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杏の思い出  作者: 神井
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出番を終えた美笛はプログラムをめくった。



(カナちゃん、自由曲何にしたんだろう…。)




順番を追っていくと、



当然ながら彼方の名前は一番最後にあった。



何しろおおとりなのだから。



「声楽科3年 岡咲 彼方

曲目 『夕べの賛歌』

『私のお父さん』 」



そして自由曲は…









『レミゼラブルより"On my own"』




(何だってカナちゃんはこの歌を…)




ミュージカルでも有名な『レミゼラブル』はフランスの作家、ユゴーの小説である。



主人公、ジャンバルジャンは



貧困のあまり一切れのパンを盗んでしまい、19年間監獄の中で過ごす。



彼はあちらこちらで冷遇され、心が荒んでしまう。



しかし、ミリエル神父のキリスト教的な愛にふれたことで



心入れ替え、人間愛に生きていくという物語だ。



売春、麻薬、退廃などが多いフランス文学には珍しい、人間の理想を描いた作品である。



クリスチャンの美笛は当然、読破していた。




彼方が歌う「On my own」という曲。



この物語に登場するエポニーヌという娘が歌う劇中歌だ。



レミゼラブルとはフランス語で「みじめな者たち」という意味だが



エポニーヌは中でも一際哀れな人物と言っていい。




…ジャンバルジャンはのちに出世し、ファンテーヌという売春婦を救う。



ファンテーヌにはコゼットという娘がいて、



ファンテーヌはテナルディエ夫婦にコゼットを預けていた。



この夫婦がまた意地汚く、コゼットの養育費と称して、フォンテーヌから金を巻き上げる。



エポニーヌはこの夫婦の長女である。



のちに美しく成長したコゼットはマリユスという弁護士と恋に落ちるが



エポニーヌもマリユスを愛してしまう。




そして叶わない恋の悲嘆を込めてこの歌を歌う。



「on my own」は極上の失恋ソングなのだ。



両親は最低人間、惚れた男は別の女に取られるという哀れなエポニーヌ。




しかし、だからこそエポニーヌ役には歌の上手い女優が当てられる。



「迷ったときはエポニーヌ役で選べ」と言われるほど。



…しかし、声楽曲かと言ったら微妙だ。




(カナちゃん…。)




もちろん美笛は知らない。



しかし家庭環境に恵まれず、



美笛に叶わない恋をしている彼方は



エポニーヌを自分に重ね合わせたのかもしれない。




美笛の脳裏に浮かんできたのは



あの日、自分の胸で泣いていた彼方。




(神様…。)






そのころ舞台裏では、




彼方が本番に備え、




独特の呼吸法を行っていた。










続く。

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