが、四七式指揮通信車だろ」
「ああ、でもあれアメさんのM8装甲車のパクリなんだよな」
どうやら、中にマニアが混じっているらしい。
途中、所用で敷地を行き交う兵士に何度もすれ違った。良く見れば、兵士同士がばったりと遭遇したときに敬礼を交わしている。軍隊ではそれが普通なのであって、そんなことを知らないぼくらは、ここではあくまで異邦人なのだ。
本部から少しはなれた武道場に、検査の場はあった。
広い道場には体重計や身長計はもとより、兵士として相応しい人材を発見し、選別するための器具が所狭しと並んでいて、その傍では白衣を着込んだ医官が、「さあ来い」とばかりにぼくらを待ち構えている。
数名の兵士が大きなカゴを抱えてきて、ここに衣類を脱ぐよう指示をする。
「貴重品はこちらに預けるようにしてください。下着一枚になった方から先に検査を開始します」
検査が、始まった。
当時、男が履く下着はちょうど三種類に分かれていた。ぼくのようなトランクス派と、ブリーフ派。そして昔ながらの褌派だ。田舎から来た人にはまだまだ褌派が多かった。さっきぼくの後ろに並んでいた毬栗頭のお兄さんは、赤い褌をしていた。
「兄ちゃん。すごいもん履いとるのう」
ひげの剃り跡も生々しい、いかにも古参兵といった感じの兵士が笑いかけた。男も、苦笑っぽい笑みでそれに応じる。
「汚ねえなぁ……あんた」
と医官に露骨に嫌がられているのは、例のヒッピー君だった。不健康なまでに黄ばんだブリーフが、彼の眼に留まったのだ。
最後に案内されたのは、道場の奥まった一室だった。部屋を出る者誰もが、何故か顔を赤らめ、困惑したような表情を浮かべている。それは一見して奇妙な光景だった。
「何やるんだろう?」
「さあ……」
先に入ったヒッピー君もまた例外なく、困惑したような顔をして出てきた。
「ねえ、何やってんの?」
「……行けば、わかるよ」
それだけ言って、彼もまたそそくさと立ち去っていく。傍に居た衛生兵が、ぼくに部屋に入るよう促した。
入った部屋では、マスクをした眼つきの悪い医官がぼくを待っていた。傍には、一杯に消毒液を満たした洗面器。何か、嫌な予感がした。こういう時の予感は、何故かよく的中するものだ。
開口一番。彼は言った。
「ハイ君。パンツ脱いで」
え……?
「後が支えてるんだから。早くしてよ」
その口調、仕草に「面白くねえんだよな、これ」という態度がありありと浮かんでいる。これ以上、焦らさないほうが良さそうだ。言われるままにぼくはパンツを脱ぎ、彼の前に立った。
「君、性病やったことある?」
あるどころか、当時のぼくにはセックスの経験すらなかった。「ない」と答えると、さらに聞いてくる。
「性交の経験は?」
「ありません」
ぼくは頭を真一文字に振った。
「ちょっといいかな?」
と、不意に延びた手が、ぼくのイチモツをぎゅっと掴んだ。突然の圧迫感に、ぼくは眼を白黒させた。
「よし……! 次は後ろ向いて」
はぁ……?
「後ろを向くんだよ。ウシロ」
言われるままに、ぼくは彼に背を向けた。
「ハイ、尻を出せ」
言われるままに、腰を曲げた。後ろで、なにかがチャリンと鳴るのを、ぼくは聞いた。金属が触れ合う音だ。
お尻の、それも最もプライベートな部分に、何か冷たいものが触れた。思わず、ぼくは眼を瞑った。
「よし……! 次の人」
ぼくが、顔を赤らめて部屋を出たのは言うまでも無い。
検査は、大体二時間で済んだ。内容は大体学校でやる身体検査のようなものだ。結果が送付されてくるのは一ヶ月ぐらい後になるらしかった。
帰途につく正門の付近では、パンフレットの束を抱えた兵士達がぼくらを待ち構えていた。
「どうぞ。お持ち帰り下さぁーい」
と、差し出されたパンフレットを渡したとき兵士の一人とぼくの眼が合った。そのときぼくは気付いたのだ――――口では笑顔を浮かべていても、全く笑っていない彼の眼に。
パンフレットの内容は、簡単に言えば軍のPRだった。
例を挙げれば、食事中を写真に取られニッコリと笑う兵士達。
そして、訓練中、戦車と富士山をバックに集まりピースサインを見せる兵士達。
末尾には入隊すれば無料で利用できる保養所や温泉つき宿泊所のリストも記されていて、「軍隊は楽しい」ということを読む者にしきりにアピールしてくるのだ。そういえば、昔の少年雑誌でもこういうことはしきりに言われていたなァ……「和気藹々とした男所帯もイイかも」などと読む者に思わせるわけだ。
「いいなあ、俺、検査に受かったら絶対行くよ」
などと、景気のいい話をしている者もいる。少しでも実情を知っていればこういう言葉は出てこない。
パンフレットを眺めながら基地の塀越しに少し歩いたところでは、軍人ではない別の一団がまたなにやら配っていた。背後に掲げられた横断幕から、彼らがどういう人々かは容易に想像がつく。
「米帝国主義の魔手からベトナムを守ろう!」
「アメリカに与する日本帝国主義を許すな!」
配られたガリ版刷りのビラには、例の如く独特のゲバ文字書体が踊っていた。その末尾に、思わずぼくの眼が釘付けになる。
「徴兵忌避窓口
℡○○―○○○○―○○○○
勇気を出して、電話しましょう。悪辣な日本封建支配体制に抵抗しよう!」
要するに、そこへ電話すれば彼らが脱走の手配をしてくれるというわけだ。
戦後の「民主化」は戦前と比べはるかに広範な領域において政治活動の自由を許してきたが、それでも枠から外れる人々はいる。最初のピークは一九五〇年に始まった朝鮮戦争で、第二のピークがその頃進行中だったベトナム戦争だった。
