月からの『神罰』
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラの『発酵』がもたらしたサワー種パンは、飢えた王都の人々の心に『生きる』という実感を取り戻させました。広場が温かい『混沌』に満たされた束の間、黒幕ヴァレリウスが潜む白昼の月が、不気味な紅蓮の光を放ち始めました。
広場を満たしていた温かい喧騒が、急速に凍りついていく。
パンを握りしめ、その『味』に涙していた人々が、皆、同じ方向を見上げていた。
空。白昼にもかかわらず異様な存在感を放つ、青白い月。
それは、ゆっくりと瞬きをする巨大な爬虫類の瞳のようだった。
王都の空を覆うその『瞳』が、私たち地上の全てを冷ややかに見下ろしている。
「……ひっ……」
パンを配っていた王宮の料理人が短い悲鳴を上げ、持っていたカゴを取り落とした。
再び、恐怖が伝染していく。
教皇の『秩序』がもたらした無感動とは違う。生きているからこそ感じる、剥き出しの恐怖。
「お、おねえちゃん……月が、怒ってる……?」
ハンナが私のマントの裾を掴む手に力がこもる。
「……ハンナ、大丈夫。私がついていますわ」
私は彼女を背中にかばいながら、紅蓮の月を睨みつけた。
あれは怒りなどではない。もっと冷たい、無機質な……。
「……嬢ちゃん! あれを見ろ!」
隣にいたギムレック親方が、月の中心部を指差した。
紅蓮の光が最も強く集う一点。そこが、まるでレンズが光を収束させるように、キリキリと音を立てるかのような密度で輝きを増していく。
瞬間。 バルコニーにいるレオンハルト様が、その場にいる全ての人間を吹き飛ばすかのような、凄まじい大音声で叫んだ。
「――総員、王城に退避! シュヴァルツェンベルク全軍、『盾』を展開! 王都中央広場を死守せよ!」
彼の声が響き渡るのと、月が『神罰』を放ったのは、ほぼ同時だった。
紅蓮の光線が、空を裂いた。
音は、なかった。 ただ、王都の中央広場……私たちが今、パンを配っていたその広場の、わずか数十メートル先の石畳が、閃光と共に『消失』した。
爆発ではない。 轟音も、衝撃波も、土煙すら起きない。
そこにあったはずの分厚い石畳と、その下の土壌が、一瞬にして、直径5メートルほどの円形に、完璧なまでにくり抜かれていた。 穴の断面はガラスのように滑らかに溶融し、高熱の白い湯気を上げている。
「……あ……ああ……」
民衆は、声も出せずにいた。 今、自分たちのすぐ隣で、何が起きたのか。
もし、あの光線が、ほんの少しずれていたら。
その理解が、ワンテンポ遅れて、絶叫に変わった。
「「「ぎゃあああああああっ!!」」」
パンで得たばかりの生気は、再び、純粋なパニックへと反転した。
人々はパンを投げ捨て、我先にと王城の門へと殺到する。
「逃げろ! 神の罰だ!」 「聖女様を怒らせたからだ!」 「悪役令嬢の呪いだ!」
罵声と悲鳴が入り乱れ、広場は再び『混沌』に陥った。だが、それはさっきまでの温かい混沌ではない。互いを踏みつけにしてでも生き残ろうとする、醜く、そして哀れな、獣の群れの『混沌』。
「退くな! 隊列を組め! 民衆を誘導しろ!」
レオンハルト様の怒声が響く。
シュヴァルツェンベルクの兵士たちが、民衆の津波に逆らうように広場へと駆け出してくる。彼らは巨大な金属の盾を構え、押し寄せる人々を王城の門へと導くための、必死の壁となった。
「親方! ハンナを連れて城壁の中へ!」 「嬢ちゃんはどうする!」 「私は、あれを、見極めなければなりませんわ!」
私は、ギムレックにハンナを託し、逆に、広場の中心へと向かった。
兵士たちの盾に守られながら、私は、先ほど光線が穿った『穴』の前に立った。
まだ、高熱で空気が陽炎のように揺れている。
(……これは、魔法ではない) 私はその場で、懐から取り出した観測用のゴーグルを装着した。
魔法ならば、この空間には膨大な魔力の残滓が残るはず。だが、何も感じない。
ただ、純粋な『熱』。 恐るべきエネルギーが、一点に収束された結果。
(……レーザー……? いや、粒子線? まさか、そんな……!)
