王都の『混沌』と、黒幕の影
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崩壊した『秩序』。王都に帰還したイザベラを待っていたのは、感情と自由を取り戻した故の、予測不可能な『混沌』でした。そして、失踪したはずの黒幕の、不気味な影が忍び寄ります。
王都エーデンガルドは、長い、長い悪夢から目覚めたばかりの病人のようだった。 教皇ヴァレリウスが敷いた絶対的な『秩序』。そのナノマシンによる精神支配が消え失せて三日が過ぎた。
街は音を取り戻していた。 それは、歓喜の歌ではない。泣き声、怒声。そして自分が何をすべきかわからずただ呆然と立ち尽くす人々の、途方に暮れたざわめき。 感情と自由を取り戻すということは、同時に痛みと責任を取り戻すということ。 この偽りの楽園に慣れきった人々にとって、その『混沌』はあまりにも重すぎた。
「……彼らの魂はまだ、あの瓦礫の下にある」 王城のバルコニーからその光景を見下ろしながら、レオンハルト様が静かに呟いた。 彼の隣に立つ私にはその言葉の意味が痛いほどわかった。
昨日、私たちはアルフレッドとクラウス副官の、簡素な、しかし最大限の敬意を込めた葬儀を執り行った。 アルフレッドが命を賭して守った『守護者の懐中時計』の残骸と、クラウスが最後まで手放さなかったシュヴァルツェンベルク家の紋章が刻まれた盾の破片。 彼らの亡骸は、あの崩壊したタワーの地下深くに、ギムレックたちが築いたドワーフ式の堅牢な石の墓標の下に眠っている。 『根』の者たちが彼らの墓標に地下で育てたという不格好な白い花を供えてくれていたのが、せめてもの救いだった。
「……私は彼らの犠牲に見合うだけの結果を、本当に持ち帰れたのでしょうか」 私の声は、王都を吹き抜ける冷たい風に震えていた。 世界を救ったという実感は、まだない。 目の前に広がるのは、救われるどころか道を見失った人々のあまりにも無力な姿。
「……愚問だ、イザベラ」 レオンハルト様は私から視線を外さないまま、言い切った。 「彼らは『盾』として、お前という『剣』を守り抜いた。そして、その剣は、見事に敵の心臓を貫き、今ここに戻ってきた。……彼らの誇りをお前自身が侮辱するな」 彼の不器用な、しかし、絶対的な信頼がアルフレッドを失った私の心の空洞に温かく染み渡る。
その時だった。 城の執務室の扉が慌ただしく開かれた。 「摂政殿下! 大変です!」 血相を変えて飛び込んできたのは王都の貴族アーガイル公爵だった。 「市民が! 市民たちが王宮の門に詰めかけております!」 「何が目的だ」 レオンハルト様の冷静な問いに公爵は顔を青くして叫んだ。 「『秩序』を返せ、と! 食べるものがない、どう生きればいいのかわからない、と!……彼らは聖女セラフィナ様の引き渡しを要求しております! あの完璧な管理をもう一度……!」
「……なんですって……!」 私は、耳を疑った。 セラフィナはシステムの制御権を失い、今はただの人間……いえ、全ての記憶と感情を失った廃人同然の状態で城の一室に保護されている。 民衆は自らを奴隷にしていたその支配者をもう一度求めると言うの……?
