触手
そして、それは始まります。最後までやり遂げるとは約束できません。
午後六時。
空は戦車のように重く、冷たい灰色のヴェールが街全体を覆っていた。
雨が本気を出したのは、夕方になってからだった。
静かなシューッという音から、やがて無数の銀色の針へと変わり、建物と建物の間の空間を休みなく突き刺していく。
海野要は大学の正門の庇の下で立ち止まり、ため息をついた。
リュックの肩紐が右肩に食い込んでいる。中にはデザイン関連の教科書と、締切が容赦なく迫っている課題の資料が詰め込まれていた。
「……さて、帰るか」
呟いた声は、すぐに雨音の中へと溶けていった。
濃い栗色のまっすぐな髪が耳にかかり、顔色はどこか青白い。
濃い茶色の瞳は、いつも少し眠たげに見える。
安っぽい黒のジャケットのポケットに片手を突っ込み、もう一方の手で“雨からの救世主”に手を伸ばした。
駅までは十分。
その時間を、夕飯のラーメンの味を何にするかというどうでもいい悩みと、来年から待ち受けている「就職活動」という名の巨大で曖昧な不安に費やすつもりだった。
もっとも、いつものようにそれは思考ではなく、ただの無気力な空想に終わるのだろう。
『自分のことは、自分が一番わかってるだろ?』
――と、内なる声が皮肉っぽく囁く。
要は傘を開き、雨の中へと一歩踏み出した。
次の瞬間、跳ね返った雨粒が、すでにくたびれた白いスニーカーと灰色のチノパンの裾を濡らした。
風は雨を斜めに叩きつけ、傘の布地を容赦なく打つ。
「……最悪だ」
そう呟きながら、彼は見えない矢印に導かれるように歩調を速めた。
予定していた思考は形になる前に消え、
「早く家に帰って、乾いた服に着替えたい」
という単純な欲求だけが頭を占める。
いつもの道を進む。
本郷通りを曲がり、静かな猿楽町へ。
左にはシャレー風の低層住宅が密集し、木製の雨戸は固く閉ざされている。
右側には、どこかの私立校の長い壁。
喫茶店を過ぎ、賑やかな岡山通りに出ると、
ネオン、店、飲食店が視界を埋め尽くした。
黒い傘を差した通行人たちは、まるで黒いキノコの群れのようだった。
そして――
明出山駅前の広場が見え始めた、その時だった。
建物の隙間から、強烈な突風が吹き抜けた。
ゴオオオッ!
「!?」
傘が裏返る。
バキッ
骨組みが無惨に歪み、
ビリッ
布地が裂け、
パキン、と
プラスチックの骨が数本折れた。
「……あ……」
彼は呆然と、手の中の残骸を見つめた。
折れた骨が風に震える。
容赦なく降り注ぐ雨が、彼を濡れ鼠にしていく。
次の突風が、背中を強く押した。
『くそっ!』
靴底が歩道で滑る。
背中のリュックが引っ張られる。
水しぶきが高く上がり、息が乱れる。
聞こえるのは雨音だけ。
見えるのは、駅の入口だけ。
その数十秒の間、説明のつかない不安が胸を締めつけた。
立ち止まることが、取り返しのつかない何かにつながる――
そんな気がしてならなかった。
屋根の下に飛び込み、荒い息のまま振り返る。
再び目に映るのは、銀色の雨の幕と、その向こうで滲む街の灯り。
「……はぁ……はぁ……」
体が熱い。
服は完全に濡れ、重く肌に張り付いている。
彼はもう一度、深く、深く息を吐いた。
「……本当に、最悪な一日だ」
その言葉も、街の喧騒にかき消された。
濡れた髪を掻き上げ、彼は電車が来ているかを確認しに向かった。
……
鍵が回り、アパート121号室の扉が開く。
狭い玄関に、濡れた彼の影が落ちた。
「……ただいま」
それは、声というよりも、ただの呟きだった。
スイッチを押すと、白っぽい蛍光灯が点灯し、四畳半の部屋と、その住人を無慈悲に照らし出す。
右手には、新しい“戦利品”――帰り道のコンビニで買った袋。
中身は、塩ラーメンと、いちごプリン。
理由はない。
ただの気まぐれ。
「自分へのご褒美」――ただそれだけ。
ワンルームの部屋にあるのは最低限のものだけ。
布団、クローゼット、コンセント、冷蔵庫、そして別扉のユニットバス。
壁には剥がれかけのクリーム色の壁紙。
窓際には小さなテーブル。
そして唯一の“生き物”――
二十歳の誕生日に両親からもらったサボテン。
「……まずは、これだな」
ジャケットを脱ぎ、次々と服を脱ぐ。
冷たい布地が肌から離れた瞬間、身体が震えた。
タオルで素早く体を拭き、厚手のスウェットとバスローブに着替える。
それが、彼の“部屋着”だった。
濡れた服をハンガーに掛け、キッチンへ向かう。
正確には、シンクとコンロがくっついた、テーブル脇の極小スペース。
水を張った鍋をコンロに置き、独り言のように話し始める。
「……今日を総合的に評価すると、三点かな」
サボテンの棘は、微動だにしない。
「理由を聞きたい?