前世の知識とは分野が違うが、科学の徒としての基礎知識が、目の前の現象の異常さを告げていた。
これは、神罰などではない。 紛れもない、高度な『科学技術』の行使だ。
ヴァレリウスは、月の上から、地上の私たちを、まるで虫眼鏡でアリを焼く子供のように、狙い撃ちにし始めたのだ。
「……チッ。あの野郎……とんでもねえ『槌』を持っていやがった」
ギムレック親方が、ハンナを兵士に預け、私の隣に戻ってきていた。その顔は、恐怖ではなく、同族の技術に対する畏怖と怒りに染まっている。
「親方、あれは……」 「……月の『炉』の光だ。伝承にあった。空に逃げた一族は、星の心臓(恒星)の欠片を動力源にした『神の槌』を作った、と。……あんなもん、地上で使えば、世界が焼き切れる」
再び、月が、その紅蓮の輝きを増した。 民衆はまだ王城の門の前で詰まり、混乱が続いている。 次の照準は、明らかに、その最も密集した『混沌』の中心。
「――レオンハルト様!」
私が叫ぶより早く、彼は動いていた。
バルコニーから広場へと一気に飛び降りたレオンハルト様が、民衆の先頭……王城の門の真ん前に、自ら立ちはだかった。
「シュヴァルツェンベルク! 我が前に集え!」 「「「はっ!!」」」
彼の一声で、兵士たちが集結する。 彼らは、民衆を守るように、レオンハルト様を頂点とした巨大な盾の壁を形成した。
「……イザベラ。お前の『発酵』が、彼らに『生きる』意味を取り戻させたと、俺は信じる」
拡声器越しに、彼の声が、私だけに、いや、王都の全てに響き渡った。
「ならば! その命を守り抜くのが、俺たち『盾』の役目だ!」
彼は、自らの大剣を石畳に突き立て、その両腕に、巨大な黒い盾を構えた。
「――魔力解放! 全軍、『守護者の壁』、最大展開!」
レオンハルト様の黒い甲冑から、凄まじい魔力のオーラが立ち昇る。
それに呼応し、兵士たちの盾が、一斉に黄金の光を放った。 彼らの魔力が一つに繋がり、王城の門の前に、巨大な、黄金の、魔力の半球ドームを形成していく。 シュヴァルツェンベルク家に伝わる、最強の集団防御魔術。
それと、同時。
月からの、第二射。
今度は、先ほどとは比べ物にならない、極太の『神罰』が、その黄金のドームめがけて、撃ち下ろされた。 音が、消えた。 紅蓮の光線が、黄金の盾に激突する。 耳を塞ぎたくなるような、魔力とエネルギーが、空間を削り取る甲高い不協和音。 黄金のドームが、凄まじいエネルギーの奔流を受け、悲鳴を上げるように、軋み、ひび割れていく。
「ぐ……っ!」
最前線で、全ての負荷を受け止めるレオンハルト様の膝が、わずかに、沈んだ。
「お、おお……!」 「殿下……! 殿下が、守ってくださっている……!」
パニックで我を忘れていた民衆が、今、自分たちの目の前で、たった一人、神の雷霆を受け止める黒騎士の姿に、言葉を失う。
「……退くな!!」
レオンハルト様が、血を吐くような声で、叫んだ。
「俺たちが、王国の『盾』だ! 王都の民は、一人たりとも、死なせん!!」
彼の魔力が、限界を超えて、爆発した。
ひび割れた黄金のドームが、その輝きを取り戻し、紅蓮の光線を、弾き返した――。
光線が、消え去る。 静寂が戻った広場に、荒い息遣いと、金属の盾がガチガチと震える音だけが響いていた。
ドームが、解かれた。 レオンハルト様は、その場に大剣を突き立て、かろうじて立っている。彼の両腕の盾は、高熱で赤く溶けかかっていた。 他の兵士たちも、多くが膝をつき、魔力を使い果たして倒れ込んでいる。
だが、彼らは、守り切ったのだ。 民衆は、一人も、欠けていない。
レオンハルト様の『盾』が、ヴァレリウスの『神罰』に、打ち勝った。
民衆から、誰からともなく、拍手が起こった。 それは、すぐに、熱狂的な、歓声へと変わった。 だが、私は、歓声を上げることはできなかった。 空を見上げる。 紅蓮の月は、消えていない。
むしろ、先ほどよりも、その輝きを増している。 まるで、地上の私たちの抵抗を、嘲笑うかのように。
(……防ぎきった、ではない……)
私の科学の目が、冷徹に、事実を告げていた。
(……あれは、『試射』だった、と……)
ヴァレリウスは、私たちの最大防御能力を、値踏みしただけだ。
そして、レオンハルト様とシュヴァルツェンベルク軍は、そのたった一撃で、魔力のほぼ全てを使い果たしてしまった。 第三射が来れば、もう、防ぐ術はない。 月が、再び、その紅蓮の光を、収束させ始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
月からの『神罰』。その正体は、ヴァレリウスの操る恐るべき科学技術でした。 レオンハルトは、自らを犠牲にするかのように、その一撃から民衆を守り切りました。王都の『盾』としての、彼の覚悟が示されました。 しかし、黒幕の攻撃は、まだ終わりません。魔力を使い果たした王都に、次なる一手が迫ります。
次回は、明日更新予定です。 次回「発酵VS神罰」。 絶望的な状況の中、イザベラの持つ『科学』で、この神の槌に立ち向かうことを決意します。地上の『生命』が、天上の『技術』に、どう挑むのか。
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