未孵化
仕事部屋の窓の外、雨が檻のようにガラスを流れ落ちる。窓を叩く音は奇妙に規則的で、己の心拍数のようだと聞き流しながら紫藤はパソコンのモニターを睨みつけていた。
求められるのは現代日本を舞台とする恋愛小説だ。それも若い読者の胸を締めつけ、最後には心地よい感動を誘う純愛もの。
紫藤の指先からは一つの甘い言葉も紡ぎ出されずにいる。半ば自暴自棄で乾いたサスペンスでも書きたい気分だった。
ふとコーヒーの香りが漂ってきた。湯気の立つマグカップがデスクに置かれる。担当編集者の白井だ。彼は筆の乗らない紫藤をパソコンの前に縛りつけるため、なにくれとなく彼の世話を焼いていた。
「悩んでますね」
「愛だの恋だの、薄っぺらい言葉を毎度きれいに並べてみせるのは苦行だよ」
「先生の描く恋愛描写は痛いほどリアルだと評判ですが」
「あんなもの全部が嘘八百だ」
紫藤は退屈に飽きた子供がするように椅子を回転させて白井に向き直った。
白井は若手作家である紫藤よりも年上で、三十路を過ぎた男だ。地味なスーツ、整えた黒髪。それなりに見栄えのする顔立ちをしているのに、自信がなさそうで暗い印象がある。
その影が、紫藤の嗜虐心とも独占欲ともつかない薄暗い感情を刺激していることを、白井本人は露ほども知らなかった。
「なあ、白井」
「はい」
「あんたの話をしてくれよ」
「私の……ですか? 仕事の話ならいくらでも」
「違う。恋の話」
紫藤は挑むように白井を見上げた。
「俺の喉は今、渇いてる。他人の人生、それも生々しい傷の話を聞かないと何も書けそうにない」
「聞いても面白くありませんよ」
「面白いかどうかは問わない」
ただ心を掠めていけばそれでいい。紫藤の呟きに、白井が視線を伏せた。
睫毛がやけに長く影を落とす。普段は見せない寂寥が白井の表情に繊細な色を映し出していた。
この生真面目なばかりでつまらない人間のふりをしている編集者にも、かつて誰かに溺れた過去があるのだ。
「……気軽に話してくれ。取材だと思って」
「余計に気を張りますね」
「じゃあただの雑談だ」
「本当に、つまらない話なんですけど」
「いいよ」
白井は部屋の隅にあるソファに浅く腰掛ける。紫藤の頭の中から雨音が少し遠退いた。
「学生時代から、社会人になってしばらく……三年くらい、付き合っていた人がいました」
ぽつりぽつりと語り始めた白井の声は、止みかけの雨のように静かに落ちてくる。
劇的な出会いがあったわけではない。ただなんとなく隣にいて馴染み、ほんの半歩すれ違っては手を繋ぎ直して重ねていった二人の日常。
白井の語るエピソードは確かに面白みのない、些細なものばかりだった。彼女が好きなコンビニのスイーツ、待ち合わせに遅れてくる彼女を待つ時間の心細さ、彼女の就職祝いに無理をして買った指輪のこと。
「特段、別れる理由というのもありませんでした。予定が合わずに会えなかったクリスマスをきっかけに、お互いが唯一無二ではないことに気づいてしまった」
白井の声に情熱的な響きはなかった。その淡々と紡ぐ言葉にこそ徐々に窒息へと到る柔らかな苦痛を紫藤は感じていた。
マグカップを傾けてコーヒーを飲む。胸の奥に苦味が滞る。それは作家としての意欲の芽生えなのか、あるいは目の前の男に対する所有欲、己の知らぬ白井の過去への嫉妬なのか。
自嘲にも見える白井の微笑に紫藤は息を呑んだ。白井の言葉の端々、ふとした表情、あらゆるところに喪失が染みついている。彼のそれは未練とは違っていた。
「それで、その女性とは?」
今、どうしているのか。まだ友情として続いているのか。白井は首を横に振った。
「別れたきりです。性格の不一致、というやつですね」
ありふれた言葉だ。だからこそ途方もない断絶を意味する。
「未練はないのか」
「ないとは言いきれませんが。もしどこかで再会しても何も起きないでしょう」
「なぜ?」
「私はつまらない男なので」
白井は力なく笑った。女を楽しませることも、刺激を与えることもできなかった。ただそばにいて顔色を窺うだけの、そんな男を一度捨てたらもう振り返らないだろう、と。
「……すみません、先生。こんな湿っぽい話」
「いいんじゃないか。雨の日には似合ってる」
「不思議ですね。誰かにこうして詳しく話したのは初めてで……」
白井は照れくさそうに頬をかいた。
「聞いていただいて、すっきりしました。長らく心のどこかに放り出していた荷物が整理されたような感覚です」
他人に語ればそれは物語になる。どんなに陳腐でありきたりな日常であっても。紫藤は心の中で薄く笑みを浮かべた。
白井は編集者の顔に戻って、期待のこもった目で紫藤を見た。
「私の話は、ネタになりそうですか?」
日常、すれ違い、不明瞭な別れ、整理されない痛み。誰しもが見たことのある光景、誰もが共感できる恋の終わり。
紫藤が得意とする乾いた筆致で描けばそれは鋭く心に刺し込む純愛の物語となるだろう。そうして書店に並んだ紫藤の本を手に取った女はふと昔の恋人を思い出すかもしれない。
「……いいや」
「ですよね。すみません、お役に立てなくて」
「ネタなんてそうそう転がってないものだ。コーヒー、おかわりをくれないか」
「はい、すぐに」
紫藤の手から空のマグカップを受け取ると白井はキッチンへ歩いていく。
再びモニターを見つめながら、紫藤はぼんやりと頭に描いた恋物語を指先に乗せてキーボードに触れる。
白井の話は、まだ書かない。他人に語って整理などさせるものか。
「……俺は、つまらない恋にはしない」
我々が親密になり、紫藤に向かって過去の恋愛を容易には語れなくなってから。この関係が変容してから。そうしたらいつか紫藤は白井の恋を書くだろう。ただ自分たちのためだけに。
やがて二杯目のコーヒーを持って白井が戻ってきた。
「進みそうですか?」
「ああ。刺激になった」
「それならよかったです」
何も知らない編集者は安堵の表情を浮かべている。その無防備な笑顔を見ながら紫藤は腹の底で未来への物語を温めていた。
「白井」
「はい?」
「今日は泊まっていったら。雨が酷くなってきた」
白井は少し驚いた顔をしたが、すぐに窓の外を見つめてため息を吐く。
「ありがとうございます。この様子じゃ、タクシーも捕まりそうにないですね」
雨が世界を閉じ込めるように降り続いている。湿った音を掻き消して紫藤はキーボードを叩いた。
白井とは似ても似つかない、甘く湿った恋物語でも書くとしよう。