まず一つ。今日は作品講評があって、また“無難すぎる”とか、“雲から覗くドラゴンの尻尾が見えない”とか言われた」
要は、皮肉っぽく指を曲げた。
「それで俺、つい言っちゃったんだよ。
『その尻尾がどこにあるのか知りません。見たこともありません。たぶん、俺のチャンスと一緒に電通のオフィスに置いてきました』って」
気持ちが少し落ち着いたところで、彼は続ける。
「二つ目。母なる自然が、予期せぬ出費を用意してくれた。
ヒントは……傘だ」
鍋の水が沸き始め、小さな泡が浮かび上がる。
箸でかき混ぜながら、塩と鶏ガラの香りを吸い込む。
ふと、プリンが目に入った。
いちごソースが、容器の底に少し溜まっている。
「……まあ、今日はプリンがあるだけマシか。
お前が猫だったら、もう盗まれてたな」
その時――
天井の照明が、一瞬だけチカッと揺れた。
要は眉をひそめる。
気のせいか?
節電のために使っている、低出力の電球のせいだろうか。
カチ。
カチカチ。
カチ、カチ。
今度は明らかだった。
光が不規則に明滅し、部屋の影が脈打つように蠢く。
首が強張り、視線が天井を走る。
だが、ほどなく点滅は止み、影も元の静けさを取り戻した。
要は目を擦る。
「……さすがに、夜更かしの動画視聴は控えるべきか……」
胸のざわつきを、現実的な理由で押し殺す。
その間に、麺は茹で上がっていた。
深皿に移し、スープを注いでテーブルに置く。
リュックからタブレットを取り出した。
YouTubeのトップを流し見し、ゲーム配信をタップ。
機械音と、元気な実況者の声が、部屋の静寂を埋める。
ラーメンの湯気が、ゆらりと立ち上る。
一口目を口に運ぶ。
「……いつも通りだな」
普通の味。
美味くも不味くもない。
実況者が凡ミスをし、慌てて叫び始める。
要は小さく笑った。
この何でもない時間こそが、一日の中で最も安らぐ瞬間だった。
――半分ほど食べた、その時。
再び、異変が起きた。
最初に歪んだのは、タブレットの画面だった。
音声が引き伸ばされ、低く、不気味な音に変わり、やがて映像が完全に停止する。
「……え?」
軽く叩いた瞬間、天井の照明が再び狂ったように点滅した。
パチパチパチ!
さっきよりも速く、荒々しく。
影が、生き物のように部屋中を駆け巡る。
「なんなんだよ、これ!
