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彼方は胸を張ってステージへ立った。
声楽をやっている者は皆そうだが、
彼方の立ち姿はいつも凛としていて美しい。
彼女には「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉がよく似合う。
長身痩躯で容姿端麗だということもあるだろうが、
やはり育ちのよさから気品がにじみ出ているのであろう。
パイプオルガンの前奏が流れ出した。
彼方は溢れんばかりの観衆を見渡すと
深く息を吸い込み、
フルートのようなソプラノで歌いだした。
…皆息を飲んだ。
この会場の空気は全て彼方のものだった。
彼方ほど声楽家にふさわしい者はいないと皆思った。
キリスト教の神を讃える「夕べの賛歌」も
自分に似合わないと考えていた「私のお父さん」も見事に歌い上げた。
…割れるような拍手の中、
彼方は目を閉じ
亡き父を思った。
かなり強制的ではあったが
自分に音楽を与えてくれたのは父である。
音楽のおかげで美笛とも出会えた。
実母を泣かせるわ
あの義母と結婚はするわで
一時は嫌いになった父だが、今ではとても感謝しているのだ。
オーケストラの前奏がなりだした。
彼方はまた大きく深呼吸をした。
そして先ほどのソプラノとは全く違った、
力強い低音で歌いだした。
「またあたしひとり
行くところもないわ
暖かい家もあたしどこにもない
もう夜だね 今夢を見よう
人皆眠る夜 ひとりで歩こう
あの人思えば幸せになれるよ
街は眠り あたしは目覚める…」
皆驚いた。
思わず顔を見合わせた。
彼女はこんな声も出せるのか。
とくに彼女のクラシックの声しか聞いたことがない教授陣は
予想外のことにあっけにとられていた。
「知ってる 夢見るだけ
話相手は自分だよ
あの人なにも知らない
だけど道はある
愛してる でも夜明けにはいない
川もただの川
あの人いない世界は
街も樹もどこも他人ばかりよ」
しかし、彼方はクラシックうんぬん、ポップスうんぬんなんてほとんど考えてなかった。
この歌に込めるのは
自分の心の闇と
叶わない美笛への想い。
「愛しても思い知らされる
一生夢見るだけさ
あの人あたしをいらない
幸せの世界に縁などない
愛してる
愛してる
愛してる
でもひとりさ…」
性質は少し違うかもしれない。
事実、彼方はこんなロマンチストではない。
しかし、根本的にはエポニーヌと同じだった。
美笛の心は神で満たされているゆえ
自分の想いはけして届かない。
相手が神ならかなうわけがない。
まるで海に刃向かう剣。
それどころか
美笛にそのような気持ちを抱くこと自体が罪なのだ。
そもそも普通に考えて女が女を好きだなんて言えない。
だからこの歌は愛の告白の代わりでもあるのだ。
彼方がこの歌に込めた情熱は
美笛に伝わっていた。
(ここまでカナちゃんに想われる人は一体誰なんだろう。
…うらやましい。
私がこんな風に想われたら…)
しかしまさか自分のことだとは思うまい。
美笛が周りを見渡すと
涙ぐんでる人もちらほら。
盛大な拍手の中
少し照れの入った笑顔で頭を下げる彼方を見て美笛は思った。
(ああ、天のお父様、
彼女との出会いをありがとうございます。
彼女のような素晴らしい魂と引き合わせて下さったことを感謝いたします。
あなたの慈しみと恵みが多くの人の心に届きますように。
アーメン…。)
そしてその場でひざまづくと
十字を切って祈った。
続く。




