「君は臭い」と捨てられた天才調香師、呪われた「悪臭公爵」をいい匂いに変えて溺愛される。 〜元婚約者が今さら泣きついても、香水はもうあげません〜
「くっさ! なんだこの腐った匂いは! エリス、貴様か!」
王城の夜会。華やかな音楽がかき消されるほどの怒号が響き渡った。
声の主は、私の婚約者である第二王子、ジェラール殿下だ。
彼はハンカチで鼻を押さえ、侮蔑の眼差しで私を睨みつけている。
「近寄るな! 吐き気がする! 貴様のような悪臭女、私の隣に置けるわけがないだろう!」
周囲の貴族たちも、殿下に同調するように鼻をつまみ、扇子を激しく仰ぎながら私から距離を取る。
まるで私が、汚物であるかのように。
「殿下……私の体からは、そのような匂いは……」
「嘘をつくな! 現に臭うではないか! ドブのような、生ゴミのような匂いが!」
ジェラール殿下が叫ぶ。
確かに、この会場には異臭が漂っていた。けれど、それは私から発しているものではない。
私の隣で勝ち誇ったように笑っている、義妹のミランダ。彼女が持っている扇子から、微かに、しかし確実に漂ってくる「誘導香」の仕業だ。
嗅覚を狂わせ、特定の対象(私)から悪臭がしていると錯覚させる、禁じられた調香術。
「お姉様、諦めてください。お姉様は日頃から調香室にこもって、変な薬品ばかりいじっているから、体に染み付いてしまったのですよ」
ミランダが甘ったるい声で殿下に擦り寄る。
「ジェラール様ぁ、かわいそう。私の『聖女の香水』で浄化して差し上げますわ」
シュッ、と彼女が小瓶から霧を吹くと、殿下の表情が和らいだ。
「ああ、いい香りだ……! やはりミランダこそが真の調香師だ。エリス、貴様が作ったという香水も、実は全てミランダの作品だったのだろう? 手柄を横取りするだけでなく、体まで臭いとは救いようがない!」
「違います! そのレシピを考案したのは私です! ミランダはそれを盗んで……!」
「黙れ!」
殿下は私の言葉を聞こうともしない。
実家であるバーネット伯爵家は、代々王家御用達の香水商だ。私は幼い頃から調香の才能があり、数々のヒット商品を生み出してきた。
特に、体臭を完全に消し去る『清浄の香水』は、私の最高傑作だった。
だが、両親は私を「裏方の道具」として扱い、可愛らしい容姿のミランダを「天才調香師」として表舞台に立たせていたのだ。
「エリス・バーネット! 今日をもって貴様との婚約を破棄する! そして、王都からの追放を命じる!」
殿下は冷酷に告げた。
「だが、ただ放り出すのも慈悲がない。貴様にはお似合いの嫁ぎ先を用意してやったぞ。……北の辺境、『悪臭公爵』クロード・ヴァレンタインのもとへ嫁げ!」
会場から「ひっ」と悲鳴が上がった。
クロード・ヴァレンタイン公爵。
かつては救国の英雄と呼ばれたが、魔竜の呪いを受け、体から腐敗臭を放つようになった怪物。
その臭いはあまりに強烈で、近づく花は枯れ、鳥は落ち、使用人さえもガスマスクなしでは近づけないという。
「臭い者同士、仲良く腐り果てるといい! これは王命だ! 今すぐ出て行け!」
嘲笑の嵐の中、私は唇を噛み締めた。
弁解しても無駄だ。彼らは真実など求めていない。ただ私を排除し、ミランダを王族に迎え入れたいだけなのだから。
「……承知いたしました。今まで、お世話になりました」
私は静かに頭を下げた。
心の中で、最後の警告を呟きながら。
(『清浄の香水』の在庫は、あと一ヶ月分しかないはずよ。調合できるのは私だけ。……どうなっても知りませんからね)
◇
北への旅路は長く、過酷だった。
王都から馬車で十日。雪深い山奥に、ヴァレンタイン公爵家の屋敷はあった。
屋敷に近づくにつれ、御者が「うっ、臭ぇ……!」と鼻を押さえ始めた。
確かに、風に乗って微かに異臭が漂ってくる。硫黄と腐敗臭が混ざったような、独特の匂いだ。
「こ、ここで降ろしますぜ! これ以上近づけねぇ!」
御者は私とトランクを雪道に放り出すと、逃げるように去っていった。
私はトランクを引きずり、屋敷の門を叩いた。