TEPCO!……ふざけてるのか!?」
箸を放り出し、勢いよく立ち上がる。
胃のあたりの温もりが消え、冷えが広がった。
――触感。
耳元で、温かい吐息。
要は、勢いよく振り返った。
「誰だ!?」
叫びは制御できなかった。
視線を走らせるが、部屋にも、窓の外にも、誰もいない。
ただ――
テーブルの上で。
プリンのカップが震え、赤いソースが波打つ。
ラーメンが、スープごと宙に浮き始める。
部屋のすべてが、狂ったように明滅する天井へと、ゆっくり引き寄せられていく。
「……な……なんだ……これ……」
声にならない声。
喉が、固く締めつけられる。
彼は、壁に身を寄せ、ただ見つめることしかできなかった。
やがて、部屋の中央の空間が歪み始める。
視線が下がり、鼻を突くオゾンの匂い。
「……ありえない……
ない……」
歪みは広がり、その中心が光り始めた。
黒いガラスの向こうで輝く星屑のように。
そして――亀裂が走る。
光が最高潮に達し、彼が目を細めた、その瞬間――
バァン!
冷蔵庫が轟音と共に倒れ、扉が開いて中身をぶちまける。
続いて、テーブルと椅子が倒れ、脚が吹き飛ぶ。
ラーメンの皿が砕け、スープが壁と床に飛び散る。
タブレットは水溜りの中で火花を散らし、画面が割れた。
――地獄のような音。
そして、まるで狙ったかのように、最後に照明が弾け飛び、
彼は、裂け目の光と二人きりになった。
バシャッ!
“何か”が、そこから落ちてきた。
ぬちゃり、と湿った音と共に。
人の形をしていた。
いや――人間と呼ぶには、あまりにも違いすぎる。
長く、波打つ髪。
銅と金が溶け合ったような色で、生きているかのように揺れ、床に広がり、淡く光を放つ。
透き通るように白い肌。
身に纏うのは、衣服というよりも、
夜の闇と星々で織られた布――
理解を拒む質感。
そして背中から、いや、それだけではない。
無数の触手が、ゆっくりと広がった。
漆黒に、青紫の光を帯び、部屋の空間を不気味な美しさで満たす。
要は、言葉を失った。
呼吸の仕方を忘れ、身体は完全に硬直する。
心臓は、千回を超える速さで暴れ、膝が崩れ落ちた。
その存在が、ゆっくりと顔を上げる。
そして――彼を見た。
黄金の瞳。
宇宙の高みから見下ろすような、古く、底知れぬ眼差し。
瞳孔の奥には、銀河の輪郭。
目を逸らすことができなかった。
魅入られ、同時に縛られていた。
薄い桜色の唇が、開く。
《――門の守護者……》
女性の“声”。
金属の鈴の音と、深海の轟きが重なったような響きが、宣告を下す。
「…………」
恐怖映画とマンガの断片が、要の脳内を高速で駆け巡る。
震えが全身を走った。
黄金の瞳が、彼から離れ、部屋を見回す。
小さな鼻が、くん、と動いた。
要は、息を殺す。
自分が存在していないと、必死に思い込もうとする。
手が、無意識にポケットへ伸びた。
“銀河”の視線が、何かに留まる。
一本の触手が、音もなく伸びた。
驚くほど優雅で、素早く。
要は、避けることすらできなかった。
小さな音。
触手は、何かを持ち上げ、ゆっくりと――
その主の顔の前へ運ぶ。
それは、半分ほど残ったプリンのカップだった。
赤と白が混ざった中身が揺れている。
黄金の瞳が、真剣な好奇心で、それを見つめる。
容器が唇に近づき――
闇の中へと消えた。
プラスチックごと。
そして――
ごくり。
プリンは、一瞬で、完全に消滅した。
静寂。
助けを呼ぶことすら、忘れていた。
瞳が、わずかに見開かれる。
――驚き。
その瞬間、再び要の頭の中に、あの“声”が響いた。
《………………これは……》
《……美味しい……》
一本の触手が、嬉しそうにくるりと巻き、
他の無数の触手も、ざわめくように動き出す。
海野要の顎は、地面を突き抜け、地球の中心へ落ちていきそうだった。
もしかしたら誰かが気に入ってくれるかもしれない。




