序章
BL小説、「Bitter」を読んでからの閲覧をおすすめします。
「Bitter」の主人公和也の姉の過去話です。
「じゃあ、今日はここまで。」
都市のとある音楽教室。
最近ここに入った若い女の講師が生徒の注目を集めているという。
「背高くて美人でかっこよくて、しかも大抵の楽器はこなせて、声楽もできちゃうなんて素敵…。」
「あの低いクールボイス、ドキドキしちゃう…。女にしとくのもったいないわ…。抱かれたい…。」
女子生徒たちはうっとりと彼女を見つめた。
視線の先では彼女がグランドピアノでショパンの「ノクターン」を奏でている。
鳶色のセミロングヘア。
吸い込まれそうなほどの大きな瞳。
キリッとした色黒の肌。
凛々しく尖った顎。
スレンダーな長身。
…
……そう、彼方である。
彼女はシンガーソングライターだが、最近売上が伸びないため、
近所の音楽教室で器楽、声楽を教え始めていた。
彼女には真っ白な教室に黒いグランドピアノというコントラストがよく似合うのだ。
勤務時間が終了し、彼方が下駄箱を開けると……。
(あちゃー。なんじゃこりゃ。)
そこには山ほどのラブレターが入っていた。
実は彼方は昔から男性より女性にモテる。
勿論このルックスもあるだろうが…
きっと男っぽくてサバサバした性格からだろう。
亡き父から厳格にしつけられ、
弟の親代わりも果たしているのだから、自然にそうなる。
しかし、いくらモテても恋愛をする気にはならない。
一度結婚を経験し、離婚したこともその理由の一つなのだが…。
家の玄関を開けると、弟の和也がクイックルワイパーで廊下掃除をしていた。
「ただいま。」
和也は彼方に応えることなく、姉のかばんの中をまじまじと見た。
「相変わらず、女『には』モテるな。」
和也はにやついていた。
「和也こそ、中学のとき、屈折ゲイに付き纏われたでしょ!」
彼方は投げつけるように言い返すと、
さっさと自室へ入った。
「はあ…。」
コツンとドアに頭をつけると
そのまま崩れるように座りこんだ。
実を言うと、一人になるとホッとする。
やっと仮面を取れるから。
(やっぱり、僕らは姉弟なんだね…)
「僕」というのは彼方にとって一番自然な一人称である。
理由はよくわからない。
20歳で見合い結婚させられてから、女言葉で話してはいる。
しかし、未だに自分じゃない誰かを演じているように思う。
彼方はゆっくり立ち上がると、窓を開けた。
庭先の杏の木がすぐ目に入る。
実がなるのは初夏であるから、もう葉が落ちはじめていた。
風に吹かれる葉の音が遠い日の思い出を語っているようだ。
杏の実は保存が効かない。
今年は仕事が忙しく、
保存が効くようにと全部ジャムにしてしまった。
近所に配ってもまだまだ余り、
とうとうカレーにも入れた。
「お前は一体何を考えているんだ」と和也に文句を言われたっけ。
そんな弟も最近大人びて、ほとんど反抗しなくなった。
先程のように姉の自分をからかうようにもなり、
冗談も飛ばすようになってきた。
何が彼を変えたかは言うまでもないこと。
結果的にはよかったものの、彼方には煮え切らない思いがあった。
(もう和也もそんな歳か、あんなに小さかった和也が…。)
勿論、弟の成長を喜んではいる。
しかし、和也の賢一への想いに気づいたときはショックだった。
「男を好きになるなんて信じらんない」とかそういうことではない。
和也があまりにも自分に似てきたからだ。
一番似て欲しくないところが。
(全く、半分しか血が繋がっていないというのに…。)
窓辺によりかかると
彼方はひとり、遠い記憶を蘇らせた。
続く…