出てきた執事は、顔全体を覆うマスクをつけていた。
「……あなたが、新しい生贄……いえ、花嫁様ですか?」
「はい、エリスと申します」
「お気の毒に。……旦那様は奥の離れにいらっしゃいます。ですが、近づかない方が身のためですよ。前の花嫁候補は、部屋に入った瞬間に気絶して逃げ帰りましたから」
執事に案内されたのは、屋敷の裏手にある石造りの塔だった。
厳重に封印された扉。その隙間から、ドス黒い瘴気のようなものが漏れ出している。
普通の人間なら、この時点で嘔吐してしまうだろう。
だが、私は違った。
私は調香師だ。匂いに関しては、誰よりも敏感で、そして分析的だった。
(……これは、ただの悪臭じゃないわ)
私はハンカチも当てず、扉に近づいた。
鼻をひくつかせる。
腐敗臭の中に混じる、鋭く尖った魔力の匂い。そして、その奥底にある、甘く切ない花の香り。
(この匂いの核……『魔毒』だわ。それも、体内の魔力循環が詰まって腐っている状態。……これなら、治せるかもしれない)
私はトランクを開け、調合セットを取り出した。
手持ちの香料と、道中で摘んだ薬草を即席で調合する。
『中和剤』の完成だ。
「失礼いたします」
私は扉を開けた。
ムワッ、と熱気と共に強烈な臭気が襲いかかってくる。
部屋の中は薄暗く、奥のソファに、ボロボロのローブを纏った巨躯の影があった。
「……入ってくるな」
地を這うような、低くしゃがれた声。
「死にたいのか? 俺に近づけば、肺が腐るぞ」
公爵、クロード様だ。
彼は顔を深くフードで隠し、私を拒絶するように手を振った。
「ご挨拶に伺いました。妻のエリスです」
「妻だと? ふん、どうせ王都の豚どもが押し付けた生贄だろう。帰れ。俺は誰も必要としていない」
「いいえ、帰りません。……クロード様、少し香りが変わりますよ」
私は手に持っていた小瓶の蓋を開け、部屋の中に霧を吹いた。
シュッ、シュッ。
清涼感のあるミントと、浄化作用のある白薔薇の香りが広がる。
その香りの粒子が、部屋に充満していた瘴気と結びつき、中和していく。
「……な……?」
クロード様が顔を上げた。
淀んでいた空気が、見る見るうちに澄み渡っていく。
悪臭が消え、代わりに森の朝のような、清々しい香りが満ちた。
「匂いが……消えた……?」
彼は信じられないというように、自分の手の匂いを嗅いだ。
私は彼に歩み寄り、その前に跪いた。
「クロード様。あなたのその匂いは、ご自身の体臭ではありません。呪いによって体内の魔力が循環不全を起こし、毒素として排出されているだけです」
「魔力の……循環不全?」
「はい。ですから、正しい香りで魔力の流れを整えてあげれば、呪いは解けます。……私にお任せいただけませんか? 私は調香師です。あなたのその『香り』を、最高のものに変えてみせます」
私が微笑むと、クロード様はおずおずとフードを外した。
露わになった素顔に、私は息を呑んだ。
毒素のせいで肌は少し青白いが、彫刻のように整った顔立ち。切れ長の瞳は、夜空のような深い紫色をしていた。
今はまだ呪いの名残で目の下に隈があるが、健康になれば国一番の美丈夫になるに違いない。
「……君は、俺が臭くないのか?」
「いいえ。今はまだ少し臭います」
私が正直に答えると、彼はショックを受けたように肩を落とした。
可愛い。
私はクスリと笑い、彼の手を取った。
「でも、磨けば光る原石のような香りです。私好みの、とても素敵な香りになりそうですわ」
その瞬間、クロード様の瞳が揺れた。
彼は私の手を強く握り返し、震える声で言った。
「……頼む。俺を、助けてくれ。君のそばにいたい。君のその匂いを、もっと嗅いでいたい」
こうして、私の「悪臭公爵改造計画」が始まった。
◇
それからの毎日は、目まぐるしくも充実していた。
私はクロード様の体質に合わせた専用の香水を作り、毎日彼に振りかけた。
お風呂には特製のバスボムを入れ、マッサージオイルには魔力循環を促す精油をブレンドした。
効果は劇的だった。