「……馬鹿な。自由を与えられて、なぜ……」 「彼らは自由という『混沌』の重さに耐えられないのです」 私は、唇を噛み締めた。 「教皇の『秩序』は、麻薬でした。思考する苦しみ、選択する責任、そして飢えるという恐怖。その全てから彼らを解放した。……今王都で起きているのは、その麻薬が切れたことによる禁断症状なのですわ」
物流は停止している。 教皇のシステムが全てを管理していたため、誰一人、自発的にパンを焼き食料を運ぶ者がいないのだ。 自由になった人々は、ただ次の「命令(秩序)」を待って、飢えていた。
「レオンハルト様。このままでは王都は内側から自壊しますわ」 「……わかっている」 彼が苦渋に満ちた顔で次の手を打とうとした、その時。
「待たれよ! 摂政殿下!」 さらに別の伝令が執務室に転がり込んできた。 その男の鎧には見慣れぬ紋章が刻まれていた。 「……カエル殿の、使者か」 「はっ! 崩壊した聖アグネス神聖法国の地下より緊急の報せにございます! 根のリーダー、カエル殿がタワーの最深部……教皇ヴァレリウスの執務室と思われる場所でこれを!」 使者が差し出したのは、一枚のスケッチだった。 そこに描かれていたのは複雑な歯車と見たこともない鉱石が組み合わされた何かの紋章のような……あるいは、設計図の一部のような不可解な図形。
「……これは……?」 私は、その図形を食い入るように見つめた。 この歯車の組み方、このエネルギーの流路……。 まるで、重力下での運用を前提としていない……? 「……おい、嬢ちゃん。そいつをワシにも見せろ」 執務室の隅で傷を癒していたギムレック親方が重い体を起こした。彼の傷は、エルフの秘薬のおかげで、急速に回復しつつあった。 彼はそのスケッチを一瞥するなり、その顔色を変えた。
「……間違いない。こいつは、紋章なんてもんじゃねえ。……ドワーフのそれも古代の『設計図』の……認証印だ」 「認証印……?」 「ああ。俺たち鉄槌の王国よりもさらに古い……。神代の時代にこの大地を追放されたという一族の……」 ギムレックの言葉に、私は最悪の仮説に行き着いた。 「まさか……! ヴァレリウスは、タワーから姿を消したのではなかった。彼は、この認証印を使ってどこかへ『転移』した……?」
「ああ。それもとんでもねえ場所にな」 ギムレックは、窓の外……空のその遥か上を指差した。 「……月だ」 「……月、ですって?」 「御伽噺でしかねえと思っていたが……。俺たちドワーフの伝承にある。神の槌(隕石)を恐れた臆病な一族が大地の理を捨て、空に逃げ延びた……と。奴らは、そこに第二の『鉄槌の王国』を築いた。……ヴァレリウスは、その失われた技術を手に入れていたのか。あるいは……」 ギムレックの声が、苦々しげに歪む。 「……奴らこそが、ヴァレリウスの、本当の正体」
黒幕はまだ生きていた。 そして、その力は、私たちの想像を遥かに超える場所に潜んでいる。 彼がこの混乱した世界を天の上から静かに見下ろしている。 月の脅威と、足元の混沌。 私たちは二つの戦場で同時に戦わなければならない。
(……アルフレッド。クラウス副官。あなた方なら、どうしますか) 私は、目を閉じた。 アルフレッドの、常に冷静な声が聞こえる。 《お嬢様。まずは目の前の問題を一つずつ科学的に解決なさってください》 そうだ。 月の脅威は、まだ遠い。だが、足元の『混沌』は、今この瞬間にも人々を殺そうとしている。
私は、目を開いた。 その瞳には、もはや迷いはない。 「レオンハルト様」 私の、静かな、しかし、鋼の意志を込めた声に、執務室の全員が視線を向けた。 「私に王都の広場と王宮の全てのパン焼き窯。そして城に備蓄されている全ての小麦粉と塩をお貸しいただけますか?」
「……イザベラ? それは一体……」 レオンハルト様が、訝しげに問う。 「王都の機能不全。それは、人々が『秩序』という名の毒に慣れすぎた禁断症状に過ぎませんわ」 私は、不敵に、笑ってみせた。 「必要なのは、新たな支配者でも、偽りの聖女でもない。……彼らが自らの足で立つための最初の『糧』です」 私は、王都の民衆が暴徒と化している広場を、まっすぐに見据えた。 「忘れてしまった人々に思い出させて差し上げるのです。本物の『生命の味』を。そしてそれを作り出す、生きるという『混沌』の温かさを」
「――私の『発酵』の力で、この死にかけた王都をもう一度美味しく『改革』してみせますわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
教皇の『秩序』が消えた王都は自由ゆえの『混沌』に直面していました。人々は、自ら生きる術を忘れ、新たな支配を求めてさえいました。 しかし、イザベラはイザベラの原点である『発酵』の力でその混沌と向き合うことを決意します。
次回は、明日更新予定です。 次回「王都、発酵無双」。 『混沌』に怯える人々の前にイザベラが差し出す新たなる『科学のパン』とは。そして黒幕ヴァレリウスの月からの影が迫る。
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