氷鉄の辺境伯の『投資』
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
第九話、ついに氷鉄の辺境伯からの『投資』が届きます。
しかし、それはイザベラの想像を遥かに超えるものでした。彼の真意とは一体……。
レオンハルト辺境伯が去ってから、三日が過ぎた。
約束の日。村は、夜明け前から異様な緊張感と、そして抑えきれない期待に満ちていた。村人たちは仕事も手につかず、何度も村の入り口へと続く道を眺めては、ため息をついている。
「……本当に、来てくださるのだろうか」
「辺境伯様だぞ。我々のような者との約束など、お忘れになっていてもおかしくはない」
「だが、あの令嬢様は……」
彼らの不安は、もっともだった。貴族とは、気まぐれで、平気で約束を反故にするもの。それが、この土地の民が骨身に染みて知っている常識だった。私への信頼が芽生え始めたとはいえ、長年の絶望がそう簡単に消えるものではない。
私自身も、平静を装いながら、内心では落ち着かなかった。アルフレッドと共に、教会で菌の培養を進めながらも、意識は絶えず外へと向いていた。私の計画は、彼の『投資』がなければ、画餅に過ぎないのだから。
地平線の向こうに、土煙が上がったのは、太陽が最も高く昇った正午過ぎのことだった。
最初は、小さな点だった。だが、それは驚くべき速度で大きくなり、やがて、大地を揺るがすほどの地響きと共に、その全貌を現した。
「……な……」
村の入り口で見張りをしていたエリックが、言葉を失う。
現れたのは、一台や二台の荷馬車ではなかった。黒光りするシュヴァルツェンベルク辺境伯家の紋章を掲げた、巨大な幌馬車が十数台。それを護衛するのは、一分の隙もない鋼鉄の鎧に身を包んだ、百名を超えるであろう屈強な騎士たち。それは、もはや「物資の輸送」というよりは、小規模な軍事行動と言った方が近い、圧倒的な威容だった。
村人たちが、恐怖に顔を引きつらせて家々へと駆け込もうとする。それを制したのは、私の声だった。
「皆さん、恐れることはありませんわ! 彼らは、私たちの未来を運んできてくれた、心強い味方です!」
私は教会の前に立ち、毅然として告げる。その声に、村人たちは恐る恐る足を止め、固唾を飲んで成り行きを見守った。
隊列の先頭から、一頭の黒馬が静かに進み出てくる。その背には、あの氷のように怜悧な貌があった。レオンハルト辺境伯、その人だった。彼は馬上から、怯える村人たちと、その前に立つ私を一瞥すると、馬上から静かに告げた。
「約束の品を届けに来た。荷を降ろさせてもらうぞ、公爵令嬢」
彼の合図で、騎士たちが一糸乱れぬ動きで荷馬車の幌を外していく。そして、その中身が白日の下に晒された時、今度こそ、村人たちだけでなく、私自身も言葉を失った。
そこにあったのは、私がリストに書いたものを、質、量ともに遥かに凌駕する、圧倒的な物資の山だった。
私が求めたのは、寒さに強い麦や芋の種だった。だが、彼が持ってきたのは、王国内でも最高品質とされる南方の暖地小麦、栄養価の高い数種類の豆、そして辺境では決して手に入らない薬草の種まで含まれていた。
私が求めたのは、数十本の使い古しの農具だった。だが、彼が持ってきたのは、軍で使う工兵用の、頑丈で手入れの行き届いた真新しい鍬や鋤が、数百本。
そして、私が求めたのは、最初の収穫までのわずかな食料支援だった。だが、彼が持ってきたのは、この村の全員が、冬を越してもなお余りあるほどの、大量の干し肉、塩漬けの魚、そして硬い黒パンだった。
「……辺境伯様。これは、あまりにも……」
「投資だと言ったはずだ」
私の戸惑いを、彼は冷ややかな声で遮った。
「貴様の計画が成功すれば、私の軍は安定した兵站を得る。そのためならば、この程度の初期投資は、むしろ安すぎるくらいだ。それに……」
彼は馬からひらりと降り立つと、私の目の前まで歩み寄ってきた。
「貴様の言う『科学』とやらが、本当にこの死んだ土地を甦らせることができるのか。この目で、じっくりと見届けさせてもらう」
その銀灰色の瞳は、値踏みをするように、私の心の奥底まで見透かそうとしているようだった。