一週間もしないうちに、屋敷を覆っていた悪臭は完全に消滅した。
それどころか、今のクロード様からは、すれ違う人が思わず振り返るような、高貴で色気のある香りが漂っている。
ムスクをベースに、シトラスとサンダルウッドを合わせた、大人の男の香りだ。
「エリス、おはよう」
朝、食堂に行くと、キラキラと輝く美青年が待ち構えていた。
肌艶は良く、髪はサラサラ。紫の瞳は宝石のように輝いている。
呪いが完全に浄化されたクロード様だ。
「おはようございます、クロード様。今日も素敵ですね」
「君のおかげだ。……こっちへ来てくれ」
彼は椅子を引くのではなく、自分の膝をポンと叩いた。
ここ数日、これが私の定位置になっている。
私が恥ずかしがりながら座ると、彼は背後からギュッと抱きしめ、私の首筋に顔を埋めた。
「すー……はぁ……。いい匂いだ」
「く、クロード様、くすぐったいです……」
「充電させてくれ。君の匂いを嗅がないと、落ち着かない体になってしまった」
彼は甘えた声で囁く。
呪いが解けてからの彼は、私に対してとんでもなく過保護で、甘えん坊になってしまった。
「悪臭公爵」と恐れられていた頃の面影はない。今はただの「溺愛公爵」だ。
「君は俺の救世主だ。一生離さない」
「はいはい、わかりましたから。朝食が冷めますよ」
「君を食べたい」
「ダメです」
そんな甘い攻防を繰り広げていると、執事が駆け込んできた。
以前のマスク姿ではなく、今はにこやかな笑顔だ。
「旦那様、奥様! 大変です! 王都から急使が!」
「王都?」
クロード様が不機嫌そうに眉を寄せる。
私を抱きしめる腕に力がこもった。
「ジェラール殿下と、ご実家のバーネット伯爵が、血相を変えてこちらに向かっているそうです! 『エリスを返せ!』と……」
私はクロード様と顔を見合わせた。
ついに来たか。
計算通りだ。私が家を出てから一ヶ月。
そろそろ、王都の「在庫」が切れる頃だ。
◇
一方、その頃の王都は、阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。
「く、臭い! 臭い臭い臭い! なんだこの悪臭は!」
王城のサロンで、ジェラール王子は叫び散らしていた。
彼の体からは、ツンとする汗の匂いと、脂ぎった体臭が漂っている。
それだけではない。周囲にいる貴族たち、近衛騎士、メイドに至るまで、全員が何かしらの「体臭」を放っていた。
人間は生き物だ。生きていれば汗もかくし、体臭もする。
だが、この国の貴族たちは、長年エリスが開発した『清浄の香水』に依存しきっていた。
朝一吹きすれば、一日中無臭でいられる魔法の香水。
それがあるおかげで、彼らは入浴をサボり、香りの強い食事を摂り、不摂生な生活を続けていたのだ。
その香水の供給が、プッツリと途絶えた。
「ミランダ! どうなっているんだ! 早く新しい香水を持ってこい!」
ジェラールが怒鳴りつけると、ミランダは青ざめた顔で震えていた。
「で、できません……! 何度作っても、あの効果が出ないのです!」
「なんだと!? お前が作ったと言っていたじゃないか!」
「そ、それは……お姉様が作り置きしていたものを、私の瓶に詰め替えていただけで……! レシピなんて知りませんわ!」
ミランダが泣き叫ぶ。
彼女が作れるのは、鼻を麻痺させる「誘導香」や、一時的に強い香りで誤魔化す安物の香水だけ。
根本的に体臭を消す高度な調香技術は、エリスだけのものだったのだ。
「ええい、役立たずめ! お前のせいで私は笑い者だ! 隣国の王女との会談で、臭いと言われて鼻をつままれたんだぞ!」
ジェラールは屈辱に震えた。
社交界は崩壊寸前だった。舞踏会は中止、夜会も延期。
誰もが自分の臭いを気にして引きこもり、香水商には暴徒が押し寄せている。
バーネット伯爵家は「詐欺だ」と訴えられ、破産寸前だ。
「エリスだ……エリスを連れ戻せ! あいつがいれば、元通りになる!」
ジェラールはなりふり構わず、北へ向かう馬車に飛び乗った。
