29
「………なた………!かなた……………!
彼方!何やってんだ!」
張りの強い和也の声。
「っ!」
回想から覚めた彼方を待っていたのは
目の前でもくもくと真っ暗な煙りを上げている野菜炒めだった。
「ごめんっ!」
彼方は慌てて火を止め、窓を開けた。
「ったくお前は何ボーッとしてんだよ!火事にでもなったらどうすんだ!」
和也は呆れ口調で雑誌をバタバタ仰がせていた。
数分後…ようやく煙が落ち着いてきた。
「ごめん、ちょっと昔のことを思い返してて…。」
彼方は切なげにつぶやいた。
そんな姉の顔を見て和也はぎょっと目を見開いた。
「……………お前、何泣いてんの?」
彼方はハッとして涙を拭った。
「……ちょっと顔洗ってくるわ。」
これはばつが悪い。
唖然とする和也を残して彼方は自室へ引っ込んだ。
もう日は沈んでいたが、照明をつける気にはならなかった。
彼方は窓を開けると、空を見上げた。
満月ではないが、あの日と同じ明るい月。
胸が締め付けられた。
7年たった今でも、未だに美笛を想い続けている自分がいる。
美笛に会えなくなってからというもの
何とか彼女を忘れようとやけくそになって
誰構わずと女と寝まくった時期がある。
しかし、彼方は火遊びを楽しめるような人間ではなかった。
「美笛は」
「美笛が」
「美笛も」
「美笛なら」
別の女と肌を触れ合わせながら、そんなことばかり考えていた。
無意識に声に出してしまい、
「ミテキってダレ?」
と相手に尋ねられることもあった。
その場限りの関係なのだから笑われて終わりだったが。
そんな自分に嫌気がさしていたとき
親戚から結婚の話を持ちだされた。
今どき20で結婚なんて、と反対したものの、
「いつまでシンガーソングライターなんて馬鹿げた夢を見てるの、少しは現実を考えなさい」
と叔母に怒鳴りつけられ、
10歳年上の従兄弟違いと結婚させられてしまった。
当時ホテルのラウンジなどで歌ったり、
カラオケのガイドボーカルなどを経て
シンガーソングライターの道へ着実に進んでいっていたというのに。
結婚生活は苦痛でしかなかった。
音楽に打ち込めなくなる。
言葉遣いや立ち振る舞いまで女らしさ、妻らしさを強いられる。
毎日のように「子供はまだか」と尋ねられる。
はっきり言って気持ちが悪かった。
毎日鏡で自分の顔を見るたびに
「こんなの自分じゃない
こんなの自分じゃない」
という声が脳裏に響いてきた。
もうこの人の人生に便乗することはできない、と
夫に全てを打ち明け
三行半を突き付けた。
結婚して2年もたっていなかった。
身勝手だとわかっていた。
夫はショックで絶句していたが、
そのあと母親に泣きついていたらしい。
それなりに彼方を好いていたのだろうか。
「はあ………」
彼方は膝を抱えて顔を伏せた。
情けない人生だ。
「失せろよジジイ!貴様いい加減にしねーとケツに灯油流し込んでぶっ殺すぞ!」
和也の怒鳴り声が聞こえる。
多分訪問販売を追っ払っているのだろう。
(それにしてもひどい。どこで間違えたんだか。)
彼方は楽譜を丸めると、和也の黒髪の頭をひっぱたいた。
「っ!いってー!何すんだよ!」
「ひどい言葉遣いね。どこで覚えてくるの?そんな下品なセリフ。私はそんな言葉を使う子に育てた覚えはないけど?」
彼方は父に似たのか、和也に対して昔から厳格なしつけを施していた。
和也は面白くなさそうに顔を歪めると、
キッと彼方を睨みつけた。
「…じゃあ、俺も言わせてもらうけど、
…お前の女言葉、超きもい!
5年たった今でも鳥肌たつわ!
まじ似合わん。」
和也はそう言い捨てると庭へ出ていった。
彼方はしばらくキョトンとしていた。
しかし、だんだん和也の言葉の意味がわかってきた。
(和也…………。)
胸の当たりから温かいものが溢れてくるような感覚。
「そんなに好きなら会いにいけよ!」
庭から戻ってきた和也は一枚のハガキを手にしていた。
「ほらよ!今朝届いたみたいだぜ!」
和也はそのハガキを彼方に差し出した。
そのハガキの差出人欄には…
「桜川美笛」
彼方は固唾を呑んだ。
あれから一切美笛と連絡はとっていない。
裏に返すと
カールス教会の写真と
「近日一時帰国します。」
とのメッセージ。
それだけであった。
続く。