私は、彼の挑戦的な視線を受け止め、深く、しかし堂々と礼をした。
「そのご期待、必ずや、結果でお応えしてみせますわ」
私はすぐにアルフレッドとエリックに指示を飛ばす。
「アルフレッド、食料の管理をお願いします。まずは、皆に温かいスープとパンを。飢えは、人の判断力を鈍らせますわ。エリック、あなたには農具の分配と、男たちの班分けを任せます。明日から、領地カルテに基づき、本格的な開墾作業を開始します!」
私の的確な指示に、レオンハルトの眉がわずかに動いた。彼は、私が物資の山を前に浮足立つか、あるいは恐縮するだけだと思っていたのかもしれない。だが、私は科学者だ。目の前に豊富なリソースが現れたのなら、それを最大限に活用し、実験を次のフェーズに進めるだけのこと。
村人たちは、最初は辺境伯の騎士たちに怯えていたが、配給された温かいスープと、ずっしりと重いパンを手にすると、その顔に少しずつ生気が戻ってきた。何ヶ月ぶりかの、まともな食事だった。
騎士たちが野営の準備を進める中、私はレオンハルトを、私の研究室――あの古びた教会へと案内した。
「……ここが、貴様の言う『治療』の拠点か」
祭壇に並ぶ瓶や、羊皮紙のレポートを眺めながら、彼は面白そうに呟く。
「ええ。貧相な場所ですけれど、私にとっては、王宮のどの部屋よりも価値のある場所ですわ」
私は、アルフレッドが淹れてくれた薬草茶を彼に差し出した。彼は無言でそれを受け取り、一口飲む。
「……礼を言わなければなりませんわね、辺境伯様。あなた様の『投資』がなければ、私の計画は始まりすらしませんでした」
「礼など不要だ。俺は、俺の利益のために動いただけだ」
彼は相変わらず冷ややかだった。だが、私は、彼のその言葉の裏にあるものを、見逃しはしなかった。彼が持ってきた物資の中には、明らかに私のリストにはなかったものが含まれていた。例えば、上質な羊皮紙とインク。そして、数冊の、この地方の植物に関する古い書物。それらは、軍の兵站とは何の関係もない。純粋に、私の『研究』を支援するためのものだった。
(この人は、本当に冷たいだけの人間ではないのかもしれない……)
そんなことを考えていると、彼はふと、祭壇の隅に置かれた小さな包みに目を留めた。
「それは、なんだ?」
「ああ、あれは……。先日、村の子供たちが、森で採れたからと持ってきてくれた、木の実ですの。甘みが強いので、潰して煮詰め、簡易的なジャムのようなものを作ってみたのですわ」
それは、ハンナがはにかみながら差し出してくれた、ささやかな贈り物だった。私は、そのお礼に、彼女にラディッシュの苗をいくつか分けてあげた。
「……味見を、されますか?」
私は、ほとんど無意識にそう口にしていた。彼が甘党であるという、確証のない噂を、どこかで耳にした気がしたからだ。
レオンハルトは、一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして、わずかに逡巡した後、こくりと頷いた。
私は、清潔な匙で、その琥珀色のジャムを少量すくい、彼に差し出す。彼は、その匙を受け取ると、まるで毒味でもするかのように、慎重に口に含んだ。
次の瞬間、彼の氷のような貌が、ほんのわずかに、本当に、ほんのわずかに、緩んだのを、私は見逃さなかった。
「……悪くない」
彼は、それだけを呟くと、ぷいと顔を背けてしまった。だが、その耳が、かすかに赤く染まっているように見えたのは、きっと蝋燭の光のせいではないだろう。
この氷鉄の辺境伯の、意外な一面。それは、私の研究対象リストに、新たに書き加えられた、非常に興味深い観察データとなった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
レオンハルトの圧倒的な支援により、イザベラの改革はついに本格始動します。そして、氷のように見えた彼の貌に、ほんの少しの変化が……。二人の距離が、少しだけ縮まった回でした。
次回は、明日更新予定です。
次回「土壌再生計画、第一段階」。村人たちと一丸となって、イザベラは死んだ大地との戦いを開始します。
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