ミランダと伯爵も、必死の形相で後に続く。
彼らはまだ知らなかった。
エリスが今、どれほど強大な存在に守られているかを。
◇
ヴァレンタイン公爵家の応接間。
私とクロード様は、並んでソファに座っていた。
対面には、悪臭を放ちながらやつれ果てたジェラール殿下と、ミランダ、父が座っている。
部屋にはあらかじめ、私が調合した「空気清浄の香り」を強めに焚いているので、こちらの鼻は守られている。
「エリス! 迎えに来てやったぞ! さあ、帰ろう!」
ジェラール殿下が開口一番、そう言った。
まるで何事もなかったかのような態度に、私は呆れを通り越して感心してしまった。
「お断りします。私はここで幸せに暮らしておりますので」
「なっ……強がるな! こんな悪臭公爵のそばになど、いられるわけがないだろう! 鼻が腐るぞ!」
殿下がクロード様を指差す。
クロード様は優雅に足を組み、冷ややかな笑みを浮かべた。
「……誰が臭いと?」
その声色には、絶対零度の威圧感が込められていた。
そして何より、彼から漂う香りは、芳醇で、高貴で、どこまでも洗練されていた。
目の前の汗臭い王子とは、月とスッポンだ。
「な、なんだその匂いは……!? 貴様、悪臭はどうした!?」
「妻が消してくれた。彼女は天才だ。……お前たちのような凡愚には勿体無い」
クロード様が私の肩を抱き寄せ、見せつけるように髪にキスを落とす。
「エリスは渡さない。彼女は私の妻であり、専属の調香師であり、最愛の人だ。指一本触れさせん」
「ふ、ふざけるな! エリスは私の婚約者だ! それに、その香水を作る義務が彼女にはある! 王命だぞ!」
「王命? 追放した人間に命令する権利があると思っているのか?」
クロード様が指を鳴らすと、武装した私兵たちが一斉に部屋に入ってきた。
「それに、お前たちの体臭の原因は、不潔と不摂生だ。まずは風呂に入れ。話はそれからだ」
「ぐぬぬ……! エリス、頼む! 香水のレシピだけでも教えてくれ! でないと家が潰れる!」
父が土下座をした。ミランダも泣きながら縋ってくる。
「お姉様ぁ、ごめんなさいぃ! 私が悪かったからぁ! 助けてぇ!」
私は冷ややかに彼らを見下ろした。
「レシピ? 教えても無駄ですよ。あれは私の魔力を練り込みながら、千分の一グラム単位で調整する特殊技術ですから。ミランダには不可能です」
「そ、そんな……!」
「どうしてもと言うなら、私のブランドとして商品を卸すことは検討しましょう。ただし、価格は以前の百倍。売上の九割は私が頂きます。販売権はヴァレンタイン公爵家が管理します」
「ひゃ、百倍!? 暴利だ!」
「嫌なら結構です。一生その臭いと付き合ってください」
私がにっこり笑うと、彼らは絶望の顔で黙り込んだ。
背に腹は代えられない。彼らは条件を飲むしかなかった。
その後、王都では私の香水が高値で取引され、ヴァレンタイン家には莫大な富が転がり込んだ。
ジェラール殿下は「臭い王子」というあだ名が定着してしまい、廃嫡の噂も出ているという。
ミランダと父は、借金返済のために、香水の瓶詰め工場で朝から晩まで働かされているそうだ。もちろん、私の監視下で。
◇
騒動が去り、静けさを取り戻した夜。
私はクロード様の膝の上で、月を眺めていた。
「……エリス」
「はい」
「いい匂いだ」
彼が私の首筋に顔を埋める。
もう呪いは解けているのに、彼の甘えん坊は治らない。
むしろ、日に日にエスカレートしている気がする。
「クロード様も、いい匂いですわ」
「そうか? 君の好きな香りなら、一生このままでいよう」
彼は私の腰に回した腕に力を込めた。
「君がくれたこの香りは、俺にとっての幸福の匂いだ。……愛している、エリス」
重なる唇からは、甘い薔薇の香りがした。
かつて「悪臭」と呼ばれた公爵様と、「臭い」と捨てられた私。
二人の周りには今、世界で一番幸せな香りが満ちている。
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