王都、発酵無双
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
王都に帰還したイザベラを待っていたのは自由ゆえの『混沌』でした。民衆は自ら生きる術を忘れ、新たな支配を求めています。しかし、私は私の原点である『発酵』の力で、その混沌と向き合うことを決意します。
王城のバルコニーから見下ろす王都は、熱病に浮かされていた。
「『秩序』を返せ!」 「我らに食料を!」 「聖女様を、セラフィナ様を我らの元へ!」
王宮の門前広場を埋め尽くした民衆が怒声とも懇願ともつかぬ叫びを上げている。
数日前まで、教皇ヴァレリウスの『秩序』の下で感情を失った自動人形のように生きていた人々。彼らはシステムの崩壊と共に思考と感情の自由を取り戻した。
だが、それは同時に「次に何をすべきか」を自分で考えねばならないという過酷な現実を突きつけられたことも意味していた。
「……これが彼らが望んだ『自由』の姿か」
レオンハルト様が苦々しげに呟いた。
彼の指揮するシュヴァルツェンベルクの兵士たちが盾を並べ、かろうじて王門を守護している。だが群衆の狂気は増すばかりだった。
「レオンハルト様。彼らは自由を望んだのではありません。ただ、飢えているのです」
私は広場の喧騒の奥にある本質を見据えていた。
「教皇のシステムは物流も生産もその全てを管理していました。今、彼らは『どうやって食料を得るのか』という、生きるための最も基本的な術すら忘れてしまっている」
「だからといって奴隷の生活に戻りたいと叫ぶのか」
「ええ。飢えという生物としての根源的な恐怖の前では、自由という高尚な理念など何の役にも立ちませんわ」
執務室では貴族たちがレオンハルト様に詰め寄っていた。
「摂政殿下! このままでは暴動になりますぞ!」
「いっそ、セラフィナ様を民衆の前に……!」 「黙れ」 レオンハルト様の地を這うような低い声がその場の空気を凍らせた。 「その女はもはや聖女ではない。ただの人間だ。そして失われた『秩序』は二度と戻らん。……兵を動かす。力でこの混乱を鎮圧する」
「お待ちください、レオンハルト様」 私は、彼の前に進み出た。 「力で抑えつければ彼らの不満は憎悪へと変わるだけ。そしてその憎悪は必ずや『月』にいる黒幕の格好の餌となりますわ」 「……ならば、どうしろと。飢えた獣に言葉が通じるとでも言うのか」 「いいえ。言葉ではありませんわ」 私は彼の銀灰色の瞳をまっすぐに見据えた。 「彼らに必要なのは言葉ではない。……『糧』です」
私は彼に王都の広場の使用許可と、王宮の全てのパン焼き窯、そして城の備蓄食料の全権を要求した。 貴族たちが「狂気の沙汰だ」と騒ぎ立てる中、彼はただ一言、私に告げた。 「……6時間だ。6時間でこの混乱を収めろ。それができなければ俺は軍を動かす」 「――十分ですわ」
王都の中央広場。 私が兵士たちに守られながらその中央に設置された演台に立つと、民衆の罵声は頂点に達した。
「あれは……! あの悪役令嬢、イザベラだ!」 「セラフィナ様を害した王国の裏切り者!」 「魔女め! 貴様が『秩序』を壊したせいで我々は飢えているのだ!」
聖女セラフィナがこの王都で最後にばら撒いたプロパガンダ。
私の科学を『呪い』と呼び民衆の敵意を煽った、あの情報戦の毒がまだ深く残っている。
私はその憎悪の嵐を真正面から受け止めた。
そしてドワーフの技術で作らせた魔力式の拡声器に静かに、しかし王都全体に響き渡る声で告げた。
「ええ。その通りですわ。私がイザベラ・フォン・ヴェルテンベルク。あなた方が『呪い』と呼ぶ『科学』の徒です」
私のあまりにも堂々としたその態度に、民衆の罵声が一瞬、怯んだ。
「あなた方の望む『秩序』はもう戻りません。あなた方を支配していた神は死にました。……いいえ。最初から存在しなかったのです」 「ふざけるな!」 「では我々はどう生きればいい!」 「その答えを今から、あなた方自身の舌で味わっていただきますわ」
私は兵士たちに合図を送った。
王宮の門がゆっくりと開かれる。
そこから現れたのは武装した兵士ではない。
山と積まれた小麦粉の袋。塩の樽。そして巨大な水瓶を運ぶ王宮の料理人たち。
広場の中央に即席の巨大なパン工房が設営されていく。
「……なんだ……? あれは……」
民衆が、戸惑いの声を上げる。
「あなた方は忘れてしまった。いえ、忘れさせられていたのですわ。本物の『生命の味』を」
私は懐から一つの小さな木箱を取り出した。
