last
25年間の人生で
彼方を「カナちゃん」と呼ぶ者は一人しかいなかった。
「アグネス美笛!」
司祭も驚いて声を張り上げた。
彼女はやや緊張した面持ちでこちらへ近づいてきた。
昔と変わらない柔らかい声。
烏の濡れ羽のような黒髪。
切れ長の目。
地味だが優しい顔立ち。
少しふっくらとした体つき。
夢でも幻覚でもない。
…美笛だ。
もうお下げではないし、
おどおどした感じも抜け、大人びたが
あの頃とほとんど変わっていない。
予想外のことに彼方の頭は真っ白になった。
驚いて瞬きもできない。
「しばらくだったわね。カナちゃん。」
呆然と立ち尽くす彼方に優しく微笑みかける彼女。
「司祭さまもお久しぶりです。私のことを覚えていて下さったんですね。」
司祭にも丁寧に頭を下げた。
「貴女のような熱心な信者を忘れるものですか!」
司祭は両腕を広げて感動を示した。
美笛に聞きたいことがたくさんあったが、ここは2人を気遣って出ていくことにした。
「お2人ともつのる話もあるでしょうから私はこれで。」
司祭はそう言って頭を下げると礼拝堂を出ていった。
司祭のこの気遣いは逆に困るものだった。
特に彼方は。
2人きりにされてしまった気まずさ。
「カナちゃん、随分大人っぽくなったのね。昔よりもずっと美人だわ。」
美笛はうっとりと彼方を見つめた。
割と落ち着いている。
彼女の胸は懐かしさと愛しさでいっぱいだった。
…一方、彼方は幽霊でも見るような目つきで美笛を見ていた。
多分、彼女は目の前の美笛が幻か実体かの判断さえついていない。
「……なぜ会いに来た!?」
低い声で呻くように問う彼方。
「カナちゃん……。」
美笛にもよくわからなかった。
なぜ彼方に会いに来たのだろう。
お互い気まずさから今まで避けてきたのに。
ただ、向き合う時が来たような気がしたのだ。
「なんで!?……なんで僕に笑いかけられるわけ!?
あんなけだものみたいなことしたのに!
嫌いにならないのか!?
忌まわしくならないのか!?
なぜこんな醜くて汚い僕になんか会いに来るんだ!」
彼方は興奮して声を荒げていた。
自然に男言葉に戻っている。
我ながら成長していないな、と思ってしまった。
もう大人なのだから冷静に対応すればいいものを。
美笛は息を吐くと、何か覚悟を決めたように答えた。
「…………私も貴女が好きだったわ…。
貴女と同じ意味で。」
「……!?」
…彼方は泡を食った。
信じられない言葉だった。
まさか敬虔なクリスチャンの美笛が…。
まさか自分を………。
「……それでなくても私がカナちゃんを嫌いになることなんてできないわ。
貴女がけだものなら私もけだものよ。
貴女が裁かれるなら私も裁かれるべきよ。」
美笛はそう言うと祈るように指を組んだ。
声は落ち着いていたが、彼女の肩は少し震えていた。
「…………。」
衝撃のあまり、彼方は絶句してしまった。
「自虐的になるのはやめて。貴女は醜くも汚くもないわ。今でも私にとって一番綺麗な存在よ。だからもうあのことは気に病まないで。」
美笛は彼方の頬へ手を伸ばした。
相変わらず温かい手。
あの合宿での自分の愚行が頭を過ぎった。
「……7年前の合宿で、僕は寝ている君にキスした。」
彼方はもう全てを打ち明けることにした。
「知ってるわ。起きてたの。」
…衝撃の一言。
しかし美笛はさらっと答えた。
「!?」
「あ、でもね、現実だったんじゃないかと思い始めたのは卒業式以降だったわ。それまでは夢だとばかり思ってたの。
貴女のこと好き過ぎて、憧れ過ぎて願望が夢に現れたんじゃないかって思い悩んだわよ。」
苦笑する美笛。
「美笛…。」
彼方は美笛に驚かされてばかりで呆然とするしかなかった。
自分の中の美笛が壊れたことへの衝撃もあるが、
多分畏怖からだろう。
美笛はもう以前の彼女とは違う。
もう自分が愛しく思っていた無邪気ではにかみやな少女の美笛ではなかった。
今目の前にいるのは、芯の強い大人の女性。
きっとこれが美笛の本当の姿なのだろうと彼方は必然的に思った。
「愛してるわ。カナちゃん。貴女一人を罪人にさせない。」
彼方を一心に見つめる彼女。
彼方は目を閉じると美笛の手のひらに頬を擦りつけた。
美笛の体温は彼方の7年間の罪、汚れを全て清めてくれるようだった。
悲喜こもごもの涙が頬を伝う。
気持ちが浄化されていくのを感じた。
髪を切るなんて簡単な儀式で忘れられるようなお手軽な恋ではなかった。
あれで忘れられたらどんなに楽だったか。
しかし今、自分の中の美笛が壊れ、上書きされたことで彼方はようやく「失恋」したのだった。
……とは言っても美笛が愛しくなくなったわけではない。
美笛がどんな面を持っていようと
彼女は彼方の聖域に変わりなかった。
(主よ、お赦し下さい。彼女に愛されたことがこんなにも幸せです。)
美笛も同じ気持ちだった。
美笛とてこの7年間、片時も彼方を忘れたことはなかった。
ずっと自分の片想いだと思っていた。
だから夢みたいだった。
あの日の彼方の唇。
彼方の愛撫。
死にそうなほど嬉しかった。
しかし、喜んでしまった自分がまたショックでもあった。
美笛は敬虔なクリスチャンだが
イエス・キリストのような聖人君子ではないから
完全にリビドーを昇華させることはできなかったのだろうか。
だが、そうだとしてももう消したいなどと思っていない。
なぜなら…
美笛はずっと
彼方と同じ傷を負いたい、
彼方と同じ苦しみを与えられたい
と願っていた。
…この恋がそうだったのだ。
思いがけないことに、この恋こそが彼方と同じ苦しみそのものだった。
美笛の願いは願うずっと前から叶っていたのだ。
いや、これは前世から決まっていた運命なのではないか。
彼方と美笛は女同士で
宗教上はもちろん
社会的にも結ばれない運命。
しかしこのリビドーが神の与えてくれた苦しみなら
永遠に癒えることのない傷として
この気持ちを心の奥に残しておきたい。
自分と彼方の間に友情以上のものが存在した証。
共に苦しんだ証。
彼方が忘れても自分は忘れたくない。
彼方との出会いが
神の導きであっても
悪魔の「試み」であっても
構わなかった。
彼方は自分に「愛」を行わせてくれた。
美笛の彼方への愛は、
もはやキリスト教の絶対性すら越えたのかもしれない。
「カナちゃん、泣かなくていいのよ。」
美笛は彼方を抱きしめると赤ん坊をあやすように背中をさすった。
(天のお父様、罪深い私たちに愛という贈り物をありがとうございます…。)
大人になった二人の関係は完全に逆転していた。
「今日はお互い女子高生に戻って話そうね。
久しぶりにカナちゃんの歌声が聞きたいわ。
私のオルガン伴奏で『夕べの賛歌』を歌ってくれる?」
fin†
見ての通り、見事な失敗作です。
話はバラバラ、よくわからない彼方のキャラクター。なにを伝えたいのかわからない物語になってしまいました。
今、書き直し中です。
美笛のキャラクターは変わらない予定ですが、彼方のキャラクターはかなり変わると思います。(というより色々つけ加えられる)
エピソードの順番、構成大幅に変えられます。
わりと早く編集されるかもしれません。




