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杏の思い出  作者: 神井
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時は彼方の高校時代に遡る。



当時、彼方はキリスト教系音楽大学の付属高校に通っていた。



彼女は声楽科の特待生で



5オクターブの音域を操る彼女に教員たちは期待していた。



無論、それを妬んで意地悪をしてくる輩もそれなりにいた。



しかし、彼方は和也のような高慢ちきではないので、



彼ほどひどいいじめには合わなかった。




ただ、当時はバリバリの僕少女。



さらに立ち振る舞いが男そのものだったことから



「痛い女」などと悪口を言う者たちもいた。



外見はボーイッシュというわけでもなく、普通の女子高生だったのだが…。



とにかく個性が強く、目立つ存在なだけに



周りの人間の「好き」、「嫌い」が分かれていた。




「彼方、もう高校生なんだから『僕』は辞めなよー。」



友人たちが彼方に注意する。



「『私』って言うのが気持ち悪いんだよ。」



彼方はうんざりしたように言った。



「本当に『男』ねー。それじゃ彼氏できないわよ。」



「いらないね、そんなの。」



彼方はきっぱりと言い放った。



17歳という年頃にも関わらず、男子には全く興味がなかった。



それは男子を追っかけるより、音楽をやっている方が楽しいということもある。



しかし、それだけとは言い難い。





彼方には放課後に必ず向かう場所があった。



杏の木に囲まれた白い教会。



大理石の門をくぐり抜けると



杏の木の下のベンチに一人の少女が座っていた。



真っ黒なおさげに

日本人形のような地味な顔立ち。

よく見なければわからないが、少しふっくらした体つき。

何の特徴もない質素な少女である。



美笛(みてき)!」



彼方は彼女に向かって手を振った。



彼女も微笑みながら手を振り返した。




彼女は桜川(さくらがわ) 美笛(みてき)という。



同じ声楽科の3年生である。



彼方の親友…というよりは姉妹のような関係だ。



彼女は日中ハーフで、8歳のとき中国から渡ってきたらしい。



当時日本語が不慣れで、日本の生活になじめなかったからか、



かなり引っ込み思案な性格になってしまったみたいだ。



わりとお節介なところがある彼方は、彼女を放っておけず、



あれこれ構っているうちに仲良くなった。




「夕礼拝って18:00からよね?カナちゃんソロ頑張ってね。」



彼方と美笛は共に学校の聖歌隊員である。



今日はこの教会で夕礼拝のゲストとして歌うことになっている。



歌の上手い彼方はソロを任されることが多い。



しかし、音域が広いだけに、パートをあちこち回されたり、

「お手本」として、一人で歌わされたり、

未熟な隊員に腹を触らせるように講師から言われたりすることに閉口することもある。



「カナちゃんはすごいわ。私と同い年なのに。」



美笛は嫉妬からではなく心からそう言った。



「同じ声楽科なのに、私なんて全然ダメ。未だにソロの一つも貰えないし。」



美笛は俯いてしまった。



ただ彼方を褒めるつもりがいつのまにか愚痴になってしまった。




「ソロを貰えればいいのかな?僕は美笛の声がすごく好きだけど。」



彼方の凛とした物言いに美笛は顔を上げた。



彼方の表情は真剣だった。



「それに君は毎朝礼拝に参加してる。敬虔なクリスチャンじゃないか。」



美笛は彼方と違って正式に受洗したクリスチャンだ。


「音楽で一番大事なことは上手いかどうかじゃないと思う。先生だって言ってたじゃないか、歌は喉で歌うものじゃなくて『心』で歌うものだって。」



「カナちゃん……。」



美笛は泣きそうな顔で彼方を見上げた。



彼方の優しさが嬉しいのだろうか。



彼方はそんな美笛の手をとって微笑みかけた。



「もうよそう、こんな話、行こうよ。」



「うん。」



彼方は美笛を可愛いと思っているし、



美笛は彼方に憧れている。



親友とは少し違った関係なのかもしれない。



二人は手を取り合うと、一緒に教会の聖堂に入っていった。




ここは二人のお気に入りの場所なのだ。









続く……

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