それは聖アグネス神聖法国の地下深く。あの『根』のリーダー、カエルが彼らの『魂』として私に託してくれたパン種。
何世代にもわたってあの光なき地下で密かに受け継がれてきた、本物の「サワー種」。
「あなた方の『秩序』は無菌で管理された停滞の世界でした。ですが生命とは本来『混沌』なのです」
私はそのパン種を小麦粉と水を合わせた巨大な捏ね鉢へと厳かに投入した。
「目に見えない無数の微生物。酵母菌、乳酸菌……。彼らが互いに競い合い共生し、そして新たなものを生み出す。……これこそが私の科学。発酵ですわ」
教皇の『秩序』の下ではパンを作るための酵母菌すら管理されその力を失っていた。
だがこのカエルたちが守り抜いた『混沌』の種は飢えていた。
小麦粉という新たな栄養を得て彼らは水を得た魚のように爆発的な活動を開始した。
「……何だ……? この、匂い……」 誰かが呟いた。
王宮から運び出された数十台の移動式の窯に火が入れられる。
私の科学的な管理の下、兵士たちと料理人たちが次々とパン生地を成形し窯へと投入していく。 やがてその匂いは現実のものとなった。
香ばしい小麦の焼ける匂い。
そしてサワー種特有の鼻腔をくすぐる芳醇な酸っぱい香り。
それはこの王都の人々が何年もの間嗅いだことのない、強烈なまでの『生命の匂い』だった。
無味無臭の栄養ペーストしか知らなかった人々がその匂いにまるで未知の獣のように戸惑い、ざわめき、そして抗いがたい本能に引き寄せられていく。
憎悪に満ちていたはずの広場が、いつしか、ただその香りの源泉を求める飢えた者たちの純粋な期待に満たされていた。
「……焼き上がりましたわ。さあ、配ってください」
私の合図で、窯から取り出された焼きたての黒パンが次々と民衆の手へと渡されていく。
彼らは恐る恐るそのまだ熱いパンを手にする。
そして一口、その無骨なパンを口に入れた。
瞬間。 広場から音が消えた。
人々は皆、同じ表情をしていた。 目を大きく見開いて。
口の中にあるその『味』という暴力的なまでの『混沌』を理解しようと必死になっている。
そして。
「……あ……」
一人の幼い少女がそのパンを握りしめたまま、ぽろりと涙をこぼした。
「……おいしい……」
その一言が、引き金だった。
「味が、する……!」 「酸っぱい! だけど甘い! なんだ、これは!」 「ああ……! これが、これが『食べる』ということか……!」
人々は泣きながら笑いながら、まるで獣のようにそのパンにむしゃぶりついた。
それはただの栄養補給ではない。 生きているという実感。
自分の舌で味を感じ、自分の意志でそれを美味しいと思うその『自由』。
憎悪も怒りもどこかへ消え失せていた。 広場を支配していたのはただ生き返った人々がパンを分け合いその喜びを分かち合う、温かい『混沌』だけだった。
レオンハルト様がその光景をバルコニーから静かに見下ろしている。
彼がわずかにその口元を緩めたのを私は見逃さなかった。
その時だった。
「……嬢ちゃん。パンを焼くのもいいが、呑気なもんだな」
いつの間にか私の隣にギムレック親方が立っていた。
「忘れたわけじゃあるめえな。……奴が空から俺たちを見下ろしてるってことを」
彼の言葉に私は広場の喧騒から意識を引き戻した。 そうだ。黒幕ヴァレリウス。
「いいえ。忘れてなどおりませんわ」
私は空……白昼にもかかわらずその存在を主張する青白い月を睨みつけた。
「このパンはただの食料ではない。……あれの『秩序』に対する私たちの『混沌』の、宣戦布告ですわ」 私がそう言った、まさにその時。
「おねえちゃん! 見て!」
私の袖をハンナが恐怖に引きつった顔で引っ張った。
「……月が……」 空を見上げる。
民衆も兵士たちも皆が異変に気づき空を指差していた。 白昼の月。
その表面がまるで巨大な赤い瞳がゆっくりと開くかのように。
不気味な紅蓮の光を放ち始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
教皇の『秩序』が消えた王都で、イザベラは原点である『発酵』の力――サワー種パンの力で人々の心に『混沌』と『生きる喜び』を取り戻すことに成功しました。 しかし、それも束の間。黒幕ヴァレリウスの月からの影が、ついにその牙を剥き始めました。
次回は、明日更新予定です。 次回「月からの『神罰』」。 不気味な紅蓮の光を放つ月。そこから王都を襲う新たなる脅威とは。そしてレオンハルト様の『盾』が再び試されます。
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