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学校では色んな期待をかけられる。
家庭には居場所がない。
そんな彼方が唯一生きている実感を得ることができる時間は
音楽に接しているときだった。
最初は父から強制的に学ばされたものだが、
本当に好きでなければ今まで続けてこれなかった。
中でも声楽に惹かれた。
無機物を媒介とする器楽と違って
自分が楽器になれる。
なんの道具も使わず、自分の声だけでメロディーを「奏で」られる。
こんな素晴らしいことがあるだろうか。
習うのは専らクラシックだが、
歌なら何でも好きな彼方は
ロック、ポップスや演歌のボイストレーニングも独学で始めていた。
「君も見ているだろう
この消えそうな三日月…」
今日も誰もいない聖堂にピアノの音と彼方の美声が響く。
その様子を扉の影でじっと見守る美笛。
(何気なく歌っているのに、カナちゃんの歌は心惹かれる。
誰が作った歌だろうと、口に出した途端、カナちゃんのものになる。
やっぱり天才なのかな?
それに比べて私は…!)
そのとき、歌声とピアノが止んだ。
「美笛、いるんだろ?」
「…っ!」
全く、彼方は鋭い。
美笛は怖ず怖ずと扉の中へ進み出た。
ステンドグラスからの光が眩しい。
「時間が空いたからお祈りに来たの。そしたらカナちゃんの歌声が聞こえたから、何だかいつまでも聞いていたくなって…。」
美笛は照れながら言った。
彼方は愛おしそうに笑う。
「本当に美笛は敬虔だな。防音室が空いてなかったから聖堂を借りたんだよ。……そういえば美笛の教会は聖公会だろ?教名はあるのか?」
そう、英国国教会である聖公会は教名(洗礼名)を授ける。
「『アグネス』よ。」
美笛は誇らしげに答えた。
いつも自信なさげな彼女には珍しいことだ。
「アグネス?あまり聞いたことがないね。」
彼方は首を傾げる。
「古代ローマのアグネスよ。3世紀ころ、12歳で殉教したアグネス。ラテン語で『子羊』という意味なの。」
彼方はふと思い出した。
そう言えば聞いたことがある。
3、4世紀ころ、古い宗教を重んじたディオクレティアヌス帝の下で殉教したといわれる12歳の聖女アグネス。
町中を全裸で引きずり回されるという拷問を受けたが、急に彼女の髪が伸び体が隠された、
火に投じられても死なず、最期は斬首された、などの伝説を持つ。
彼女は
「キリストは私の花婿です。
私を最初に選んで下さったのはキリストですから、その方に従います。」
と言って亡くなった。
「…私もそこまで信仰を通せる人になりたいの。」
美笛は目を輝かせていた。
彼女は洗礼を受けたときの感動を思い出していた。
洗礼を受けたのは10歳のとき。
洗礼式は教会の近くの湖で行われた。
美笛が使徒信条を唱えたあと、
主教は彼女をザバッと水に沈めた。
そのとき、目の前の水面が太陽の光でキラキラ光って美しかったことを覚えている。
美笛はクリスチャンになれたことでそれまでより前向きになることができたのだ。
「…君は神様のために死ねるの?」
彼方は複雑な思いだった。
「死ねるわ。」
美笛はきっぱりと言い放った。
相手が神では嫉妬する気にはなれない。
しかし、それが蟠りの源だった。
こんな敬虔で純粋な美笛だから好きになった。
なのに…自分はそんな彼女に対してありえない想いを抱いている。
背徳的な想い、
神に背いた想いを。
それがすごく後ろめたいのだ。
続きます。