日本は朝鮮戦争に南朝鮮側に立って参戦し、最大で十万人の兵士を送り込んだ。その後に続いたのは日本本土の急速な前線基地化だった。
「新たな敵共産主義に対するアジアの防波堤」
と、当時の日本の偉い人々は日米同盟を正当化したものだ。
それが本当に、道義的に正しい事なのかどうかはぼくには判らない。ただ、やはり多くの人々が首を傾げたのは確かだ。「アメリカとの戦争には勝ったはずなのに、どうしてアメリカの言うことを聞かなければならないのか?」と。
かの「大東亜戦争」では、恐るべき損害と犠牲を払いながらも、日本はどうにかアメリカの反撃を食い止めることに成功した。しかし、「無条件講和」という形で連合国と和約を結ぶ代償に、日本はこれまで確保してきた大陸の利権。そして朝鮮や南洋の植民地を手放すしかなかった。そして連合国が言う「民主主義」を受け容れざるを得なかった。
「日本は試合に勝ったが勝負には負けたのだ」
ある有名な評論家はそう言った。それが的を射た意見かどうか結論が出る頃にはぼくはおじいちゃんになっているのだろう。
戦争には勝つには勝ったが、多くの人々が、それから何も得ることが出来なかったと感じていた。そして何故かそれを政治のせいではなく、実際に戦った軍隊のせいにした。軍人の社会的地位は徴兵制の存在にも拘らず落ちに落ちた。
民心が離れたことと、「民主化」によって、戦前は絶大だった軍部の影響力はほとんど失われていたのだ。後に起こった朝鮮戦争や台湾海峡の戦闘にある程度の戦果を収めても、そうした状況は変わらなかった。
アジアから日本の影響力が失われた一方で、その間隙を縫うようにして浸透してきたのは、共産主義という新たな脅威だった。
現在日本は、その国土の北方においてソヴィエト連邦。南方において中華民国に替わり中国大陸を支配している中共(中国共産党)と対峙している。
その大陸では、国民党が共産党に追い落とされ、現在では国民党は、アメリカはニューヨークの小さな雑居ビルにその形ばかりの亡命政権をひっそりと構えているに過ぎない。第二次国共内戦時。国民党の後押しをしていたアメリカは、内戦の旗色が悪くなるや台湾に国民党の行政機能を避難させ、あわよくば大陸反攻への足掛かりとして台湾そのものを国民党に支配させようと考えていたらしいが、日本が「大東亜戦争」中既に、台湾に独自の民主政権を樹立させ独立させてしまっていたため、彼らには行くべき場所がなかったのだ。
その代わり、日本が放棄した朝鮮にはアメリカの意を受けた政権が半島南部に成立し、ソ連の後押しの下、北部を押さえた共産政権と対峙している。その南の「民主政権」は日本に対し友好的かというと決してそうではない。
あの「治安維持法」はその量刑基準において戦前に比べかなり緩和された一方で、共産主義とそれに類する政治活動は相変わらず禁止されていたが、それでも、一部の、ある程度の教養を持つ人々の、共産主義、社会主義に対する憧憬にも似た感情は根強かった。
「民主化」によって戦前より遥かに学問の自由枠が広がった大学などは、そういう感情が発露する絶好の場となった。ぼく自身、入学時そういう集団に誘われたし、その種の集会にも義理で顔を出したこともある。周りの友人の中にも、そういう活動に染まっていった人は結構いた。
毎月のように軍基地の前で繰り広げられる反米、反体制デモ。そして一部の先鋭的な極左過激派。もしくは戦後「民主化」体制に不満を持つ極右過激派のテロ行為は、未だ止むことなく続いていた。
ベトナムには日本は軍隊を送っていないが、それでも日本の軍隊は現在三つの海外拠点を持っている。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と南朝鮮(南朝鮮連合国)の国境を防衛する一個師団と、台湾民国の高雄に根拠地を置く海軍機動部隊。そして度重なる中東戦争後、国連の要請を受けてエルサレムに展開している停戦監視部隊だ。ぼくも入営すれば、こうした海外の部隊へ行かされることになるかもしれない。
結果を受け取ったのは、それからきっちり一ヶ月が経過した頃だった。
大学の休みは、未だ続いていたが、こういう状況ではまともに休みを楽しめないものだ。
『鳴沢 醇 殿
兵役該当区分・甲二種
この度の徴兵検査の結果。貴殿は所定の基準を満たし、兵役に十分耐えうると判断されたことをここに通知致します。
この度の兵役確定、心よりお喜び申し上げます。
左記の期日までに身辺の整理を済ませ、十分なる準備の上に後述する該当部隊に入営してください。
期日 昭和四九年三月一四日午前八時三〇分
※諸事情により期日までに入営を果たせない場合。事前に最寄りの帝國陸海空軍地方連絡本部に連絡してください。
※事前の連絡無く期日までに入営しない場合、刑法○○条の脱走罪に問われます。ご注意下さい。
該当部隊 陸軍小倉基地。歩兵第256連隊。
貴殿の御健闘を、心よりお祈り申し上げます。
防衛大臣 中曽根 康弘
帝國陸海空軍統合作戦本部長 海軍大将 小福田 晧文 』
こういうのを本物の「レッド‐ペッパー」というのだろう。文面を一読した瞬間。ぼくはベッドに突っ伏した。
うああああああ……!
ぼくの青春は、本当に終わった。だが、クヨクヨしたところで始まらない。犀は投げられたのだ。ぼくの意思と関係なく。